-外伝章・二幻説-
命懸けのドッグ・レ〜ス
エンは呆然と鏡に映る自分に向き合っていた。
こうなってしまったのは何故だろうか。あまりの衝撃に、声が出ない。
今見ている自分、この姿が今の自分であるならば、それはなんとも惨めな姿だろう。
この現実から目を離したい。だが、離した所でもとに戻るわけではない。
氷製の鏡。それは光の屈折が多少あるものの、自分の全身を確認するには充分だ。
それをエンはずっと見ている。氷の鏡の綺麗さに見とれているというわけではない。中に映っている自分自身の姿に驚き、呆然としているのだ。
記憶を失っていたという異常状態になったことはあるが、今回はそれよりも酷いかもしれない。自分に多少は責任があるとしても、そしてこれとは直接関係ないとは言いきれないとしても、このような状態になってはどうしようもない気がしてきた。
やる気が急速に奪われつつある。
それ以前に、行動力するための気力がない。
健康状態のときにできるはずの行動、その大半を今は封じられているのだ。
人間とは器用なものだ。自分が不器用だと思うやつは、一旦この状態になったほうがいい。人間がどれだけ器用かが解るはずだ。
そんなことを考え、もう一度、鏡の中を見つめる。
その姿を見て、エンはため息をついてみた。
「ハァ……」
人間の言葉さえ出てこない。
思考能力そのものは人間だったころと全く変わっていないというのに、出る言葉はこれである。
鏡の中は、そこにいるべき人間はおらず、一匹の犬が映っていた。
特徴的な前髪はそのまま、長い髪だった部分は馬の鬣の如く、青みがかかった黒くて丸い瞳は悲しそうな雰囲気、ぴょこんと出ている耳、両手両足をついて座っているが、立ったとしてもそれは両手両足をついたまま。
「ちくしょう()!」
赤い犬――種類は不明――と化しているエンは、自分に向かって吠えてみる。意味はないが。
「何をしておるのじゃ?」
腕組みをしたまま、ファイマが呆れた顔で聞く。
「別に。何もしてねぇ()」
答えるが、その意味が通じたかどうかは明白である。
「むぅ?」
全く通じていないのだ。
そもそもこうなったのは数十分前まで遡る。
『洸凛珠』はなんとも便利な道具で、別の時空の穴まで移動できる力を持っているのだ。
そういうわけで辿りついた『異世界から人が来そうな(もしくは来た)場所』。
そこには、やはりというか、当たり前というか……穴が渦巻いていた。エンたちは、それを『時空の穴』といつしか呼ぶようになっていた。
まだ異世界から人間は来ていないようである。ならば誰かが迷い込んでくる前に穴を塞げば良いのだが、運命は決して優しくはなかった
「なんか、来るぜ」
直感なのだろうか、盗賊ギルドで鍛えた勘が教えているのだろう、ミレドがぼそりと呟いた。
その呟きは現実となり、時空の穴が急速に火花を散らしながら回転を早めた。
「!!」
バチバチ――ボトっ。
時空の穴から、何かが落ちてきた。
「えっと……人?」
「違うな……」
エンが訪ね、エードが答えた。
時空の穴から出て来た『それ』は、一応人型をしていた。
ただし、変な角がついている覆面をつけ、神官服には邪教の印が刺繍されている。おまけに覆面は一つ目のようになっており、どうやって見ているのかが不明。
神官属系統の魔物――その名を、魔物にはそれなりに詳しいエードは覚えていた
「悪魔神官という、神官属高位クラスの魔物だ」
異世界にもこの世界と同じ魔物もいるものなのだな、とエードは一人で感心している。先日のメタルスライムを同じく異世界にもこの世界にもいるのだが。
そういえば、メタルスライムはこの世界の邪気が濃く、それで喋ることまでできるようになったと言っていた。それが本当なら、ジャルートと聖邪の宝珠のせい、もしくはエンのギガ・メテオ・バンのせいだろう。
「“ぐ、ぐぐ”」
頭を振って意識が飛ぶのを押さえようとしているらしい。悪魔神官の手には、綺麗に装飾された鏡があるのだが、誰も関心を示さなかった。
「斃すか?」
ミレドが魔風銀ナイフを召還してからエンに訪ねる。
「ん、そうす――がっ!?」
エンの台詞が途中で中断された。
理由その一。時空の穴からまたお客。
理由その二。それに気付いた悪魔神官がいきなりダッシュ。目の前にいるエンを押しのけてだ。
理由その三。悪魔神官が押しのけるという、不意打ちを食らったエンは転げてしまったのである。
「いてっ」
「きゃっ」
「うわっ」
悪魔神官の後から出てきたのは、間違い無く人間だった。一人は黒髪の青年、どことなく以前出会ったアレフと似ている。もう一人は金髪の、のほほんとした顔の、なんとなく幼い雰囲気を持つ青年。最後の一人は紫色の髪を長く伸ばした女性である。全員が、同じような年齢だ。
「ここはどこだ!?」
「あれ〜?」
「あっ、あそこに人がいるわ」
黒髪、金髪、紫髪の順でばたばたと会話を進める。
「その前にアイツはどこ行きやがった」
「ん〜、あそこかなぁ」
「間違い無いわ。ラーの鏡を持っているもの!」
エンたちなどお構いなしに、先ほどの悪魔神官を指差す。それに気付いた悪魔神官は、何やらぼそぼそと言っている。何かの魔法の詠唱だろう。
「“呪いの裁きを受けるがいい!!”」
片手で鏡を持ち、空いた片手を異世界人の三人に向ける。そして、何かの魔法が放たれた。
「マズイ!」
「ど〜しようか」
「いやぁぁぁぁ!!! もうダメぇぇ!」
金髪の青年以外、かなり慌てている。
「いってぇ〜なコンチクショウ!!」
先ほど転げたエンがいきなり立ちあがる。
「「「「「“「「あ……」」”」」」」」」
エンを除く全員(悪魔神官も)がその一言を漏らした。珍しく、今回はルイナもその一言を漏らした。
当然である、エンが立ちあがった場所は、三人と悪魔神官の間だったのだ。
「ん? って、うぉっ!!」
何かの魔法をまとも受け、エンは再び吹っ飛んだ。
「“と、とにかく……さらばだ!!”」
悪魔神官は、気まずそうに言って、いきなり逃げ出したのだ。
「えっと、あの、すいません。大丈夫ですか?」
黒髪の青年がエンに話しかけるが、見ただけで大丈夫ではないのに、とりあえず言っておこう、という意味合で言われた気がする。
「ん、ああ大丈夫だろ。どこも痛くねぇし()」
エンが笑いながら答えると、全員が呆れ顔を作った。
「……どうかしたのか()?」
気付いていないようだ。
「……ヒャダルコ」
ルイナが魔法を使い、その場に氷を作り出す。
「お主、その中の自分を除いてみ」
ファイマに言われて、エンは氷の鏡を見てみる。
「っ!?」
そこには、前髪の特徴を残したまま、全身赤毛の犬がぴょこりと座っていた。
「え〜と、これオレ()?」
エンはそのまま呆然と犬化してしまった自分を見続けていた。
エンが呆然としている間、異世界からきた三人には事情を話した。
それぞれの名前は、黒髪がアレン、金髪がクッキー、紫髪がセリアという名前らしい。邪教の最高司祭ハーゴンを斃すために旅をしているだとか。
「それにしても困ったな。ラーの鏡を取られたままでは、ハーゴンの神殿に入ることができない」
アレンが嘆息し、悪魔神官が逃げて行った方向を見つめる。
「それに、あの人を戻すためにも取り戻さなきゃ」
あの人、とはもちろん犬と化したエンである。
ルイナが万能薬『モード’s()』を試してみたが、記憶喪失さえも治した万能薬は効果を発揮しなかった。
「むぅ、とにかく後を追う必要があるのぉ」
それ以外に方法はないので、彼らは悪魔神官が逃げ出した方向へと向かった。エンはまだ呆然としていたので、ルイナに抱き抱えられての移動ということになった。当然、エードは激怒し猛反対しようとしたが、実は犬が苦手で、それを表に出すことはしなかったのだ。
そして、数十分も経たないうちに、悪魔神官と遭遇した。ただし、それは既に息絶えた後だった。
誰かがこの魔物を斃したのだ。しかし、誰かは不明。しかもラーの鏡はなくなっていた。
「おいエン! お前、今は犬なんだから匂いとかで解かんねぇのか?」
ミレドがルイナに抱かれていたエンを持ち上げて聞いた。
「解るわけねぇだろ()!」
「そうか、やってくれるか」
「んなこと言ってねぇ()!」
ミレドとエンのやり取りは完全に互いの話がかみ合っていなかった。
「そうか、今は犬なのだから、お手とかするのか」
「するかっ()!」
妙なことを言ったエードに吠えると、彼は数歩引いた。どうやら犬が苦手らしい。
「……お手」
ぽふ。
「(オレは何やってんだぁぁぁぁ!?!?!)」
ルイナが差し出した手に、無意識についてしまったのだ。もはや、声すら出なかった。
「遊んでいないで、早く匂いを調べんか」
ファイマが急き立てるが、エンは一応反論してみることにした。
「だから、んなことできねぇっての()」
「ふむ、あっちか」
「(んなこと言ってねぇ!!!!?)」
いきなりファイマが歩き出し、そして全員がその方向に歩き出した。もっと調べればまだ情報は入るかもしれないのに、こういう時だけはあっさりと信じられてしまったのだ。これで間違っていれば、確実にエンの責任となるだろう。
言った言葉の意味を理解しなかったファイマも責任があるとは思うのだが。
そして歩き続けると、何かの建物に辿りついた。何かの遺跡らしいが、彼らは迷いもなく入り込んだ。そこに、何があるかなど調べることなどせずにだ。
中は広い球場のような場所であった。むしろ、競馬場というほうが正しいのかもしれない。なんせ、あらゆる動物系統の魔物がレースをしていたからである。観客は全員魔物。いや、中には多数人間も混じっているような、混じっていないような……そんな感じである。
魔物たちの娯楽場といったところだろう。
『昼はレース場 夜は闘技場 朝になれば一日の力をつけるための大食堂!』
という壁紙までも貼ってある。それは魔物の言葉で書いてあるのだが、一応エードはその言語を習得した覚えがあるので、なんとか読むことができたのだ。
““さあさあ今日の犬系魔物によるレースの賞品は特別だ!””
ざわついている魔物たちの声より大きいアナウンスが当然魔物の言語で流れる。エードは必死でそれを解読して仲間に伝えた。
““賞品は先ほど見つけた余所者の魔物が持っていた異世界の財宝! なんかの鏡だ!!””
それは間違いなくラーの鏡だろう。
““これがほしい方はぁ! 次の犬系魔物によるレースにて自分の仲間を勝たせるか、またもや勝つであろう魔物に一番高い額を賭けるかだぁ!!””
その言葉を訳したエードに、エンがぴくりと反応した。予想通り、全員の視線がエンに集まっていた。
特別賞品のために、競馬ならず競犬に出ることになり、エンはため息をついた。
この娯楽場は人間も参加OKで、エンを登録したファイマたちは何の疑いもかけられなかった。
エンがため息をついた理由は他にもある。面子が凄いのだ。
弓矢を持つ浮遊犬、アロードッグはなんとかなるとしても、右隣にいる赤い狛犬のフレイムドッグと、左隣にいる顔を二つ持つケルベロスは殺気をかなり出しているのである。さらに左に行くと、地獄の番犬、さらにはこの世界では全く見ないはずのバスカービルという二頭犬魔獣最強の魔物までいた。
もともと、エンは魔物でないので彼らからしてみればただの子犬であり、食料でもあるのだ。走っている途中に喰われたりしないことだけを祈るだけである。
「本当に大丈夫なのか?」
アレンが不安そうに訊ねた。
「まあエンのことじゃ。なんとかなるじゃろうて」
気楽にファイマが答えるが、実際そう考えているのはファイマとルイナくらいだろう。レースが始まった途端、いきなりエンが隣の魔物に喰われそうな気がしてならないのだ。
「よかったね、アレン。なんとかなるってよ」
「お前、本当に何とかなると思って言っているのか……?」
クッキーがのほほんというのに対して、アレンは呆れて答えた。
「きっと勝つわよ! 犬にされても、できることはできるんだから!」
現に犬にされた経験があるというセリアが主張した。彼女が犬化した時も、それを救ったのはラーの鏡だという。呪いを解くため、真実の鏡ことラーの鏡は必要不可欠なのだ。
そして、レース開始の合図である爆発呪文()が放たれた。
「(いきなりかよっ!!)」
走り始めた途端、エンは心の中で毒づいた。
隣にいたケルベロスがいきなり何度も噛み付こうとしたのだ。
フレイムドッグのほうは真面目にレースをするらしく、既に先のほうに出ている。
“ガァアァァアァ”
“グルゥウウウウウウ”
“ガルゥァアァァアァア”
「さ、最悪だ……()」
二頭犬魔獣のケルベロス、地獄の番犬、バスカービルに囲まれて、エンは涙を流した。当然、走りながらである。
自分でも意外なほど速く走ることができ、真後ろにケルベロス、真右より少し後ろに地獄の番犬、真左より少し後ろにバスカービルという順番になっている。
少しでもスピードを落とそうならば、三匹の餌になることは必至である。
「うぉっ()!」
ケルベロスがいきなり倒れ、次いでエンが前に跳躍気味になる。
ケルベロス、リタイア。
後ろにいた弓を持った浮遊犬――アロードッグが矢を撃って来たのだ。
「それアリかよ()!?」
魔物だらけの施設なのだから、生死を賭けていてもおかしくはない。それに、ケルベロスが行動不能状態になったのに、誰も止めようとしていない。むしろ観客は喜んでいる感じだ。
「だったら()!」
走りながら、心の中で武器をイメージする。自分には簡単な想像だ。
「ウェコール()!!」
エンの目の前に光が現れる。それを掴み――
「(掴めねぇぇぇ!?!?)」
今は両手が塞がっているのだ。四本足で走っているから。
「くそっ()!」
仕方なく、それを『咥える』ことにした。
そのまま武器を具現化。
中央の宝玉は綺麗な赤。炎を模した両刃の斧。そして龍の力を秘めているとも呼ばれる『龍具』である火龍の斧が召還された。身体は犬でも武具召還の能力は発揮できたようだ。
「『連・空・爆』フレアード・スラッシュ()!」
一振りするだけで連続の真空爆弾がエンの近くで爆発した。まもとに喰らったのは地獄の番犬だでだったが、バスカービルにもそれなりのダメージがあることを確認できた。
そして地獄の番犬は行動不可能状態に陥った。
地獄の番犬リタイア。
観客が怒涛の歓声を上げる。どうやらウケたらしい。
バスカービルが爆弾に興奮してか、それとも同種を殺された怒りのせいか……とにかく殺気を増幅させてエンに襲いかかって来た。
「くぬっ()!」
エンは顔を振って火龍の斧を操った。口で武器を使うなど、なんと無様だろうかと思うが、犬の場合、なんだか合っているようにも思える。
だが、斧の攻撃はあっさりとかわされた。
““ガガルルゥゥァァァァ””
「うわぁぁ()」
二つの頭が交互に違う場所を何度も噛み付こうとするのでエンはその場で変なダンスを踊るかのようにそれをかわしていった。
「『極炎』のフレアード・スラッシュ()!」
久しぶりの単発である。極炎のFSは極大閃熱爆発呪文()並の炎を打ち出すことができるし、それを纏わせたまま斬ることも可能だ。
今回は打ち出しタイプ。
しかしそれはかわされたが、それでも効果はあった。後ろにいたアロードッグを丸焼きにしたのだ。
アロードッグ、リタイア。
残るはフレイムドッグとバスカービル。
「『全・速・水』フレアード・スラッシュ()!!」
全撃の意味を込めた『全』の効果で、バスカービルとフレイムドッグに水属性の攻撃が行き渡る。龍具に引っ張られる形でフレイムドッグの所まで行き斬りつけたおかげか、今はトップだ。
フレイムドッグは名前の通り火属性で、水属性の攻撃には弱かった。かなりスピードが落ちている。
「っハッハッハッハッ!」
全力疾走しつつ、さらには幾度もF・Sを放ったせいか、かなり息が上がってきている。
そのまま最後の百メートルストレートに入る。
「っゼハッゼハッゼハッゼハッ!」
あと百メートルだというのに、呼吸がやりにくい。それも当然である。なんせ、まだ火龍の斧を咥えているのだ。そのせいでスピードもここにきて急速に落ちてきた。
残り五十メートル。
フレイムドッグとバスカービルが追いついて来た。
さらには火龍の斧をそこらに落としてしまった。
「しまった()!!」
火龍の斧を落として少しは呼吸が楽になったが、武器を失ってしまった。再召還している暇などない。
ふと、何かが脳裏をよぎった。
今、この状況で何かができるはずだと、ふと思ったのだ。
そして、それはすぐに思い出された。
「ロングウェチェンジ()!!」
かなり昔、ソルディング大会一回戦で無意識に使ったことを今回ははっきりと意思的に発動させた。熟練した冒険者にしかできない芸当だとロベル(故)が言っていたが、今まで使う機会がなかった。
しっかりと遠距離操作は上手く行き、火龍の斧の姿が変わる。
イメージした武器は――
ドゴグゥン!!!!
「(よし成功だ!)」
バスカービル、リタイア。
火属性のフレイムドッグはなんとか生き残っているがすでにふらふら。
エンは地雷を仕掛けたのだ。
以前、ミレドにそういう武器もあると聞かされ、他の武器も召還できるようになっていたほうがいいと言われたので密かに練習していたのだ。ここで、やっと練習の成果が出せたということだろう。
あとは、楽々とゴールすることができた。
「人間っていいよな〜」
三人を元の世界に見送った後のエンの感想だ。
自分の身体を確認しながら、何度もそう言いつつ自分で頷いていたという。彼は気付いていなかったようだが、尻尾がまだ付いていたとかいなかったとか……。
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