礼拝説教 遠藤 潔 牧師


 【2017年3月12日 説教アウトライン】    「あわれみの器」  ローマ人への手紙 9:19~29

あるご夫妻は玄関に常時、3枚100円で買って来たような粗末な皿を置いておき、むしゃくしゃしたことがあるとその皿を玄関の土間にたたきつけて割ると言う。そうすると、すっきりして、心が静まるのだそうである。

人間のことを器にたとえることもある。「あの人は将来リーダーになる器だ」とか、「この人は器量が小さい」などと言う。この世では人と人を比較してそんなことを言うのであるが、私たちキリスト者は常に主なる神の御前に生きる者である。私たちは自分を主の御前にどんな器と見るべきだろうか。
「私たちはこの宝を土の器の中に入れているのです」(Ⅱコリント4:7)。
私たちは「土の器」、粗野で、弱く、乏しい者。しかし、その内に活ける主が聖霊において臨在しておられ、弱さの中に働くキリストの栄光が輝いている。そして、自分がいよいよ弱くなり、破れていけばいくほど、キリストご自身が輝き出てくる。私たちはそんな「土の器」である。 別のことばでいえば、何の取り柄もない小さなもの、卑しいものなのに、神にとことん愛されている「あわれみの器」(23,24)である。

神はご計画に従って、人と民族を自由に用いる。神はある者をあわれむことを通し、ある者をかたくなにすることを通して、ご自身の力を示し、全世界に御名を告げ知らせられる(17)。
「神は、人をみこころのままにあわれみ、また、みこころのままにかたくなにされるのです」(18)。

Ⅰ 神には「尊い器」と「卑しい器」を造る権利(自由)がある(9:19~21
すると、つぶやきが起こるであろう。「しょせん神が計画し、何でも決め、事を起こすのだから、自分は何をやっても仕様がない(しょうがない)」「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう」(19)と。神の絶対主権、神の主権的自由が面白くないし、それでも人間に責任を問う神をうらみがましく思うのである。しかし、神の絶対主権は人間の自由な意思決定を排除したり、無意味にしたりはしない。両者は次元が違うのである。
このつぶやきに対し、パウロは、神に言い逆らうのをやめよと述べ(20)、「陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利をもっていないのでしょうか」(21)と応じる。神が創造主であり、私たちは神に造られた存在であることをわきまえるべきである。神は陶器師、私たちは神に造られたた器。神は様々な器をお造りになる主権的自由を持っておられるのである。尊い器もあれば、卑しい器もある。人間はそれぞれ神に個別的、個性的に造られており、賜物、能力に差があり、役割も違っている。
「私は卑しい器だ」と嘆くなかれ。栄光の御子、主キリストは人間となり、最も卑しい器となられたではないか(ピリピ2:6~8)。キリストは私たち罪人のすべての罪と汚れを負い、十字架で呪われ、神のさばきを受けて死なれた。この卑しくされたキリストを通して、人類に罪の赦しがもたらされ、そして、主は卑しさの極みから復活され、人を永遠のいのちに活かす者となられた。
卑しい器をお造りになる自由をお持ちの神は、さらに、卑しい器を尊く用いる自由をもお持ちなのである。自分という器をそのまま主にささげていこう。

Ⅱ 神には「怒りの器」を「あわれみの器」に造り変える権利(自由)がある(9:22~29)
神の怒りが注がれるはずの「怒りの器」と神のあわれみが注がれるはずの「あわれみの器」がある。この二つの器が運命的に決定されているので「不公平!」と怒り、「どう仕様もできない」とあきらめるのか。
神は「怒りの器」に対しても豊かな寛容をもって忍耐しておられる(22、2:4)。そして、神は主権的に自由に働いて、「怒りの器」を「あわれみの器」に造り変ることができる。「生まれながらに御怒りを受けるべき子ら」が、「良い行いをする」「神の作品」とされうる(エペソ2:3,10)。「陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを造り直すのであった。…お前たちは私の手の中にある」(エレミヤ18:4,6、新共同訳)。
神は十字架のキリストにおいて罪ある私たちを砕き、キリストの復活に私たちをあずからせて新しい神の子と造り変え、活かしてくださる。
「『あなたがたは、わたしの民ではない』と、わたしが言ったその場所で…活ける神の子どもと呼ばれる」(26、ホセア1:10)。
私たちはこの神のあわれみを経験している。私たちは、今、ここに生かされている自分の存在をもって神のあわれみを体現する。また、証しのことばをもって神のあわれみを伝え表わす。そして、あわれんでくださる神への感謝から流れ出す愛とあわれみのわざをもって、神のあわれみを隣人に注ぎあらわす。私たちは実に神の「あわれみの器」(24)なのである。
「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです」(Ⅰテモテ1:15~16)。
私たちもまた、神の「あわれみの器」としてこの世に置かれ、人々に遣わされているのである。

神は主権的に自由に働かれる。私たちはこの神に信頼しよう。そして、主権的に自由に働かれる神の御前にひざまずこう。神は私たちに対して主権的に、自由に、そして、私たちの思いをはるかに超えて創造的、独創的に働いて、私たちを豊かなあわれみにあずからせてくださる。