-74章-
結界魔道士



 それからどれほどの時が経っただろう。
 実際には一分も経っていないのだが、その場にいる者たちにとって、それは永劫の時にさえ感じた。
「お姉ちゃん……」
 最初に沈黙を破ったのはセナスだった。
 呼ばれた仮面の魔道士――否、仮面は既に落ち、その素顔を露わにしているシャミーユがはっとする。
 大粒の涙を流しながら、シャミーユはようやく意識がはっきりしてきたらしい。
「セナス……あぁ、セナス。バカな子! あなた、死ぬかもしれなかったのよ」
 言いながらもセナスを抱きしめ、生きていることを実感している。
「お姉ちゃん、痛い……」
 喜びをかみしめて抱きしめているが、その強さは細いセナスが苦しむほどだ。仮面の魔道士に意思を乗っ取られていたとはいえ、己の手で妹を殺そうとしていたのだから、無理もない。
「シャミィ!」
 ツバサがシャミーユとセナスに駆け寄る。どうやら麻痺の魔法も解けているようだ。
「ツバサ……」
 セナスを抱きしめたまま、シャミーユが顔を上げる。
 そのままツバサに駆け寄らんばかりの笑顔だったが、彼の顔を見てすぐに表情が曇った。
 あからさまに表情を変えられたツバサは、しかし動揺することなく、険しい顔をしている。
 セナスを安心させるかのように軽く二度、頭をぽんと叩き、抱きしめていた腕を解放した。
「お姉ちゃん?」
 セナスの不思議がる呼びかけには寂しげな微笑みを返すだけで、すぐにツバサに向き直る。
「仮面の魔道士の支配からは解放されたんだろう?」
 期待を込めて聞いている口調ではなかった。これから聞く事実を、嘘であって欲しいと思いながらの言葉だ。
 ツバサの問いに対して、シャミーユは曖昧に頷いた。
「精神の支配からは、ね。もう仮面の魔力を使ってあなた達を襲うことはない。でもまだ、終わりじゃない」
 やはり、とツバサが呻くように言う。
「え!」
 と、驚きの声を上げたのはイサである。
「どういうこと?」
 ツバサは何かに感付いているようだが、理解しているのはシャミーユとツバサの二人だけだ。
 シャミーユは全員に説明するというより、ツバサの予感を確信させるかのように、彼に語りかけるように言った。
「仮面の魔道士の、最後の意趣返しといった所かしらね。攫われた吟遊詩人は仮面の魔道士が作り上げた空間に閉じ込めてある。その空間の鍵は」
 シャミーユは、とん、と手を己の胸にあてた。
「私の命」
「そんな……」
 思わず声に出したのはイサだったのか、セナスだったのか。少なくとも、ツバサは押し黙って、まっすぐシャミーユを見つめている。
「ねぇ、ツバサ。あなたなら選択すべきことが分かっているでしょう?」
 問われて、ツバサはそれでも少し黙っていたが、やがて重々しく、絞り出すように声を出す。
「あぁ、分かっているさ」
 そう言って、召還したままの剣の切っ先をシャミーユに向けた。
「お姉ちゃん!」
「セナスはそこにいなさい!!」
 駆け寄ろうとしたセナスに、鋭い声が飛んだ。ぴしゃりと叩きつけられた声は、セナスの足を見事に止める。まるでそこに制止の魔法でもかかっていたかのようだ。
「私はどうせならツバサに殺してほしいの」
「そうだな。僕も、そのつもりでここに来た」
 仮面の魔道士のせいとはいえ、シャミーユは国民を攫うという大罪を犯した。他の誰かに討たれるくらいなら、自分が討つ。そのつもりでツバサはこの任務に名乗りを挙げたのだ。シャミーユの命にかけられた鍵を解放しなければ、攫われた吟遊詩人は戻ってこないのならば、その役目を担うのは自分以外にやらせたくはない。
「待ってよ! まだ方法があるかもしれないじゃない!」
 今から行われようとしていることを黙って見過ごすことなど、イサにできるはずがない。
「イサ様!」
 このままではツバサに殴りかかってでも止めかねないイサを、ラグドが後ろから抑える。
「ちょっと、離してよ!」
「彼らは決断したのですよ」
 ラグドも大切な人を殺めなければいけない決断を迫られたことがある。その選択が、いかに重いかを知った上での決断だ。ツバサとシャミーユも、諦めたわけではない。ただ、選んだのだ。
「だからって……」
 力の強いラグドに押さえつけられると、イサが振り払うのは容易ではない。
「イサ、といったわね」
 と、シャミーユが語りかけてきた。
「これは私が心の底から願っているの。これが私の幸せなの。だから、ちょっと辛い場面を見せることになるけど、我慢してね」
 微笑む彼女の顔は、今から死ぬというのに恐れや不安は全くなかった。
 それこそ、今から幸せが訪れるかのように嬉しそうな微笑みだ。
「セナスも、ごめんね。最後に一目あえて、よかったわ」
「お姉ちゃん……」
 セナスは言葉が続かず、黙ってしまった。ただ、その目には涙を浮かべている。
「ツバサ、さあ」
 そう言ってシャミーユが両手を広げる。
 ツバサは頷き、大きく息を吸い込んだ。
「―――!」
 無言の気合い声をあげ、ツバサは剣を突きだした。流れるように、シャミーユの胸元に吸い込まれた刃は、あっさりと彼女の細い身体をローブごと貫く。
「大好きだよ、シャミィ」
 密着した状態で、彼女の耳元にツバサは呟いた。

 思わず目を背けたくなることだったが、イサは必死に前を見ていた。どうしようもないのなら、せめて二人の覚悟を見届けねばならないと思ったからだ。
 ツバサの剣がシャミーユを貫き、彼女の身体から鮮血が――。
「え?」
 流れない。一滴も。ローブが厚いからというわけでもない。
 貫き、背から生えるように突き出ている刃も血に濡れてはいない。
 ツバサがゆっくりと剣を引き抜いた。
 それでもやはり血は流れず、そこにあるべき傷もない。
「何を、したの?」
 驚いているのはシャミーユも同様だ。今ではもう死んでいるはずの彼女は、平然と立っている。
「……僕の冒険職は、魔法戦士ではないんだ。魔を滅し、封ずる剣士。『魔封剣士』が、今の僕さ」
 中級魔法と剣を同時に扱える魔法戦士は、一般的な上級職だ。だが、それとは別の上級職として存在するのがツバサの魔封剣士である。自らも魔法を使いつつ剣を取る魔法戦士と似通っているが、決定的に違うのは、魔法戦士は魔法を駆使して戦闘を有利にしていくもので、魔封剣士は相手の魔法を封じ込めることで魔法使いに対して絶大な優位性を得るものだ。
 そして、魔法の呪いを解除するのも、魔封剣士が得意とすることの一つ。
「君の魂にかけられた鍵だけを斬った。肉体には、なんの影響もないはずさ」
 言いつつ、ツバサは大量の汗をかいていた。どうやら、相当な集中力を必要とし、ほんの一瞬の出来事であったが負荷もあったのだろう。それに一歩間違えば本当にシャミーユを殺していたのだ。その緊張感は言い知れぬものだろう。
「助かったの? さらわれた吟遊詩人たちも?」
 事実がまだ理解しきれていないのか、シャミーユも混乱している。
 仮面の魔道士だった頃の感覚は幾つか残っており、魂の牢獄に幽閉されている吟遊詩人の様子も、念じれは容易に知ることができる。それを今、改めて行うと、確かに鍵は壊され、幽閉されていた吟遊詩人たちは牢獄から姿を消している。
 決して消滅しているわけではない。不思議と、帰るべき場所を変えることができたのだと分かった。
「あぁ……ああ!」
 生きている。その喜びと、皆が無事であった喜び。あまりのことに、言葉にならず、流れる涙は嬉し涙だ。
「君の幸せを僕は望む。だから、シャミィの言う幸せを優先させたかったんだけどね。僕の幸せは、君を助け、君と暮らしていくことなんだ。だから、僕の幸せを優先させた」
 ツバサがシャミーユの肩をそっと抱く。
「知らなかったかい。これでも僕は、結構わがままなんだ」
「……えぇ、知っているわ」
 そう言って、シャミーユは泣きながらも最高の笑みを見せた。

 その様子を見て、結界魔法に捕われていた男は大きく息を吐いた。
「冒険者たちよ、感謝する。我が願いも、成就されたようだ」
 仮面の魔道士の願いを叶えようとする、実体を伴った残留思念。
 今その目的が果たされ、彼がこの世に存在し続ける理由もなくなったわけだ。
「お前、ずっと傍にいたのに分からなかったのかよ」
「先ほども言った通りだ。私はあのお方の考えを感じ取り、実行することしかできない。考える、という概念がないのだ。だから、他の者が答えを導き出すのをずっと待っていた」
 ある意味、呪縛のようなものだったのかもしれない。
 仇討などを考える様子もなく、彼は驚くほどあっさりと姿を消した。
 まるで、そこには誰にもいなかったように。
 ただ、最後に安らかな笑みを見せていたのだが、それはすぐそばのジェットくらいにしか分からなかった。


「とりあえず一区切りついたわけだけどさ」
 まだ問題が残っている。
「あれ、どうしよう?」
 とイサが指差したものは、仮面の魔道士の魂が宿っていた仮面だ。
「仮面の魔道士――彼女の意思は消え去ったわ。それは間違いない」
 答えたのはシャミーユである。
「あの人も、仮面に捕われていたの。呪いみたいなものよ、まさか解き放たれるための鍵が、誰かに本当のことを言ってもらう事、だったなんてね」
 人が本当に望んでいることなど、わかったつもりで案外わからないものだ。下手な解放の呪文よりも、複雑な呪いだったのかもしれない。
「意思は消えたけど、残された魔力はまだかなりのもの。悪用されないようにしないと……」
 なにせ三界分戦の時代でさえ恐れられた魔力である。もし妙なことに使われたら、と思うと背筋が凍りそうだ。
 皆がどうしたものかと思案を巡らせる中、おもむろに動いた人物が一人。
「サウン?」
 ブレイク・ペガサスの最高齢、サウンはゆったりとした足取りで仮面の下へと歩いていく。
「悪用、とは。例えば」
 さも当然のようにサウンは仮面を拾った。
 そして。
「このようなことかな」
 仮面を自らにかけ、手を一振り。
 その一振りで、この部屋全体に魔力が溢れた。
「な!?」
 何が起きたのか、一瞬ではわからなかった。気付いたら、全員が地べたを這うように倒れていたのだ。
「これは?!」
 意識が追いつくと、身体が異様に重い。重石でも乗せられているかのように全く動かない。
「サウン! てめ、どういうことだ!」
 ジェットも非難の声に、サウンは口元に笑みを浮かべた。
「一体、何が……」
 鍛えているといえ、小柄なイサは喋ることさえ困難であった。鍛えているイサでさえこうなるのだから、身体を鍛えていないセナスやシャミーユは苦痛に感じるほどだ。
「ワシはこの件に関わる時、ずっとこの時を待っていた。三界分戦時代の超魔力。これを持ってすれば、ワシの願いは、ワシの幸福は、実るのだから」
「サウンの、願い?」
 と、ツバサが聞き返した。
「ワシのような結界魔道士は仲間がいなければ役に立たないのは知っているだろう」
 結界魔道士が作る結界魔法は通常の精霊魔法と比べて強力なものが多い。ただし、その結界を描くまでには大量の時間を必要とし、一対一の勝負になると不利どころではない。
「しかしこの超魔力を使えば、ほれこの通り。一瞬にして結界魔法を発動させることができる」
 重力魔法ベタン。それの結界魔法たる、重力結界魔法、ペタベタン。結界内に存在する者全てに重力の壁を押し付ける魔法だ。発動中は激しく魔法力を消費するベタンとは違い、結界の維持は少ない魔法力で済むし、範囲も広い。問題なのは、その結界を作るための時間だ。
 だが、先ほどサウンが一振りした動作。それだけで、この結界魔法は完成した。
「ワシは力を存分に使ってみたい。強力な魔法を、いとも容易く操る快感。そして結界魔道士として、歴史に名を残すのだ」
 それがサウンの目的だった。願いだった。幸せだった。
「歴史に、名を残すだぁ? いくら結界魔法が瞬時に発動できるからってよ、歴史に刻まれるなんて簡単にできるわけねぇ」
 だからこんなことすぐやめろ、とジェットが叫ぶが、サウンは受け入れない。
「なぁに、できるはずだ。強力な軍事力を擁した国を一つ、滅ぼしでもすればな」
 軍事国家ベンガーナ。もしそれがたった一人の結界魔道士に滅ぼされでもしたら、その話は世界中に轟くだろう。サウンは自分の国を滅ぼそうというのか。
「そんなこと、できるはずがない」
「できるさ。だが、そうさな、確かに今の力をより高いものにするべきか」
 仮面をつけたサウンは、ここではないどこかを見るように辺りを見渡した。
「……この方角だな。ふむ、あやつか」
 そう言って、サウンは最初に仮面の魔道士が見ていた鏡を見やった。
 あらゆる場所を見通すことができる神の眼。
 そこには、未だにきょとんとした顔でどうしたらいいのか迷っているリィダの姿がある。
「この仮面の魔力、かなりの量を切り離して別の場所に封印していたようだな。しかしあの娘が封印を解き、保持している」
「リィダが……!?」
 地下で彷徨っている時に見つけた不思議な壁画。あれが封印された魔力の源だったのだろう。
「回収せねばな」
 そう言うと、サウンが風の精霊力に包まれた。仮面の魔道士も使っていた移動法だ。壁と言う概念をなくし、目的の場所まで一瞬で到達するその魔法は、本来サウンが使えなくても発動している。
 イサは風の精霊の完全支配を試みたが、ペタベタンの重圧により集中が乱され、それも叶わなかった。
 サウンが消えるのを、ただ見ていることしかできなかったのだ。


 サウンが姿を消えても結界魔法はすぐに消えなかった。
 神の眼はその能力を停止させ、さきほどまで見えていた場所はただの暗闇と化している。
 リィダの様子も分からず、不安と焦りが、ほんの数秒を何時間にも感じさせる。
 ようやく結界魔法の効力が消え去り、身体を押さえつけていた重力が消えたが、一体どれくらいの時間が経ったというのだろう。
まだ身体中が痛むが動けないわけではない。
「ちょっと、どういうことよ!」
 立ち上がるなりイサが怒鳴った。唐突なサウンの裏切りと、リィダが危ないという事実で混乱し、短絡的に怒りをぶつけるしかなかったのだ。
「サウンがあんな考えを抱いていたなんて……」
 リーダーのツバサでさえ、サウンの唐突な行動を予測できていなかったようだ。
 サウンが姿を消すと同時に神の眼が映していた映像も途切れ、リィダの姿は見えない。キラパンと一緒なら、彼が的確な判断を下してくれるとは思うが、相手は仮面の魔道士の超魔力を持っているのだ。
「とにかく、リィダを見つけないと」
「場所は分かるのですか?」
 今にも飛びださんとしたイサに、ラグドが諌めるように言う。
「わからないけど、行かないと!」
「闇雲に探しても無駄に時間を費やすだけです」
「でも!」
 イサにも分かっている。ラグドもリィダが心配で今すぐにでも探しに行きたいが、必死に冷静になろうとしている。そしてイサを冷静にさせようとしている。だが、それを理解していてもこの焦燥は止められない。
「待ってください。場所なら、分かるかも」
 そう言ったのは、シャミーユだ。
「どうやって?!」
 真偽を訪ねる余裕はイサになかった。
 リィダを救う糸口が一つでもあるならその全てを片っ端から試すしかない。
「今は停止状態にある神の眼。あれは使うには高い魔力も必要としないし、操作のコツさえ掴めば、望んだ光景を映すだけならできるはず」
 今のシャミーユには、仮面の魔道士だったころの記憶もあれば、その時の感覚はまだ覚えている。もちろん、神の眼を何度か操ったことがあるのだ。
「お願い! リィダの場所を!」
 シャミーユは頷き、神の眼の前に座って集中を始めた。
 すると、一度沈黙して、ただの鏡と化していた神の眼が青白い光を帯び始めた。
 薄らと、ぼんやりと、しかしすぐに、濃く、はっきりと、とある光景を映し出す。
「リィダ!?」
 そこに映し出されたのは、一人立つ男に対して、崩れ落ちゆく者が一人――。


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