「お前かい?私の弟子になりたいというのは」 巨躯の老婆はキセルを燻らせて、せせら笑うように 言葉を発した。 油屋にたどり着き、一人の少女に会う為の力を手に入れるべく、 湯婆婆に取り入ろうと、ボイラー室からここに入り込んだ。 正面の入り口から入らなかったのは、 「準備中」の札がかかっていたためと、 自分は客ではないと一線を引く為である。 ボイラー室には六本の腕を持つ老人が、 高いびきををかいて眠っていた。 申し訳ないと思いつつも老人を起こし、 湯婆婆の部屋までの道のりを教えてもらったのだ。 「そうです」 どのような連絡系統でか、 すでに魔女は自分の到来を知っていた。 部屋に入るとすぐさま問い掛けてきた湯婆婆に、 凛とした声で返事をする。 この老婆と相対して、気圧されずにいられたわけではない。 魔女から放たれる「気」は、 言葉にできぬほど鋭く、 心臓を冷たい手で鷲掴みされるような感覚に襲われた。 「で?なんで魔法を使えるようになりたいんだい」 こちらに目も向けず、悠々と煙を吐き出す。 「その姿からして、お前は『神』のようだね」 黙する少年をちらりと見やり、 キセルを灰皿に軽く叩き付けると再び咥えた。 長い髪を美豆良に結い、 白い衣と勾玉を胸に下げたその姿は、 まさしく「古き神」であり、 またその立ち居振舞いからは、 清々しく高貴なものが滲み出していた。 「はい」 律儀に返事をする少年に、 また人を馬鹿にしたような笑い声を喉の奥でたて、 吐き出した煙へと目をやる。 「『神』のお前が『客』ではなく、 何故私の『弟子』になりたいと言うんだ。 お前は私よりも力があるだろうに」 それとも、私をからかう為にここにいるのかい?と、 不機嫌そうな視線を投げかけた。 「いえ、決して。私は本気です。湯婆婆さま」 針のような視線を全身で受けながらも、 腹に力を込め、毅然とした態度で受け答えてみせる。 その様子に、魔女はにやりと笑う。 笑みすらも、楽々と身体を貫く錐のようであった。 「本気、ねぇ……。 じゃあ言ってごらんよ、何故お前は力を求めるのか」 生真面目な少年をからかう様な、 撫で声のような口調で再び問う。 「………」 少年は黙した。 ここで少女のことを言うわけにはいかない。 いつ、その存在を、そしてこの想いを利用されるとも分からない。 言ってしまえば、少年の「弱味」であるのだ。 この魔女に「弱味」を見せること、 それはすなわちこちらの「負け」を意味する……。 「ふぅん……お前は川の神だね。そして埋められた」 どういう推理からか、湯婆婆はぴたりと言い当てた。 大きな瞳が窺うように、ぎょろりと動く。 少年の微かな反応を、見逃すはずも無く―――。 「力を奪われて、居場所を奪われて……憐れだねぇ」 にやりと笑って言うその言葉に、 微塵の思いやりも込められていない。 ただただ、嘲笑うような態度と、見下しのような視線が少年にあてられた。 「さしずめ、人間への復讐ってとこかい?」 キセルから立ち上る煙は、 ゆらゆらと不安定に揺らめく。 それを茫然と見つめ、少年は黙し続けた。 『復讐』 漠然としたものはあったが、 言葉に出したり、意識したりしたことは無かった。 確かに、自分をこの様な目に合わせた人間を、 憎む気持ちはある。 時折、恨み言を胸中で吐き出すこともあった。 けれど少年は知っている。それが人間全ての姿ではないことを―――。 今も強く、鮮烈に残る少女の存在。 彼女がいてくれたから、 彼女の存在と出会えたから、 どろどろとした暗い感情に捕われることなく、 こうして、前進することができたのだ。 もし、少女がいなかったら、 湯婆婆の言う通り、 「復讐」という負の感情を抱いてここにいただろう。 「フンっ……、まあいいだろう」 強い意志を宿した揺ぎ無い、 瑪瑙と翡翠の間のような瞳で見つめる少年に、 湯婆婆は彼の目的を誤って理解し、 満足そうに頷いた。 キセルを灰皿に立てかけ、指を軽く動かすと引き出しが勝手に開き、 一枚の紙がするりと滑り出る。 紙はひらひらと蝶のように空を飛び、 少年の手に収まり、その動きを止めた。 「それにサインしな」 ぶっきらぼうに言い、今度は指を軽く横に薙ぐ。 すると机の上に置かれたペンが、 紙を追いかけていくように、やはり宙を飛び、 少年の右手の握られる。 「この世界はね、 『契約』を中心に成り立っているんだ。 『契約』を結んだからには守らなければならない。私も、お前もね。 例え『神』でもその規範から抜け出せないのさ」 どこか憎々しげに呟き、魔女は椅子に踏ん反りかえった。 紙には「契約書」の文字と、 数行の文、そして湯婆婆の名が記されている。 少年は見落とすことなく隅々まで目を通した。 そして一つの文に視線が当たった時、 彼の切れ長の瞳は大きく見開かれる。 『甲の命に背きし時、甲は乙身を如何様にもなさしめん』 「甲」の位置にはもちろん、湯婆婆の名が、 そして「乙」は空欄であり、そこに少年の名が入るのだ。 ここまで自分に不利な契約が示されるとは思っていなかった。 「力」を手に入れれば、弟子などすぐに止めるつもりでいた。 しかしそう簡単にこの魔女がそれを許すわけもなく、 いざとなれば実力行使でここを出て行くつもりでいたのだが……。 命が惜しいわけではない。 少女と会えないことが辛いのだ。 「やめるかい?いいんだよ、今から引き返したって」 少年の気配に、魔女は薄っすらと笑う。 そして、少年にやめる気がないと知ってか知らずか、 からかうように言葉を紡いだ。 「やめはしない」 挑発に乗せられたわけではない。 ここまで来て、引き下がるわけには行かず、 またそのつもりも全くなかった。 全ては少女との再会の為に―――。 それに、「力」を手に入れれば、 湯婆婆との契約もどうにかなるかもしれない。 これは淡い期待でしかないが、 今は少女の存在と、それにすがるしかなかった。 短く答えると、ペンを迷うことなく走らせる。 書き終わるのと同時に紙とペンが再び動き出し、 湯婆婆の手に渡った。 「『ニギハヤミコハクヌシ』ね。 大層な名を持っているじゃないか。……でも」 にっと唇を動かすと、 彼の名の上に、派手な指輪をした手をかざす。 「川を失ったお前に、 こんな名はいらないよ」 流麗な字体で書かれた少年の名の一部が動き、 不思議なことに紙から剥がれて行く。 そして剥がれた字は、 迷うことなく魔女の手の中へと吸い込まれていった。 「お前の名は、今日から『ハク』だ」 湯婆婆の剥がれた字を全てその手に収め、握りしめると、 またあのにやり、とした笑みを浮かべて少年を見る。 どこか勝ち誇ったようなその笑い方に、 何か良からぬものを感じた。 しかし、その時にはもう、戻れない所まできていたのだった。 |