19.ぬくもり


 荷馬車から降り、農夫に別れを告げたシルフィスは、 呆然と目の前の門を見上げた。

 そこは紛れも無くクラインの王都の入り口。 自分がアンヘル村から初めてここにやってきた日に見たものと まったく同じものがそこにそびえていたのだ。

「帰ってきた・・・・・・」

 そこにきて、どっと疲れが襲ってきたように思える。 肩から力が抜け、脱力感が全身を包む。 そうして我が身を改めて見てみれば、 薄汚れており、髪の毛や服には先ほど乗っていた荷馬車の藁がくっついて きている。

「ぼろぼろだ・・・・・・」

 呆然とそう呟き、淡く微笑む。

「でも、まだ終わりじゃない。・・・・・・報告しないと」

 緩みかけた気を再び引き締め、 真っ直ぐな視線で門を、そしてそこから続いていく大通りの その先を見つめた。




 本当だったら、一度宿舎に戻りレオニスに報告してから 風呂に入って身を整え、彼の人の元に参じるべきだったのかもしれない。 しかし、早く伝えたかった。自分が敵国で掴んだ情報を。 それに、早く伝えるべきものであると、そう感じたから。 早いにこしたことはない。数分、数秒の遅れが、 最大の好機を逃す原因になりかねない。

 そう、急く気持ちが、真っ先に王城へと足を向かわせていた。 大通りを駆け抜け、騎士団を通り過ぎ、王城の門の前へ。 夕闇はいつしか本当の闇へと姿を変え、 空には星が瞬きはじめている。 この時間帯になると王宮の門は閉じられてしまい、自由な出入りができなく なってしまう。

 しかし、門番はシルフィスの姿を見止めると、 一瞬疑うように窺い見ていたが、 その特徴的な金の髪に、大きく瞳が見開かれた。

「おまえ・・・・・・騎士団見習いのシルフィス=カストリーズか?」

 門番は慌てたようにそう問いかける。 何故、顔をあわせたことも無いのに、自分のことを 知っているのだろうか。 訝しんで身構え口を閉ざしていると、 門番がゆっくりと歩み寄ってきた。

「おまえが来たらすぐに執務室に通せと、 殿下からお達しがきている。心配することはない。 さ、中へ」

 殿下が。
 その言葉を聞いた瞬間、 それまで保っていた何かが切れそうになった。 それでも、また気を取り直し、 無言で頷いて見せ、門番が促すように歩くその後を進んだ。

 通されたそこは、久しぶりの場所であった。 そこに訪れたのは一週間前のことだというのに、半年も 来ていなかったような、そんな気持ちにさせられる。 懐かしい、と思うには思い入れは少ないが、 帰ってきた、と思うには充分な場所であった。

「殿下をお呼びして参ります。少々お待ちを」

 門番に代わり、王宮内でここまで案内をしてくれた侍従が、 そう挨拶をして部屋を後にしたのは五分ほど前。 窓の外は闇が多い、 室内にはランプの淡い光が灯る。 シルフィスは一人部屋の中で呆然と立ち尽くしていた、 ゆっくりと窓に歩み寄り、その外を眺めた。

「ここは・・・・・・本当にクラインなんだな」

 街の門前に立った時に感じたそれよりも、 更に強い想いが若者を襲う。 窓の外に見える街並み、王宮に寄り添うように建つ騎士団の建物。 その景色すべてが見慣れたもので・・・・・・。

 そして、この部屋。皇太子の執務室。 自分が彼の人と会うときはいつもこの部屋だった。 身分が違うのだから、そう何度も会ったことがあるわけではないのだが、 彼の人と言葉を交わす機会を与えられていたのは、 常にここだったように思える。

(殿下・・・・・・)

 広い室内には執務机と椅子、 そしてソファが置かれている。ふと、 執務机に向かう彼の人の白い姿が見えたような気がして、 何度も目を瞬いた。

「殿下・・・・・・」

 そう、今度は唇に乗せて呟いたとき、 がちゃり、とドアのノブが回る音が静かな空間に響く。 それは小さな音だったかもしれない。普段であれば気に留めるような ものではない。 けれど、静かな空間と、 彼の人の幻想を見てしまうほど夢見心地でいたことが、 その微かな音に敏感に反応させ、 若者は大きく身体を波立たせた。 まるで、夢の中から呼び起こされたような、 そんな衝撃が心に襲う。

「シルフィス」

 その涼やかな声音に、胸がひとつ高鳴る。 恐る恐る振り返ると、そこには彼の人の姿が・・・・・・。

 どこか呆然とした様子。 まるで、幽霊でも見ているかのような信じられない、 といった瞳。

 シルフィスもまた、呆然としたまま立ち尽くした。 さきほど幻影で見えた人物が、確かにそこにいるのだ。 けれど、それすらも夢幻であるように思えて・・・・・・。 何かを確認するかのように、 じっとその人物を見つめた。

「本当に・・・・・・・君なのかい?」

 静かな、それでいて強い響き。ふらり、と 一歩前に踏み出す。見るからに修羅場をくぐってきたという、 ぼろぼろの姿の若者。頬には擦り傷と、 一本の赤い線が走っている。

「はい、殿下・・・・・・」

 彼の人の言葉に、ゆっくりと、けれど深く頷く。

「殿下!・・・・・・ただいま戻りま・・・・・・」

 そうして、確かに自分の目の前にいるのがこの国の皇太子・ セイリオスであるということを認識し、 自分は現実にこの場所に、彼の人の前にいるということを感じとる。

 そして跪き報告しようと思った瞬間、身体に強い力が加わる。 はっとして見上げると、そこにはセイリオスの顔があり、 真剣な眼差しでこちらを見つめていた。 ふわりとしたぬくもりに包み込まれ、跪くことができなくなってしまった 身体は、不安定な姿勢のまま、彼の人に抱きすくめられる。

「シルフィス・・・・・・よく、無事で・・・・・・」

 そう耳元に降ってくる声。 それが、微かに震えているようで、 そして、自分を抱きしめる腕の力が痛いくらいで、 シルフィスは全てを理解することができず、 固まってしまう。

「でん・・・・・・・か・・・・・・?」

 暖かな、否、熱いと言っていいほどの体温に包まれ、 軽い眩暈を感じる。

「私を・・・・・・笑ってくれてもいい、蔑んでくれてもいい。 ・・・・・・私は・・・・・・私は・・・・・・」

 それっきり、セイリオスは言葉を紡がない。 ただ、ひたすら若者の細い身体を掻き抱き、 指に蜜色の髪を絡める。

「殿下・・・・・・何を笑えとおっしゃるのですか? そして、何を蔑めと? ・・・・・・私には、その理由がわかりません。 そうする必要もありません」

 まるで、母にすがる子供のようだと思う。 自分よりも年上の、『大人』と呼ぶ種類の彼が、 どうしてこんなにも心細そうに自分を抱きしめるのであろうか。

「君は・・・・・・知らない。私のエゴを、身勝手さを。 だから・・・・・・そう言えるんだ」
「では、教えてください。あなたをそこまで追い詰める、その理由を」

 その一言に、一番驚いたのは言った本人であるシルフィスであった。 何故、そんなことが言えたのだろうか。 目の前の、こうして自分を抱きしめている人物は、 誰でもない、一国の皇太子。 そんな彼に、彼自身の深い部分をさらけ出すように誘う、そんな言葉を、 自分は投げかけてしまったのだ。

「も、申し訳ありませんっ・・・・・・今のは、お忘れください」

 恐れ多さに瞼を伏せ、深く俯く。 そしてセイリオスの腕から逃れようともがく。

「・・・・・・私は、 私の言葉が引き起こしたことに対して、 同じ言葉を吐いた口で、逆の言葉を紡いだんだ」

 しかし、シルフィスの言葉をまるで聞いていなかったかのように、 セイリオスはゆっくりと語り始めた。 そして逃れようとする若者を閉じ込めるため、 更に強く抱き寄せた。

「君に『死ね』と命じ、 舌の根も乾かぬうちに、君の安否を心配する言葉を吐いていた。 ・・・・・・ほら、笑えるだろう?・・・・・・蔑むに値するだろう?」
「でん・・・・・・か・・・・・・」

 自らを嘲るような声。 セイリオスがこんな言い方をするのかと我が耳を疑い、 シルフィスは彼を見上げた。真剣な、刺すような視線。 けれどその菫色の瞳を覗き込んでいると、胸の奥にうずくような痛みと 切なさを感じる。きっと・・・・・・その双眸に痛みを感じるから・・・・・・。

「・・・・・・・・・・・・・いいえ。私は笑いません。蔑むことも、しません。 それは、当たり前のことだから。 もし、もし私が殿下と同じ立場だったら・・・・・・きっと、 同じことをしてたと思います」

 ひとつ言葉を切り、 シルフィスはきゅっと彼の外套を掴んだ。

「私に『死ね』と命じるのは、それは皇太子として当たり前のこと。 そして、心配してくださるのは・・・・・・殿下の・・・・・・ あなた自身の、優しさ・・・・・・」

    そうか、とシルフィスは胸の中で呟く。 今、自分は、一瞬だったが皇太子ではない彼に触れたのだ。 セイリオスは、優しい。こんな部下の一人である自分に、 そしてアンヘル族である自分に、こんなにも心を割いてくれているのだ。 彼の懐の深さに、シルフィスは微かな幸せを感じ、淡く微笑む。 主に思われること、 それは騎士として最大の喜び。

 けれど、はたと思う。騎士としての主は皇太子である。 しかし、皇太子の彼は『死ね』と命じた。 けれど、セイリオス自身は『無事であるように』と願った。 ならば、この騎士としての喜びは、別のものになるのではないだろうか。

 では、何であるのか。・・・・・・それはわからない。 おぼろげで、手に掴もうとすると逃れていく、そんな感情。
 けれど、はっきりとわかる。彼の優しさが、自分の上にあるということが、 こんなにも嬉しいと想う、ということ・・・・・・。

「それを・・・・・・私は、嬉しく思います」

 率直に、そう述べると、静かに目を閉じる。

「シルフィス・・・・・・」

 そうして瞼を開くと、驚いたような顔をしたセイリオスがいる。 シルフィスは微笑みで彼の視線を受け入れた。

「・・・・・・ありがとう・・・・・・シルフィス。 君のその一言で、贖罪される・・・・・・」

 セイリオスは若者の笑みにつられうように淡く微笑み、 そしてまた抱きしめる。

「恐れ多いです」
「お帰り・・・・・・シルフィス・・・・・・」

 そう、優しく囁かれた瞬間、言いようの無い気恥ずかしさが シルフィスを襲った。本当に、それは突然のことで、 今まで深いまどろみにいて、そこから急激に現実世界に引き上げられたような、 そんな衝撃。

 頬にみるみる熱がのぼり、やがて体中が熱を孕む。そして 彼の力強い腕を意識し、また自分がどれだけ薄汚れた格好をしているのか 思い返し、離れようと身をよじる。

(こ、こんな・・・・・・こんな近くに、殿下を・・・・・・。 やはり、身支度を整えてくればよかった)

「殿下、お召し物が・・・・・・汚れます」

 こんな汚れた姿でセイリオスの前にたち、こうして抱きすくめられている ことが、恥ずかしくて仕方が無い。 ただでさえ、こんなにも強く抱きしめられているということに 気恥ずかしさを感じているというのに・・・・・・。

「構わないさ。・・・・・・私は感じたいんだよ、 君が生きている、ということを・・・・・・。その体温を、ぬくもりを・・・・・・」
「っ・・・・・・」

 思いもよらぬ甘い声音。シルフィスは思わず首をすくめ、俯く。

(ぬくもり・・・・・・)

 セイリオスが口ずさんだその言葉を胸の中で反芻する。 その一言だけが、胸の奥深くへと響き、染み込んでくる。

(ああ・・・・・・そうか・・・・・・私も・・・・・・)

 縮こまり硬くなった身体。けれど少しずつ、肌が 彼のぬくもりを拾い上げはじめていく。そうして、 それまで自分の中で張り詰めていた何かが、 ゆっくりと融解していくのがわかる。

(・・・・・・帰って、きた。私は・・・・・・生きている・・・・・・)

 シルフィスはゆっくりと瞳を閉じ、 セイリオスのぬくもりに全てを任せる。 自分は騎士見習い、相手は皇太子。 そんなことすらも忘れ、ただ、『生きている』こと『命』だけを感じて ・・・・・・。









「ぬくもり」差し替え版です(笑)
ふと、「ダリス潜入」の続きを書きたくなって書き始めたら、
これは「ぬくもり」で使えるんじゃないか、と思い、
差し替えてみました。

以前こちらにアップしていた最初の「ぬくもり」は、
お題としてではなく個別の創作として創作ルームに納めました。
ごらんになりたい方はそちらでどうぞ。

というわけで、
このお話は「ダリス潜入」の続編です。はい。


【2005/03/05】





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