礼拝説教 遠藤 潔 牧師


 【2017年3月19日 説教アウトライン】   「信仰によって追い求める」  ローマ人への手紙 9:30~33

「何もかも、自分の力でやろうとする必要はありません」(片柳弘史「日めくり 超訳マザーテレサ」の18日)。このマザー・テレサの言葉を片柳神父が黙想して書いている。「自分の力だけで、何もかもできるはずがありません。できないことまでやろうとして失敗するより、できないことはできないと認め、助けてもらう勇気を持ちましょう。恥ずかしがる必要はありません。自分の力で何でもできると思い込み、失敗するほうがよほど恥ずかしいことです。」
私たちは「助けてください」と言おう。自分の弱さを認め、相手を信頼して。 

“神の御前で正しくあり、神に受け入れられる”には、どうすればよいか。神の御目の前に、私はどのようにして義でありうるのか。この点においても、ただ神に信頼しよう。イエスは言われる。「心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」(ヨハネ14:1)。

「福音」(1:16~17、神の義は信じる者に与えられ、信じる者は救いを受けるという良き知らせ)は、先ずイスラエル(ユダヤ人)に、次に異邦人に与えられた。しかし、パウロが宣教の働きをしていた当時は、異邦人の方が福音に心開き、イスラエルは福音を拒絶していた。なぜなのか? パウロはこれまでの箇所、9:1~29では、神の選びと計画という観点からそのことを語って来たが、ここローマ9:30からは、人間の責任という視点で語っていく。

Ⅰ 異邦人は信仰によって義を得た(9:30)
異邦人も神をおぼろげには知っていた。しかし、彼らは「神を神としてあがめず」(1:21)、「神を知ろうとしたがらない」者であった(1:28)。彼らは神の義を求めようとはしなかった。すなわち、“神の御前での正しさ、そして、それゆえに神に受け入れられること”はどうでもよかった。彼えらは「心の欲望のまま」(1:24)に生きた。
しかし、神は世を愛し、ひとり子をお与えくださった(ヨハネ3:16)。ひとり子はマリヤの胎に宿って(受肉)、人間イエスとして誕生し、神の律法(神のご意思、神と人を愛すること)を完全に行なったが、私たち罪人の身代わりに十字架にかかって神のさばきを受け尽くし、死んで葬られた。しかし、死に勝利して復活し、いま神の御前に生きておられる。この神のひとり子であり、人となられたイエス・キリストが私たち罪人の代わりに、すべてのことをすでに成し遂げてくださった。神の御前にすべて正しいこと(義)を満たしてくださった。イエスが私たちの義となられたのである(Ⅰコリント1:30)。
それゆえ、イエスを信じるなら、「ありがとう」とイエスを心に迎えるなら、だれでも義を得る。すなわち、神はイエスにおいて、その人を義と認め、神の子として受け入れ、永遠のいのちを、すばらしい救い与えてくださる。このようにして、異邦人は信仰によって義を得たのである。

Ⅱ イスラエルは人間の行ないによって義を得ようとした(9:31~32)
神は世界に救いをもたらすために、イスラエルを選ばれた。神は彼らをエジプトの奴隷状態から解放し、彼らの神となり、彼らの中に住んでくださった。さらに、神のご意思を示す「律法」を与え、神を愛する道を教えてくださった。
しかし、イスラエルは神に義と認めていただく手段として律法を追い求めた。そして、自分の力で良い行いをし、一生懸命律法の要求を満たして義と認められ、救われようとした。それは鼻の先の一定距離にぶら下げられたニンジンを捕えよう駆け続けるけれども、決して口が届かず、どこまでもどこまでも走り続ける馬のようである。神に義と認めていただく手段として律法を追い求めることはむなしい。なぜなら、罪人の不完全な行ないは、義なる律法を満たすことには絶対に到達しないからである。行ないによっては神の義を得ることはできない。
行いによって義を得ようとするなら、結局は相対主義の中に陥ってしまう。自分の行いを他人のそれと比較して、優越感をいただいたり、劣等感にさいなまれる。あるいは、自分と他人とを比べる中で、見栄やごまかしや妬みに落ち込んで行く。そして息苦しくなる。それはまことに疲れる道である。

Ⅲ イエス・キリストはつまずきであるが、信頼する者には絶大なる希望(9:32c~33)
自分の力、良き行ないによって神に義と認められようとする者は、イエス・キリストにつまずく。自分の力、良き行ないによって神に義と認められようとする者に対して、イエスはその人の行ないの不完全さ、不十分さを指摘するし(マルコ10:21)、その人の偽善を暴く(マタイ23章)。彼はイエスに痛い目に合わせられる。また、自分の力や良い行いを第一にして神に近づこうとする者、すなわち、力や強さを志向の者には、イエスの優しい招き(マタイ11:28)はプライドを傷つけるだけのものでしかない。また、みじめなイエスの十字架がその人自身の救いのためでもあったなどと聞くと、「私を馬鹿にするな」と言うだろう。自力に頼る者にはイエスの十字架は大きなつまずきである(Ⅰコリント1:23)。
パウロは旧約のイザヤ書のみことば(イザヤ28:16)を引用して、第9章を結ぶ。「見よ。わたしは、シオンにつまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」(33)つまずきの石、妨げの岩はたまたまそこにあったというのではない。神が深慮により、深いご計画によってそこに置かれたものである。だから、つまずきの石、妨げの岩であられるイエスを素通りしてはならないのである。
道の途中で石につまずき、岩に妨げられた時、人はどうするだろう。ある人は、つまずいて倒れ、妨げられて立ち往生するが、すぐに立ち上がり、つまずきの石を蹴飛ばし、妨げの岩を蹴り上げ、あるいは、転がして、また道を進んでどこかに行ってしまう。でも、ある人は、つまずきの石につまずいて倒れ、妨げの岩の前で立ち往生し、その場にへなへなとしゃがみこんで、弱音を吐いて、ただ「助けて」と叫ぶしかないだろう。岩にもたれかかり、「何とかしてよ」と言う以外にはない
しかし、自分で頑張ろうとしたけれど、つまずき倒れ、どうしようもない自分の弱さを認めて、イエスに助けを求め、イエスを信頼する以外にできなくなった人は、まことに幸いである。イエス自身がその人を背負い、あるいは手を取り、その人とともに歩んで、愛の道を全うさせてくださるからである。

 一つの有名な詩がある。「あしあと」(Footprints in The Sand).

   あしあと

    ある夜、私は夢をみた。
    私は 主と共に 浜辺を歩いていた。
    夜空いっぱいに これまでの私の人生が 映し出された。
    どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。
    一つは私のあしあと。
    もう一つは主のあしあとであった。
    しかし、ところによっては、一つのあしあとしか見当たらなかった。
    それは よりによって
    私の人生で 最もつらく悲しいときであった。
    私はこのことでひどく悩み、主にお尋ねした。
    「主よ、私があなたについていくと決めたとき、
    あなたはいつも共に歩んでくださると
    約束されたのに、なぜ!
    私が一番つらかったとき、
    なぜ、私を見捨てたのですか?」

    主は ささやかれた。
    『わたしの大切な 愛しい子よ。
    わたしは 決して あなたを捨てたりはしない。
    あしあとが一つだったとき
    苦しみや悲しみに傷ついたあなたを
    わたしは 背負って歩いていたんだよ。』

 これからも私たちは生きていく。神の道を歩んで行く。神のみこころを行いながら進む。しかし、自力で進むのではない。完全な義を行い、十字架で私たちの罪を償い、復活された主イエス・キリストが、私たちと共に生きて、私たちを赦し、活かしながら、私たちを愛の道に歩ませてくださるのである。私たちただイエスを信頼して、いつも前に進むのみである。信仰によって追い求めていく。