7.嫉妬


 「君は、嫉妬はしないのかい?」

 そう問いかけられて、シルフィスは思わず夫を振り返った。

 深夜の私室。窓から月明かりが差し込み、 室内は淡いランプの明かりが揺らめく。暗いようでいて 明るいその空間で、二人はじっと見つめ合った。

「いきなり、何を仰るのですか?」

 きょとんとした表情で見返すシルフィスとは裏腹に、 セイリオスの表情は憮然としており、あからさまに不機嫌な色があった。
 なにが夫をこんな風に不機嫌にさせているのか。 まったく思い当たる節が無いシルフィスは首をかしげるばかり。 しかし、そんなシルフィスの態度が、ますますセイリオスを 苛立たせた。

「・・・・・・君は純粋で、真っ直ぐで、疑うということを知らない。 それは美徳であるし、私は好きだ。君のそういう部分に惹かれた。 ・・・・・・けれど、それゆえに、君は私を悩ませる。 君は、本当に私を愛しているのか」

 シルフィスは思わず目を見開き、ますますわけが分からない、 と言った表情でセイリオスを見つめる。

「それと、嫉妬と、どんな関係があるのですか?」

 わけの分からないことで責められるなど理不尽極まりない。 今度はシルフィスの方がむっとしたものとなる。

「わからない?・・・・・・そうやって、恋愛に疎いところもそうだ」
「殿下。仰っている意味がよくわかりません」

 セイリオスの口調に皮肉のようなものが混ざった時、 シルフィスの声音にも鋭く、冷たいものが含まれた。

「私のことを、世間知らずの田舎者だと、そう仰りたいのですか? 恋愛ごとに疎いのは自覚しています。 けれど、それはアンヘルだったから。 男でも、女でもなかったから。男女のあり方なんて、わからなかった。 ですが、それは私自身ではどうにもならないことではありませんか。 生まれや育ちなど、自分ではどうにもならないことで責められるなんて、 理不尽です」

 射抜くような新緑の双眸。けれどだんだんとそれが弱まり、 やがて視線が逸らされる。伏せられた瞼、弱々しくなる語尾。 そこにきて、セイリオスははっとし、立ち上がりかける。 しかしすぐにソファへと腰を沈めると、 うな垂れるシルフィスから苦々しげに視線を外した。

「そうじゃない」

 そしてそれだけ短く告げ、口をつぐむ。そのままお互い口を閉ざし、 気まずい雰囲気が包み込んだ。

「・・・・・・殿下は、私のどこがお気に召さないのですか?」

 悲しい問いかけ。それを口にした瞬間、思わず泣きそうになり シルフィスは軽く唇を噛んだ。けれどこみ上げてくるものを止める ことができず、短い嗚咽の後、部屋を飛び出した。

「っ!!」

 セイリオスは止めようと腰を浮かしかけ、 そのままソファに腰を埋める。 そして苦虫を噛み潰したような顔をすると、何かを押さえ込むように 瞼を強く閉じた。







   シルフィスは、私室から飛び出し、王宮の回廊をとぼとぼと 歩いていた。
 いつも、穏やかな眼差しを向けてくれる夫が、 まさかあんなにも冷ややかな物言いをするとは。 しかもなんの前触れもなく、突然。

 今日は、恒例の夜会があり、それに参加した時はセイリオスは いつもと変わらなかったと思う。彼が変貌を遂げたのは、 夜会が終わり、部屋に引き上げた、まさにその時。 そう考えれば、夜会に何かがあると考えることができる。 けれど、それはいつもの通りの夜会であって、 なんら変わったことはなかったと思う。 以前も同じような夜会に参加したことはあったが、 セイリオスがあそこまで変わることは無かった。

(・・・・・・私に、飽きてしまったのだろうか・・・・・・)

 いつまでも田舎っぽく、世間知らずの自分。 華やかな世界と自分のギャップを感じなかったわけではない。 きっと、セイリオスもそれを感じ、鬱陶しく感じたのかもしれない。

(きっと、田舎から来た、ものめずらしさで私のことを・・・・・・)

 そこまで考え、強く頭を横に振る。

(そんなこと、ない。殿下は、そんな方ではない)

 もし、ものめずらしさだけで近づいたのなら、 結婚までするわけがない。身分のない自分を、 皇太子妃の地位にまで引き上げてくれた、セイリオス。 きっと、多大な苦労があったであろう。 それを考えれば、そして、セイリオスの熱意に触れれば、 自分が思いついたことがどれだけ愚かなことであるのか気付かされる。

(では・・・なにが原因なのだろうか・・・・・・)

 シルフィスは足を止め、深く考え込む。 けれど、原因があると考えられる夜会を一通り思い返してみても、 セイリオスを怒らせるようなことは何一つ無かったように思える。 いつも通りの夜会。確かに、自分のことで当てこすりを言ってくる 貴族がいないわけではないが、それを温和に回避する術を セイリオスは心得ている。だから、それが原因とも思えない。

(うーん・・・・・・なんだろう・・・・・・・・・)

 月明かりに照らされ、一人佇む。そして首を捻り懸命に考えてみるが、 やはり、答えは見つからない。

「よっ、妃殿下!こんなとこで一人でなにしてんですか?」
「わっ!!」

 突然、陽気な声が頭上から投げかけられ、 シルフィスは驚きの声をあげた。 思案に夢中になり、思いっきり無防備状態であったため、それは 本当に不意打ちの声。

「シ、シオンさまっ」

 振り返れば、そこに立っていたのは 長身の魔導師。 王宮筆頭魔導師のシオン=カイナスであった。

「王宮の中とは言え、一人では危険ですよ」

 丁寧な言葉遣いとはうらはらのおどけた口調。 いつもと変わらないシオンに、 シルフィスは苦笑を浮かべる。

「ありがとうございます」

 礼を述べると、シオンはしばらくの間、 観察するようにシルフィスを眺めてから、 ゆっくりと歩み寄った。

「なにか、あったのか?」

 以前の、自分が騎士見習いであった時と同じ口調になり、 真剣な眼差しで問いかける。シルフィスはそんなシオンに気圧され、 口をつぐんで彼の視線から逃れるように瞼を伏せた。

「・・・・・・・・・いえ」

 少しの間逡巡し、それだけ答える。

「嘘つくなよ。お前は嘘をつくのが下手だ。 ・・・・・・言ってみろよ。・・・・・・・・・もしかして、セイルがらみか?」

 ずばりと言い当てられ 弾かれたように頭を上げ、視線がぶつかると気まずそうに再び逸らした。

「やっぱそうか。 お前さんがこんな時間に一人でいるから、そうじゃないかと思ったぜ」

 シオンの含みのある一言に、シルフィスは頬を染め、 そして複雑な表情で俯く。

「話してみろよ。ま、セイルに関しちゃあ、 俺の方が付き合いが長い。少しは力になれるかもしれないぜ?」

 ああ、そうか、とシルフィスは思う。シオンは自分を気遣ってくれている。 だから、口調が、昔のものに変わったのだ。いつもの、 皇太子妃に対するものではなく、 気軽に話ができる、その話方で・・・・・・。

「嫉妬をしないのか、と言われました」

 シルフィスはシオンの優しさにすがり、 そう、切り出した。

「そして、私の純粋さ、真っ直ぐさが、疑わしいと。 私が、殿下を愛しているのか、とも言われました」

 そう言われた本人自身が理解できず、 言葉は途切れ途切れのものとなる。それでもシオンは真剣な表情で、 その一言一言を拾い上げていた。

「夜会の前は、いつもと同じでした。けれど、夜会が 終わって、部屋に引き上げた途端、気分を害されたようで・・・・・・。 ですから、多分、夜会で私が何かやってしまったんだと思うんです。 ・・・・・・けれど、何も思い至らなくて・・・・・・」
「夜会、ねえ・・・・・・」

 シオンは軽く頬を掻き、先ほどまで行なわれていた夜会を 思い返す。
 今夜は貴族達を招いてのいつもの夜会であった。少し前までであったら、 自分の娘を、姪を、皇太子に引き合わそうとやっきになる者たちには、 恰好の舞台であったが、 皇太子妃を迎えてからは、比較的穏やかな雰囲気で包まれるている。

 確かに、シルフィスが言う通り、 なんら変わったことは起こらなかったと思われる。が、 ふとひっかかりを覚え、シオンは俯き加減で考え込み始めた。

「シオン様?」

 恐る恐る問いかけてくるシルフィスに、シオンは何かを思い出したのか、 ふいに頭を上げる。

「あー・・・・・・、シルフィス。 クレイツ卿を覚えているか?それと、そのご令嬢」

 そう切り出され、シルフィスは首を捻る。

「ああ・・・・・・確か、今日、殿下とダンスを踊った、あの方ですね」
「そう。原因はそれだ」

 シオンにそう言われても、 ピンとこない表情でシルフィスは首を傾げた。

「ですが、殿下が他家の令嬢とダンスを踊るのはいつものことですし。 それが、夜会の礼儀でもあると、そう教えられましたが」

 他家との友好関係を保つために、 夜会では王族と貴族の令嬢・子息とのダンスを躍ることになっている。 それは儀式の一端のようなものであって、 昔から伝わる、王宮のルールの一つであった。
 今まではセイリオスの妹姫であるディアーナがその役割を 引き受けていたが、 ダリスに輿入れしてからは唯一の王族であるセイリオスが その役目を引き継いでいた。

 けれど、それが一体、どう関係あるというのだろうか。 他の女性とダンスを踊ったことに対して嫉妬しなかったことを 怒っているというのならば、 もう、随分前にこうした事態になっていたはずだ。 それに、夜会でのこのルールを教えてくれたのはセイリオス自身であり、 その際、「これは形式的なものでしかないから」と言ったのも彼である。その一言は、嫉妬心を抑えるように投げかけられた言葉だったのでは なかったのか。

「確かにそうなんだけどな。 ・・・・・・今回は相手がな」
「相手?」
「シルフィスは知っているだろう? クレイツ卿の娘は、セイルの妃候補だった、ってこと」
「・・・・・・はい」
「そんで、セイルにべた惚れだった、ってこともさ」
「・・・・・・・・・・・・」

 俯き黙り込んでしまったシルフィスはちらりと横目で見て、 シオンはにんまりと笑って見せた。

「少しは、妬いてるんだろ?」

 そう問いかけられ、シルフィスは頭をあげ、 やんわりと微笑む。

「少しだけ」

 頬を染め、複雑そうに微笑んだまま短く答える。 シオンはやっぱりな、と言いながらも、 微笑むシルフィスの顔を不思議そうに見つめた。

「でも・・・・・・。それでも、それは夜会のルールの一つでしかない。 それに、嫉妬心を抱くとしたら、今までだって。 例え、ルールだとしても、胸の痛みが無いわけではないから・・・・・・」
「セイルだって、お前さんの気持ちは分かってるだろうさ。 でも・・・・・・今回ばかりはそうはいかなかったんだろうな」
「え?」

 シオンの言葉に、シルフィスはきょとんとして彼を見上げる。

「他の令嬢ならともかく、クレイツ卿の娘は元皇太子妃候補で、 セイルに惚れてる。そんな相手とダンスを踊るんだ、 セイルのヤツ、きっとお前さんのことを気にしていただろうな」

 回廊を取り囲む円柱に身体を預け、 目の前の少女を窺うように見る。

「それなのに、お前さんは、そうやって微笑んでた。 何事もないように。そりゃあ、男としちゃあ安心するさ。 でもな、逆に不安にも思う。『そんな女と踊っても、なんとも思わないのか』 ってね」

 「あ」とシルフィスが小さく声を上げ、 今にも泣きそうな必死な眼差しで長身の魔導師を凝視した。

「『嫉妬』ってのは、裏返せば『愛情』の一種だ。 『嫉妬』を感じることで、『愛情』を感じることができる。 人間ってのは複雑なもんだ」

 そう言って肩をすくめて見せる。シルフィスは俯き、ぎゅっと 自分のドレスを握り締めた。

「嫉妬が・・・・・・ないわけではないんです。 嫉妬がどういうものか、 私はセイルに出会い、それを知りました。 わかっているんです。・・・・・・・・・でも、でも・・・・・・」
「ストップ」

 言葉を遮られ、そのまま口篭ってしまい、 ドレスを握り締める手に、更に力を込める。

「それはセイルに言ってやれ。俺に言う言葉じゃない」

 頭をゆるり、と上げると、 シオンはニッと口許に笑みを浮かべていた。シルフィスは申し訳なさそうに 微笑むと、深々と頭を下げ踵を返した。







 軽く、聞こえるか聞こえないかほどのノックの後、 静かに扉を開ける。後ろ手で閉めると、そろり、と 部屋の中まで歩む。

 彼の人はこちらに背を向け、ソファに腰掛けて微動だにしない。 きっと自分の気配に気付いているはずなのに、 振り向きもしない彼に、胸の奥がずきり、と痛む。

 月明かりだけの室内。青白い光が、冷たく肌を刺す。 シルフィスは彼と間を空けて立ち尽くしていたが、 再びゆっくりとした足取りで歩み寄った。

「でん・・・・・・セイル」

 声をかける。掠れて上手く呼べなかったかもしれない。 けれど、わずかに彼は反応を見せる。しかし、やはり振り向かない。

「・・・・・・私は、不器用、ですから。セイルの言うとおり、 恋愛ごとにも疎くて・・・・・・それがセイルを苛立たせてしまうことも、 何度もあったと思います。・・・・・・でも・・・・・」

 何から切り出せばいいのか分からないまま言葉を紡ぎ、 そして口を一度閉ざす。

「嫉妬しないわけではないのです。・・・・・・私は、 セイルと出会ってから、その感情を知りました。 知ってから、私は、毎日嫉妬している。・・・・・・でも、敵わないから。 その相手にはどうしても敵わないから、だから・・・・・・」

 震える語尾。そこにきて、やっとセイリオスがわずかに 振り返った。けれど、まだ視線はこちらに向かない。 ただ、横顔が見えるのみ。

 思わず泣きそうになり、それを堪えて微笑んで見せる。 泣いているような、笑っているような、 自分でもよくわからない気持ちのまま、言葉を紡いだ。

「私は、このクラインという国とそこに住まう民すべてに嫉妬しています。 あなたの心を捕えて放さない、彼らに。 でも、敵わないから。一生、抱く嫉妬心だから。 だから、小さな嫉妬にかかずらってはいられないのです。 ・・・・・・私は、セイルを誰よりも愛しています。この気持ちに、 偽りはありません。だから・・・・・・セイル・・・・・・」

 こみ上げる想いに耐え切れず、 涙が溢れ出るのを堪えるため深く項垂れる。 そして、許して欲しい、そう続けようとした時、 衣擦れの音が耳を打った。

 その音が彼が動いた音だと気付き慌てて頭を上げた瞬間、 ふわり、と白いものが視界に広がる。

「せい・・・・・・る・・・・・・っ」

 一瞬何が起こったのかわからないまま、目を白黒させていたシルフィスで あったが、我が身を強く戒めるその力強さ、ぬくもりに、 自分が彼の腕の中にいるのだということに気付く。

「許しを請うべきは、君じゃない。私のほうだ」

 優しい声音が、耳元に降る。そのあまりにも甘い心地よさに、 シルフィスは胸を掻き乱され、ぎゅっと目をつぶった。

「・・・・・・子供すぎたね、私は。 君のほうが、よっぽど大人だ」
「い、いいえ・・・・・・私の方が、子供です。 本当は、私を一番に見ていて欲しいと、 何事よりも自分を一番に考えて欲しい、そう思ってしまう。 そんな欲張りでわがままな子供なんです。 あなたは皇太子。そんなこと、許されないのに、 それを願ってしまう・・・・・・皇太子妃、失格ですね」
「そんなことはないよ」

 くす、と涼やかな笑い声が耳の奥に滑り込む。 そのくすぐったさに、シルフィスは肩をすくめた。

「確かに、皇太子の私は、民を、国を一番に考えている。 ・・・・・・でもね、シルフィス。私は、皇太子であるかもしれないが 、一人の男でもあるんだ。 君を愛する、ただの、ね。君も、知っているだろう?」

 我が身を抱きしめる腕に力が篭る。夫の胸に顔を寄せ、 そのぬくもりと鼓動に、急に恥ずかしさがこみ上げ、頬を染める。

「・・・・・・はい・・・・・・」

 頷く少女に、セイリオスは少しだけ身体を放し、 その赤らんだ頬をそっと包み込んだ。

「とても・・・・・・心の狭い、男だよ。私は。君の言動に一喜一憂して、 こうして君に当たってしまうこともある。 ・・・・・・こんな私でも、君は愛していると、そう言っていくれるかい?」

 不安そうな双眸。揺れる菫色。その吸い込まれそうなくらい 澄んだ色に、シルフィスはしばらくの間見惚れた。いつも自信に満ち溢れ、 迷うことを知らない彼の瞳。けれど、時折みせるこの不安に揺れる、 まるで迷子になった子供のようになるこの瞳が、 シルフィスはとても好きだった。それを見せてくれるのは自分の前だけだと 思うから。自分の前でだけ、彼は彼自身をさらけ出してくれると、 たとえ自惚れだとしても、そう思えるから。

「セイル・・・・・・愛してます。誰よりも・・・・・・」

 そうして、自分から口付ける。軽く触れるだけの、優しい口付け。 それで済まそうと身体を離すが、ぐいっと再び引き寄せられた。

「せいっ・・・・・・」

 驚きの声をあげる唇に、彼のそれが強く重ねられ声はくぐもる。 貪るような口付けが何度も降る。角度を変え、奥を目指す動きに眩暈を 感じながらも、シルフィスは自らも身体を寄せた。

(ああ・・・・・・やっぱり、独り占め、したい。皇太子の、殿下も・・・・・・)

 愛しいと思う気持ちは募り、更なる望みを生み出す。
 そして深い愛情は、嫉妬にも連結して・・・・・・・・・。

(私は・・・・・・やっぱり、ずっとこの嫉妬心を抱いていくのかもしれない)

 決して敵うことのない嫉妬。
 けれど諦めることもできなくて・・・・・・。

(やっぱり、私は、子供だ・・・・・・)

 愛しい人のぬくもりを感じながら、 彼が自分だけのものになるこの瞬間を噛み締めるよう、 彼の腕に全てを任せた。









と、いうわけで、シルフィスの嫉妬です。
殿下の嫉妬も好きなんですけど、
シルフィスが嫉妬するお話も好きですー。
今回はスケールをでっかく、
シルフィスの嫉妬の相手を国と民にしてみました(え?)


【2005/05/29】





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