月夜
笑い声が耳をくすぐる。
涼しく、心地の良い、そして聞き慣れた声が―――。
千尋は、今置かれた立場をふと思い出して、
弾かれるように上半身を起こした。
そこは学校の図書館。
放課後に、歴史の授業の発表のため調べものをしていて、
そのまま眠ってしまったのだ。
目の前に積まれた数冊の本、
そして腕の下に敷かれていた、要覧。
暗闇の中、それらは夕日よりも遥かに弱い光で照らされていた。
(今っ、何時?!)
慌てふためいて、きょろきょろと辺りを見回せば、
右手に窓を発見する。
そこから見る外はすっかり闇の帳が下り、
大きな月が顔を覗かせていた。
「うそっ?!もう、月が出てるっ」
叫んで、もどかしい手つきで本を片付け初めて、
ぴたりと手を止める。
こちらを見つめる熱い視線を感じたためだ。
見守るようでいて、捕らえたら放さないほどの、
強く束縛するような………。
この視線に覚えがあった。いつも身近に居て、
いつもその視線で絡め取り、貫く。
「ハク……?」
振り返ると、腰の高さほどの本棚の上に、
美しい青年の姿を発見する。
長い黒髪はきちんと縛られ、
後れ毛やほつれ毛が、その整った顔や、
肩口を縁取っていた。
身につけているのは白い狩衣。
その全てが月色に染まり、
幻想的な、まるで夢の中の住人のように浮かび上がる。
「どう……したの??」
いつもだったら、
学校の生徒に紛れ込み、
いつも千尋の側にいて離れることは無いのだが、
ここ数日、湯婆婆の呼び出しを受けて、
「あちら」の世界にいっているはずだった。
帰ってくるのは三日後だと聞いていたのに、
なのに、突然、彼の人が目の前に現れて、
涼しげに笑っている。
何が起こったのか、千尋は茫然として目を瞬いた。
「千尋に会いたくなってね、ちょっと抜け出してきた」
屈託無く、耳に心地いい声で笑うと、
トンっと本棚から軽やかに飛び降りる。
「そんなことして大丈夫なの??おばあちゃんに咎められたりしない?」
本気で心配してくる少女を、
愛しげに見つめると、「大丈夫だよ」と頷いて穏やかに言った。
「もう入り口に鍵を掛けられてしまったよ」
「えっ?!」
図書室、理科室などの特別教室は、
下校時間を過ぎると大概鍵をかけられてしまう。
一応、中に誰も居ないことを確認し、
いれば下校を促すのだが、
千尋が居る場所は図書館の奥まった、
本棚が密集し、死角になりやすい場所であった。
また横に積まれた本と、
その陰でうつ伏せになっていたため、
余計に見つかりにくい状態となっていたようだ。
「どうしようっ………!!」
閉じ込められてしまった焦燥感。
両親を心配させてしまうという後ろめたさ。
そしてその両親から叱咤されることの恐怖。
それらが一気に襲い掛かり、蒼ざめて椅子へと力なく座り込んでしまう千尋。
「千尋」
呼ばれて、力なく青年のほうを見上げた。
月明かりを背にして浮かび上がるシルエットは、
言い表し様が無いほど美しくて、
千尋は思わず見とれてしまう。
「こちらへ」
そう言って差し伸べられた手。
よくよく見てみると、ハクは開け放った窓の桟に足を掛けていた。
ここは校舎の二階。窓の外はベランダなど無く、
すぐ下はアスファルトである。
「ハっ……ハクっ!!!!何してるの?!ここ、二階っ、危ないよっ!!!!」
その姿に一層顔を蒼くして立ち上がると、
椅子が倒れたのも気付かず、慌てて青年に駆け寄った。
「捕まえた」
胸の中に飛び込み狩衣を鷲掴みにした少女の身体を、
片手でしっかりと抱きしめると、悪戯っぽく微笑んで耳元で囁く。
「か、からかったの?!」
「違うよ。散歩しようと思ってね」
そういうと、千尋の返事など聞くことなく桟を蹴り、
夜空へと飛び出した。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ!!!!!!」
身体を襲う無重力感、少しだけ冷たい風。
とっさのことに悲鳴にならない声をあげる。
黒髪が月夜に舞う。月明かり、星、闇、
次々と色々なものが開ききった瞳に飛び込んできて、
千尋の混乱は最高潮に達した。
やっと目をつぶることを思い出して、
瞼に力を込める頃、心地よい感覚が頬を撫でる。
「もう大丈夫だよ、千尋」
どれくらい経ったくらいだろうか、
数秒とも、数時間とも思われた頃、
彼がそう言った。
少女は恐る恐る、瞼を開き己が置かれた立場を確認する。
頬を撫でる蒼い鬣、足に感じる温かくツルツルとした硬質感。
髪を後ろへと流していく風と、自分が握っている硬いもの。
「うわぁ………」
ゆっくりと上半身を起こせば、
飛び込んで来たのは間近に迫る大きな月。
感嘆の声と溜息を吐き出し、それから手元へと視線を滑らせると、
自分が握りしめているのは角。
そう、ここは乗り慣れたハク竜の背中の上。
「ハク!!びっくりしたじゃないっ!」
安心すると共に襲いくる先ほどの恐怖に、
ついつい声を荒げる。
『すまない……、でも、早く千尋と月夜を翔けたかったから』
竜の口で人語を紡ぐことのできないハクは、
直接少女の心に語りかけた。
そう素直に言われてしまうと、それ以上怒り、叱り付けることなどできなくなってしまう。
千尋は口をつぐみ、また上半身を倒して、鬣と竜体のぬくもりを感じる。
『千尋、下を見てごらん』
言われるままに覗き込めば、
暗闇の中に浮かび上がる夜景。
街の明かりがきらきらと輝き、まるで星空のようであった。
「きれい………」
うっとりと呟く千尋。
身体の下のハクが、笑ったような気配がする。
『こうしてこちらの世界の夜空を翔けると、
自分が今どこにいるのか分からなくなってしまう』
ハクの言葉に、どきりとする。それはどういう意味なのだろうか………?
『上を見ても下を見ても、星空が続いていて、
空のどのあたりにいるのか………時々見失う』
千尋はかける言葉が見つからず、ただ黙っていた。
そして見るとも無く、
人工の星空を見つめる。
『この世界でだけではない。
むこうの世界で空を翔けても、
上も下も空が広がっているかのようで、
自分は何処から来て、何処へ行くのかわからなくなってしまう』
それはまさしく、ハクの置かれた状況。
こちらの世界でも、あちらの世界でも、
彼の「居場所」は不安定である。
もとはこちらの世界に居たのだったが、
「居場所」を追われてあちらの世界へと渡った。
あちらの世界で湯婆婆の元で働いていようとも、
彼はあちらの世界の住人ではない。
こちらとあちら、
どこにいても彼の本当の「場所」は無いのだ。
「ハク………」
気遣わしげに名を呼ぶ少女に、
ハクはまた笑った。その笑みが、
少女の胸を刺し貫く。
ちりちりとする胸の辺りの服をぎゅっと掴み、
千尋は鬣に深く顔を埋めた。
「ハク、どこにいるのか分からなくなって、
どこへ行けばいいのか迷った時は、
私を探して。
一緒に、どこまでも行くから。
いつでも、側にいるから………」
鬣に、熱いものが滴り落ちる。
『千尋………』
そうだ、そうなのだ。
何処に居るのか分からないのならば、
何処にいけばいいのか迷ったのならば、
この少女を探せばいいのだ。
それこそが、この少女の存在こそが、自分の「居場所」………。
そのことに気付かせてくれたこと、
そしてそれ以上に「側にいる」と言ってくれたそのことに、
大きな喜びを感じた。
『ありがとう………千尋。
やっと、私の「場所」が分かったよ』
白い竜は銀の鱗に月光を弾かせながら、
何処へ行くとも無く夜空を舞った。
これでもう二度と、見失うことも、彷徨うことも無い。
何処へ行こうとも、どの世界にいようとも、
少女を探せばいい。そこが自分の「居場所」なのだから―――。
夜空のお散歩です。
一度、ハク竜とのお話を書いてみたかったので
結構楽しんで書けましたv
でもまた微妙に意味不明の自爆もの(--;)
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