-62章-
神名の魔書



 先ほどまであれほど晴れていたというのに、ものの数分で雲行きが怪しくなってきた。
 まるで今から起こることが不吉であると暗示するかのように黒い雲がストルードを覆い始めたのである。
 黒い雲を見上げ、人々は不安な表情を作った。無意識にそうさせるほど、その黒い雲は気分を憂鬱にさせる。
 そんな空模様の様子など、知る筈がないのは大聖堂の中にいる者たちである。
 窓は豪奢な意匠がこらしてあるので、外の様子は見えないのである。
「うへぇ、人がいっぱいだ」
 辺りをきょときょと見回していたエンは、そんな感想をもらした。その感想を聞いたミレドが、うんざりとした声で答える。
「当たり前だ。言っただろうが、ストルード国が関係を把握しているって。結果がどうなるか、興味あるやつが大勢いやがるんだ」
 マハリの潔白証明裁判が行われる大聖堂の、審判の間と呼ばれる大部屋は、何百人もの人間を収容できるほど広い。中央にぽっかりとある空間は裁判にかけられる者が立ち、その左右にもスペースがある。ここには罪に問われている者を弁護する者と、それを否定する者がそれぞれ向かって立つのだそうだ。それら全てを見下ろすような形の席が一つ、作られている。ここに座るのが『法賢者』であり、審判を下すのだという。
他のスペースは、裁判を見る事が出来る傍聴席であり、その最前列にエンたちはいた。
 『炎水龍具』のメンバー全員と、ホイミンしびおのペアである。当然、ミレドと会う事を避けていたエードもこの場におり、しかし今でもミレドと視線があうのをあからさまに避けている。
「(なんなんだよ……)」
 不満そうな顔を隠そうともせず、ミレドは中央に立っている人物を眺めた。
 今の今まで護衛していたマハリが、静かに立っているのである。
 ミレドが不満に思っているのは、エードの事はもちろん、今まで襲撃がなかったことである。エードの館にいる時は、コリエード家の名前が盾になってくれていた。だからこそ、そこを出て、この大聖堂に向かうタイミングが絶好の機会であったはずだ。ミレドなら、間違いなくそれを狙う。
 ところがどうだ。ここまで来る道中、そのような様子は一度もなく、今こうして潔白証明裁判が行われようとしている。
 このストルード国民に紛れて、この場でマハリの命を狙うつもりなのだろうか。いや、それにしてはマハリと傍聴席は離れ過ぎている。これが一般の人間なら充分な距離だが、マハリは盗賊ギルドの幹部に収まっている人間だ。何かしらの脅威が迫る前に回避するだろう。
 『黒羽派』も『白爪派』も、絶好の機会を逃すとはどういうことか。
「これより、マハリ=T=ユニウォッカの真偽を神の御許へと捧げる!!」
 大部屋全体に響く声が通った。見れば、『法賢者』が中央の審判席に姿を現していた。
「盗賊ギルドの『黒羽派』と『白爪派』の代表者たちよ。この真偽の結果を受け入れると、ここに誓いなさい」
 マハリの両側のスペースから、それぞれの人間が姿を現した。その姿を見て、ミレドは思わず目を見張る。
 『黒羽派』代表は、ミレドの育ての親である『眼殺』の老人であったのだ。
「『黒羽派』を代表し、いかなる結果も神の導きとして受け入れよう」
 『眼殺』の何故か心苦しそうな表情で発せられた言葉に、『法賢者』が重々しく頷く。次いで、『白爪派』の人間に視線を投げた。
 そこに立つのは、体格のがっしりとした壮年の男。一見、格闘家にも見えてしまうが『白爪派』を代表する盗賊ギルドの幹部である。
「このドレシック=ラーフスン、『白爪派』を代表し、いかなる結果をも受け入れようぞ」
 ドレシックは舞台の役者にでもなったかのような演技くさく言った。
 それぞれの神への誓いを見届けた『法賢者』ゆっくりと再び頷いた。
「おぉ、神よ。この子らはあなたの前で誓いを立てました。神の審判よ、彼らに祝福があらんことを!」
 大仰な動作と台詞に、ストルードの貴族たちはうっとりとしている。これが国民に人気があるのだから、なんともおかしなものだ。慣れていないエンたちは早く進まないかとうんざりしつつあるというのに。
「審判の時だ。マハリ=T=ユニウォッカが盗賊ギルドの秘術『死神の心臓』を持っていないことを、ここに全てを『見る』者がその真偽を確かめる!」
 『法賢者』の席が作られている下の壁には扉があり、その扉が勢いよく開かれた。そこからゆっくりと歩いてきた者は、神官の服装を纏い、豪奢な錫杖を持った老人である。貫禄のあるその老人は、確かに全てを見通しているかのように感じてしまう。
 このままでは、裁判はあっさりと終わってしまう。何事もなく。マハリが『死神の心臓』を持っていないことが証明され、その場で何もかも終わってしまう。
 エンたちはこのまま何事もなく終わるのを見守るつもりでいるのだろうが、ミレドとしては何事もなく終わる筈がないと見ている。
 『黒羽派』と『白爪派』の妨害がなかった理由。『黒羽派』の行動がなかったのは、『眼殺』が『黒羽派』代表として現れたことで納得がいった。『眼殺』は自分でもマハリの命を奪ってみたいと言っていたが、実際には『黒羽派』を抑制していたのだろう。ミレドの負担を、少しでも取り除こうと計らってくれたのだ。
 だから、『黒羽派』は大人しく事が運ぶのを見ていた。
 だが、『白爪派』は?
 いくら『眼殺』が盗賊ギルドの幹部とはいえ、『白爪派』を大人しくさせる程の拘束力は持っていないはずだ。
 何かを見落としているのか。
 何か、何かを……。
「っ!」
 何故、今まで気付かなかった。
 『白爪派』代表のドレシックは、この場に現れた時から笑みを浮かべていた。それは、勝利を確信した笑み。それは今も変わっていない。
 対して『眼殺』は、『黒羽派』代表の男は、苦虫を百匹ほどまとめて噛み潰したかのような表情を浮かべている。まるで、今から起きる事がわかっているかのように。否、いるかのように、ではない。わかっているのだ。
「全てを『見る』者よ、ここに、神の御前に誓いを立てよ」
「おぉ、我らが神よ。私は真実を見る者。全ての真実を包み隠さず話しましょうぞ」
 やはり演技かかった裁判は滞りなく進められていく。
 マハリの前に立った『見る』者は大仰に両腕を広げた。
「そなたの真実を見極めよう。そなたが『死神の心臓』を所持しているかどうかを!」
 その瞬間、『法賢者』とドレシックの視線がかちあった。そしてそのどちらもが微笑を浮かべる。たった一瞬の出来事であったから、他の者たちは『法賢者』がドレシックを見ていたことすら気付かなかっただろう。
 だが、ミレドにとってその一瞬で疑問が確信に変わるには充分であった。裁判が始まってからもへらへらと笑っていたマハリの表情も険しくなる。
 裁判が始まれば安全になると思っていたが、違う。
 この裁判を始めること自体を、止めなければならなかったのだ。
 中央では『見る』者が演技かかった動作でマハリを見定めている。
「おぉ! 神よ! 皆の衆よ! この者に邪悪なる力はなし! 『死神の心臓』など、ありはしない!」
 周囲がざわめいた。ただこのざわめきは、舞台がクライマックスを迎えたのを満足するかのようなざわめき、歓声に近い。
「これで終わったな」
 エンも安堵の息を吐きながらそれを見守っていた。そんな険しい顔をしているのは、ミレドと『眼殺』とマハリである。代わりに、邪笑を浮かべているのは。
「って、あれ?」
 ふとエンが何かを見つけたようだ。
「どうした」
 ミレドの問いかけに対して、エンは自信なさげにドレシックが立っている後ろの扉を指差した。
「いや、あそこに一瞬、人が見えたんだけど……」
「えーどこ〜?」
 ホイミンが横からふよふよと見回す。
「いないみたいですねぇ」
「ふむ、ワシもなるべく全体を見ておったが、気付かなかったぞ」
 しびおとファイマの言葉に、エンは更に自信をなくした。
「気のせいかな」
「ったく、こんな時に下らないことに注意を向けさせるな」
 苛立った口調のミレドに、エンはまた違う意味で首を傾げた。
「なんでそんなに機嫌がわりぃんだよ。もう無事に終わるんだろ」
 後は『法賢者』が『見る』者の言葉を神に伝え、盗賊ギルドのそれぞれの代表者に今後はマハリを襲わないように誓わせるだけのはずだ。
 そのはず、だったのだ。
「神よ! ここに審判を下します! この『法賢者』の名において! あぁ私は悲しきかな! 神に伝えねばならなない! 神聖なるこの場所で、真実のみを伝えるこの場所で、嘘が語られた事を!!」
 全体が、別の意味でざわめいた。
 嘘が語られた。『法賢者』は、確かにそう言って、それをしかと皆が聞いたのだ。
「この『見る』者が、事前にマハリ=T=ユニウォッカから贈賄があり、『死神の心臓』を持っていないことを言う約束をしていたことを私は知っている!! 真実の通り、『死神の心臓』を所持していることを証明していれば、私は神に純粋な報告ができたであろう!」
 『法賢者』の言葉が大部屋全体に響く。
「そんな、嘘だ!」
 最も困惑しているのは、『見る』者であった。
「(ああ、嘘だろうな)」
 その様子を見て、舌打ちしたのはミレドである。あの挙動は、間違いなく『見る』者は何もしていない。贈賄などなく、『死神の心臓』を持っていないことも本当だろう。
 だがこの国では、『法賢者』が全てになってしまう。『法賢者』の言葉が、偽りであろうと真実になってしまう。それほどまでに、国が『法賢者』という存在に傾いているのだ。
「どういうことだよ?!」
「むぅ……」
「……」
 慌てているエンと、唸るファイマ。ルイナはいつも通り無表情だ。
 しびおとホイミンもいつも通り笑い顔を張り付けたままだが、内心は穏やかではない。
「解かれよ。はめられたんだ」
 ミレドが悔しそうに言った。
「神の名において、罰を下す! そして『死神の心臓』という危険極まりない秘術を持つマハリ=T=ユニウォッカに死を与えん! 我は命ずる! これは神より下された命令なり! ドレシック=ラーフスンよ、マハリの命を奪いて、『死神の心臓』の存在を抹消すのだ!」
 『法賢者』の言葉に、戸惑っていた貴族たちも次第に熱を帯びていった。
 それとは別に背筋が凍るように戦慄しているのは、最前列にいた『炎水龍具』のメンバーである。
「どういうことだよ!? 『死神の心臓』って、殺した奴の所に移るんだろ?」
 さすがにエンでもそれは覚えていた。
「だから、はめられたんだよ! 『白爪派』の奴に!!」
 『法賢者』と『白爪派』のドレシックは手を組んでいる。いつの間にそんなことになったのかは知らないが、今の状況やドレシックが動揺していないところを見ると間違いないだろう。
 『黒羽派』の妨害がなかったのは、師である『眼殺』のおかげだろう。
 だが、『白爪派』は――。答えは今この瞬間である。こうして『白爪派』が堂々とマハリを殺せる状況を作り出せるのだから、何かをする必要がなかったのだ。
 『眼殺』はこの場に立った時からそれに気付いていた。名乗った時に不機嫌そうだったのは、その為だ。
「(くそ、どうする?!)」
 このままでは『白爪派』がマハリを殺してしまう。それも、『死神の心臓』をマハリが持っていることにされているままで、だ。
「とにかく、止めねえと」
「止めるって?」
「オレたちはそれなりに有名になっているんだろ。だったら、それを利用させてもらう!」
「な……おい?!」
 エンも無我夢中だったのだろうが、取った行動にミレドが思わず声を上げた。
 エンは、こともあろうに傍聴席から飛び降り、マハリのもとへ駆け込んだのである。

「皆、聞けぇ!!」
 唐突なエンの登場に、誰もが驚いて注目した。
「オレは『炎水龍具』リーダーのエンだ! 皆も名前くらいは聞いた事あるだろ! 北大陸最強と言われる、『炎水龍具』だ!!」
 冒険者チーム『炎水龍具』の名は、確かに広がっている。実際に、このストルードにもその名声は伝わっていた。視線が、エンに集中する。
「『死神の心臓』は持っている奴を殺したら、今度はその殺した奴が持つことになっちまう! 『死神の心臓』を抹消させたいなら、そこの奴がマハリを殺しても意味はねぇんだよ!!」
 再び全体がざわめく。
 『炎水龍具』のリーダーを務めている人間が嘘をつくとも思えない。
 『法賢者』の決定を覆すつもりなのか。
 あらゆる憶測が飛び交っているが、それらをエンは無視。ドレシックを睨みつけた。
「テメェも盗賊ギルドの人間なら解っているはずだろ。マハリを殺させやしねぇぞ」
 マハリを殺す権利を得たはずのドレシックは、『眼殺』と似たような表情を浮かべている。つまり、苦虫を噛み潰したような、思い通りにならなかったことを悔やんでいる顔だ。ドレシックから見れば、唐突な乱入で全てをぶち壊しにされたのだ。これが怒れずにいられるものか。

 飛び出したエンに呆れながらも、ミレドは未だに険しい顔をしていた。
「むぅ……ミレドよ」
「わかってらぁ」
 似たような表情を浮かべているファイマが言いかけた事を、ミレドは遮った。
 そしてルイナも、無表情ではあるが至った考えは同じであるらしい。
 ホイミンとしびお、それからエードはエンの成り行きを見守っているようだが、ミレドたち三人は『法賢者』の方を見ていた。
 ドレシックと同じように唐突な邪魔で悔しそうな顔を浮かべているかと思ったら、違う。
 相変わらず、『法賢者』だけは勝ち誇ったような笑みを浮かべたままなのだ。
「エンのバカ野郎、突っ走りやがって」
 その視線だけで死に至らせてしまうのでは、と思えるくらいの殺気を込めてミレドは『法賢者』を睨みつけた。

「おぉ、神よ! この場の真実は如何なるものなのでしょうか! 誰が嘘を語り、誰が真実を口にしているのか!」
 相変わらず演技かかった口調で『法賢者』が言葉を続けた。
 様子の変わらなさに、エンもさすがに動揺している。
「真実は神が伝える事のみ! そして神の言葉を聞く事が出来るのは我のみ! この『法賢者』こそが、神の言葉の代理人なり!!」
 傍聴席から歓声のようなものが沸き上がる。
 『法賢者』はおもむろに懐から一冊の本を取り出し、全員に見せつけるようにかかげた。
 その本から感じられる魔力は、否応なく遠くにいるはずのミレドの背筋を凍らせるほどだ。
「(まさか!)」
 真っ先にミレドは、師である『眼殺』を見た。彼も驚いたように、否、微かな恐怖の色を顔に浮かべている。その表情で、確信した。あれこそが、盗み出され、この国に持ち込まれたという――。
「ここにあるのは神になる為の力! 全ての真実を見通し、裁きを下せる者として、私はこの力を解放しよう! 喜ぶが良い! ここにいる者たちは、現世の神が降臨する瞬間をその眼に焼きつける事が出来るのだから!」
 マナスティス・ゼニス。最高神の名を冠する禁断の魔法を、ここで使おうというのか。
 嫌な予感がする、どころではない。なんとしてでも止めなければならないと、長年の勘が警報をけたたましく鳴らしている。
「おいエン! あいつを止めろ」
 傍聴席から飛び降りたエンに、ミレドが指示を飛ばす。止めに入った肝心のエンは、何が起きているのかが理解できずにたたらを踏んでいたところだったので、その声にはっとした。
「ミレド?! どういうことだよ!」
「いい加減わかれよ! 利用されたんだ! テメェが勝手に『死神の心臓』のことを大衆にさらすことまで、計算に入ってたんよ!!」
 ともかく『法賢者』を止めろ。それだけを言えば、エンはとりあえず動くだろう。問題はそれが間に合うかどうかだ。今からミレドが『法賢者』の所に向かおうにも距離がありすぎる。
 それに、ミレドが盗賊ギルドに所属しているという立場がある。ここで『法賢者』を止めようならば、盗賊ギルドはストルード国と全面対決を覚悟する必要があるのだ。『眼殺』と、裏切られたであろうドレシックが容易に動かないことが、それを証明している。
 だか冒険者チーム『炎水龍具』ならば、その国との関連性は薄い。
 だからこそ、エンならば、という期待があった。
 それに、目標が決まったら動くだけというのがエンの性分にあっている。
 現に、エンは既に『法賢者』の方へ走り出していた。
 マナスティス・ゼニスが発動するよりも早く、エンが『法賢者』を止めてくれるのを、祈るしかできないのが腹立たしかった。

 エンも今まで激戦を潜り抜けてきた戦士である。そこから発せられる魔力は、危険だと直感が告げていた。ミレドの指示もあって、それを止めることに全力をかけられる。
 火龍の斧を召還し、『法賢者』を見据えた。
「『瞬・即・連』! フレアード・――」
 『龍具』の力を使い、足りない距離を一気に跳んで縮める。例え『法賢者』に攻撃することになってでも、それを止めなければならないと悟ったのだ。それに、速度を追求した場合は代わりに単純な力が弱まるので多少なら大丈夫と踏んだ。
 しかし――。
「なんだ?!」
 フレアード・スラッシュは、『法賢者』に届くより先に別の何かに命中した。
 『法賢者』の周囲に張り巡らせた、結界のようなものが火龍の斧の刃を受け止めている。
「神の儀式を邪魔しようとするとは何と愚かな」
 エンは初めて『法賢者』を間近で見た。結界越しだからかやや歪んでいるが、その目は正気ではない。何かに取り憑かれているかのようだ。
「だが何人たりとも、我が邪魔はできない。させない。するわけがない。それが神の意思なのだから!」
「随分と危ねぇ魔力っぽいぜ。それを解放させようとするなんて、邪神の間違いじゃねぇのか」
 エンの言葉に、『法賢者』は蔑むような一瞥をくれただけだった。
「うわっ」
 結界がエンを弾き飛ばし、せっかく近付けたのにあっさりとまた離れてしまう。
 頭から落ちることは避けて無様ながらもなんとか着地。
「くそ、もう一回――」
 やってやらぁ、と意気込むつもりが、たたらを踏んだ。
 その圧倒的な魔力と、光に。
 光は神々しく、思わず膝を屈し、頭を垂れてしまうほどのものだ。傍聴席にいた貴族の人間たちは、その光を見ただけでそのような態を晒しているではないか。
「なんだ、これ……」
 足が震える。これは恐怖なのか。それとも別の何かなのか。魔王ジャルートと対面した時とは別の威圧感がエンを抑え込む。
 輝きは増し続け、目を開けておくことすら困難なくらいに眩い。
 そこに秘められた力が、今まさに発動しようとしていた。
「止めろーーー!!」
 エンは叫んだ。それで止まるとは思えないが、何かをしなければならない。
 だが、その叫びも空しく響くだけに終わった。
「発現せよ――マナスティス・ゼニス!!」
 高らかに『法賢者』が、魔法の名を告げた。

 激しい衝撃と閃光が大聖堂を揺るがした。光は天井を突き破り、遥か天の彼方へと延びている。
 マナスティス・ゼニスの魔書は、魔法を発動させるための魔書ではなく、魔法を受ける為の魔書であったらしい。もし前者であったならば、それを発動させる使い手もそうとうな実力者ではないといけないが、後者なら別である。『法賢者』自身はせいぜい一般よりも上、といった程度である。その『法賢者』が発動を可能としたのだから、どちらの型であったかは明白である。
「これは……?」
 エンの目の前に、『法賢者』の姿はなかった。否、かつて『法賢者』だった者の姿ならそこにある。
 まず目につくのは、その翼である。大の大人が両手を広げてもなお収まりきれないほどの大きさを持つ純白の翼。神々しささえ感じるそれは、天使の羽根とでも言うのか。
 肌の色はさらに白く、それでもひ弱そうに見えないのは体格が一回りも大きくなっているからか。口元は耳まで裂けて、そこからは牙が覗いている。目は黒点がなくなり、その形相はもはや人ではない。
 先ほどまでは感じなかった圧倒的な魔力は、近くにいるだけで気を失ってしまいそうだ。だが、これと似た感覚をエンは知っている。
「これじゃ、まるで」
 口にこそ出さなかったが、続く言葉はあの場にいた人間なら同じ感想を抱くだろう。

 まるで、魔王と相対した時かのようだ、と。



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