礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2019年10月27日、蓮沼キリスト教会 主日礼拝(宗教改革記念)】  「神の摂理の中で」    創世記 22:8

「神ご自身が、備えてくださるのだ。」(創世記 22:8)

ドイツの修道士・神学教授マルティン・ルターは、当時のカトリック教会で行われていた露骨な贖宥状販売に疑問を持ち、1517年10月31日、『95ヶ条の論題』で自身の意見を発表し、神学的論争を呼びかけた。これが大きな反響を呼び起こし、激動の宗教改革の幕開けとなった。その主張は「人は信仰によってのみ義とされる」(信仰義認)のであり、贖宥状を買うことによってではない、という点にあった。
1517年10月31日のこの出来事を記念して、10月31日は宗教改革記念日となった。本日の主日礼拝は、宗教改革記念礼拝である。

ルネサンス運動(その根本原理は ”ad fontes”「深みへ」)により聖書原典の研究が深まり、英国のウィクリフやチェコのフスとなど先行的宗教改革が行われた。そのような流れの中でルターが登場。同時期には、スイスのチューリッヒでツヴィングリも宗教改革を行う。その時代は印刷技術の発展もあり、ルターの文書は印刷されて出回り、宗教改革運動の急速な拡がりに貢献した。さらに、ルターの宗教改革を教理においても実践においてもさらに深化させたジュネーヴの宗教改革者、ジャン・カルヴァンはじめ、優れた第二世代が活躍。カトリックの側でも対抗宗教改革が行われ、倫理の引き締めと、新たに設立されたイエズス会などによる世界宣教の推進が見られた。神の摂理の中で、これらのことが連なり、展開していった。
本日は「摂理」について注目したい。

ジャン・カルヴァンは主著『キリスト教綱要』第1篇「創造者なる神の認識について」の第16章で、「摂理」について論じる。摂理とは神の御業であり、神が創造した世界とそこにあるそのすべてのものを御手の内に治め、維持し、活かし、ご自身の目的のために用いること、である。
ある人は、時計が造られた後はそれに内蔵されている装置によって動き始め、動き続けるように、世界も神によって創造された後は、世界に内在する法則によって自然に動いていくと考え、神の摂理を考えない。 
しかし、カルヴァンはそのような考えを退ける。彼は「生ける神」の前に生きた。「神は自らの造った世界を御力によって育み、見守り、その一つ一つの部分を摂理によって導きたもう」(第16章の表題)。
「摂理」という語は聖書にはないが、摂理は聖書が教えている真理である。摂理は英語で ”プロヴィデンス”であるが、これは「前もって」と「見ること」の合成語である。この「見る」とは、「面倒を見る」の「見る」と言えよう。神は、起こるべきことを予見しているだけではない。起こるべきことを計画の内に定めて、それらを支配し、誘導するだけでもない。神はすべてを見抜き、知り抜き、しかも、いつくしみに満ちた御目をもってごすべてを覧になる。摂理とはそのような神の深いご配慮である。

カルヴァンは創世記22章のアブラハムの信仰を通して、摂理について深く教えられている。アブラハムにとって、神を信ずることは神に従うことであった。わが子イサクを犠牲としてささげよと神に言われ、彼は苦しむのであるが、「神ご自身が備えてくださる」(創世22:7)との信仰に立つ。これが神の摂理を信じる信仰であり、アブラハムが到達した信仰の境地であった。
運命論はあきらめにつながるが、摂理を信じることは、神が配慮して備えてくださるという確信に生きることであり、患難の中でもへこたれない人生を歩むことになる。「すべてのことがともに働いて益となる」(ローマ8:28)と信じるからである。だから、状況を必要以上に恐れず、人のことばに過敏にならず、自己を冷静に顧み、復讐は主にゆだね、あくまでも愛を現わし、善をもって悪に打ち勝つ歩みにつながる。摂理の信仰が、神のみこころに焦点を当てながら、神にゆだね、神に従う歩みを可能にするのである(※ マタイ10:29~31、Ⅱサムエル16:9~12、ローマ12:19~21)。


「二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の
許しなしに地に落ちることはありません。あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。です
から恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。」(マタイ10:29~31)

「ツェルヤの子アビシャイが王に言った。『この死んだ犬めが、わが主君である王を呪ってよいものでし
ょうか。行って、あの首をはねさせてください。』王は言った。『ツェルヤの息子たちよ。これは私の
ことで、あなたがたに何の関わりがあるのか。彼が呪うのは、主が彼に「ダビデを呪え」と言われたか
らだ。だれが彼に「おまえは、どうしてこういうことをするのだ」と言えるだろうか。』 ダビデはア
ビシャイと彼のすべての家来たちに言った。『見よ。私の身から出た私の息子さえ、私のいのちを狙っ
ている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。放っておきなさい。彼に呪わせなさい。
主が彼に命じられたのだから。おそらく、主は私の心をご覧になるだろう。そして主は今日の彼の呪い
に代えて、私に良いことをもって報いてくださるだろう。』」(Ⅱサムエル16:9~12)

「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。
『復讐はわたしのもの。わたしが報復する。』主はそう言われます。次のようにも書かれています。『も
しあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭
上に燃える炭火を積むことになるからだ。』 悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝
ちなさい。」(ローマ12:19~21)