-69章-
水の名の下に協力せよ恵みの精霊王




 そこは、どこだろうか。水の中。それは分かっている。ただ、先が見えないのだ。どこまでも透き通り、どこまでも深かった。そして、呼吸もできる。
 最初はできないものだと思い息を止めていたが、ゆっくりと目を開けて呼吸を試してみる。するとどうだろうか、酸素が肺の中へ入るのがよく分かった。
 ルイナはただ淡々と水の流れに身を任せ、沈んでいるのか浮いているのかもわからず、ただ静かに待っていた。何も恐れることはない。己を包んでいるのは水にして水にあらず、水ではない水。形無き水――精霊そのものからの抱擁なのではないだろうか。
「…………」
 聖水江に落ちたことは覚えている。いや、落ちたというよりも、自ら入っていったのかもしれない。なにか、大きな意志に導かれるように。
「“……。――この状況で落ち着いていらっしゃる”」
 水が『形』を作る。それは自分。形を持たない精霊が擬似化したもの。今、目の前にいる自分と類似人物こそ、探した四大精霊の水の力を司る『水の精霊』。
「あなたが、水の精霊です、ね」
 浮沈の感覚――いや、上下や横などという概念さえこの空間にないのだが、それで取り乱すことない。
「“貴女の望みは何なのでしょう?”」
 水の精霊が微笑みながら聞いてくる。四大精霊のうち、水の精霊が最も穏やかというような噂を聞いたことがあった。
「私は――」


 一方、こちらはウォータン王とゼイル王子とミレド。
 聖水江の暴走が止まったのはよかったが、ルイナが聖水江に落ちたまま上がってこないのだ。
「おい、やべぇんじゃねぇか。助けに……」
 飛び込もうとしたミレドを、ウォータン王とゼイル王子が必死で止めた。
「ま、待たぬか。もしかしたら、あの娘は水の精霊と会っているのかもしれん」
「そうです。ここ聖水江こそ、水の精霊が住まう場所。あの人は精霊の導きを受けたのかもしれません」
 信用はできないが、それを否定する理由もないのでミレドは飛び込むことを諦める。
「水の精霊の伝承、俺様が聞いておこうか……?」
 伝承を聞く前にルイナが会っても、詳しいことが分からないかもしれない。逆に彼女が全てを理解しても、ミレドが何も理解できていなかったら、それもまた無意味だ。
「伝承か……。ここに住まう水の精霊は、スベリアスという名を持つのだ」
 まだ多少呆然としながらも、ウォータン王は語り始めた――。


 水の精霊と言っても、姿は自分と同じなのだ。それ故に、微笑む姿が珍しく、この場に他の誰かいたらきっと驚いていただろう。色んな意味で。
 何が望みだと言われても、何を叶えてくれるのかを全く知らない。そのような状態で、何が望みだと答えられるわけがない。そのため、彼女はとりあえず妥当な答えを出した。
「私は、名をルイナと、申します。水の精霊の、力をお借り、したいのです――」
 エンから聞いた、『四大精霊を探せ』というロベルの指示。それはつまり、精霊の力を借りるなり得るなりをしろという意味ではないだろうか。エンはそのことを上手く解っていなかったようだが、彼女はなんとなく解っていた。
「“私の力、ですか――”」
「……?」
 水の精霊は、不思議と困ったような表情を見せた。何か悪いことでも言ったのだろうか。


「スベリアスって……三界分戦の、スベリアスか?」
 ウォータン王の言葉に、ミレドがそのまま聞き返した。
「あぁそうだ。我がウォータンの先祖は、代々スベリアス様が住まう聖水江を守ってきたのだ」
 スベリアスといえば、三界分戦で人間軍と共に戦った水の精霊王のことである。となると、デルドに行ったエンたちは、上手く行けば炎の精霊王たるメイテオギルに会っていることだろう。四大精霊を探せ、と言われてはいたが、まさか伝説の精霊王に出会えるとは思ってもいなかった。


 水の精霊は相変わらず微笑みを浮かべたままで。自分としては、滅多に表情を変えない自分の顔で微笑まれてもあまり言い気分ではない。水の精霊は微笑んだまま目を閉じ、何かを探るように集中する。やがて、目を見開いて緩やかに息をついた。
「“なるほど……貴女が私の力を欲する理由、よく解りました。魔王ジャルートに対抗するために、そして……貴女の運命を左右する、貴女の奥底に垣間見える闇の力に対抗するために。あぁ、それも大いなる貴女の意志の片鱗にしか過ぎない。貴女は最愛の人の為に、それこそ運命をも変える意志として力を求めている”」
 自分の心のことを言い当てられても、ルイナは別に気を悪くはしなかった。相手が水の精霊だからではない、自分のことをよく解かっているからだ。
「“良いでしょう、貴女に協力をします”」
 水の精霊は、ルイナの姿をしたまま流れるように、本物のルイナの周囲を泳いだ。
「“ただし、一つ問いておきましょう。私が力を貸すとき、貴女は人間ではなくなるかもしれません。貴女に、人間を辞める意味はありますか?”」
 水の精霊はあえてそう聞いた。辞める勇気、ではなく辞める意味。
 ルイナが人間を辞めてまで、力を得るための意味が存在するのかどうかを聞いたのだ。ルイナの心を見透かしているというのに、あえて水の精霊はルイナに答えを求めた。
「私は――」
 エンのように誰かの仇討ちというわけでもなく、ロベルのように勇者としての使命とかでもなく――それ以前にルイナは勇者でもない――、ならば自分は何のために闘うのか。何のために力を得ようとするのか。
 疑問が自分の中で膨れ上がる、ということは全く無かった。
 ルイナは自分で知っている。なんのために闘い、なんのために力を得ようとしているのか。
 それはもう解っていたことだ。ずっと、ずっと、昔から。
「私は、あの人と、一緒にいたい。それだけ、です」
 自分の言葉に、何の躊躇いもなく言った。妙なところで区切るのはいつものことだ。
「“貴女にとっては、充分すぎる意味のようですね。貴女の意志、しっかりと受け取りましたよ”」
 水の精霊の姿が薄れ始め、やがて消えて行く。その消え方は消滅ではなく、何かに同化していくような消え方である。
「…………」
 右手に持っている水龍の鞭に――いや自分の精神の、心の中に、変化が起きたのをルイナは知覚した。今までにない、強大な力。それは、破壊の力ではなく、全てを流してくれるような優しい力。水という名の、全ての恵。
 自らの内なる魔力が、上昇して行く。それだけではなく、在りとあらゆる知識が自分の中へ入り込んでくる。この世界の全てが頭に入ってくるようだった。それは、人間の脳では処理できないほどの膨大な情報。しかし今は全てを記憶、保存、再生できる。
「“これからしばらく、宜しくお願いしますね。ルイナ”」
 コクリ、とルイナが頷いた。
 心の奥底から声が聞こえてきても、驚くことはなかった。朧気ながら、そういうことであろうということが解っていたからだ。
「“貴女が共に戦う者は、魔王を斃そうとしていますね。確かに、あの者は斃すべき悪の魔。その使命を、貴女に託しましょう”」
 周りの水の性質が、変化しつつあった。それは全てを包む優しい水。迷い込んだ旅人を送り返すような暖かい水(別に水温が高いという意味ではない)。水の中なのに呼吸が出来る不思議な空間から、ルイナは元の世界へ帰ろうとしていた。ミレドが待ち、エンがいる世界に。
「“あとは運命の意志に従いなさい――”」
 水の精霊は最後にそう言い残したのを、ルイナはしっかりと聞いていた。


「ルイナ様!?」
 元の世界に戻ろると、最初に聞こえたのはミレドの驚く声だった。
「本当に、あの娘なのか……」
 ウォータン王が震えつつ言った。隣にいるゼイル王子も声が出ないほど震えている。
「会えたんですかい? 水の精霊に」
 ミレドの問いに、軽く彼女は頷いた。
「水の精霊の力を、貰い、ました」
 妙な所で区切って出たセリフで、ウォータン王とゼイル王子が同時に跪く。
「な、なんだぁ?」
 驚いたのはミレドのほうで、ルイナは相変わらず無表情。彼女も驚いてはいるものの、表情を変えるということはなかった。
「水の精霊の協力を得たということは、貴女様は水の精霊と同等なる存在。この国の神です」
 傲慢という噂のウォータン王は信じられないほど畏まり、ゼイル王子はそれ以上だ。
「ルるルルるルルるルルイナ様!! いえ、精霊様ぁ!!」
 などと特に意味の無い独り言だけで、そんな調子だった。
「んじゃ、次はどうするかっすよねぇ」
 近くには跪いてルイナを拝んでいるウォータンの王族が二名。
 どうしようかと迷っているうちに、その場に乱入者が現れる。しかしの乱入者は、跪いている二人意外の、ルイナとミレドはよく知っている人物だった。その赤い髪は見慣れた人物のそれで、着ている鎧も知っている人物が作った物だ。
「よぉルイナ! どうだった?」
 姿を現した赤髪の男――エンを見て、多少ルイナの雰囲気が明るくなる。
「精霊の協力を、得ま、した」
 やはり妙な所で区切るのは変わっていない。
「へぇ〜。やったじゃねぇか。オレも炎の精霊の協力を得たんだぜ。……ところでさぁ、こいつら何?」
 王族をこいつら呼ばわりするエン。しかしルイナを拝むことで必死の彼らは気付いていなかった。聖域に更なる侵入者(?)が増えたというのに。
 今はエン一人で、他のエードとファイマが見当たらない。
「あぁ、気にすんな」
 二人がいないことを気にした様子もなく、ミレドがエンの問いに答えた。他に説明する人間がいそうになかったからという理由でもある。
「ていうか、お前よくここまで来れたな?」
「エードがこの国まで送ってくれたんだ。そっから、なんとなくルイナがいそうな方向に走ってきたら辿り着いた」
 犬かお前は、と言いかけて、エンが一度本物の犬になったことを思い出して笑ってしまう。
「そういう意味じゃねぇ。城の地下だぞ、ここ。よく入ってこれたな」
「あ、それなんだけどよ。邪魔しようとした兵士がたくさんいてさ」
 それもそのはずだ。謎の地震が起きてからてんやわんやの時に不法侵入など認めれるわけがない。
「兵士を倒したのか?」
「いや……『どけよ!』って言ったら素直にどいてくれた」
 これにはエンも拍子抜けしながらも、直感を頼りに走ってきたら見事にルイナと遭遇ということであった。どうやら、ウォータンの兵士たちはエンが炎の精霊王の力を持っていることを本能的に悟っていたのかもしれない。同じ精霊王を祭るこの国ならではの、条件反射だろうか。
「ま、いいか。それじゃ、行こうぜ」
 ミレドが促し、三人は外へ出る。ウォータン王族二名が必死でルイナを止まらせようと努力したが無視。ウォータンを出国したが、その場にもエードとファイマはいなかった。用事がある、とかでそれぞれが違う国を訪れているらしい。
 ウォータン国領土を出て、話し合いをするために近くの街へと寄った。ウォータンで話すのもよかったのだが、ウォータン王たちの手が回ると厄介なことになりそうだったので、あの国にはいられなかったのだ。


「んで、ジャルートは魔界にいるっていうから、オレも魔界に行こうと思う」
 酒場へと入り、人数分の食事を頼んですぐにエンが単刀直入にそう言った。
「魔界、か。どうやって?」
 ミレドの質問に、エンがピタリと止まる。言われて初めてエンは気付いたのだ。
「…………さぁ?」
 魔界に行くことになるだろう。それは炎の精霊から直接聞いて分かっていた。しかし、どうやって行くかなどは全く知らないのだ。
「……」
 ルイナが無言で水龍のムチを召喚。別にエンを叩きのめすからというわけではなく、彼女はムチから水を出してそれは空中に止まった。そして、そこに世界地図が浮かび上がる。水の精霊力を応用すればこのようなことも可能なのだ。
 東の果てをルイナが指す。同時に全員がそこを凝視した。
「ここに、魔界紋という、場所が、あります。そこから、行く事が可能、でしょう」
 ルイナに流れ込んでいる知識が咄嗟に教えてくれたのだろう。
「魔界紋、ねぇ。なんで今まで誰も気付かなかったんだか……」
 頼んだ料理が運ばれて、それに食らいつきながらミレドは呟いた。確かに、長い歴史の間にそのような場所があるということなど聞いたことが無かった。何かしらの結界でも張ってあるだろうか。
 考えれば考えるほど疑問が浮かんでくるが、エンたちからすれば、もはやこの世界全体が常識から逸しているのだ。そんなこともあるだろう、くらいにしか思っていない。
「そこから行けるのか?」
 魔界紋という名からして、魔界への通り道なのだろう。ルイナは水の精霊の代わりに、エンの問いに対してコクリと頷いた。
「ダークデス島の近くだな……」
 気を取りなおしたミレドの言葉で、エンの顔が一瞬強張った。今は魔王城も無く、ただの島でしかない。瘴気も完全になくなっているらしい。それでも魔物が出没することには変わりないのだが。
「東に行くなら行くで、『マナ・アルティ』に協力を願いたかったなぁ」
 諦め口調でミレドが言った。それも当然である。マナ・アルティは――というよりも、東,西,南,中央で名を馳せた冒険者たちは既に逝ってしまったのだ。少し前の事件のせいで、それはエンも多少関係している。
「それって嫌味か?」
 エンが嫌そうに聞くと、「別に」とだけ彼は答えた。
「とにかく、この島に行けば良いんだろ。ミレド、ファイマとエードに連絡しといてくれよ」
 立ちあがりミレドに指示を出す。しかし当然、彼は嫌そうな顔をする。
「お願い、します」
「…………了解しやした」
 主であるルイナから頼まれたら、断るわけにはいかない。しかたなく彼は連絡係を請け負った。どちらにしろ、ミレドは既に効率のよい方法を既に知っていたのだ。あとは、それを実行に移すだけだ。



 エンとルイナは早速、魔界紋のある島へと向かった。魔界へ行くために。
 だが気付いていただろうか。二人を見送ったのは、ミレド一人ではなかったことに。
「ふ〜ん……いいねぇ〜。次はやっと僕の出番ってわけだ。今まで見守っているだけだったからねぇ。そろそろ――暴れてみたいな」
 にまりと笑っている妙に大きな鎌を持つ若者が、二人を見ていた。彼の腹には、大きな口があり、今は錠で封じられているがたまにびくびくと蠢いている。大きな鎌はやけに生々しく、よく見るとそれは蛇のようなものが憑いている。
「神も人間も魔族も精霊も龍族も……。僕を楽しませてくれるかな〜♪」
 腹の口意外はいたって普通の人間の姿をしているが、しかしその笑いは人間にできるような笑いではなかった。あえて言うなら邪笑。だが不思議なことに殺気や瘴気は感じられなかった。それ故か、近くにいたミレドが彼に気付くことはなかった。


――四大精霊の精霊力『水』を入手――

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