6.怪我 |
秋の夜。冬への足音が聞こえそうなほど、凛と張り詰めた 冷たい、澄んだ空気が外を包み込む。 そんな肌寒さを遠ざけるため、薄暗い室内で焚かれた暖炉の火が小さく爆ぜる。深い眠りから浮上しかけていた少女は、 その音で目を覚ました。 外の寒さなど感じさせない、室内の暖かさ。それは暖炉のお陰であろう。 しかし、こんなにもあたたかいと感じるのはそれだけではない。 それは、今まではいなかった、自分の隣りで眠る人がいるから・・・・・・。 シルフィスは布団の中でもぞり、と寝返りをうち、 隣りに眠る自分の夫を見上げた。普段見せることの無い、 まるで少年のような寝顔。 先ほどの激しい営みを感じさせないその穏やかさに、 何故か頬が熱くなるのを感じる。 まさか自分が、この人の伴侶になるとは、考えても見なかった。 アンヘル族の自分が、身分すら持たない、この、自分が、 一国の皇太子である、彼の元に嫁ぐとは・・・・・・。 もしかしたら、自分ではない誰かが、こうして彼の隣りで 眠っていたかもしれない、彼に、愛されていたかもしれない。 それなのに・・・・・・ そう思った瞬間、胸の奥でちりり、と重い痛みを感じ、 心細さが支配し始める。 彼の隣りに、自分ではない誰かが居る。 彼の手が、自分ではない誰かの肌に触れる。 それが例え想像の中だけのものだとしても、 言い知れぬ黒い感情が、胸の中に広がりやがて空虚なものが 支配していく。 (・・・・・・こんなにも、この方を好きになるなんて) シルフィスは、我が身のうちに湧き起こった説明しがたい感情に 戸惑いながらも、 彼に対する想いの強さを自覚し、 彼との間に隙間があることさえ耐えられないとばかりに、 自分から彼にしがみ付いた。 と、裸の腹部に違和感を感じる。それが一体なんなのか、 シルフィスは恐る恐る手を伸ばし、それに触れた。 今まで、なんども身体を合わせてはいたが、 彼に翻弄されるばかりで、この違和感に気付くことは無かった。 それはちょうど、彼の腹部。少女の指先はそこでぴたりと止まる。 不自然な皮膚の盛り上がりが線上に走る。 暖炉により暖められた室内、そして先ほどの行為と彼とのぬくもりで 孕んだ熱を逃がすために、少しだけはだけさせた上掛け。その隙間から 覗き込むようにしてして身体を離し、そこへと目を向けた。 と、彼の腹部の真ん中のあたりに、 ざっくりと刻まれた傷跡が飛び込んできた。 「これ・・・・・・は・・・・・・」 はっと息を呑み、その傷跡に見入る。 傷自体は治っているが、皮膚にくっきりと刻み込まれており、 今見ても痛々しい。 (あの時の・・・・・・) 忘れもしない、あれは半年前のこと。 シルフィスの名を語った偽手紙によって呼び出されたセイリオスが、 彼の命を狙う者によって刺されたあの、暗殺未遂事件。 その時に刺された、あの傷である。 今思い返しても、目の前で血にまみれ、顔から生気がなくなっていく 彼の姿は、心臓が掴まれたような感覚に襲われ、 背筋が冷たくなる。 (殿下・・・・・・) 一歩間違えれば、彼は死んでいた。 シルフィスが手を下したわけではないが、 似たようなものだ。自分の名前によって彼は誘い出され、 刺されてしまったのだから・・・・・・。 (殿下・・・・・・) あの時の気持ちが蘇り、 それと同時に、彼が生きているということの喜びがこみ上げ、 思わず泣きそうになってしまう。 「くすぐったいよ、シルフィス」 涼やかな声にシルフィスは弾かれたように顔を上げた。 柔らかな菫色の瞳が、温かくそして甘く、少女を見つめている。 「でん・・・・・・か・・・・・・」 「どうしたんだい、そんな泣きそうな顔をして」 まるで子供をあやすような声音で、 瞳の縁にこぼれかかった涙を指先で拭った。 「いえ・・・・・・」 はっとして、優しい指先から逃げるように顔を背ける。 それとともに、ゆっくりと触れていた部分から手をひいた。 セイリオスはその気配を感じ取り、 ゆっくりと視線を下ろす。そしてそこに あったものに気付き、 小さく微笑むと自らそこに触れた。 「・・・・・・懐かしいね」 そう紡がれた言葉に、少女は微かに萎縮し、 瞼を伏せる。 「まだ、気にしているのかい?」 「・・・・・・・・・・・」 セイリオスの問いかけに答えることなく、 少女は俯いたまま我が身を抱くようにして僅かに離れた。 セイリオスは少女の身体が夜気に晒されていることに気付き、 そっと上掛けを手繰り寄せ、 白い裸体を覆い隠す。そしてそのまま、 その身体を引き寄せ、力強く抱きしめた。 「あ・・・・・・・・・」 夫の体温を強く感じ、我が身が冷えていたことに気付く。 僅かなぬくもりが、やがて身体の芯まで伝わる大きな熱となっていく。 「殿下・・・・・・わたしは・・・・・・」 「この傷のおかげで、君を手に入れることができた。まさに、 怪我の功名だね」 少女が何か言葉を発しようとした瞬間、 青年がそれを遮るようにして、おどけた口調で耳元で囁いた。 「殿下・・・・・・」 微笑む青年とは逆に、少女は悲壮な表情で彼を見上げる。 「君は、この傷に負い目を感じて、私の妻になることを選んだのかい?」 思いも寄らぬ一言に、少女は深緑色の双眸を見開いた。 真剣な眼差しが、自分の瞳を刺すように覗き込んでいる。 「そんなっ!!・・・・・・そんな、そのような気持ちなど、私はっ」 「では何故?」 否定の言葉を紡ぐ少女に、畳み掛けるように問いかけの言葉を続ける。 「っ・・・・・・・・・私は・・・・・・殿下を・・・・・・セイル、を、 好きに、なったから」 かああっと、頬を、そして耳までも真っ赤に染めて、 少女は瞼を伏せて、長い睫毛を振るわせた。 「そう・・・・・・・・・」 短い、けれどどこか満足したような響きの声が、 そっと少女に降る。青年の長い指が、耳元の髪を掬いあげ、 むき出しの肩を滑るように撫でる。 「ならば、君がこの傷跡を気にする必要はどこにもない。 この傷は・・・・・・ただのきっかけなのだから」 と、青年の腕にふと力がこもったように感じる。 そう思った瞬間、指の隙間に彼のそれが滑り込み、 あっという間に我が身は彼の腕の中からベッドの上へと 組しかれてしまう。 「あっ・・・・・・・・!」 薄暗い室内で、彼の広い胸板が浮かび上がり、 蒼みがかったプラチナの髪が、 顔や胸の上に降り注ぎ、波打つ。 「シルフィス・・・・・・愛している・・・・・・ 君と出会えて・・・・・・私は、幸せだよ・・・・・・」 「でん・・・・・・・・・」 少女が言葉を発する前に、その唇を塞ぐ。 ゆっくりと・・・・・・深く、そして、激しく・・・・・・。 (殿下・・・・・・殿下・・・・・・・・・) 青年が、身体を寄せてくる。 あの傷跡が、再び、肌に感じられる。少女は青年の身体を深いところで 受け止めるように、青年の背中に腕を回した。 あの事件がなければ、自分はセイリオスと結婚することはなかった。 彼への、こんなにも強い想いに気付くことも無く、 こうして、身体を合わす事も・・・・・・。 (あの事件は・・・・・・きっかけ。わたしと、 殿下が、こうなるための・・・・・・) 夫の唇と指の感触に、少女はゆっくりと意識を手放した。 肌を掠る、彼の傷跡に愛しさを感じながら・・・・・・。 |