11.セイリオス |
「あ」 ふと足を止めた少女に、少し進んでしまったセイリオスもそこで 歩みを止めて振り返った。少女は回廊の外、 中庭の方を見て立ち止まっている。 「シルフィス、なにかあるのかい?」 そこにはいつもと変わらない中庭があるだけで、 特別変わったものがあるわけではない。少なくとも、 今朝通りかけたときは、目を引くようなものはなかったはずだ。 少女の後ろに立ち、彼女が見つめる先をみやる。 そこにはやはり、いつもと変わらぬ庭の、緑の風景が広がるだけで、 変わったものは見当たらない。 「あの、あそこにシオン様が」 そうして指をさされ、そちらを見やればなるほど、 よく見知った人物の姿がそこにはあった。 「まったく、また仕事をさぼったな」 呆れたように息を吐き出すセイリオスに、シルフィスは苦笑を 浮かべる。 (まあ・・・・・私も似たようなものだが) シオンを責める言葉を紡ぎながらも、 ちらりと少女を振り返り、自嘲の笑みを口許に浮かべた。 偶然、王宮で見かけた少女、シルフィス=カストリーズ。 辺境の村からやってきたアンヘル族の若者。 彼女が王都に来たのは一年前。アンヘル族との融和政策の一端として、 呼び寄せた騎士見習いの留学生であった。 あれから一年。若者は見習いを卒業しこの春から一騎士として王宮に勤めている。そして、未分化だった性は女性へと変化を遂げていた。 自分と対を成す、女性へ・・・・・・。 隣りに立ち、ふと触れる肩先。 その柔らかさは未分化の時よりも増している。 ふとした拍子に感じる、若者が女性となったというその事実。 そして、その性を選んだのが、自分のためだということを・・・・・・。 想いを交わしあったのはつい半年前。だが昨日のことのように 鮮明に覚えている。彼女が女性になったことを告げにきたあの日を。 それから二人は僅かに空いている時間を使って会っていた。 今日は特別約束を交わしていたわけではなかったが、 偶然出くわし、こうして言葉を交わしながら二人で歩いていたのだ。 「しかし・・・・・・シオンがどうして気になるんだい?」 確かに、長身に黒いローブを身に纏ったその姿はよく目立つ。 しかし、自分との会話の途中に、外にいる人物へと気が向くとは 一体どういうことなのか。 心の奥底、頭をもたげた黒い感情を抑えながらも、 少しだけ温度の下がった眼差しでシルフィスを見つめた。 「いえ、ちょうど横切っていくのが見えたもので・・・・・・あ」 けれどセイリオスの心中に気付いていない様子で、 シルフィスは普通にそう答え、また中庭を見る。 と、また何かを見つけたのか、小さな声を上げた。 セイリオスはそれにつられ、彼女の視線の先を追う。そこには 相変わらずシオンがいた。が、シオンだけではなかったのだ。 「!」 セイリオスは思わず目を見開く。 中庭にいるシオンは女官と一緒だった。そしてこともあろうか、 二人は・・・・・・。 「わっ!」 ばさり、と音がして白い何かが視界を覆い隠した。シルフィスは驚きの声を あげ身じろぎするが、押さえ込まれるようにして引き寄せられる。 「で、殿下・・・・・・もがっ」 声を上げると口まで塞がれてしまう。そのままの状態でどうすることも できず、仕方なく大人しくしていると、 やっと口と目元を覆う彼の手が緩められた。 「ぷは・・・・・・ど、どうしたんですか、殿下」 「いや、すまない」 苦しそうに息を吐き出した少女に謝罪の言葉を述べ、 身体を僅かに離す。 女性になったばかりのシルフィスにしてみれば刺激が強いかも しれないと思い、咄嗟に目を覆い彼らが見えない位置に移動させたものの、 自分も、彼女に対してシオンがしていたのと 同じようなことをしているわけで・・・・・・。 「・・・・・・シルフィス、一つ聞いてもいいかい?」 僅かの逡巡の後、切り出すようにセイリオスが口を開いた。 その少しの間が、なにか重要な相談ごとだと思い込んだシルフィスは、 「はい」と真摯な眼差しで彼を見上げる。 「君は、あのシオンの行為をどう思う?」 皇太子の口から放たれた言葉に、シルフィスは思わずきょとんとした 表情になる。もっと重大な、悩み事のようなものを打ち明けられると 思っていたため、一瞬、彼の質問がなんであるのか理解 することができなかったのだ。 「え・・・・・と・・・・・・、え?」 止まってしまった思考回路を必死に動かし、 混乱する中、セイリオスの言葉の意味を測ろうと、 眉間に皺を刻んだり、瞼を伏せたり、思案を繰り返す。 「いや、やはり、いい」 少女の悩む姿を見守っていたセイリオスだが、 だんだんと居たたまれない気持ちになり、そう言ってこの話題を 切った。 「ま、待ってください!・・・・・・その・・・・・・おかしなことでは、 無いと思います」 しかし、シルフィスはやっとのことで答えを搾り出すと、 そのまま歩き出そうとするセイリオスの外套を掴み引きとめ、 そう答える。 セイリオスは思いもよらない少女の答えに目を見開き、 見上げる少女の瞳を覗き込んだ。 「その・・・・・・確かに、ああした人目がつく場所でするのは、問題 かと思いますが・・・・・・、 あの行為だけで言えば、おかしなことではないと思います」 そして、恥ずかしそうに頬を染め瞼を伏せ、 掴んでいたセイリオスの外套を気まずそうにするりと離す。 「・・・・・・・・・そう」 低い声音。それは何かを抑えているような響き。 それを、自分の答えに対する不快からだと捉えたシルフィスは、 怯えたような表情で彼を見上げた。 しかし・・・・・・そこにあったのは不快・嫌悪といった種類の 冷たい表情ではなく、涼やかな微笑であった。 「っ!」 その穏やかな菫色の双眸と目があった瞬間、 身体が強い力で引き寄せられる。 声を上げる暇も無く、シルフィスの細い身体はセイリオスの 腕の中へと閉じ込められた。 「あ、あの、殿下」 がっしりとした腕と胸板とを身体で感じ、 急激に襲い来る羞恥心にシルフィスは頬を朱色に染める。 彼の胸に顔を埋め、 彼を見上げることもできずそのままの姿勢で固まってしまった。 「で、殿下は・・・・・・・このような場所で、なさりませんよね?」 ただ力強く抱きしめているままのセイリオスに、 なんとか現状をどうにかしようとシルフィスはそう問いかける。 「さあ、どうだろうね?」 悪戯っぽく答え顔を寄せると、少女の首筋に顔を埋めた。 「っ・・・・・・殿下、お戯れをっ!」 思っても見ない返答と、首筋から走るくすぐったさに、 シルフィスはぎゅっと目を閉じて彼の腕を掴み、 引き剥がそうと必死の抵抗をみせる。 「君は、私という男を買いかぶりすぎだよ。 私は、そこらにいる普通の男となんら変わらない。 嫉妬もするし、好きな人を好きなときに、好きなだけ愛したい」 しかし、抵抗すればするほど、彼の腕の戒めは強くなっていく。 やがて指先が金の髪を掬い、愛しむような動きとなる。 「それが・・・・・・私という男なのだよ」 一房、金の輝きを指に絡め、そっと口付けを落とす。 まるで髪にまで神経が回ったかのように、 そこから甘い痺れが走り、 シルフィスは思わず肩を竦めた。 「そんな私を、君は嫌いかい?」 真摯な、それでいて切ない瞳。その視線に胸を掴まれた感覚に襲われ、 けれど逸らすこともできずに泣きそうな顔で彼を見つめる。 それでも、彼は甘く微笑むだけで、 少女の口から答えが聞けるのを待っているようであった。 彼の視線に当てられ、背中に回された力強い腕をありありと感じ、 体温が急激に上がっていくのがわかる。そうしてシルフィスは 噛み締めた唇を軽く解き、 もう一度きつく締めてから改めて口を開いた。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・いいえ。 でも、国民がそんな殿下を見たら・・・・・・」 「君の前でだけだよ」 弱々しい声音での回答に、 さらりとそう告げセイリオスは満足そうに微笑む。 頬にかかる金の髪を撫でるようにして指に絡め、 軽く上を向かせ顔を背けないように固定する。 「皇太子ではない『私』をさらけ出せるのは、君だけだ」 触れるか触れないかの位置での口付けに、 ぎゅっと、瞳を閉じ身体を強張らせた少女を愛しそうに見つめ、 その柔らかな瞼にも口付けを降らせる。 「・・・・・・手に、負えません」 彼の言葉に喜びも感じる。しかし、少しだけ呆れたように吐息を漏らし、 ゆっくりと瞳を開き彼を見上げた。 菫色の吸い込まれそうな双眸が、 甘く細められている。その瞳が、とても好きで・・・・・・。 「でも、君がどうにかしてくれないとね。この、想いを・・・・・・」 艶やかな微笑み。いつもは優しく、涼やかな笑みを浮かべるのに、 この人はこんな笑顔を浮かべることもできるのか。 今の彼の微笑を見つめていると、 どこか落ち着かない。胸の奥がざわざわと波立ち、 恥ずかしいのにもっと触れて欲しい、もっと彼の声を言葉を 聞きたいと思ってしまう。 「・・・・・・君は、ここでは問題があると言ったね。どうだい? 私の部屋に、来るかい」 それは甘い誘い。その手を取れば、もう、きっと戻れない。 そう、わかっている。けれど、きっと断れない。 断ったとしても、きっと言いくるめられてしまう。 大人なのに、自分よりも年上なのに、時々とんでもなく我がままで、 甘えん坊で。 普段は皇太子として、怜悧で毅然とした態度をとっている。王族の人間として、 皇太子として、これ以上無い威厳を持つ人物であるのに。 大人の思考を持った子供、というべきだろうか。 この目の前の青年は、 自分のわがままを押し通すための力と知恵とを持っている。それに・・・・・・。 (ああ、やっぱり手におえない) そんなセイリオスを、自分にだけ見せてくれる彼自身を、 自分が思う以上に好きになってしまっているから、 愛してしまっているから、だから・・・・・・。 (私には、断れない) シルフィスは一度俯き、決心するようにぎゅっとセイリオスの外套を 掴むと、 こくり、と頷いて見せた。 「夜、お伺いします・・・・・・」 「夜まで待てない」 「だめですっ・・・けじめ、です」 それに殿下にはお仕事が残っているでしょう?、と言うと、 ふとセイリオスの腕が緩む。それを見計らい、 シルフィスはするりと彼の腕から離れた。 「その・・・・・・夜になったら、帰れと仰るまで、御一緒しますから」 離れて見上げる彼の顔はどこか不機嫌そうで、 シルフィスは咄嗟にそう告げる。 「・・・・・・ならば、朝までいてくれるのだね?約束だよ」 満面の笑み。この涼やかな微笑みに、シルフィスはしまった、と息を 飲んだ。彼は自分からその言葉を引き出すために、 わざとふて腐れて見せたのだ。 けれど、時はすでに遅く、もう破ることのできない約束を交わしてしまった。 (ああ、本当に、このお方は・・・・・・) きっと一生敵わない。 それは、このセイリオスという青年を愛するようになった時から、 決まっていたことなのかもしれない。 |