礼拝説教 遠藤 潔 牧師






 2007年9月23日 説教         「生けるキリストの働き」           使徒の働き1:1-5           



 少年時代、庭の片隅に座り込んで、蟻たちが働いている様子を眺めるのが好きだった。「働き者」を見つめることは、実にうれしく心地よい。でも、なんと言っても、世界一の「働き者」は「まどろむこともなく、眠ることもない」(詩篇121:4)神様、御父と御子イェスと聖霊である。「わたし(主イェス)の父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」(ヨハネ5:17)

「使徒の働き」。この書は、使徒たちがその存在とことばによって、イェスがどのような救い主であるかを証しした記録である。これから、基本的に毎週、「使徒の働き」を読んでゆく。本日はその第一回目。この箇所は、巻頭の「献呈の辞」と「先に書かれた第一巻とのつなぎの部分」である。

 もともと、この書には題名がつけられていなかったが、やがて、「働き」「行伝」という名がつけられ、さらに「使徒の」ということばがつけられて行った。しかし、英語の聖書では、ただ“Acts”(働き)という題名であることが多いようである(New International Version等)。この書に記されている内容は、たしかに、使徒の働きには違いないが、より根本的には、主の働きである。「万軍の主の熱心がこれを成し遂げられる」(イザヤ9:7)。「最初であり、最後で」ある方、十字架で死なれ、三日目に復活され、「生きている」(黙示録1:17-18)方、主イェス・キリストの働きである。主イェスが、情熱をもって、神の国を進展させ、完成されるのである。私たちはこの書を読み始めるに当たり、真の主人公である主イェスに、しっかりと目を向けたいと思う。

T 聖書のみことばを通して、主イェスは神の国を進展させ、完成される(1-2)
「使徒の働き」の記者(著者)はルカである。彼は「医者」(コロサイ4:14)であり、また、歴史家であった。聖書記者の中では唯一の異邦人(非ユダヤ人)である。彼はパウロとともに、神の国の進展のため、宣教の働きをした(ピレモン24、Uテモテ4:11)。
この「使徒の働き」は、テオピロという人物に献呈された書であり、「前の書」(1)である「ルカの福音書」の続編(ルカ1:3)である。
テオピロとは、「神が愛する人」あるいは「神を愛する人」「神の友」という意味の名であり、彼はローマの高官であった。彼の名は、第一巻である「ルカの福音書」の献呈の辞では「尊敬するテオピロ殿」(ルカ1:3)となっていたが、第二巻の「使徒の働き」では、ただ「テオピロよ」(2)となっている。ルカは、テオピロが求道者として教会に加わっていた時、テオピロが主イェスのことを本当に信じることができるようにと、「ルカの福音書」を書いて、彼に書き送った。そして、その後、テオピロが信仰を与えられ、洗礼を受け、敬称なしで、名前だけで呼び合える神の家族、親しい兄弟となった後、彼が生きておられる主イェスをさらに見つめ、しもべ仲間(同労者)として主の働きにともに参与するようにとの願いをもって「使徒の働き」を書いた。
「ルカの福音書」も「使徒の働き」も膨大なものであるが、直接的には、テオピロという個人のためにルカが書いたものである。一人のために、これほどまでするルカの愛と情熱はなんとすごいことか。そして、一人のたましいのために、その救いと成熟のために、ルカにこのようにまで書かせ、その一人を追い求めさせた主イェスの愛と情熱はさらにさらにすごい。 
主イェスは、情熱と愛をもって、聖書のみことばを通し、神の国を進展させ、完成される。聖書は「私のために」、「私の救いと成長、成熟のために」書かれた珠玉の書であることを感謝し、日々、聖書を読み、みことばに聴き、黙想しよう。「使徒の働き」も神からのプレゼントとして読み進めたい。また、私たちの親しい一人のために、祈りつつ、その親しい一人と聖書のみことばを分かち合ったり、ともに学び合ったりできたらと願うのである。

U 弱い者たちを通し、彼らを世に派遣して、主イェスは神の国を進展させ、完成
される(3‐4)
「前の書」である「ルカの福音書」の内容は、イェスの地上の生涯の「行い」と「教え」とであった(1)。「行い」の中心は、主イェスの十字架と復活、私たちのための身代わりの死と永遠のいのちへのよみがえりである。「教え」の中心は、神の愛と、主イェスへの信仰を通して与えられる私たちの全人格的な救いである。そして、「前の書」は、主イェスが使徒たちに聖霊によって証人としての使命を与え、そのために聖霊の降臨を待つべきことを命じ、天に上げられるところまでであった(1-2)。使徒たちに証人としての使命を与え、そのために聖霊の降臨を待つべきことの命令を与えたことと、主イェスの昇天とは、「使徒の働き」1章で、さらに詳しく記述される。
「40日の間」(3)、この40という数字は、聖書では意味深い数字である。イスラエルの民がエジプトから解放され、約束の地に入るまで荒野を彷徨したのが40年間(民数記14:34)。また、主イェスが救い主としての公の活動を開始するに先だち、荒野で悪魔の試みに合われたのが40日間であった。40は荒野、試練をあらわす数字であるが、また、40はその先に何か新しいことが起こることを予想させる数字でもある。また、モーセがシナイ山で、顔と顔を合わせて主と語り合ったのも40日間であった(出エジプト記24:18)。
「使徒の働き」1章のここに出ている40日間は、人類史上、まことにユニークで、輝かしい日々であった。人となられ、死に勝利された神であられる主イェスが、地上で過ごされた40日間であったからである。主イェスを裏切り、失敗した弟子(使徒)たちが、再び、主イェスを中心として集まり、この方と親しく交わっている。何か新しいことが起こることを予感させるではないか。
主イェスは、死に勝利して生きておられるご自身を弟子たちに「示された」(3)。この「示された」というのは「そばにおいた」とも訳せることばである。かつてなさったように、主イェスは彼らを集め、そばに置き、「食事をともにして」(4,新改訳聖書 欄外 別訳)」、主が生きて共におられることを実感させ、弱い弟子たちを励まし、新たにし、強められた。
また、主イェスは弟子(使徒)たちに「神の国のことを」語った(3)。神の国のこと、すなわち、神(主イェス)が王としておられご支配してくださることの祝福と素晴らしさ、人が神の国に入ることができるように神がなしてくださった素晴らしい愛の行為(主イェスの十字架と復活)、すべての者への神の国への招きと、信じる者はだれでも神の国に入れること、これらのことを語ることは、主イェスの生涯において、どうしてもなさねばならないことであった。「どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのです」(ルカ4:43)。
主イェスは、地上の生涯で 「行い始め」 「教え始められた」働きを、さらに継続しようとしておられる。しかし、主イェスは継続するだけでなく、新しいことを起こそうとしておられる。前からの継続。しかし、何かが新しくなり、新しいことが展開しようとしている。
「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。」(イザヤ43:19)
 主イェスは、裏切り、失敗した弟子(使徒)たちを、再び立たせ、教え強め、新たにし、この者たちを通して、ご自身が「行い始め」「教え始められた」働きを継続しようとする。これが、主イェスがなされる新しいこと、その第一のことである。
復活の主イェスと「食事をともにする」(4,別訳)とは、聖餐式を中心にする主日礼拝を思い起こさせる。「エルサレムを離れないで」(4)、この「エルサレム」も、神殿のある所、主の臨在(主が特別にそこにおられること)がある所、すなわち、霊的には「主の御前」であり、主と向き合い、お会いする時である。
神の家族とともに主イェスの御前に出る毎週の主日礼拝において、また、毎日の主イェスとの交わり(みことばと祈りの交わり、ディボーション)において、弱い私たちは主イェスに抱かれ、そのみそば近くでお取り扱いを受け、励まされ、生かされ、強められ、新たにされようではないか。主イェスは、今も、弱い私たちを通して、神の国を進展させ、完成しようとしておられる。主イェスの情熱を思い、この主と日々、しっかり向き合おう。
「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、
それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。…わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。 わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。」(イザヤ43:19-21)

V 聖霊によって、主イェスは神の国を進展させ、完成される(4-5)
主イェスは「エルサレムを離れないで、…約束を待ちなさい」(4)弟子(使徒)たちにと言われた。「聖霊のバプテスマを受ける」(5)という約束を待ちなさい、と。
「使徒たちに聖霊によって命じて」(2)とあるから、聖霊はすでに働いておられたわけであるが、「聖霊のバプテスマ」の約束は、使徒の働き第2章に記録されている五旬節(ペンテコステ)日、主イェスが天に昇られた10日後、天から聖霊が弟子たちに降臨した出来事によって実現した。聖霊は、復活し、昇天した「勝利と栄光の主イェスの聖霊」として、また、主イェスの「もうひとりの(双子のような)助け主」(ヨハネ14:16-17)として今や来られ、この日以後、復活の主イェスの聖霊は、弟子たち(キリスト者)すべてに、教会すべてに与えられ、内住するようになり、弟子たちと教会とに満ち溢れるようになった。
それゆえ、今や、キリスト者はだれでも、主イェスを信じた時、「聖霊のバプテスマ」を受け、聖霊をいただく。聖霊のバプテスマは信じた時、一回限り起こることである。しかし、「聖霊に満たされること」は、キリスト者の生涯において繰り返し与えられる。それゆえ、私たちは「御霊(聖霊)に満たされなさい」(エペソ5:18)と命ぜられている。五旬節の日には、「聖霊のバプテスマ」(聖霊の付与)に「聖霊の満たし」が伴っていた(2:4)。聖霊をいただいた私たち弟子たち(キリスト者)は、「父の約束」(4)に含まれている力の聖霊(ルカ24:49)の満たしをも信じて、期待して祈りたい。期待しつつ、聖霊に自分を明け渡し、献げてゆこう。
主イェスは、ご自分の霊である聖霊によって、弟子たち(私たちキリスト者)の内に生きて、働いて、神の国を進展させ、完成されるのである。

「使徒の働き」という書は、生ける主イェス・キリストが、栄光の御国の進展と完成のために、聖霊において、弟子たち(私たちキリスト者)の内に生き、聖霊において、弟子たちを通して働かれたすばらしい記録である。生ける主イェス・キリストは、私たちを通しても、同じように働きを続けられる。人生の主人公であられ、歴史の主人公であられ、教会の主人公であられ、すべての主人公であられる、栄光の主イェス・キリストを信頼し、この方を仰ぎ伏し拝み(黙示録5:12)、この方に身を差し出し、この方に私を通して生きていただき、この方の栄光ある働きにともにあずからせていただきたい。

「主イェスは、御国が来るように、みこころが地でも行われるように、聖霊により、私たちを通して働き続けてくださる。主よ、私たちをあなたにささげ、ゆだねます。アーメン。」