礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2017年3月26日 説教アウトライン】     「イエスの逮捕」     ヨハネの福音書 18:1~13

イエスは逮捕されたが、それは失敗でも敗北でもない。イエスは罪と死を滅ぼし勝利するため、罪人の救いを完成するため、進んで十字架への道に向かわれた。父なる神のご計画に従い、何ものにも屈することなく十字架へと向かわれたイエスのお姿に注目したい。
 イエスは弟子たちとの最後の晩餐の席で、弟子たちの足を洗い、告別説教をし、熱い祈りをささげた(13~17章)。その後、弟子たちとともに、「ケデロンの川筋の向こう側に」あるゲッセマネの園に行った(1)。この日は過越の祭りの日であったので、神殿では二十万頭とも言われる大量の過越の小羊がほふられ、その血は神殿の水路を通ってケデロン川に注がれた。小羊の血で赤くそまった川を横切り、イエスの胸には十字架の苦難が一層強く意識させられたことであろう。イエスはゲッセマネの園で、3時間にもわたって御父に対する苦悶の祈りをささげた末、覚悟を決めて立ち上がった(マルコ14:32~42)。
 イエスを裏切ったイスカリオテのユダが、ローマの兵士の「一隊」(千人隊長に率いられた240人の騎兵と760人の歩兵、3,12)、および、祭司長とパリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れやって来た。弟子の裏切りはつらい。しかし、イエスはユダに対して怒りくるい逆上して、ペテロに「ユダを打て」などとは言わない。怒っている場合ではない。むしろ、自ら前に進み出て、冷静に「だれを捜すのか」と言った(3)。イエスは神のご計画を「すべて知っておられた」(4)。罪人の救いのために「父が私にくださった杯」(苦難、十字架で罪人に対する御父の怒りとさばきを受けること)を飲むという大事があった(11)。イエスはユダの裏切りをも受け入れ、それさえも大事を成し遂げる過程に組み込まれた。イエスは小事のために大事を見失うことをしなかった。御父のみこころに焦点を当て、寛容と忍耐を保ちつつ前に進んで行かれた。私たちも怒りや悲しみに左右されないで、神のみこころに焦点を当て、真になすべきことをなし、果たすべきことを果たせるようにと祈りたい。主よ、あわれみたまえ。
 イエスはこの世の権威者と対決した。彼らが「ナザレのイエスを」捕えに来たと宣言すると、イエスは「それはわたしです」と答えた。「それはわたしです」とは、新約聖書の原典のギリシャ語では「エゴー・エイミ(わたしはある)」であり、それは、主なる神がモーセに語られた「わたしは『わたしはある』と言う者である」とご自分の御名を教えられたのと同じ意味のことばである。イエスは地上のあらゆる権威の上に立つ主なる神の御名を3度繰り返し宣言された(5,6,8)。イエスご自身こそ「わたしはある」と言われた神ご自身であり、また、神の御子であられる。この「神の御子の権威」に圧倒された兵士たちは、あとずさりし、地に倒れた(6)。そして、イエスは祭司長らの権力者に言う。「この人たちはこのままで去らせなさい」(8)。逮捕されるイエスが、逮捕する側に命令している。こうして、イエスは弟子たちを守られた。イエスはただ御父のみこころに従い、他のだれにも屈しない。私たちもいたずらにこの世の権威に屈することなく、この世の流れに流されることなく、主に御名によって堅く立ち、私たちに与えられた神信仰、愛に活き世界に仕える使命を堅持し、自分をきよく保つことができるよう祈りたい。主よ、あわれみたまえ。
私たちは実にキリストの支配の下にある。キリストは何ものにも屈することなく、御父に従い通し、苦難を通して栄光に入れられた。私たちはこの主イエスのものである。主をひたすら信頼して、恐れることなく、平和の主と共に前進しよう。