-思ひ出炎水……-




 勇者ロベルが救いしその世界の名はルビスフィア。
 その世界とは別の世界、とある世界のとある村。
 北には火山、南には年に一度使われる宴会場の広場、西にはスライムの棲む森、東には豊かな森。それらに囲まれた村の名はヒアイ。ヒアイ村なるこの場所で、今こそ紡ごう物語。


◆恐怖の襲来◆

 それは、エンがまだ五歳のころであった。
 育ての親、ゼクに無理を言って、村長にも頼み、大人たちと一緒に樵の仕事に加わるべく森へと入っていった。普段は村の外に出ないエンにとって、見るもの全てが新鮮であった。
「うわぁ、すっげぇ! あれ、なんだ?」
 ゼクたち大人は見慣れているものに、エンはいちいち驚いて大人たちにその正体を聞いた。
 ある時は不思議な形をした大きなキノコ、ある時は見たことも無い昆虫、ある時は見慣れない美しい花。そして、奇妙な形をした糸……?
「ん、ありゃあ蜘蛛の巣だな」
「くも?」
 エンは首をひねった。空に見える雲と勘違いして、上空に浮かぶ雲は森に住んでいるのか、と思ったのだ。
「虫のことだ。他の虫を食べる、な」
「おなじむしなのに、たべちまうのか?」
 ゼクの言葉に、明らかにエンは不満な顔をした。
「まあ、自然の摂理ってやつさ」
「せ……?」
 まだ幼いエンにとって摂理という言葉は難しすぎたかとゼクは苦笑いを浮かべる。
「人間にとって有害な毒虫も食べてくれるんだ。だから、ありがたい生き物なんだよ」
「うぅ、よくわかんねぇよ……」
 いずれは解かるようになるさ、とゼクは言ったが、この時はエンがその生き物を拒絶するほど嫌いになるとは思ってもいなかっただろう。
 エンは、蜘蛛を見たことがなかった。羽のある昆虫くらいならばたまたま見かけることはあったものの、それはヒアイ村に現れることが無かったのだ。食料は森の中で事足りるし、移動するような事態にはならなかったためか、村には虫そのものが少ない。
 その為、知識不足は想像力で補うしかなく、エンは蜘蛛がどんな虫であるかを考えていた。
「(ほかのむしを、くっちまう……)」
 ただそれだけのヒントだったので、エンはぶるりと肩を震わせた。何だか怖いものを勝手に想像してしまったらしい。

 その日は、ただ己の無力を感じることしかできなかった。
 斧を持ち上げることすらできず、ただ大人たちの仕事を眺めることしかできなかったのだ。
 帰り道、ゼクを含めた大人たちが励ますなりをしてくれたが、エンは俯いて歯を食いしばるのみ。それは悔しさをばねに、強くなろうとするための我慢だったのかもしれない。もしかしたら泣いていたかもしれないエンは、そうすることで強がっていた。
「お、ほらエン。あれが蜘蛛だよ」
 来るときと同じ道に、当然その巣はあった。そこに八本の足が生え、威嚇するような色合いの虫がいた。
「……あれが?」
 見上げて、エンは露骨に嫌な顔を浮かべた。蝶々やテントウ虫と違って毒々しい色合いのそれは、気味が悪い、というのが第一印象だったのだ。
「そうさ。あんな色しちゃいるけどな、人間には無害だから心配するな」
 とは言われたものの、エンは早々に目を背けた。一秒でも見たくない、というのが心境であり、苦手意識というのをはっきり自覚したからだ。
「おれは、なんかきらいだ」
「そう言うなよ。今朝も言ったろ、毒虫を食ってくれるんだ。少しは感謝しないとな」
「かんしゃ? あれにぃ?」
 苦虫を噛み潰したような顔で、もう一度見上げた。さっきよりも近づき、今度は真上にある。見れば見るほど、気分が悪くなってきた。何をするにも大体は平気なエンだがこの辺りは潔癖であったのだろうか。
 長く見ていれば親しみが沸くかも知れない、と思って少し眺めていたが、親しみが沸くどころか嫌悪感が増すばかりであった。理由はわからない。第一印象が悪かったのか、最初に教えられていたことに悪い印象でもあったのか、ともかく好きになれそうに無い、というのが結論であった。
「あ」
 そんなエンの考えを見透かし、それに本人が怒ったのか、蜘蛛がいきなり巣を離れ、ダイブ。
「へ?」
 拳ほどの大きさをもつそれは、真下にいたエンの顔に着地。
「わあああぁぁぁぁぁあああぁぁあああああぁあああっ!!!??」
 今までに聞いたことのないエンの悲鳴に、大人たちが何事かと振り返る。
 顔のものを引き離そうと頭を滅茶苦茶に振り回したためか、エンの悲鳴に驚いてか、蜘蛛はエンの顔から離れてどこかへ行ってしまった。
「わあぁああぁ! うぁ、わあぁあああぁぁあああぁっ!!!?」
「え、エン! 落ち着け、もういないぞ!」
 ゼクが必死にエンを宥めるが、恐慌状態に陥った子供を落ち着かせるのは容易な事ではない。
 他の大人たちが総がかりでなんとかエンを落ち着かせたが、それでもまだエンは震え、涙目でしゃくりをあげながら荒い呼吸を繰り返していた。どうやらそうとう恐かったのだろう。村につくと同時にエンはへたり込んで、夕飯も食べずに眠ってしまった。

 来る。ずっと来る。逃げられない。
 大勢で押し寄せてくる。逃げられない。
 それは巨大で恐ろしい虫だ。逃げられない。
 八本の足に、気味の悪い色合い。逃げられない。
 逃げたい。逃げられない。逃げたい。逃げられない。
 逃げられない。逃げたい。逃げられない。逃げたい。
 逃げたい。逃げられない。逃げたい。逃げられない。
 逃げられない。逃げたい。逃げられない。逃げたい。
 逃げたい。逃げられない。逃げたい。逃げられない。
 逃げられない。逃げたい。逃げられない。逃げたい。
 逃げたい。逃げられない。逃げたい。逃げられない。
 逃げられない。逃げたい。逃げられない。逃げたい。
 囲まれた。

「うわあっぁあぁぁ!!!」
 エンは寝台から飛び起きた。
「どうした!?」
 エンの悲鳴を聞いて、隣で寝ていたゼクが飛び起きる。遅れて、別室で寝ていたファーラとルイナも姿を現した。
「ゆ、ゆめ……?」
 悲鳴をあげたエン本人が、誰に問いかけるでもなく問う。
 そう、それは夢であった。
 巨大な蜘蛛が襲い掛かってくる夢だった。
 夢の内容を思い出しただけで、エンは身体を恐怖で震わせた。もしかしたらすぐそこの隙間から出てくるかもしれない、もしかしたら扉を開けた途端に降って来るかもしれない、もしかしたら、もしかしたら――。
 考え出したらキリがなく、エンは考えるのを止めようと思った。しかし流れ出る思考は、そんなに簡単には止まらない。
「おれ、あれがきらいだ……!」
それ以来、蜘蛛を見ただけで鳥肌が立ち、下手をしたら失神までする、という拒絶反応を起こし、嫌いの一言で済ませるにはあまり卑小であった。あえていうならトラウマか。
それは子供心のトラウマとなり、一生の心の傷となったのは、言うまでもないことである。

/恐怖の襲来・了


◆酒豪の栄光◆

 エンとルイナは十五歳となり、成人式を迎えた。その日を持って、ヒアイ村では正式な大人となり、子供は禁じられている飲酒も可能のなるのだ。また、それぞれに仕事の役割が与えられるが、特例として二人は以前から仕事についていた。つまり樵と薬剤師である。その仕事を引き続き行い、日々の生活を送る。
 その暮らしにも慣れてきた頃、年に一度の祭りが行われる時期になっていた。
 ヒアイ村の村人が総出で賑わう、火祭りの日だ。
「さすがに児毒草の毒はなかったみたいだな」
 神木を森の奥から切り出し、南の広場へ向かう途中にエンはのんびりとぼやいた。五年ほど前、児童のみに影響が出る児毒草の毒を受けてしまい死にかけたのだ。今回は草に触れても痛みを感じることは無く、体調も万全である。
 神木を南の広場に設置し、樵の役割はそれでお終いである。後は料理や酒の類を運ぶのを手伝うなりするか、ぼんやり待っているだけで火祭りは行われる。エンはただじっとしているのは性分に合わないためか、料理や酒の運びを手伝うことにした。
 今年は景気が良いのか、いつもより酒の量が多いようだ。それを運びながら、エンは嬉しそうに酒瓶を眺めた。決まりに従って、エンは成人するまでに一度も酒を飲んだことがなかった。育ての親であるゼクは大酒飲みだったが、それに影響されることはなかったようだ。
 もちろん、例え成人未満の者が酒を飲んでも厳罰になることはない。同期であるナグも、親の目を盗んではこっそり飲酒していたらしい。ナグの酒に対する評価はやや誇張表現があるものの、一度も飲んだことの無いエンを期待させるだけはあった。
 そのため、エンは火祭りの時に飲んで楽しもうと、成人した後でも我慢していたのだ。
 そして今日、念願がついに叶うのである。喜ぶなというほうが無理なことだ。

「火の神よ 我らヒアイの民、ここに誓いを立てて生を歩まん」
 村長が厳かに宣言し、ひとりひとりの名前を呼んだ。
 名前を呼ばれた者は神木の前に立ち、誓いを祈る者もいれば、口に出す者もいる。
 エンもまた、ルイナと共に神木の前に立ってそれぞれの誓いを祈った。
 ルイナが何を祈ったかは知らないが、エンは既に内容を決めていた。それは、五年前にルイナに命を救って貰った時から全く変わらないものだ。
 やがて村人全員の儀式が終わる。
「儀式はこれにて終了する。――さあ、皆の者! あとは存分に楽しもう!」
 厳かに終わり、声の調子を変えて、今度は明るく宣言した。あれほど静寂だったこの場が、歓喜に盛り上がる。
 子供たちは空腹を満たすべく料理にがっつき、大人たちは咎められる事のない酒を堪能すべく杯にそれを並々と注ぐ。この時を待っていましたとばかりにエンも酒に手を伸ばそうとしたが、やはり食欲が勝ったか先に料理に手を出した。
「よぉエン。お前、今年は何を誓ったんだ」
 ナグが杯を片手に近寄ってきた。どうやらもう飲んでいるらしい。
「去年と同じだ」
「んぁ? それ、去年も言ってなかったか?」
「じゃあ一昨年前と同じだよ」
「……そうか」
 その時も『去年と同じ』と言っていた気がしたのだが、ナグはそれ以上追求しないことにした。
「そういや、念願の酒の味はどうだい? イケルだろ?」
「まだ飲んでねぇよ」
 腹が満足してくれるまでとりあえず食べ、エンはいよいよ杯に手を伸ばした。
 他では既に酒を飲みに飲んで、ある場所では飲み比べをしている集団さえある。
 グレイプという果実から作られるこれは、『森の雫』という名前でヒアイ村では親しまれている。
 薄い紫色の液体が杯に注がれ、アルコールの匂いが微かに漂った。 それを一気に煽る。良い香りが鼻腔の奥を刺激し、芳醇な甘みが口の中に広がった。
「うまい!」
 ヒアイ村で長く親しまれている酒なだけあって、エンの口にもそれは合うようだ。
 飲み比べをしている集団の方から、「三人抜きだ!」と歓声があがった。
「俺の言った通り、うまいだろ」
「あぁ!」
 エンがとびきりの笑顔を作るが、早くも彼は顔を真っ赤にしていた。
「って、エン……? お前、大丈夫か?」
 ナグは親の酔い癖を知っているため、その状態はずいぶんと酔いが回っている証拠だと確信できていた。
「あぁ? 大丈夫、大丈夫だ。大丈夫だ、うん」
 明らかに大丈夫ではない。呂律も怪しく、焦点もまともに定まっていなかった。
「大丈夫って言うやつほど危ないんだけどな」
「心配すんなって。まぁ、そうだな……ちょっとルイナの声が耳に響くかな」
「(重症だ)」
 空いている手を額にやって、ナグはため息をついた。この場にルイナはいないのだ。他の場所にいるはずの彼女は、それでなくてもエン以外に話すことは少ない。もはや、幻聴まで聞こえているらしい。
「なんの問題もねぇよ」
 心配そうな友人に明るく声をかけるが、それでナグが納得するはずもない。自分の言葉を立証するためか、エンは大丈夫な姿を見せるべく唐突に歩き出すが、足がもつれ、転倒。
「なにやってんだよお前は……」
 ナグの呆れは、もっとものことである。
 ちょうど、「五人抜き!」と歓声が上がったのもこの時だったか。
 夜はまだ、始まったばかりだった。

 さて、ルイナはルイナで火祭りを楽しんでいた。
 エンとナグの近く、飲み比べをやっている中心で。むしろ、参加者として、だ。
 意思表示の乏しいルイナだが、その扱いにもだいたい慣れている者が多い。
 彼女を加え、そこの集団は『森の雫』の飲み比べを開始した。ちなみに、参加者が持ち寄った貨幣が賞金となるので、毎年やっている者がいるのだ。これはこれで恒例大会となっている。
 ルイナは、成人したとはいえ、まだあどけない少女がそこまで飲めるものではないと思っていた者はほとんど……いや本人を除く全員だった。むしろ、普段は無表情の彼女に酒が入るとどのような変化が訪れるのだろうという興味があった。
 しかしどうだろう、飲み比べを始めると、ルイナは顔色一つ変えず、それどころか飲み比べの対戦相手が先にダウンしてしまうという結果になっていた。
 一人目が、もう飲めないとギブアップ。少女に手加減したのだろうと思われた。
 二人目も、これ以上はだめだとギブアップ。また手加減したのか、と皆は笑った。
 三人目は、気を失うまで飲み続け、終にはダウン。ルイナは顔色一つ変えていない。さすがにこれには周囲も驚き、歓声を上げる。
 この時点で、最初の三人が飲んだ量よりも多くの酒を飲んだはずのルイナは、しかし酔った様子を見せず、まるで水を飲んでいるかのようだった。頬を朱に染めてすらいない。
 四人目は、信じられないと言った表情でギブアップ。どうなってんだよ、と愚痴をこぼしながらも負けを認めていた。
 五人目は、引き際を見極めているようで、途中でギブアップ。いつも優勝候補に入っている者だったので、周囲の驚きはもっと大きくなる。歓声があがり、ついに大酒飲みとして有名な、『底なし』異名を持つシャッパという男との対戦となった。
 だがいくら底なしシャッパといえども、何故かルイナに勝つことは出来ないと悟っていた。底なしに飲む自分だからこそ、ルイナに何かを感じたのだろうか。その為、ルールの変更を申し出た。
 いくら飲んでも頬を朱にも染めてすらいないルイナの顔を、紅くしたら勝ちにする、ということだ。それでは勝負にならないと不満に思う者は、いなかった。五人抜きを達成した今も尚、ルイナが普段となんら変わりがない故である。
 ルイナもその条件に頷き、二人は杯を掲げる。
 誰かが発した号令を合図に、二人は一気に酒を口に流し込んだ。飲む速度は同じ。
 飲み終わった酒瓶が転がり、次の酒瓶もまたすぐになくなる。
 二人の戦いは、見ていて惚れ惚れとするものであった。……健康には悪いと思うが。
 ともかく二人は飲んで、飲んで、飲んで、飲んで、飲んで、飲んで、飲んで……。
「ちくしょう!!」
 早くに杯を放り捨てたのは、底なしシャッパだった。その顔を真っ赤に染めているというのに、ルイナと言えば、やはりいつも通り。本当に酒を飲んだのか疑うほどである。
「なぁ村長! 誓いの儀式をやり直させてくれ!」
 いつの間にか二人の戦いを見ていた村長に、シャッパは両手を合わせて懇願する。
「どうしたのじゃ、いきなり」
 村長が眉を寄せるが、その隣にいる占い師の老婆は察しがついたのか意地悪そうな笑みを浮かべた。
「誓うんだ。来年こそはルイナに勝つため、今年は酒に強くなるって!」
「阿呆なこと言うんじゃないよ」
 やはりシャッパの考えに気付いていたのだろう、老婆がすかさずなじる。
「だったら、ばあさん占ってくれよ。どうやったらルイナに勝てるかをよぉ!」
「ふん。占うまでもなく結果はわかる。あんたは仕事に精を出した方がよほどためになるってね」
 老婆の口調がおどけたものだったので、周囲でどっと笑いが起きた。
「うぉ〜い、ルイナぁ……」
 出し抜けに声がかけられ、声の方向を向くと、そこにはナグとエンがいた。彼女の名前を呼んだのはナグのほうだ。どこか情けない声で、エンをなんとかしてここまで運んできたようだ。
「エンのやつ、どうにかしてくれよぉ」
 うんざりとした様子で、ナグがエンをルイナに任せる。
「ふぇ? ルイナ?」
 エンはようやく顔を上げ、そこに幼馴染みがいることを認識した。
「お、ルイナぁ。火祭り楽しんでるか? 酒がうまいんだぁ、オレ、好きになりそうだよ」
 話題がまとまっているようでまとまっておらず、エンの酔いの激しさが知れた。
「好きになりそうっていうか好きだぁ」
 顔を自身の髪の色と同じ赤に染めて、エンは笑顔を絶やさない。
 笑い上戸とはまた違うようだが。
「でもさ」
 何を思ったのか、いや何も考えていないのだろう。
「ルイナのほうがもっと好きだー!」
 いきなりエンが抱きついてきたのだ。酔った勢いか、何なのか。
 周りがはやしたてるように口笛を吹いたりする。
 ルイナは、表情こそ変わらないものの、驚いたように目を見張って、その頬を薄く紅に染めた。
「うは、エンの一人勝ちだ!」
 勝利条件はルイナの顔を紅くする事。方法はどうあれ、話の流れはそのままエンの勝利となった。本人は何もわかっておらず、また何も覚えていなかったが。言えるのは、次の日にエンは激しい二日酔いで仕事に出ることができず――むしろ動くことすらままならず――、あれほど飲んだルイナは平然としていたのだとか。

/酒豪の栄光・了


◆幻想の珍獣◆

 火祭りから数日後、休んだ分を取り戻すべく、エンは張り切って準備を整えていた。いつもは昼ごろから仕事を始めるのだが、今日ばかりは朝っぱらからの出勤である。
「それじゃ、行って来る」
 まだ欠伸しながら、居間を抜けて玄関へと向かった。
「はい」
「キィ=v
 ルイナが答え、何かが鳴いた。
 エンは普通に出て行こうとしたが、扉に手をかざした所でぴたりと動きを止めた。
「……ルイナ?」
 居間に戻り、彼女の名を呼びながら部屋を覗くと、そこには確かに彼女はいる。そして、見慣れない『何か』も、そこにいた。
「はい?」
「なんだ、それ……?」
「キィ=v
 ルイナの代わりに、それが答えた。

「じゃあ、火祭りの広場で拾ったのか」
 ルイナの話によると、火祭りの途中――とは言っても朝方も近く、起きているのは大人たちくらいのものだったが――気付いたらルイナに擦り寄ってきたらしい。見たことの無い小型の動物で、毛に覆われたその姿は愛らしさがある。
 今までエンが気付かなかったのは、二日酔いの影響でまともに起き上がることができなかったためだ。その間、ルイナはこれの世話をしていたらしい。
「何、でしょうか」
「ルイナでもわからないのか?」
 ゆっくりと彼女は頷く。ルイナでも解からないなら自分にも解からないのではないかと思ったが、それを観察し続けてようやく一つの結論に至る。
「犬、かな?」
「犬、ですか」
 頭を撫でていたルイナはそっと手を離した。するとそれは首を傾げたようにルイナを見上げ、自分の足で歩き出した。
「えぇと犬って確か四本足で……」
 それは確かに四足歩行をしている。
「毛で覆われていて……」
 ふかふかの毛に覆われているが、羽毛のように感じる。
「匂いをしきりに嗅いで……」
 そこらのものに近づいてはすんすんと鼻を動かす。
「鳴き声があって……」
「キィ=v
 聞いた事のない鳴き声ではあった。
「大きさとか形とか、色は様々だから……」
 このようなものもいる……のかもしれない。
「ということで犬だ! 間違いない!」
 ちなみにエンは実際の犬を見たことが無い。

 その犬(?)には『ムーン』と名付けられた。まん丸の目が、満月のようだったからだ。
 とりあえず、村長にムーンを見せに行った。困った時には村長に相談するというのが決まりごとのようなものだったからだ。しかしその村長でさえ、ムーンを見て首を傾げるばかり。彼は犬を見たことがあっても、目の前のそれが犬だとは思えなった。
「魔物ではなかろうな?」
「魔物……スライムみたいなやつか。でもぷるぷるしてないし、青くないし、たまねぎみたいな形をしてない。やっぱり犬だろ」
 しばらくムーンを眺めたり、おっかなびっくり触れたりしていた村長だが、エンの断言もあってか安全と判断したのだろう。
「まぁよい。しばらく様子を見てみよう」
 その『しばらく』は、当然ルイナがムーンの世話をすることになった。
 それというのも、ムーンは誰にでも懐くが特にルイナに懐いており、また彼女が拾ってきたのだから責任を、ということである。言われるまでもなくルイナはそのつもりだったようで、嬉しそうに――無表情だが――ムーンの頭を撫でた。

 家事の全般は、ほとんどエンがやっているとはいえムーンの世話だけはルイナが行っていた。何を食べるのかよくわからなかったが、与えた物はたいてい食べたので、ムーンのエサに困ることはなかった。
 ある日、エンが近くの川で魚を釣ってきた時にそれを与えた所、魚も食べるようでおいしそうにがっついた。しかし骨まで残さず食べたので、少しはおかしいと思い始めたのはこの辺りからだ。
 また別の日、ムーンは運動不足の身体を持て余すかのように家の中をぐるぐると歩き回っていた。たまに二人の家に、村の少年少女たちが遊びにきてムーンを可愛がったりするが、それでもまだ退屈そうであった。
 仕方なしに、エンは木材から適当なものを選び出し、それに加工を施した。ほどなくして、木製の円盤を完成させた。これでも飛ばせばそれなりに飛距離が出るものだ。
 翌日、ムーンを拾った南の広場でその円盤を投げてはムーンに追いかけさせた。
「おぉ、結構うまいじゃないか」
 投げた円盤を追いかけ、器用に口で受け止めてそれを投げた本人のところへ持ってくる。
 エンとルイナだけでなく、村の子供たちも一緒だ。
「おれより速いんじゃないかなぁ」
 村一番で足の速い少年、ワキが悔しがりながらも賞賛しているようだ。犬と人間を比べたら、さすがに犬の方が速いだろう……。
「よし、また投げるぞ!」
 エンが円盤を持ち上げて、力を込めて投げ飛ばす。だが力を込めすぎたのか、その円盤は飛びすぎと言えるほど上空に舞い上がった。
「しまった!」
 だがムーンは一心不乱に円盤を追いかける。さすがに今回は無理だろう、と誰もが思っていたのだが、ムーンは走って、走って、走って、走って、跳んだ。いや、飛んだようにも見えた。ともかくムーンは、取ることは難しい――という無理だと思われた円盤を、見事にキャッチしたのだ。
 全員から拍手を受けて、ムーンは照れ入りながら……はしなかったが、円盤をエンの元へと戻しに来た。
 皆、ムーンのことを褒め称え、楽しい時間が過ぎて行く。

 その日の夜、ムーンの不可思議な行動をエンは見た。ちょうどルイナが出て行っている時だったのだが、どうもムーンの様子がおかしいのだ。
「キィ=v
 と今までのように鳴いたりもすれば、
「ギィァ=v
 と低く鳴いたりしている。
 その他にも、全身を震わせたり、しきりに頭を動かしたりしているのだ。
 怪訝な顔で様子を見ていたエンは、やがて一つの結論に至る。
「(ルイナが変な薬でも盛ったのかな?)」
 それ以上、エンは何も考えなかった。
 やがて日はさらに進み、ムーンは小型というより中型になっていた。大きくなるには、やや異常な成長速度だ。しかしこれもルイナの調合薬によるものと、エンを含めて他の人間たちも判断したため、何もおかしいとは思わなかった。
 さすがに羽が生えた時は驚いたが。
「やっぱり……犬じゃないかもな」
 今更ではあるが、犬にしてはおかしすぎる。羽など、生えたりするはずが無いのだから。
「でもムーンは、ムーンですから……」
 犬じゃなくてもいい。ルイナはそう言った。

 しかしそのルイナの想いは届かなかったのか、ムーンは何かと逃げ出そうとする素振りを見せるようになった。
 首輪に紐をつけておいたが、時折、その紐すらも食い千切ろうとさえもした。
 そしてついには、首輪ごとは外れてしまい、ムーンはどこかへ行ってしまった。
 いくら待ってもムーンは帰ってこず、いつしかその存在は過去のものとなっていった。


「ん、ぁれ?」
 エンは目を覚まし、自分を覗き込んでいる仲間たちを見た。
「なにをやっておるんじゃ、情けない」
「テメェなら倒せただろ」
 ファイマの言葉にミレドが便乗した。
「ルイナさんに無駄な力を使わせるな」
 エードが仏頂面をして言う。
「じゃあお前が回復してくれよ」
「私は貴様のためなんかに魔法力を使いたくない」
 エードは回復魔法が使えるのだが、言葉の通り、よほどのことがない限りエンにそれを施すことはない。
「大丈夫、ですか?」
 なので、ルイナが水龍の鞭から回復の泉の水を出し、エンの傷を癒した。
「あぁ、大丈夫だ」
 エンが傷を負ったのは、魔物との戦闘によって、だ。旅をしている中、いきなり襲われたそれはグリフォンという魔物だった。幻獣なるその魔物は、エンたち『炎水龍具』の敵ではなかった。しかしそれは万全の状態であればこその話。エンがグリフォンに攻撃しようとしたところ、ぴたりと動きを止めてしまったのだ。魔物どもは戦意の無いエンを標的とし、エンは見事に集中攻撃を受けてしまった。
「しかし、何ゆえ攻撃の手を休めたんじゃ?」
「いや、その……。さっきは無意識だったけど……」
「『さっきは』って……。今なら解かるのかよ? 気を失っている間に?」
 ミレドの言葉に、エンは頷いた。
 倒れている時に見た過去の記憶。グリフォンは、ムーンをもっと成長させた姿と酷似していた。それが意味することはつまり……。
「やっぱり、犬じゃなかったんだなぁ……」
 その呟きの意味を理解できたのは、エンとルイナだけ。

/幻想の珍獣・了


思ひ出炎水
-Fin-




本当に申し訳ないと思っています。
前回の『過去のお話……』で何を言ったか。もう書かない、と。
しかしここにあるのはヒアイ村での過去話ですね。
これには海よりも深く、天よりも高い訳が……ごめんなさいありません。
ただの気まぐれというか、気分ですね。
ヒアイ村でのお話は前回で完結、ということにしていたんですが……。
反省はしています。だけど後悔はしていません。
恐怖と酒豪の話は、組み込むのを忘れていたから、という理由もありますが。
それだけでは物足りなかったので『異伝α-英雄の軌跡-』で出てきた、
エンとルイナが飼っていた犬の話を出してみました。
もしかしたら後々使えるかもしれないなぁ、と思いまして……。
全体的にショートショート風に短くするつもりが、予定の1.7倍の量にorz
通りで時間がかかるわけだよなぁ……。

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