千尋へ お母さんたち新年は二人きりで過ごしたいから、伊豆に行って来るわ。 2、3日したら帰るから、それまでしっかりお留守番よろしくね。 何かあったら下の電話番号に連絡するのよ。 友達と買い物に出かけ帰ってきた千尋は、 キッチンのテーブルの上の置手紙にしばし茫然とした。 出かける時には何も言ってなかったのに。 多分、突然決めて、突然出かけていったのだろう。 けれど、まあいつものことだと諦めの溜息を吐き、夕飯を探して冷蔵庫を開けた。 (でもよく今の時期に、宿の予約が取れたね) 冷蔵庫の中は、買出しの品でぎゅうぎゅうである。 (これもどうするのかな) もしかして全部自分ひとりで処分しろと? そう考えて、ぶるぶると頭を振った。 本当に行き当たりばったりの両親である。計画性がないというか、 立てても意味が無いというか……。 冷蔵庫の中を漁っていると、生蕎麦が姿を現した。 「そういえば、今日は大晦日だった!」 その袋を手に取り、小さく声を上げる。 そしてさらに漁って、麺つゆのボトルを引っ張り出した。 (一人で年越しって、淋しいな……) 手にしたものを見つめて、はぁとまた溜息をつく。 と、脳裏に一人の青年が浮かぶ。 この世のものとは思えない美貌と、上質の絹糸のような髪をした、 誰よりも大切な、竜の化身……。 (でも連絡先、知らないし……) こちらの世界にいるとき、いつも彼は何処からともなく現れて、 何処へともなく帰っていく。 以前「どこに帰るの?」と聞いたときも、青年は淡く微笑んで「どこだろうね」 と答えるだけだった。 (お父さんもお母さんもいないし、 何の気兼ねも無くハクを呼べるのにな……) と考えて、自分があまりにもはしたないことを思いついてしまったようで、 恥ずかしくなって頭をぶんぶんと横に振る。 (べ、べつに、いいもん。一人だって、大丈夫よ) 何が大丈夫なのかあえてつっこまず、 お鍋に水を張り、コンロにかけて火をつけた。 お湯が沸くまでの時間、二階の自分の部屋へと向かい、 楽な服装に着替えようとタンスを開けたときだった。 コンコン 窓に硬いものが規則正しくあたる音。この音は……。 タンスも開けたままで、カーテンを乱暴に開け放つ。 窓の向こう、会いたいと思っていた青年の姿。 穏やかに微笑み、ベランダに立っていた。 千尋はあまりの嬉しさに夢ではないかと茫然とし、しばしその姿に見とれる。 青年の美しい唇が「開けてくれるかい?」と動いたことで、 はっと我に返り慌てて窓の鍵を開けた。 「ごめん、ハクっ」 中へと入ってくる青年を出迎えて、 千尋は喜びと照れで顔を綻ばす。 「どうしたの?いつもだったらすぐに開けてくれるのに」 窓にまた鍵をかけて、カーテンをひく少女に向かって、 微笑んだまま問い掛けた。 「ウン……実はね、ハクに会いたいって思ってたの」 頬を紅色に染めて上目遣いでこちらを見つめてくる少女の姿は、 言い表し様が無いほど可愛らしく、またその言葉にもハクは胸が熱くなるのを感じる。 「私に?どうして?」 「あのね、今日、私一人で年越ししなきゃいけなくてね。 淋しいな〜って思ったら、ハクに会いたくなっちゃったの」 照れを誤魔化すように頬を掻き、視線を下にした。 「でもハクの連絡先、知らないし、仕方ないかなって思ってたら ハクが来るんだもん。すごくビックリしちゃって」 小さく身体を縮めた千尋を見て、ハクは口許に拳をあてて忍び笑いをする。 くすくすと涼しい音の笑い声が耳に入り、千尋はがばっと頭を上げた。 「わ、笑わなくてもいいじゃないっ」 「ごめん」 頬をますます赤に染め食い入ってくる少女に謝るも、 その笑い声は止まらない。 千尋が憮然とした表情で見つめてくるのに気が付くと、 やっと笑うのをやめて口を開いた。 「千尋は子供のようなことをいうのだね」 「子供だもん」 青年の一言に開き直り、千尋は頬を膨らませてそっぽをむく。 「本当に?」 ハクは艶やかさの含まれた声で、囁くように問い掛けた。 「本当にそなたは子供なの?」 「えっ……と…あっ」 何かに思い至ったのか、千尋は真っ赤になって身を引く。 折りしも、青年の手が腰へと伸びてきた時であった。 「あ、あ、あ、あ、あれはっ!!ハクがしてるんだもんっ、 私は、関係ないよっ!!」 大声で叫び、そのセリフの恥ずかしさに気付き、 また頬が上気する。 「そう?あんなに、すごくいい声を出していたのに?」 青年は一歩踏み込み、千尋の手を掴んでしまう。 千尋はあまりの恥ずかしさに言葉が出て来ない。 どうしてこの龍は、こんなにも恥ずかしいセリフをさらっと言えるのだろう。 「そういえば、さっき一人で年越しとか言っていたね」 千尋の、怯えながらも熱の灯り始めた身体を自分の方に引き寄せ、 耳元で甘く囁いた。 (もしかして、もしかしてっっっっっっっっっっっ!!!!!!) その言葉だけで全てを理解し、少女はあっさりとパニックに陥る。 ばくばくと耳につく心臓の音を感じながら、 必死に抵抗して何か言葉を探した。 「ま、待ってハクっ、私……………ああああああっ!!!!!!!」 言いかけ、何を思い出したのか、急に緊張で顔が強張った。 そして絶叫がハクの耳に叩きつけられる。 「千尋?」 まだ何もしていないのに、突然少女が絶叫したことに、 怪訝そうに見やった。 「火、つけっぱなしだった!!」 そう叫ぶと部屋を飛び出していってしまう。 部屋に一人に残されたハクは仕方なく、 軽く溜息をついて微笑むと少女の跡を追った。 「ハクも一緒に食べよ!」 ソファに大人しく腰掛け、雑誌に目を通していたハクは、 出汁のいい香りと、少女の軽やかな声に頭を上げた。 「蕎麦?」 立ち上がってダイニングへ向かうと、テーブルの上に置かれたどんぶりを 不思議そうに見る。 「うん、今日は大晦日でしょう? 大晦日の夜にはお蕎麦を食べるのがこっちの世界の慣わしなの」 どんぶりからは湯気が立ち上り、 出汁の香りを舞い上げる。 どうしてそうなのかは知らないけどね、と付け足して、 少女は箸を置いていった。 「な…なに?」 てきぱきと食事の準備をしている、エプロン姿の千尋をじっと見つめていると、 その視線に気付いたのか、おずっと聞いてくる。 どこか警戒している少女に、 安心させるように優しく微笑みかけた。 「別になにもしないよ(今は)。ただ、いいなと思ってね」 「なにが?」 ハクの言葉を聞くと、警戒をすぐに解いて無邪気に顔を寄せてくる。 「千尋のエプロン姿。なんだか妻ができたようだ」 「つ、つ、つ、つ、つ、つ、つ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ????!!!!!」 心臓が爆発してしまいそうなほど高鳴って、 気を失ってしまいそうなほどの恥ずかしさに襲われ、 混乱は極みに達する。 「なっ、ハク!!いきなり、そんなっ、う〜〜〜〜〜っ!!!」 言葉を失い、千尋はじたばたと手を動かした。 (そりゃあ、もう結婚できる年だし、 ハクなら嬉しいし……って何考えてるんだろうっ!!!!) 意味をなさない言葉を吐きつづけている少女を見て、 ハクはくすくすと笑って、席につく。 「私の妻では不服?」 「そんなことない!すごく嬉しい!!」 どこか拗ねたように問い掛けると、 すぐに返事が返ってきた。 そして青年の罠にはまったと気付くと、また恥ずかしそうに俯いて、 それを隠すようにぶつぶつと彼を責める言葉を呟く。 「ごめん、でも今日一日だけ、私の妻としていてくれる?」 断ることなど到底できない笑みでお願いされ、 千尋は撃沈した。 すごく恥ずかしい、でも心のどこかが喜んでいることに気付く。 それに何だか楽しそうだし……。 「うん、いいよ。ハク」 返事をして頷くと、唇に彼の人差し指が当てられる。 「『ハク』じゃなくて、『あなた』」 悪戯っぽく微笑んでの言葉に、 また頬の熱が上がり、薔薇色に染まった。 気が遠のきそうになるのを辛うじて踏みとどまり、 ぎゅっとエプロンを握りしめてハクを改めて見つめ返す。 ハクは期待に満ちた顔でこちらを見ている。 「早く言って」とばかりに瞳が輝いていた。 「あ…………………………あなた」 ありったけのの勇気を振り絞って、 消え入りそうな声でその言葉を呟く。 「よくできました」 とびきりの笑顔をその美しい顔にたたえ、優しい声で言う。 千尋は恥ずかしさに気を失いそうになりながらも、 こんな風に誉めてもらえるなら、なんでも頼みごとを聞くのに、と考えてしまう。 そしてとんでもない考えだったと気付くと、 それを振り払うように首を振った。 もし青年に人の心を聞くことのできる能力があったのなら、 これを聞き逃す手は無かったであろう。 「お蕎麦、さめちゃうよ。早く食べよ!」 エプロンを外して、向かいの席に座ると箸を手に取った。 「うん」 「じゃあ、いただきます!」 食事の後片付けを終え、手伝ってくれたハクと一緒にリビングへと戻る。 そして隣り合って二人でソファに腰掛けると同時に、 遠くで鐘の音が鳴るのが聞えてきた。 「除夜の鐘……」 感動したように呟き、千尋は隣の青年を見上げた。 「ハ……あなた、あけましておめでとうございます。今年もよろしくね」 先程の約束を忠実に守って新年の挨拶をする。 そのぎこちなさがまた、ハクには可愛く思えて仕方なかった。 「千尋、もう新年を迎えたんだよ?」 「妻として振舞って欲しい」といったのは昨日の事。 そして彼は「今日一日だけ」と言ったのだった。 「あ、そうか」 そのことに気付き、千尋は恥ずかしそうに頬を掻く。 ほっとするのと同時に、少し残念だと思う気持ちが横切った。 「残念そうだね」 少女の微妙な表情の変化を目ざとく読み取り、 ハクは言葉を紡ぐ。 「そ、そんなことないよっ」 どきっと跳ねる心臓。狼狽しながら否定する。 「……なら、もう少し妻の役目を果たしてもらおうかな?」 青年の腕が肩に廻され、指が顎に添えられた。 「えっ……………?」 嫌な予感に逃げようとするも、身体をがっちり捕らえられて微動だにできない。 「今年もよろしくね、千尋」 |