決意










 湯婆婆と契約を交わし、 父役と呼ばれる中年の男に案内されたのは、 一つの部屋だった。
 そこは湯婆婆の部屋がある一階下の、 端に位置する広くも無く、狭くも無い、 二つの間を襖で仕切られた部屋である。

「こちらがハクさまのお部屋です」

 室内をぐるりと見回してから、父役を振り返った。

「世話になります」

 丁寧に挨拶をする少年に、 父役は慌てた素振りをして、どこか怯えたような表情をする。

「そんなっ、あなたは湯婆婆さまの直属となられた。 私などに頭を下げなさるな」

 湯婆婆の直属――――。

 その言葉が、強く身を縛り付ける。 何か重く、靄のようなものが覆いかぶさったような感覚に、 気が遠くなるのを感じた。 目に見えない束縛が、何かを引きずるような重みが、もうここから逃れられないことを 語る。

「そちらにある水干にお着替えください。 私は少々用がありますので、戻るまでしばらくお待ちください」

 畏まった様子で去り行く父役を、 どこか冷めた目で見送り、畳の上に綺麗にたたまれた水干に目をやった。
 まるで、囚人服のように見える。 いや、それすらも越えて、足枷とそれに繋がる錘のような気がしてくる。
 美豆良を解き、帯を解いた。 上質の絹糸のような黒髪が白い衣の上を滑り、 ずっと結わえられていたままだったのに、 跡などつかず、まっすぐと腰まで広がる。
 素早く着替えを終了させ、 着ていた衣たたみ、その上に首にさげていた勾玉を乗せるた。

(これから、ここでの生活が始まる)

 髪を結っていた組み紐で、下で一つに縛りなおして、 その場に正座をする。

(千尋……、どんなことをしても、どんなことになっても、 そなたに……会いたい)

 ここまできて後悔など無い。あるのは揺ぎ無い決意と、 少女に会いたいと思う強い願いだけ。
 少年は、目を閉じて遠い少女の幻影を追いかけ続けた。




 「あれは、危険だ」

 父役を前にして、  趣味である金数えと宝石の鑑賞をしながら、湯婆婆は言い放った。

「あれ、と申しますと?」

 ぽけっとした顔で問い掛けてくる父役を、 物分りの悪い子供を嗜めるような視線を投げかけて、 数え終わった金貨を小箱の中にしまう。

「さっきの『神』だよ」

 ぱたんと蓋を閉めてから、「『元』神か」と せせら笑って次は宝石に手をかけた。

「はぁ……」

 あの清々しい少年神が、どう危険なのか承服しかねた顔をして、 間抜けな声をあげて首を傾げる。

「危険と、申しますと……?」
「あれは『復讐』の眼じゃないよ」

 復讐だったらどんなにか操りやすかっただろうに、と ぼやいて、宝石をランプの光にかざした。
 にんまりと満足そうに微笑むと、 次は憎々しげな視線で父役を貫く。

「あれの『決意』は厄介だ。 うまく操れないし、いつか、仇なすよ」

 言葉を切りそう告げられると、 父役の喉がごくりと音を立てた。 怯えた表情のまま湯婆婆を見つめたまま、 言葉を発することができない。

「契約なんて、あれの『決意』の前にはただの紙切れだ」
「どう、すればよろしいのでしょうか?」

 魔女の視線が宝石に向かったことで、 その呪縛からとかれた父役は、 辛うじてその言葉を紡ぎだした。

「これを飲ませな」

 魔女の指先が動く。
 横にある棚の扉が開き、黒い小瓶が宙を飛んだ。 小瓶は父役の手に落ち、それと同時に棚の扉が軽い音を立てて閉じる。

「これは……」
「食事でも、飲み物でもなんでもいい。 それを飲ませば、私の思うがまま」

 宝石を袋に収めると、 くくくっと喉の奥で笑った。
 その笑みに、思わず寒気が走り、 父役は思わず身を竦める。

「『神』は私の手に落ちるのさ。 力はなくとも……ね……」





 いつからだろうか。
 自分の中から何かが溶け出していくような感覚が、 襲い掛かっていた。
 大事なものの一つ一つが、まるで掬い上げた掌の、 指の隙間から零れ落ちていくような喪失感。 どんなに焦っても、それを留める術は無く、 ただ、傍観者のごとくそれを見つめるだけ……。
 就寝時間を過ぎた湯屋を飛び出し、 街を駆け抜ける。
 冷たいのか温かいのか、 よくわからない風を頬に受け、 疾風の如く細い路地を飛ぶように駆けた。

(湯屋は……危険だ)

 あそこにいると、その喪失感が早まっていくように感じて、 一番大事なものを忘れてしまうようであった。
 事実、少年は肝心なことを忘れつつある。

 何処から来たのか―――?

 いつからか、それが思い出せず、 以前はそのことで悩んだこともあったが、 今となってはその悩みすらも忘れてしまった。

(やはり…契約など交わすべきではなかったのか?)

 こうやって、少しずつ、少しずつ、 「自分」に関する記憶を消され、奪われ、 最後の拠り所である少女の面影、名すらも忘れていくのだろうか?
 そう思った瞬間、 自分が何ものか忘れてしまう以上の恐怖が、 心臓を鷲掴みにした。

(いやだ、いやだ、いやだ!!!!!)

 石段を駆け下り、夜間だけ出現する川に躊躇いもせず駆け込む。 ザバザバと大きな音を立てて、水飛沫をあげ、 腰までが水に浸かる位置までくると、やっと立ち止まった。
 例え「自分」の記憶が全て無くなってしまったとしても、 少女の記憶を奪われることと比べたら、悲しくも無いし、苦痛などでもない。 例え、自分の中で違う人物が取って代わろうとしても、 この少女の記憶だけは、手放したくない。手放したりなど決してしない。

(千尋、私は必ずそなたに会いにいく……!!!!)

 自分の手を見つめ、それからぎゅっと握りしめた。 爪が掌に食い込むほど強く、強く……。
 残された記憶でできること、 少女を自分の中に残す為にできること、 それは―――。

「八百万神々よっ!!!!我が血と肉とをもって、願い奉る!!!」

 血の流れ出したままの手で、髻を解き、 懐から小刀を取り出すと、髪を掴むと無造作に切り払った。 さらりと、残された髪が肩の上で揺れる。
 綺麗に切り取られた絹糸の束を、 血に染まった手に掴んだまま、次の言霊を紡いだ。

「たとい、全てを奪われようと、全てを失おうと、 『この記憶』だけは我が内にあらんことを!!!!」

 力を失った自分に、どこまで言霊を紡げるか分からない。 この願いを伝えることができるか分からない。 もしかしたら、少しも伝わることは無いかもしれない。
 それでも、僅かな可能性でも信じたかった。 僅かな希望にすがりたかった。

「ニギハヤミコハクヌシの名の元に、願い奉るっっ!!!!!」

 血に濡れた黒髪が、空を舞う。
 あるものは風に乗り、あるものは水に落ち、 キラキラと月の光を弾いて、何処へとも無く流されていく。

「千尋」

 それを見つめながら、少年は、 刻み込むようにその名を呟いた。













ここまで長くする予定ではなかったのですが……(^^;)
う〜んう〜ん、
やっぱり撃沈です(+0+)

神々への願掛けが通じたのか?
という疑問ですが、
私的には、願掛けは通じなかったと思います(笑)。
真名を忘れてしまいますしね(苦笑)
ハクの強い思いが、
記憶を残らせたと思いたいですし…。
「なら何故書いた」と言われると、
ハクさまの髪きりシーンを書きたかっただけ(爆)

あくまで「私的」なので、
読まれた方の解釈で宜しいかと……(をい)
幸い(?)どんな風にでも読み取れると思いますので(本当か?!)
矛盾だらけで、説明不足もあるので、
いくらでもこじつけられるかと……(^^;)

以上、言い訳でした(笑)


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