礼拝説教 遠藤 潔 牧師





 
 2007年9月16日 説教             「恩寵あふる」     詩篇23:1-6

大学時代に授業で創作ダンスをやったが、その時のダンスの基本動作練習は、「水飴で満ちた球体の中に自分がいると思いながら」、水飴を押すようなつもりで、音楽に合わせ、手を前後上下左右に動かすというものであった。それ以来、今でも、たまに、自分が水飴に取り囲まれているような妙な感覚を覚えることがある。
「聖パトリックの胸当て」の祈りと呼ばれるケルト民族の伝統的な祈りがある。家族が一つ円の中に入って、この祈りを祈ったとも聞いたことがある。
「キリスト、私とともに /キリスト、私の前に /キリスト、私の後ろに /キリスト、私の内に /キリスト、私の下に /キリスト、私の上に /キリスト、私の右に /キリスト、私の左に / … キリスト、この日、私の内にも、私の外にも。」(抜粋)
最高のお方、キリストに包まれているとは、なんと喜ばしいことか!

今日は、詩篇23篇を通して、すばらしい主に取り囲まれ、包まれている人の人生が、いかに恵みに満ちたものであるかを味わわせていただきたい。そして、恵みの主を信頼する信仰を新たに、そして、いっそう豊かにさせていただきたい。

この詩は、イスラエルの王ダビデが、成人し、人生の様々な悩み苦しみをなめ尽くした後に、少年時の羊飼いの生活を回想しながら、主にある人生を歌ったものであろう。聖書の中のまとまった聖句の中では、「主の祈り」に次いで多くの人の心に深くに刻まれているものである。「詩篇の中の詩篇」「詩篇の真珠」、第23篇「ダビデの賛歌」。

T 取り囲み、包んでくださる主(1,6)
新改訳聖書を見ると、詩篇23篇の1行目と最後の行には、太字で印刷れた「主」がある(2,3節の細字の「主」は、原語では1節の「主」を受ける代名詞「彼」)。視覚的に、「主」で始まり「主」で終る感じ、「主」に挟まれ、「主」に取り囲まれている感じを受ける。新改訳聖書に太字で印刷されている「主」は、天地の創造主であられるまことの神のお名前、ヘブル原語で「ヤハウェ」。その御名は「わたしはある」「ありてある者」という意味である。永遠から永遠に存在し、しかも、神の民といつもともにいてくださる「主」が、はじめにおられ、終わりにもおられ、取り囲んでいてくださるのである。
ダビデはイスラエルの偉大な王であり、信仰の勇者であったが、その生涯は順風満帆とは行かず、幾多の苦難を通過した。若き日には、主君サウル王から妬まれ、追放され、逃亡生活を余儀なくされ、王になってからも、息子アブサロムに一時的に王位を奪われて都落ちし、晩年も息子アドニヤの反逆に会わせられた。しかし、彼は、全能の神、主が人生を前から後ろから取り囲み、いつもともにおられ、その歩みを守ってくださったことを深く思い起こして、この賛歌を主に歌っている。
主に取り囲まれ、包まれ、守られている人生と祝福の日々を、ぜひ、私たち自身のものとさせていただこう。そのためには、どうしたらよいか。主なるまことの神とつながることである。しかし、罪ある者が、どうして罰を受けずして、聖なる神につながることができるのか。ここに福音がある。神は罪ある私たち人間に、救い主を遣わしてくださった。この救い主、イエス・キリストにつながることによって、人は神につながることができる。イエス・キリストは神の御子であられながら、人となられ、きよい方であられるにもかかわらず十字架にはりつけにされ、永遠の罰を代ってお受けくださった。また、イエス・キリストは、父なる神に死に至るまで完全に服従され、永遠のいのちによみがえられた。このイエス・キリストを信じる者は、イエス・キリストによって、神に受け入れられる。神は、イエス・キリストにおいて、その人の罪を赦し、その人を義と認め、きよい者として受け入れ、神の子(養子)となし、永遠のいのちに生かしてくださるのである。
汚いものをふところに入れるには、どうするか。きよいハンカチで包んでふところに入れるだろう。神は、イエス・キリストを信じる者を、イエス・キリストによって包み、受け入れ、ご自身の内に抱いてくださる。イエス・キリストを救い主と信じ、心にお迎えすることによって、主に取り囲まれ、包まれ、守られる人生の祝福の日々が展開して行く。イエス・キリストを自分の救い主と信じて、「キリストよ、私を救ってください」呼んでみよう。「主の名を呼ぶ者は、みな救われる。」(使徒2:21)

U 主の導き −「キリスト、私の先に」(1−3)
主に取り囲まれ、包まれている人の人生が、いかに恵みに満ちたものかを見よう。
「主は私の羊飼い」(1)。ダビデは少年のころ羊飼いであり、羊飼いが命を賭けて獅子や熊から羊を守り、必ずや羊を牧草と水に導き行くことを身をもって知っていた。  
イエス・キリストは主。イエス・キリストは私の羊飼い。「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」(ヨハネ10:11)。復活の主イエス・キリストが私の羊飼いとして、私を導き、守り、生かしてくださる。だから「私は、乏しいことがありません」(1)。物質的にも乏しくない。霊的にも乏しくない。主が日ごとの糧をもって必要を満たしてくださる。霊的にも養ってくださる。
主が私の羊飼いであるゆえに、どんなことがあっても安心してよい。「緑の牧場」に伏して、のびのびできる(2)。羊を襲う獣も水を飲みに来る水場さえも「いこいの水のほとり」(2)となる。「平安があなたがたにあるように」(ヨハネ20:19)。
主が私の羊飼いであるゆえに、様々な危険に取り巻かれているこの世にあっても、主が導いてくださる。復活の主イエス・キリストが、たえず生き返らせ、元気づけて、立ち上がらせてくださる(3)。主が身体的にも養い、霊的にも元気づけてくださる。それは「私を義の道に導かれ」るため(3)、私たちに主に栄光を帰する生き方、神を愛し、隣人を愛する生き方をさせてくださるためである。光栄ではないか。

V 主の訓練 −「キリスト、私とともに」(4)
「死の陰の谷をあるくことが」ある(4)。「暗黒の谷」である。羊は野獣や盗賊が潜む深くて暗い谷間を通らねばならないことがある。人生にもそのような時がある。愛する者との別離、倒産や失業、大きな事故や病気、災害、戦禍、友の裏切り…。死と背中あわせ、破滅の予感に脅かされる危機の時がある。
また、信仰生活においては、神から引き離されてしまったように感じる期間がやって来る。信仰の先輩たちはこのような時期を「魂の暗黒期」「神の不在の訓練」「暗やみにおける訓練」「こころの冬」などと呼んでいる(リック・ウォレン『人生を導く5つの目的』 p.145)。信仰のテストであり、主の訓練の時である。神がお姿をお隠しになっているように感じられるが、実は「主は近くにいてくださる」。
暗黒の谷では羊の視力はますます見えにくくなり、パニックに陥りやすくなる。しかし、この時期を通して、主は、私たちがさらに大きな信頼をもって「私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」(4)と主に告白するように訓練されるのである。3節までの「主」「主(彼)」は、この4節からは「あなた」に変わる。この訓練の暗やみを通してこそ、主はさらに親密な「あなた」になる。最もひどい暗黒の訓練期を通過したヨブはいっそう主と親密になり告白する。「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました」(42:5)。
「あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」(4)。むちや杖は猛獣を打ち、退けるためのものであり、しかも、杖は、滑り落ちたり穴に落ちたりした羊を引き上げ、引き戻すためのものでもある。訓練の暗やみの期間も、主はインマヌエル、「主はわれらともにおられ」、私たちを力強い御手で守り、導いてくださる。しかも、その訓練の泥沼を通して、さらにみそば近くに引き寄せてくださるとは! このことをしっかりと心に刻んで「私の慰め」としようではないか。

W 主の祝宴 −「キリスト、私の前に」(5)
「私の敵の前で、あなたは私のために食事を整え、私の頭に油を注いでくださる」(5)。主は私たちをVIP待遇、最高の待遇で迎えてくださる主人でもある。特に、暗やみの訓練を通った者にとっては、なおその感を強くするであろう。
取り巻く状況は決して楽観的ではないかもしれない。四面楚歌、敵に取り囲まれ、本来なら食事も喉を通らないような状況。しかし、主は「私のために」祝宴を設けて、祝福してくださる。主イエス・キリストが、日ごとにみことばの「食事」を用意し、聖霊の「油」を注いで、私を生かし、強め、主とともに力強く歩ませてくださるのである。その祝福に生かされるために、主日の礼拝・聖餐式、日ごとの礼拝・ディボーション(主との交わりの)、聖徒の交わりに、喜び馳せ参じようではないか。このような霊の祝宴でいただく恵みは、内に満ちて、溢れて兄弟姉妹たちを、隣人たちを潤してゆく。「私の杯は、あふれています」(5)。

W 主の恵みの後押し−「キリスト、私の後ろに」(6)
群れの先頭に羊飼い、最後尾には2匹の牧羊犬。「いつくしみ」と「恵み」という牧羊犬が羊たちを追う。「いつくしみ」は、良いこと、健康やその時の様々な必要。「恵み」はここでは、主の愛と守りの実感。主の「いつくしみ」と主の「恵み」が、これでもかこれでもかと「私を追ってくる」。「私のいのちの日の限り」(6)、日々新たに。そして、この圧倒的な恵みに後押しされ、人生の最期の日には、永遠の家へと旅立つ。
羊飼いであられる主、取り囲み守ってくださる主、近くに、いつもともにいてくださる主、訓練し、育て、さらに祝福して、恵みにあふれさせてくださる主、こんなすばらしい主に、なんとお応えしたら良いであろうか。「私は、いつまでも、主の家に住まいましょう」(6)「あなたの近くに、あなたとの交わりに生きてゆきます」と。

「主は羊飼い」「私は羊」。このことを忘れてはならない。羊は頑固、盲目、付和雷同で、前を行く羊が落とし穴に落ちると、後を行く羊もみな同じよう穴に落ちるそうである。羊飼いなしには生きられない。私たちも羊。霊的に頑固、盲目、この世に流されやすく、落とし穴に落ちやすい。復活の主イエス・キリストの導きなしには生きられない。しかし、羊は羊飼いの声を聞き分け、ついて行く。私たちも霊の耳が開かれ、イエス・キリストの福音の呼びかけに反応し信じた。しかし、それで終ってはならない。「わたしはあなたを愛している」「わたしは永遠のいのちを与えます。だれもわたしの手から奪い去るようなことはない」(ヨハネ10:28)。主イエス・キリストの福音の語りかけを、日ごと新たに聞こう。わが人生に恩寵あふる! しかし、いのちの祝福をさらに豊かに味わうため(ヨハネ10:10)、日ごとの主との親密な交わりに生きよう。