記憶の名前










 不思議だね、千尋のことは覚えていた―――。




 何が起こったのか。
 指先や足の先から徐々に染み込んでくる不快なものに息苦しさを感じ、 まどろみの淵から起き上がる。
 息を吸うとそれが口の中に流れ込んでくるようで、 うまく呼吸ができなかった。

(何事が……)

 目の前はひたすら闇が広がり、形あるものは何も見えない。 夜目は効くのだから、夜というわけではなかった。
 その闇自体が不快なもののようで、なんとも不快で、不気味であった。
 やがてそれは身体に絡みつき、締め上げ、刃となって我が身を傷付け始めた。 また、身体の表面から染み込んだそれは、体内の臓腑を掻き乱すような動きを見せる。

(身体が…千切れる…)

 内外からの激しい苦痛は、四肢を引き千切らんばかりの勢いで、 身体だけではなく、魂までも引き裂く力を孕んでいるようであった。
 確実に蝕んでいく「それ」。声を上げたくとも口を開けばそこから雪崩れ込むため、 そうすることはできず、身体を揺すって抵抗してもどうにもならない。
 苦痛と魂の消滅を意識する焦燥感に、闇の中、何かを掴もうと腕を差し伸ばすも、 つかめるのは水だけ。しかもぬるり、といういつもとは違った感覚を伝え 指の間をすり抜けていってしまった。

(何故っ……)

 何よりも自分の身近な、自分の一部でもある水が、 何故こんな、まるで別のもののような触感をしているのか。
 自分が異物のように感じられ、絶望に打ちひしがれたその時だった。

(千尋……)

 脳裏に浮かぶ一人の少女。
 以前、自分の中に落ちてきた、小さく、ひ弱な人間。 その存在が一筋の、しかし眩しく暖かい光となって投げかけられた。 まるで、地獄に下ろされた一本の蜘蛛の糸のように……。

(千尋……千尋……)

 その命を救ってから、何度もここを訪れていた少女。 舌足らずな口調で、来るたびに「ありがとう」と言いつづけた、心優しい娘。
 何度もその少女の名を呼び、姿を念じて、 それにすがって静かに目を閉じた。
 闇は色濃く、意識までも掻き乱し、切り裂き、飲み込もうとする。 それでも、ただ光を頼りに、光に全てを任せて、それだけは手放さぬよう、 闇に包まれていった。





 心地よい風が頬を撫でる感覚に、少年はゆっくりと瞼を開けた。
 飛び込んで来たのは、青空。 目に痛いほどの鮮やかさに、眉を寄せた。
 ぐったりとした身体に鞭打ち、少しずつ起こす。関節と頭が痛み、 それだけの行動すらも難儀なものとした。
 上半身を起こした状態で軽く頭を振り、 じっと我が手を見る。 泥なのか、はたまた血なのか、 茶色い汚れがこびり付いていた。
 身につけている白い着物も薄汚れ、 我が身に何が起きたのか記憶を辿る。

(……そうか……)

 自分は「埋められた」のだ。 自己中心的な人間たちの手によって。
 汚すだけ汚しておいて、邪魔だと判断すればこのような強硬手段に出る。
 人と共に生きてきた時代はもう、終わったのだ。 人間たちの一方的な乱行によって、存在場所を失った。否、奪われた。
 行く場所など無い。あそこが唯一の、自分の居場所であった。

(……どうすれば……)

 空を見上げ、流れ行く積乱雲を見つめる。

(雲のように、「風」という存在があれば、何も考えず次の場所へと運んでくれるものを)

 ただただ、喪失感だけが彼の心を満たしていた。
 帰る場所を失った今、「行動理念」がなければ、何処へもいけない、動けない。
 風が、草原を薙いで行く。
 その風に吹かれ、まるで自分も草原の中の一つの草となったかのように、 茫然としていた。
 そして、ふと、本当に何気ない瞬間、 心地よい記憶が蘇る。

「千尋……っ」

 闇に飲まれる寸前、すがりついた暖かい存在。
 人間であるけれど、心優しく、清い魂を持った娘。 あの少女がいなければ、今ごろ魂までもが消滅していたであろう。 彼女の存在が、「ここ」に引き止めてくれたように感じる。

「千尋……千尋…」

 何度もその名を呟き、噛み締める。

(そうだ、あの娘に会おう。 そうすれば、何かが……)

 あの娘は人間だ。成長する。どれくらいの時間がたったかわからないが、 もしかしたらあの心優しさ、清らかさは無いかもしれない。 最悪の場合は、すでに亡くなっているかもしれない。
 例え儚い願いだとしても、会いたいと思う。 側にずっといることが叶わなくとも、言葉を交わすことができなくとも……。

(行こう)

 「風」を見つけた神は、少女を探し流離う。





 しばらく歩いていくと、街並みが見えてきた。
 どこか違和感を覚える構造の建物に、眉間にしわを刻み、 とにかく先へ先へと歩いていく。

 いくつかの階段を上り、路地を通り抜け、 巨大な灯篭の前へとやって来たとき、 ここが何処なのか悟った。

(ここは……、ここがあの……)

 話しには聞いたことがあった。 神々が日頃の疲れを癒しにやってくる、大規模な湯屋の存在を。
 灯篭に書かれた文字、そしてその右手に見える、 豪華で巨大な建物。建物の裏手には高く聳え立つ煙突があり、 また、暖簾の文字からして、そこが噂の湯屋「油屋」だということに気付く。

(ここを経営している湯婆は、強大な力を持った魔女だというが……)

 建物の手前に架かっている、朱塗りの橋まで歩みより、 その全貌に圧倒される。

(あちらの世界に渡る方法を知っているのでは)

 あの少女に会おうと決心したはいいものの、 ここがどこか分からず彷徨っていた。 そしてこの街がなんなのか知った今、 「向こうの世界」に渡る手段の模索へと入る。
 河を奪われ、それと共に力を無くしたといっても過言では今の状態で、 「向こうの世界」へ戻るのは、困難を極めた。
 そして、その思考の先は、油屋の経営者・湯婆へと向けられた。

(湯婆の力を借りる……無理だな)

 思い至ったものの、湯婆は欲張りで、残酷だという話を思い出し、 すぐにその案を却下する。しかし、魔女の力は魅力的である。

(ならば、取り入る……)

 少女に会うためならば、なんでもする。
 そんな決意が見て取れる眼差しで、 遥か高みの油屋の最上階を睨み付けた。





 そうして。
 湯婆と契約を交わして。
 名を奪われて。
 記憶も奪われて。
 本来の目的も忘れて。

 けれど――――。




 「千尋のことだけは覚えていた」


 







またもや撃沈ものを(笑)
ハクが油屋に来て、
湯婆の弟子にるまでのお話……。
ちょっとだけダーク(^^;)

微妙に、
違う意味でブラックぶりを発揮している
ハクでした(苦笑)


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