-63章-
復活の意志




 不思議と記憶を失っている時の記憶もあった。
 医者のホールに聞いても、本来は記憶喪失中の記憶は、もとの記憶が思い出された時に消えるものらしいと言っていた。しかし今、エンはしっかりとティリーとの出会ったときの記憶があるのだ。当然、その時から今までに至るまでの間ずっとだ。
 あとからルイナに薬品名を聞くと『MODO’sモードス』という、一種の万能薬らしい。確かに身体中のケガも完全に治ったし、記憶も戻っている。それでいて副作用がないのだ。奇跡的な調合薬といえる。

 陽射しが強まる午後の刻。
 場所はINNホーク。四角いテーブルを囲んでいる人数は六人。他の客は誰もいない。昼は出稼ぎに出ているからだ。
 記憶を取り戻したエンは、相変わらず簡素な村人服に身を包んでいる。隣のルイナは無表情でお茶を啜っている。ちなみに、その服装は身躱しの服ではない。魔法印の刺繍された、僧侶服に近いものだ。軽装に見えるが、これでも大幅の防御力を誇る代物で、ファイマが作ったとか。
 向かって右側に、こちらも相変わらず、白金鎧プラチナメイルを煌びやかに輝かせているエード。そして、妙にそわそわしているミレド。
 彼がそわそわしているのも理由がある。暗殺の依頼を受け、その標的が仲間であり、また、今テーブルを一緒に囲んでいる人物でもあるのだ。暗殺者が標的と、のうのうと話などしていいものなのだろうか、という疑惑と戸惑いがミレドを揺さぶっているのだ。
 標的の一人であるエンはのん気な顔をしている。もう一人の標的、ティリーという女性は、複雑な表情でテーブルと睨めっこしていた。
 ミレドたちの真正面には、こちらも呑気にコーヒーを飲んでいるファイマの姿が目に入った。
「……」
 無言。
 誰もが何も喋らず、喋れずの状態にある。もし一言でも話題を出そうとしても、二、三言話しただけでその話題は終了してしまうだろう。今はそんな状況なのだ。
 しかし、誰かが今集まっている理由の、一番のメインになるだろう話を切り出せば、いろいろと話すことがあるだろう。それを誰かが切り出さなければ、いつまでもこの沈黙は続き、夜になったら各々が勝手に解散――というただの時間の無駄になってしまう。
 そして、それを切り出したのは、意外なことにもルイナだった。
「エンを、助けてくれて、ありがとう、ございました」
 区切りが多いセリフを言って頭を下げる。それにつられてティリーも慌てて頭を下げた。
「いえ。……あの、それで、皆さんこれからどうするんですか?」
 ティリーはそれが一番気になるらしい。皆さんというより、エンがどうなるのかに興味があるようだが。
「どうするもなにも、何をすりゃあいいんだろうな」
 エンが窓の外の空を見ながら言った。
 魔王城に乗り込んで、そして死にかけた。さらには、勇者ロベルという大きな存在すらも失っている。何をすればいいのか、それはこっちが聞きたいことだった。
 リリナに聞けば良い助言が聞けるかも知れないのだが、今はそんな状況ではない。

 ――数日前。
 エルマートンの呪縛からエンを取り戻すために魔王城へと乗り込んだ日。
 数時間後、彼らはリリナの下へ戻ってきた。
 エードとファイマ、ミレドの三人だけが。聞けば、強制的に海に落とされ、キメラの翼で戻ってきたらしい。リリナが待っていたエルデルス山脈へ。
 服も乾き、これからどうしようかという時に今度はルイナとロベルは戻ってきた。
 ただし、ルイナが腹に穴が開いており、大量の血が流れ出ていた。意識も不明で、いくら呼びかけても反応はない。そして、ルイナと一緒に送られてきたのは、既に事切れたロベルだった。身体中に火傷や斬り傷があり、酷い状態だったが、顔が――表情だけが満足できたような笑みを浮かべていた。
 完全に無念、というわけで死んだわけではなさそうである。
 最初は全員が取り乱したものの、まだ息のあるルイナの治療を優先させた。ありったけの回復魔法や薬など回復手段を施し、ようやく一命を取り留めた。
 その時、世界が叫んだ――。
 それは破壊の力と破壊の力が衝突し、別の新たな破壊の力が生み出されたものが世界に解き放たれた感じだった。魔道を少しでも心得ている者は、全員が感じただろう。世界が叫び声を上げたことを。
 翌日、意識が戻ったルイナに、エンを呪縛から解放することができたことを聞き、捜索を開始した。
 人物の捜索呪文を試してみたが、何の反応がなかった。それは、その人物の死を示しているか、魔法条件に該当しない何かが当人に起きている場合だ。
 そのころのルイナの落ち込みはひどかった。ただでさえ無口なのが話しかけても口を開かず、そして暗い雰囲気が嫌でも伝わってきた。この時、エードはが己の無力を嘆いていたのは当人以外知らない。
 落ち込んでいたのはルイナだけではなかった。『大賢者』リリナは人前では明るかったが、一人になると大泣きをしていることを誰もが知っていた。そんな状態の彼女にまともな助言を貰えるとは思えず、ミレドはエンを捜索するために盗賊ギルドへと戻った。
 それを見計らっていたかのタイミングで、暗殺依頼が舞い込んだ。そして、今の状況に在る。

「そういえば……『精霊を探せ』。ロベルがそう言っていた」
 死ぬ間際に聞いたこと、ただ一言、彼はそう遺していたのをエンは思い出した。
「精霊? 魔法を使うときの、あの精霊か?」
 エードが聞き返すが、どう答えて良いものか迷った。エードの言う精霊は数多く存在し、目には見えないが、今この場にもいるのは確かだ。大きく言えば、魔法が発動する場所に必ずいるのだから、その量は半端ではない。
「もしや、四大精霊エレメンタルのことか?」
 ファイマがコーヒーカップをことり、と置いて訊ねる。
 ――四大精霊エレメンタル。『炎』、『水』、『風』、『地』の世界の基礎を司る精霊のことだ。
「もし四大精霊のことだったとして、だ。探したところでどうすんだ?」
 ミレドが確かな疑問を口にする。その疑問に答えられる者はいなかった。
「……解らねぇ。けど、だからこそ探すんだ」
 会って、そして精霊に直接聞けば良い。気軽に会えるような相手ではなく、大きな力を持つ精霊だ。何かの助言でも貰えるかもしれないし、魔王を斃すために協力もしてくれるかもしれない。
「そして、ロベルの仇を討つ」
 澄んだ真直ぐな瞳で言うエンだったが、どこか不自然という言葉が似合った。
 何かを迷っている。それを隠すための、作られた素直さ。そんな表情だった。


 その夜。
 ミレドはさてどうしたものかとフィッシュベリーの浜辺をふらふらとしていた。暗闇に紛れて波の音がミレドを呼ぶようであったが、そんな感傷に深く浸れるほどのロマンチストではない。
「……んぁ?」
 波の音に呼ばれて――ではなく、目についた動物に、ミレドはまゆを寄せた。動物と言っても、ただのカラスであり、しかしそれに『ただの』とつけるのは間違いである。
「盗賊ギルドから……じゃねぇよなぁ?」
 カラスの足には紙が括り付けられており、それをミレドが取るまで待つかのようにカラスはじっとして身動き一つすらしない。
 盗賊ギルドで使われる伝書鳩……ならず伝書鴉である。しかし、そのカラスには見覚えがあった。自分を育てた『眼殺』の二つ名を持つ盗賊ギルドの幹部が、個人的に飼っているカラスである。
「なんなんだかねぇ」
 とりあえず親であり師からの連絡らしいことはミレドにもわかった。しかもギルド専用ではなく個人のカラスを使うとなると、よほど秘密にすべき内容らしい。無視するわけにもいかないので、ミレドは手紙を受け取り、カラスが飛んでいくのを見送って文面に目を走らせた――。

 それからすぐ後だ。デューの館に、ミレドは赴いた。
 雇い主と話をするためあり、しかしそれは暗殺内容についてではない。こっそりと館に忍び込んで、やがて目的の物を見つける。黒い手帳で、中身を見て内容に一通り目を通すと、やはり、と思わず笑みがこぼれる。それを持って、デューのいる部屋へと入った。デューは杯を傾け、美酒に酔っていたが、それもすぐに終わる。
「どうした? あの二人の暗殺はすんだのか?」
 まだ、彼は知らないのだ。自分が裏切っていることなど。
「いや、まだだ」
 もともと細い目を刃の如く細める。そこから微量な殺気が溢れるが、目の前にいる者はそれに全く反応しない。
「なら何故戻ってきた?」
「コイツを見せるためじゃねぇの?」
 ニヤリと笑い、先ほどのの手帳を見せつける。
「そ、それは!?」
 今までの闇の記録、とでも言おうか。盗賊ギルドにも目をつけられてもおかしくない内容がそれには記されていた。それというのも、ギルドに対しての詐欺的行為や賄賂、その他もろもろの記録があるのだ。
 だいぶ前のように思えるが、エンたちと共にウィード城へ侵入すると決めた日。あれからまだ日は浅いが、盗賊ギルド内の内部抗争は今も尚続いている。
 この黒手帳には、明らかに首謀者の影が見える記録も記載されていた。
「き、貴様?!」
「俺様は既に雇い主がいてね、ここに来たのも依頼を果たすためだ」
 もちろん嘘だ。
 本来は、本当にギルドからの暗殺要請が来ていたのだが、こう言ってしまえば一応つじつまが合う。ギルドのほうにも、ルイナに仕えていることを事前に登録してあったのだから。
 それに師からの連絡ではデューという人物が怪しいということが書かれていた。調べてみると成果はあったので、正統派の勝利に内部抗争は終わるはずだ。
「それじゃ、俺様はギルドに行くぜ。コレを持ってな」
 盗賊ギルドにこの闇の手帳を持って行けば、デューのギルドに対する悪事が全て表に出ることになる。今現在劣勢にあるとはいえ、正統派盗賊ギルドという『組織』を敵に回すのだから、デューはここで生きていくことはできないだろう。ギルドの不穏な情勢にはデューも一枚噛んでおり、この証拠さえあれば妙な輩を引っ張り出す事が出来る。
 東大陸の正統派ギルド支部長が老衰で他界したが、時期を見るとその死は仕組まれたものに違いなく、今の東大陸盗賊ギルドは内乱状態にあった。それも、この証拠さえあれば少しは収まるだろう。
 東大陸支部長の名前を継いだ盗賊がいるらしいが、ギルドとの関連性は無く、カンダタという名の東の大盗賊は最早ギルド関係者でなくなっている。そのことが、ミレドにとって残念なことではあったが、ギルド全体が安定化するのならば多少は割り切る事ができるだろう。
 フィッシュベリーも、新たな村長が就任するはずだ。
 これで、もうティリーに危険が及ぶことはない。
 だが――。
「あとは、テメェ自身の問題だぜ……」
 館を出て、夜空を見上げながら呟く。その呼びかけは、仲間の一人に対してだった。
 満月が出ていたが、とてもそれを見て落ちつける心境ではない。彼が、旅に再び出るかどうかが分からないのだから。


 場所は変わってINNホークの温泉場。
 満月を見ながら、エンは一人で湯に浸かっていた。身体中の疲れが取れる、不思議な感じだ。
「…………」
 疲れが消えても迷いは消えない。
 月明かりの届かない漆黒の闇夜を見れば見るほど、その迷いは大きくなる。
 ロベルが死に、魔王に殺されそうになった時、ルイナを瀕死状態にまでしてしまった。あの時、動けなかった。恐怖という感情が全身を凌駕したのだ。
 そして、無我夢中で放った禁呪である創造召喚禁呪魔法――世界破滅爆激ギガ・メテオ・バン。それを使っても魔王を斃すことはできず、負けに近い結果になってしまった。

 ――人間ニハ究極ノ力ヲ手ニ入レタ魔王ニ勝ツコトハ出来ナイ。

 そんな考えが浮かんだ、いや、そんな考えしか浮かんでこない。
「マズイなぁ……」
 自分は記憶が戻らなかった方がよかった、とどこかで思っている。そしたら、この村で幸せに暮らしていただろう。だが、記憶が戻り、自分に課せられたやるべきことも思い出された。
「何が、マズイの、ですか?」
 ぎょっとして後ろを振り返ると、タオル一枚だけ巻いたままのルイナが一人立っている。今ここに来たのだろう、恥じらいも無くすぐにエンの横に座る。
「……別に、なんでもいいだろ」
 隣に座っているルイナに照れることもなく憮然として答えた。
 こうして二人だけで静かにいることなど、どれくらい久しいことだろうか。ヒアイ村では毎日だったが、このルビスフィア世界に来てからなにかと忙しかった。
「……よく、ありません」
「……」
 こうして否定するルイナはそれなりに珍しいとエンは思う。今までのパターンなら、『そう、ですか』とだけ言って続き言葉がなくなるのだ。だか、彼女はエンの言葉を否定した。
 彼女は――他の全員も――知っているのだ。エンが何に迷っているのかを、何を失っているかを……。
「そうだな、お前に隠し事しても意味無いよな」
「はい」
 ルイナは自白剤を調合できるので、隠し事は昔から無意味のものと化す。
「オレは、どうすればいいんだろうな」
 夜空を見上げると、満月が見事なまでによく見えた。
「ジャルートに剣を向けられたとき、動けなかった。……恐かったんだ、自分は死ぬんだって……。その結果、お前を見殺しにしてしまうところだった。ずっと守るって約束したのに……。もう嫌なんだ、大切な人がオレのせいで死んでしまうようなことは……」
 自分の無力さのためにロベルが死んで、ルイナまでもが死にかけた。死というものをこんなに恐れたのは初めてだろう。自分の死と、他人の死。どちらも、もう二度と関わりたくないのだ。
 それについてルイナは口を出さず、そのまま続きを促した。
「オレにはロベルのように使命感もない。魔王にとってオレは何の意味も無い、無力なただの人間だ」
 魔王の息子、エルマートンの呪縛から解き放たれた今、自分には魔王と関わりを持つ意味が無い。本来、魔王を斃してやろうと思った発端は何だったのだろうか……。
 それは、自分が勝ち取った賞品、真聖の宝珠オーブを横取りされたという子供の喧嘩のような問題である。
「……エン、あたなは、何がしたい、のですか?」
 毎度毎度、妙な所で区切るルイナがここでようやく言葉を発する。
「オレは……」
 ――戦いたくない? いや、何かが違う。
 では、何がしたいのか。樵の仕事? フィッシュベリーで暮らす? 自分の世界に戻る方法を探す? 生きるということをヤメル? 今在る選択肢の中で何を選ぶべきなのだろうか。
 言われて初めて気付く。弱音を吐いているだけで、自分が何をしたいのか、自分自身が解っていない。
 選択肢は多岐に別れている。今、歩むべき道は何だろうか。『自分』はどの道を歩きたいのだろうか。
「あなたが、選んで、ください。何を選んだと、しても、私はあなたと、共に……」
「…………なんでだよ」
 普段からは考えられないか細い声で、エンは呟いた。
「なんで、そこまでしてオレについてきてくれるんだよ。誓いも果たせなかったのに、守れなかったのに、逃げる道を選ぶかもしれないのに!」
 最後は半ば涙を浮かべながらの言葉だった。その涙の理由は、自分でもよくわかっていない。
 ルイナ解っているのかいまいか、それでも彼女の答えは変わらない。
「何をしても、エンはエンです、から。そんなエンが、私は好き、です」
 他の者が聞いたら赤面してしまいそうな言葉に、しかしエンは悔しげに俯いただけだ。オレもだよ、という小さな呟きはしっかりとルイナの耳に届いていた。
「…………オレは……」
 しばらく沈黙が続き、エンはそれを破るように言葉を紡いだ。しかし、その言葉が続かない。頭が熱い。温泉に長時間入ってのぼせたのか、思考が定まらない。
「オレは……」
 同じセリフをもう一度呟く。しかしそれで答えが出るわけではない。
「…………」
 ついに、また無言になってしまう。何がしたいのかと問われ、何がしたいと答えられない。満月を見つめる。何がしたいのだろうか?
 否。エンは気付いている。心の中で、ずっと自分に囁きかけている存在。それは自分の、本来の意志。心の奥底に在る、自分自身の声。
「諦められない、よな……」
 できないから。無理だから。不可能だから。そんな状況を、エンは昔から拒んできた。抗ってきた。絶対に諦めない、と主張し、やろうとしたことを可能にしてきたのだ。
 事の重大さは違えど、今回もまだ、その『無理』を見せ付けられただけだ。それにエンは、このルビスフィア世界の『哀しみ』を知っている。知ってしまった。それでいて全てを放棄するなど、エンには我慢ならなかった。強力な攻撃魔法なるビッグ・バンを操り、『龍具』の使い手が、無力であるはずがない。無力ではなく力が足りていないだけだ。
  誓いを果たせなかったからと言って逃げ出し、同じ過ちをみすみす繰り返すのでは意味が無い。今度こそ守れるように、強くならねばならない。この世界で――いや、生きている限り、魔王の脅威と相対するだろう。
 ならば、今よりも強くならねばならない。逃げていては、それはできない。
「……迷う必要なんて、なかったな」
 あの日……バーテルタウンでロベルと別れる時に誓った約束。共に強くなり、魔王を斃す。誓いを果たすべき人間の片方は亡き人となったが、その誓いはまだ課せられている。
 魂は常に共に在る。ロベルはそう言った。肉体が滅んだとしても、彼の魂は『ここ』に在るのだ。
 だからこそ、今やるべきことは既に存在している。
「ロベルの遺言を頼りに、四大精霊を探し出す。それで、ジャルートを斃すんだ!」
 どうせなら目標を高く持つべきだ。それに、負けたままでいるのは何か気に食わないのだ。
「ただ、それだけだ」
「……そう、ですか」
 ルイナはゆっくりと頷き、湯から上がる。
「ルイナ!」
「はい?」
「ありがとうな。何回も助けてもらったこともあるけど、本当に!」
「……はい」
 ルイナは一足先に脱衣所に向かう。さすがに男女別にしてはあるので、エンは自分の服を置いてある方――当然男用である――に向かって行った。


 翌日。
 ティリーには解かっていた。どれだけ迷っていようと、エンのような男は旅立って行くのだと。荒波を恐れて、出航を延々と先送りにするような男ではないと。立ち向かい、挑んで行く男であると。
「それじゃあ、ね」
 名残惜しげにエンを見つめ、しかしそんな視線を受けているエンは無邪気に笑う。
「ああ。いろいろと、ありがとうな」
 彼女の気持ちなど知らず、エンは普通に言った。
「あ、忘れる所だったわ。はい、これ」
 ティリーが差し出したのは、荷物袋だった。中に、ロベルから譲り受けた光の玉も入っている。
「……あなたがいた数日、とっても楽しかったわ」
 ティリーの父親は、INNホークの経営者だったのだが、病で他界し、宿をティリーに任せた。昔からホークアイとシーホークの二つの組合は酒場の常連客で、たった一人で宿を経営しているティリーが経営している今は、昔よりも来る確率が高く、ほぼ毎日だ。
 それも、たった一人ティリーを寂しがらせないため、という理由である。だから、ティリーは客が来てくれることが凄く嬉しかった。どんな理由だろうと、自分の宿に来てくれるのが嬉しかったのだ。
「さようなら」
 新たな客、だったが、もう出て行ってしまう。それが普通なのだが、ティリーにとってはもっと――もしくはずっと、いてほしかった。だが彼は旅立ってしまう。
「あぁ、さよならだ」
 その挨拶は、ただの別れを惜しむ挨拶だけではなかった。エンにとって、安寧の暮しから別れ、再び死があるかもしれない戦いへと赴くための、決意の別れ。
 そしてティリーは、エンという存在を諦めるという意味での別れ。

 この村にはホールが経営している病院施設があるが、わざわざ自分の宿のベッドに寝かせておいた理由。ティリーのような年代の男はこの村には少なく、海で拾ったときに一目惚れしていたということは、ティリー自身の一人しか知ることが無いことだった。

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