リンの憂鬱






 油屋に朝が来る。
 いつもと変わらぬ時間に、いつもと変わらぬ場所で目覚める。 そしていつもと変わらぬ仕事が待っていた。
 ただ一つのことを除いて…。
「っかぁ〜〜〜、よく寝たぜっ!!おい、セン!朝だぞ」
 大きく一伸びすると、リンはいつもと同じように、 隣に声をかけた。
 返事がないことに訝しんで、隣を見やってはっとする。
 一面に敷かれた布団の波の中、ただ一箇所だけ覗く薄汚れた緑の陸地。 ぽかんと開いた穴のような虚無感に、思わずそこに手を置いた。
 いつもだったら、ここにあった布団の中でくずくずしている少女を、 激しい叱咤と共に起こしている頃。
 しかしもう、あの少女は居ないのだ。
「そっかぁ、もういねぇんだよな…」
 ぽつりと、淋しげに呟いてから、手をそこから離した。
(なんか…慣れねぇぜ)
 その手で頭をばりばりと掻き、あくびとも溜息とも取れる息を吐き出す。
 少女がいたのは、ほんの少しの間。それ以上の月日を重ねてきた、以前の暮らしに 戻っただけ。それだけなのに。もう以前のそれは、「違う生活」であった。

 「慣れない」

 その一言を胸中で呟いて、思わず苦笑してしまう。
「さって、今日もがんばるか!」
 何かを振り払うように、もう一度大きく伸びると、 声を上げて気合を入れた。





 千が居なくなってからも、リンの持ち場は変わらなかった。
 というより、リン自身が変わる気がなく、上司に異動を申し入れるようなことはしなかった。 (申し入れたとしても、異動できるとは限らないが)
 以前だったら、特に重労働な大湯など、すぐに変わってしまいたかっただろう。けれど、 今は別にここでも構わないと思うようになっている。
(なんでだろうな)
 柄のついたたわしを肩にかけ、汚れきった大湯を見て憮然とした面持ちで立ち尽くした。
「よし、始めんぞ」
 千の空いた所に入った少女に声を掛け、 すたすたと洗い場に入っていく。
「はい…きゃあっ!!」

 がたぁんっ

 返事のすぐ後に聞えた悲鳴と大音響。近くで仕事をしていた カエル男や同僚達が覗きに来る。
 洗い場に下りた瞬間、散らばる薬草に足をとられてすっ転んだのだ。
 カエル男たちはくすくすと笑うと、持ち場へと戻っていく。
「っとにドジだな、センは」
 振り向きざまのリンの言葉に、少女はえっ?と目をむいた。
「あ…わりぃ。…仕事すんぞ」
 気まずい雰囲気に、リンの方から逃げ出す。
(だから、センはいないんだってば!!)
 自分自身の不甲斐なさを叱り付け、八つ当たりのように、たわしで荒々しく床を磨き始めた。





 そして―――。
 こんな日が何日も続いた。
 呼び間違えたり、誰も居ない空間に向かって呼びかけたり。最近ではその回数が減ったように思われるが、 それは言葉にする前に気付くようになり、ぎりぎりのところで口にしないよう、 努めているからだ。
 だから実際、その回数は以前と変わらないくらいで、もしかしたらそれ以上なのかもしれない。
「ちぇっ」
 小さく舌打ちをする。それは半分ほど自分へ向けられたものだ。
 今朝もやってしまった。朝起きての一声。
「セン、いつまで寝てやがる」
 既に起きていた同僚達は、くすくすと笑っていた。
「始まったよ、リンの大ボケが」
 そういって、声を立てて笑うのだ。すっかり習慣となってしまっている。
(いい加減にしろよな)
 それはこんな自分を笑う同僚達に向けてなのか、それともこんな自分自身に向けて吐かれた 言葉なのか。多分、半々だろう。
(やめやめっ!!今日は何にも考えないで働こうっ!!)
 何ともいえぬモヤモヤが心の中を満たし始めると、 それを振り払って仕事へと出かけた。





「一日だけだっつーのに、もうこんなに汚れてやがる」
 湯船を覗いてぼやくと、手にした縄で作ったたわしを放り投げる。
 さすが大湯だぜ、と小さく皮肉を言って、少女の方を振り返った。
「おい、セン!札を…」
 また、やってしまう。
 呼ばれた少女はいつものことだと、とりあえず返事をしてから番台へと走っていった。
「〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!」
 拳を強く握り、唇をかむ。激しい怒気が身体中を駆け巡り、 なにかにぶつけたい衝動に駆られる。
 目に映ったのは先ほど放り投げたたわし。無心でそれを拾い上げると、大きく振りかぶり、 湯船の底へと叩きつけた。
「くっそ!!リンさまとあろうものが、こんなんでどうすんだよ!!!!」
 鈍い音と聞くものを震え上がらせる怒声が、その場に響く。しかし、それらの「音」に、 悲しみのようなものが含まれていたのは、気のせいではないだろう。
(セン、どうしてお前はこんな気持ちを残していったんだ!!)

 それは違う

 分かっている。けれど何かを、誰かを責めないと、この気持ちは治まらない。
 床に降り立つと、そのままへなへなと座り込んだ。
 後ろからひそひそと声がする。いつものように、興味をそそるようなものがあったのかと、 覗きにきたカエル男と同僚達。今日は父役までやってきている。
「なにかあったのか?リン」
「…なんでもねぇよ」
 父役の質問に、背を向けたまま不機嫌そうに答えた。
「何でもないことがあるか、さっきの大声は…」
「なんでもねぇっつってんだろ!」
 さも鬱陶しそうに声を荒げると、振り返る。
 父役の隣に、札を手にした少女を見つけると、ずかずかと歩み寄り引っ手繰るようにその手から 奪う。
 そして何もなかったかのように、もくもくと湯を入れるための装置をいじり始めた。





 部屋に戻り、鬱々とした気持ちで水干を脱ぎ捨てた。
 そして押入を開けて、自分の荷物を漁ろうとした時、隣の荷物入れが目に入る。
『セン』
 側面にはそう名が貼り付けられていた。
 未だに処分できずにいる。
 約束したから。また来ると。
 同室の者たちも何も言わない。別に邪魔というわけでもないし、そして何より、 リンが千を誰よりも可愛がっていたの知っているから。
(セン…)
 リンの中で、先ほどの怒りはもう無かった。
 次に湧いてきたのは、熱い涙。じわり、と目じりを熱くする。
(センっ!!)
 気付いたときには押入を開けっ放しで、部屋を飛び出していた。





 どこをどう走ったのか、そこは屋根の上であり、夜空の下だった。
 眩いばかりの月明かり。海はその光を受けて、きらきらと幻想的に輝く。 こんな夜はよく語り明かした。夢と希望と思い出と…。
「センーーーーっ!!くそぉっ!!早く帰ってこいよぉ!!!!!」
 幻のような海に向かって、その先の世界に向かって、リンは叫んで泣いた。 月光が、優しいのか、無慈悲なのか、その涙にそっと降りかかる。
 少女の面影を脳裏に浮かべ、ひたすら泣いた。泣いて、泣いて…。
 こんなに泣いたのはいつ以来だろうか?泣くことは弱いことの証。心が弱いから泣くのだ。 それがリンの持論である。だから、泣かなかった。泣きたくなかった。
「センーーーーーーーっ!!」
 けれど結局、自分は弱いのだ。強がって見せていただけなのだ。 「セン」という少女の存在が消えてしまっただけで、こんなにも動揺して泣いている。
 ただ一つの小さな存在を、無意識のうちに心のより所とすることで、 自分の中で大きな存在となっていたのだ。
 泣く自分、他人に頼る自分。どれも持論に反する「自分」
 けれど不思議だった。自分が弱いと思うことに、認めることに、 何の抵抗も抱かなかったのだ。
 それはやはり、センのお陰。よく分からないがそう思う。
 短い間ではあったが共に過ごして、彼女の存在は 知らない間にリンの中の「何か」を変えた。
「センっ!!!!ぜったい、ぜったい帰ってこいよ!!!!!」
 声が届くことはないだろう。それでも喉が嗄れんばかりに叫んだ。
 大丈夫、声が届かなくとも、センは帰ってくる。 よく分からない確信が胸の中で芽生えた。
(約束したもんな!)
 いつの間にか涙はとまり、月明かり差す顔には笑顔が浮かんでいた。









この話は
千尋が元の世界に戻った後の話です
リンの話も書いてみたかったので
結構楽しんで書けました(^-^)
切ないですが(^^;)

映画の中で千尋が帰る日、
「約束」はしていませんでしたが(多分/汗)
リンの中で、
沼の底へ向かう千尋と交わした「約束」を
そのまま延長させたのだと思います。

結構もろい感じの
リンさんになってしまいましたが
如何だったでしょうか??



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