雨音











 「あれ?」
 一仕事を終えリンと部屋へ戻る途中、千尋は足を止め窓の外へと視線を送った。
 外は連日の雨が今日も続いており、空や景色を灰色に染めている。遠くに街の明かりがちらほらと灯り、 唯一の彩りを添えていた。
 そして目の端に映ったのは、油屋に点在する坪庭の一つ。そこに思わず目が行く。
 庭の中ほど、立ちすくむ白い影。儚そうに見えて、しかしその姿は鮮烈で、眩しいほどに美しい。
 もし世の中で一番美しいものの名を挙げろと言われたら、迷うことなく彼の名を言うだろう。
(ハク…)
 口に出しそうになって慌てて飲み込み、窓際に寄った。
「セーン、どうした??」
 思わず見入っていると、先を歩いていたリンが足を止め振り返っている。
「なんでもないです!!」
 慌てて首を横に振って叫ぶように答えるが、その場でモジモジとして、動こうとしない。
 そのまま立ち去って行くには、その存在は千尋の中で大き過ぎた。
「ごめんなさいっ、リンさん。私、ちょっと寄る所があるから…」
「おい、千!寄る所って・・・」
 リンの言葉を最後まで聞かず、彼女の脇を通り抜けてバタバタと慌しく走り去って行く。
「ったく。何だってんだ?」
 ぼやき声を背に受けつつも、千尋は急いだ。



 途中、水干の中に着ていた単を脱ぎ、それを片手に坪庭に向かって走る。
(どうして雨の中で立っているんだろう??)
 不安に駆られ、ますますスピードが上がる。時々、足を縺れさせながらも、走って走って…。
(ハク、風邪をひいちゃう)
 油屋の、あまりの広さに苛立ちを覚えつつ、わき目も振らずにひたすら進んだ。
 やがて庭に面した長い廊下へと出る。庭に面した方にはズラッとガラス張りの戸が並び、外の景色が見える。
 走りながら、彼の人の姿を探した。ガラスが反射してよく見えない所は、わざわざ覗き込み、 見逃さないように注意深く進んでいく。
 そしてやっと見つけると、そのすぐ横の戸を開け放った。
 雨音がぱらぱらと聞える。降り方はそれほど強くはないが、全身が濡れるのにそれほどの時間は要らなかった。
 そんな中、ハクは地面を見つめ、雨に濡れて立ち尽くしている。絹糸の様な髪や、白い水干の袖から 水が滴り落ちていることから、長い時間そこにいたことが分かった。
「ハク!!」
 千尋は叫んで、迷うことなくぬかるんだ地面へと、素足で飛び降りる。
 水と泥とを飛ばしながらハクに駆け寄ると、単を頭から被せた。
「何やってるの!?ハク!!風邪ひいちゃうよ!」
 叱り付けるように怒鳴って、ハクの細い身体を単で包んでやる。 そして見上げると、彼は穏やかに笑っていた。
「え…あ…」
 予想外の事に、千尋は困惑する。
 雨で濡れているのに、否、濡れているからこそ、より一層美しく見えるハクの顔。
 何故だろう?という疑問は、彼の慈悲深いまるで観音様のように微笑まれると、 どこかへ飛んでいってしまう。
「やはり来てくれた」
 真っ白になる頭の中と、ドキンと高鳴る胸。
 どこまでも穏やかで、耳に心地よい声で言う。
「そなたを待っていた」
 うっすらと濡れた千尋の身体を抱き寄せると、耳元で囁いた。
「ハ、ハク?」
 単を脱いでしまったため、水干の下には腹巻しか身に付けていない。 その為、雨に濡れて腕や背中に衣が貼り付き、身体のラインをくっきりと現していた。
 そしていつも以上に感じるハクの体温。ずっと雨に濡れていたのに、 とても温かくて、熱い。
「千尋なら、きっと来てくれると…」
 水干の切れ目から覗く細い肩に、優しく口付けを落とした。
「ひゃっ…、どうしたの?ハクっ!」
ぞくり、と背中を這う何ともいえない感覚に、思わず千尋は悲鳴をあげる。そして逃げようと身体を退くと、 腰に廻された彼の手に力が込められ、再び引き寄せられた。
「千尋に、会いたかった」
「あ…会いたかったなら、そう言ってよ!」
 少し怒ったように、千尋が叫ぶ。かなり混乱しているらしく、ハクにしがみつきつつも、所在無さげにしている。
 そんな彼女を見て、ハクはくすくすと笑い、抱きしめる手にますます力を込めた。
(う〜…なんか、恥ずかしいっ)
 ハクの温もりに抱かれ、彼の香りで包まれるのは大好きだった。 いつもだったら、そのまま眠り込んでしまうほどリラックスしているのに、今は違う。
 ずっとそこにいたいと思う空間が、今日は早く抜け出したい空間に変わっていた。それは ハクが嫌いだとか、抱きしめられるの嫌だとか、そういうものでは無くて…。
 顔が、耳が、赤く染まっていく。チラッと見える肩すらも、ほんのりと桃色に染まっていた。
「言いたくとも、今までゆっくり会えなかっただろう?」
 確かに近頃、神さまの団体が大挙して押しかけ、油屋は上に下にの大忙しであった。お互い顔を合わすことはあっても、 仕事中に私的な会話を交わすことは出来ず、神さまの接待が終わった後でも、ハクには帳場の仕事が、 千尋は疲れ果ててすぐに部屋で眠り込んでしまい、すれ違いが続いていた。
「でも、でもっ!ハクはずるいよ!!」
意地悪だよ、と小さく呟いて顔を伏せる。
「わたし、本当に心配したんだからね?」
 ぎゅっとハクの水干を握り締めた。そして、ゆっくりと見上げる。
「風邪をひいたら、千尋に看病してもらうから大丈夫だよ」
 ハクは目を細め、さも愛しいといったように千尋の頬に触れた。
「しないっ!してあげないっ!!」
 拗ねたように再び顔を伏せ、首をぶんぶんと横に振った。水滴が舞い落ちる。それとともに、 この何ともいえない恥ずかしさを追いやるように…。
 それを知ってか知らずか、ハクは静かに微笑む。
「すまない。でも…、本当に会いたかった、千尋」
 その一言が、無性に嬉しかった。身体の隅っこに存在していた、言い知れぬ緊張と、 恥ずかしさとを拭い去っていく。
「ハク、わたしも。わたしもハクと会って、いっぱいお話がしたかった」
 両腕を伸ばして、ハクの首にしがみついた。濡れて滑るのを、必死に堪えて。
 ハクは彼女の身体をしっかりと抱きとめつつも、どこか残念そうに微笑んでいる。その理由を、 千尋が分かるはずも無く、無心にハクに甘えた。
 指先が、彼女の背中を意味ありげに辿る。水干一枚を挟んで存在する、柔らかい肌…。 徐々に徐々に、温もりが消えていくのが分かる。
「すっかり濡れてしまったね。寒くはないかい?」
「ううん、だいじょうぶ。ハクとこうしてるとね、すごく温かいの」
 まるで子犬の様に、身体を寄せてくる。無防備この上ない。
「もうそろそろ中へ入ろう」
「え…?」
 嫌そうに千尋が声をあげる。そのまま別れてしまうのではないかと思ったのだろう。
 それを見越して、ハクは静かに付け足した。
「私の部屋に、寄って行くかい?」
「うん!今日は朝まで、いっぱいお話しようね!」
 躊躇無く、千尋は即答する。
 彼女にばれないよう、何かを含んだ笑みを浮かべると、そっと髪の毛に口付けをした。
「身体も、温めなくてはね」
 雨は未だ、止む気配を見せていない。ハクの呟きは、雨音に消された…。



                                         了








おかしいな〜、
こんな話しではなかったはずなのに(^^;)
もっと純情ラヴラヴの話だったのに…、
微妙に妖しくなってしまいました(--;)
ハクさまらしくないですねぇ〜。あはは…



RETURN