-いよ、天まで届け-


 梅雨が明けて、うんざりするような雨が降らなくなったことはシルディアの民全員の喜びであった。
 溜まった洗濯物を干す者、湿気にやられてしまった家を修復する者、元気に駆け回るようになった獣人の子供たちも多く見られる。獣人の多くは毛皮が水に濡れるのを快く思っておらず、梅雨という名の牢獄が去ることは人間たちよりも嬉しいだろう。
 歌う勇者亭の二階に割り当てられている自室でハーブティーを飲んでいたブランネージュは、何気なく外を見やってカップを持ったまま目を瞬かせた。
 梅雨明けの街を歩きまわる人々の中に、見慣れた人物がいたのだ。
「カイネル兄さん……?」
 兄であるカイネルは街に出歩くということは滅多にしない。敵国ルーンガイストの第一王子として、シルディア内を容易に歩く事はできないはずだ。それでも何かの用事があったのだろうから、現実に外へ出ている。
 ブランネージュはハーブティーがまだ飲みかけであることも忘れて、部屋を飛び出した。

「待って、兄さん!」
 カイネルの名を呼ばなかったのも街中故の配慮だ。要らぬ混乱を招きたくは無い。
「アイラか。どうした」
「どうしたって……それはこっちの台詞よ。どうしたの、街に出るなんて珍しいじゃない」
「ん、あぁ」
 質問には答えず、カイネルは一度止めた歩みを再び進める。
「何も心配することはない。勇者亭に戻っていろ」
「妙な言い方ね。兄さんがそんなふうに言う時、絶対に何かあるんだから」
「特に何も無い。少し、買物に行くだけだ」
「兄さんが?」
「悪いか」
「いえ、別に……でも買物だなんて珍しいわ。せっかく梅雨が明けたのに、また雨を降らせる気?」
「……すまん」
 素直に謝るカイネルに対して、ブランネージュはクスクスと微笑んだ。
「冗談よ。ところで、何を買いに行くの?」
「あぁ。笹の葉を少し、な」
「笹の、葉?」
「山猫通りにならあるだろう。猫獣人が多くいるから、パンダリングがいてもおかしくはない。ヴォルグにも確認してある」
 ウルフリングやフォックスリングというのは聞いたことはあるが、パンダリングというのは初耳だ。しかしヴォルグ団長に裏を取っているとなると、実在するのだろう。
「でもなんで笹の葉なんかを」
「東洋の行事で『七夕』というのがあるのだ。願い事を書いた短冊を笹の葉に飾りつけるもので、その願いが叶うという」
「本当に?」
「ただの儀式みたいなものだ。実際に叶う保証はない」
 二人の会話をこっそりと聞いて、しかもその言葉の後半をよく聞いていない者がいるとは二人とも気付いていなかった。
 猫耳をぴくぴくと動かして、ふふふと笑う。
「聞いた。聞いたわよ。願いが叶う『タナバタ』!」
 ビーストクォーターにして忍者であるマオは、会話を盗み聞きしていたのだ。
 それを知る由もなく、カイネルとブランネージュは山猫通りへと向かう。
 二人を背に、マオは自慢の素早さで勇者亭を目指した。


「……それで、なんで僕がここにいるわけ?」
「良いじゃない。面白そうだし」
「そうにゃ〜ん♪ それにシオン君がいてくれると助かるからね」
 シオンとエルウィン、マオは現在、天空の塔を見上げていた……。
 マオはまずピオスに七夕が何であるかを聞きに行き、そこに居合わせていたエルウィンも一緒に来たのだ。
「センセーの話によると、願い事を書いた短冊を枝葉にくくりつけるんだってさ。なんだか高い場所のほうがご利益ありそうだから、あたしたちは一番高いところ目指そうっていうことになったの」
 ピオスの話も半ば聞いていないために、誤報が紛れていることすら解かっていない。笹の葉という事実をすっかり抜かしているのだ。
「確かにここの屋上はどこよりも高いものね」
「だからって……『天空の塔』だよ?」
 シオンが不安がるのも無理はない。天空の塔は最強にして最凶のダンジョンである。
「それでも行くの。それとシオン、あなたは危険な所に女子二人だけで行けっていうの?」
「そうじゃないけど……」
 それ以前に登ること自体を止めたいのだが止める術はなさそうだ。
「ならいいじゃない。別に、アドバンスモードってわけじゃないんだし!」
「それじゃ張り切っていこー!」
 マオを先頭に、天空の塔へと入っていく。
 天空の塔フロア1.七体以上のリーダーを倒せ……。
「なんでこうなるんだ」
 シオンの呟きも、天空の塔の慌ただしさには虚しく消え去るばかりであった。


 中央通り大商店街で買物をしたい、と申し出たところカイネルはそちらを優先させてくれた。ブランネージュは後でもいいと言ったものの、笹の葉を持ち歩くのは不便であるし夜までに間に合えばいいとの事で、商店街での買物を先にしたのだ。
 魔法のアクセサリーを一通り見終えて、ブランネージュは古い魔道書を一冊購入した。
 買物が終わり、二人はようやく山猫通りへと向かう。
「なんだ……?」
 カイネルがいち早く異常に気が付き、眉をひそめる。遅れてブランネージュも、妙な喧騒に顔を険しくした。街中なので騒がしくないはずないのだが、二人が感知したのは明らかな騒動があっているゆえであった。
 何人もの獣人が言い争っている二人を遠巻きに見ている。
「どうした?」
 騒ぎを見ていた猫獣人の男をつかまえて、事情を聞く。騒ぎに気を取られすぎていたのか、男はすぐに返事をしなかった。
「……あぁ、なんでもコインゲームがイカサマだって訴えたヤツがいるんだ」
 確か、山猫通りにはコインを投げて表裏を賭ける賭博士がいたはずだ。賭博とはいえ一応職業らしく、コインゲームの主人はそれで生計を立てているらしい。見ればその主人が、フォックスリングの男を相手に困った顔をしている。
「あいつがギャーギャー騒ぎだしてさ、そりゃもう皆が立ち止まるほどさ」
 彼の言うとおり、遠巻きに囲んでいる人々は数多い。ここまで人が集まったら、狐獣人の男も後には引けなくなっているのだろう。下手をすれば暴動を起こすかもしれない。
「治安維持もヴァイスリッターの仕事だが……この区域はマオの担当だろう。あの猫娘はどうした」
「マオちゃんかい? 朝、見かけたようなそうでないような……」
 カイネルの半ば愚痴に近い質問に、男は曖昧な答えを返した。はっきりしないが、このような騒ぎになっているのに影一つ現さないとなると何処かへ行ってしまっているらしい。
「……兄さん」
 ブランネージュに呼ばれて、仕方ないとため息を一つ。
「おい、そこのお前!」
 第一王子としての賜物か、それとも戦士としての試練を乗り越えてきた風格か、カイネルの一括で言い争っていた二人が竦む。
「事の子細を話してもらおう」
「なんだテメェは!」
 竦んだのは一瞬で、狐男はいきり立ってカイネルに噛み付きそうな勢いだ。
「ヴァイスリッター所属、ブランネージュだ」
 正式にヴァイスリッターに入団しているブランネージュが身分を明かす。カイネルはただ共に戦っているだけであり、ヴァイスリッターに入団した覚えは無い。
 だがそれでも効果があったようで、狐は慄いた。
「ヴァイスリッター……」
 名前だけなら、シルディアでこれに逆らおうという者はいない。大国ルーンガイストからシルディアを救った英雄なのだから。
「いやぁ助かりました。この人がわたしの商売にいちゃもんつけてきて……」
「いちゃもんだぁ? オレはテメェのイカサマを見抜いたんだ! 有り得ネェだろ、二百五十六回もやって一度も当たらないなんて、これをイカサマといわずになんて言うんだ、オイ!!」
「二ひゃく……!?」
 ブランネージュがあまりの回数に目を丸くする。何故そこまで回数を重ねたのかまるで理解できない。
「あなたの運と洞察力と勘がまるっきり悪かっただけですってば」
 主人は先ほどから同じ弁解を繰り返しているようだ。だがそれではいそーですかと引き下がれるなら、ここまで人だかりはできているまい。
「下らんな」
 カイネルの呟きは、狐男を怒らせるには充分な一言であった。
「あんだとぉ!? それともなにか! テメェがオレの失った二万五千六百ゴールドを払ってくれるのか?」
「……主人」
 狐男をまずは無視。カイネルは100ゴールドを主人に投げ渡した。
「賭け金だ。俺を相手にゲームを始めろ」
「は、はぁ……」
 主人のほうもわけの分からぬまま――しかし手馴れた動作は一寸の狂いも無く、コインを空高く放り投げ、落ちてくるタイミングにあわせて手の甲に乗せてもう片手で覆う。パフォーマンスだけでも中々のものだが、勝負はこれからだ。
「表か裏か。勝ったらアンタが200ゴールド、負けなら何もなしだ」
「……表だ」
 主人が手をどけると、コインは表を向いていた。見事正解したわけだが、狐男はまだ疑っているらしい。
「当たりだ。続けるかい?」
「あぁ、もちろん」
 主人がもう一度コインを投げ、それを受け取った瞬間に――
「今度は裏だな」
 当たりである。


「ほらシオン君! そっち行ったわよぉ!」
「分かってるよ!」
 こちら天空の塔。シオンとマオとエルウィンの三人は、リンドブルムという巨大な竜の魔物を相手にしていた。
「ちょっとシオン! あいつの動きを止めて」
「無茶いわないでよ」
 動きこそ遅いが、リンドブルムの力は強大で容易に近づく事はできない。シオンはスパークという雷の魔法を使う事もできるのだが、リンドブルムは雷に対する耐性が高いのでダメージはほとんどない。
 マオが遠距離から火遁の術やクナイ投げを試み、エルウィンの弓矢で攻撃を仕掛けているのだが決定打にはならない。
「仕方ないわね。例の作戦で行くわよ」
「えぇ!?」
「オッケ〜にゃぁん♪」
 シオンの明らかに嫌な声による非難を無視して、マオは双竜の指輪をはめた。
 途端にマオとシオンの魂が活性化し、強大な力を得る。シオンとマオ、二人の魔力が高まり、それは時空の扉を開けて異界の霊獣を呼び寄せることさえ可能となる。
「鬼さんこっちら〜♪」
 多数の紅玉鬼神を晶喚し、リンドブルムに一斉攻撃を与える。さすがに怯んだのか、リンドブルムは身を縮めた。
「今よ!」
 紅玉鬼神の追加効果――呪いによりダメージは二倍となる。
「グラビティ・スラッシュ!」
 シオンの魔法剣の一つ、重力を操り動きを鈍らせ、同時にマオとエルウィンが攻撃を浴びせる。
 ようやく、リンドブルムは最後に一度だけ咆哮をあげると沈黙した。強敵にはこの作戦で打ち勝ってきたのだが、一つだけ欠点があった。
「つ、疲れたのですが……」
 晶喚に魔法剣にと魔法力を使った陽状態にあるシオンは、躊躇いがちに疲労を訴えた。
「気のせいよ!」
「気のせいにゃん!」
 二人にむりやり引っ張られる形で、シオンは更に上の階へと連れて行かれる。
 哀れ、休む間もなくお次はカイザーゴブリンを三体以上倒せ……。


 コインゲームの主人は青ざめ、今にも泣きそうになっていた。
「か、勘弁してくれ! これ以上続けたら破産しちまう!」
 それもそのはず、カイネルが延々と勝ち続けて、倍の倍の倍の……となり今や二万五千六百ゴールド。狐男が失った額と同じであり、しかし続けたら主人が大きな痛手を受けるのは明らかなことであった。
「まぁいいだろう。賞金は貰っておくぞ」
 規定通りの代金を受け取り、カイネルはそれを狐男に投げ渡す。
「え?」
「受け取れ。これで今日はチャラだ」
「あ、あぁ……」
 イカサマではないことはカイネルの百発百中の正解率により証明されたし、お金も戻ってきた。それに加えてカイネルに圧倒されて、狐男は頷いてその場を退散するしかなかった。
「次に騒ぎを起こしたら、天空の塔の頂上から突き落としてやるからな」
「兄さん……登るまでが大変よ」
 その大変な目にあっている人物がいるとは、思ってもいないのである……。
 ともかく騒ぎは収まり、皆がそれぞれの生活に戻っていった。カイネルとブランネージュはパンダリングの男から笹の葉を貰い、山猫通りを後にする。
 勇者亭へと戻り、あとは短冊に願い事を書いて笹の葉に吊るすだけだ。
 どうせだから、とその場にいたヴァイスリッターのメンバーも想い想いの願い事を書き始める。マオから何かを聞いたピオスが七夕のことをかいつまんで皆に話していたらしく、準備は万端であった。
 ただし、ピオスに七夕のことを聞いたマオ本人とエルウィン、そしてシオンがいないことを誰もが首を傾げながら、しかし目の前の行事に集中するのであった。
「アイラ、それでは誰も読めないのではないか?」
 ブランネージュの短冊を覗き込んだカイネルが訝しんで尋ねる。彼女が書き込んでいるのは、複雑な魔術文字である。
「もちろん。人に知られたくないもの」
 ピオス辺りなら読めるかもしれないが、読めたとしても言いふらすような性格ではない。
「兄さんこそ、東洋の文字じゃないの」
 カイネルもまるで記号のような文字を用いて短冊に願いを書いている。
「俺のは……特別製だ」
 もっと上手い言い訳はないものだろうか。
 二人は隣同士になるように短冊を吊るした。
 他のメンバーは、書いたらそれぞれの場所にぶら下げている。
 やはり皆は共通語で、なんと書いているかがすぐに解かる。とはいっても、皆らしい願いであった。
 読めないのはカイネルとブランネージュの短冊のみ。
 書いてある願いは……。
『アイラがいつまでも無事であるように』
『兄さんがいつまでも健康であるように』
 この兄妹、本質的に似ているのである。


「もう、ダメなのか……」
 忘れてはいけない、シオンたち。
「ほらシオン、しっかりしなさい!」
「もうダメだよ……。体力も残り少ないし、スキルだって、もう……」
「死ぬ気で頑張って! マオに置いていかれるわ」
「それでもいいよ!」
「よくないの!! えい!」
 エルウィンが双竜の指輪をはめる。
「疲れてるって言ってるだろがぁぁ! ていうかもう戦う必要はないんだから、むやみやたらに指輪をはめんじゃねぇ!!」
 そう、シオンの言うとおりここは天空の塔最上階で、その主であるダークドラゴンも何とか倒したのであった。しかしその場に疲労困憊でシオンが倒れたのだが、エルウィンとマオが優しく看病を――してくれるはずもなく、マオはさっさと高い場所を見つけて、エルウィンがそれを追いかけようとシオンをむりやり歩かせている。
「ほらほら、この辺なんて良いかもよ。さっそく短冊つるしとこ♪」
 マオが懐に入れていたらしい短冊を取り出し、適当な場所に吊るす。確かに高さだけなら、シルディア一番である。
「アタシも! ねぇ、シオンもやったら? せっかくここまで来たんだし」
 君達が無理やりつれてきたんじゃないか、という文句を言うだけ無駄だと解かっているし、下手をしたらここから落とされかねない。
 シオンは考えるまでもなく、今まさに最も叶ってほしい願いがあった。

『二人がもっと、淑やかになりますように……』

 シオンの、流れ落ちた輝く涙は、切実な想いが込められていたに違いない。

-fin-


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