礼拝説教 村瀬俊夫 教師






【2007年10月14日 説教アウトライン】  「愛によって働く信仰への自由」  (ガラテヤ 5:7-15) 

 7-12節は、4:8-20のように、感情を表に出してパウロが熱情的に訴えている部分。パウロの導きで「よく走っていた」ガラテヤ人を「真理に従わなくさせた」反対論者の勧めは、神から出たものではないと非難する(7-8)。ほんの少数の反対論者に教会全体がかき乱された(9)。彼らにだまされたガラテヤ人が真理に立ち返ってくれると確信して、パウロはかき乱した者たちを糾弾する(10)。
 パウロの関心事は、自己の名誉のためではなく、誕生間もない教会の浮沈である。そのため彼は歯に衣(きぬ)着せずに、救いの要件として割礼を求める反対論者に、そんなに割礼が大事なら「いっそのこと[男根を]切り取ってしまうほうがいい」と言う(12)。十字架の宣教は、人間の無力さとともに律法に救う力がないことを暴露するが、その躓きを超えて解放(自由)をもたらす福音となる(→11,13)。
 こうしてパウロは、本筋である《キリストにある自由と愛》の問題に立ち返る。キリスト者の自由は、彼を誰にも服しない自由な主人とする。しかし、この自由は両刃の剣で、乱用されると[自由主義経済に生じる格差社会のように]新たな奴隷状態を生む。それを防ぐには愛の道しかない。与えられた自由を「肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え」合う(13)。キリスト者の自由は、彼を誰にでも服して仕える僕(しもべ)とする。望ましい自由主義経済とは、経済がすべての人に服して仕える僕となるもので、それには愛の道が欠かせない。
 ここでパウロは、予告しておいたように、救いの要件としては不要とされた律法に回帰し、それをキリスト者と教会に新しい生活指針として与える(14)。律法の行いは義認と無縁だが、義認が聖化と連結するとき、《解放の自由》が《愛によって働く信仰への自由》と連結して、キリスト者を自由の乱用から守り、律法の全体を要約した隣人愛の戒めを[聖霊の助けで]行わせてくれるのである。