-30章-
闘界、結合



 虫や鳥でさえ、声を潜めているかのようだ。それほどの静けさと、緊迫感が辺りを包んでいる。木々に囲まれて凛と立つエンは、緊張の面持ちで火龍の斧を握りしめていた。
「……!」
 静けさの中に、異音が混じった。鋭い風の音が、足元で発生している。
 その場に留まっていたら無事ではすまないと判断し、すぐにその場を飛び離れるが、それこそ相手の思う壺だったらしい。
 エンが飛び退くのとほぼ同時に、小柄な影が木々の合間より躍り出る。緑の髪を靡かせながら迫るのは、飛竜の風爪を装備したイサだ。
「『颶爆烈撃掌』!」
 風の爆発を拳に乗せて叩きつける奥義は、エンの背中を捉えようとしていた。
「この!」
 エンとてそこまでは予想できていた。だが、反応速度は相手の方が速い。身体を捻りながらの無理な体勢から振るった火龍の斧は、虚しく空を裂いた。
「上か?!」
 相手は跳躍して躱したものと思い、上空からの攻撃に備える。しかし空中にイサの姿は無い。
「残念。下よ」
 エンが意識をそちらに向けるより早く、風の爆発がエンの身体を吹き飛ばした。風連空爆を間近で身に受け、鎧越しにその振動は激しく伝わっているはずだ。その証拠に、なんとか受身を取ったエンは顔を歪ませている。
「位置さえわかれば……」
 なんとかなる。そう思い、エンは地を蹴った。見えない所からの高速攻撃よりも、相手がどこにいるかさえ確認できれば対抗策の幅は広がるはずだ。
 それに対してイサは身構えるだけで、避けようとはしなかった。
「『爆撃』のフレアード・スラッシュ!」
 豪快に大きく薙いだ火龍の斧の刃は、イサには当たらずまたも空を斬るだけになってしまっていた。
「な、なんだぁ?」
 一瞬だけ身体を覆った浮遊感にも似た何か。気が付けば、イサを通り越して明後日の方向に斧を振るっていた。そのうえ、向き直ろうとしても身体が上手く言う事を聞かない。
「これが『風流し』。どう、風の束縛は?」
 成功したことに愉悦を感じながら、イサは不敵に笑って見せた。エンは慣れない風の束縛に苦労しているようだ。解放されるには、まだ時間がかかるだろう。
「さあ、行くわよ!」
 喜々としてイサは勢いよく地を蹴り、エンに迫る。
「風牙・連砕――」
 一瞬にして六度の拳を打ち込む風牙・連砕拳は、イサの手がエンに届く前に中断された。
 その奇妙な行動をエンは不思議がるどころか、舌打ちさえしてみせる。
「危ない危ない。結構、演技派じゃない」
「演劇の経験があるものでね」
 エンはとっくに風の束縛から逃れていたのだ。それを悟られないためにわざと困惑しているように見せかけていた。あのままイサが突っ込んでいれば、思わぬ痛手を受けていただろう。
「でも、それより私のほうが一枚上手かもね」
 にやり、とイサが笑ってみせる。その意味がすぐにエンは理解できずにいたが、すぐに知ることとなる。
 ――ヒョォォォォォ。
 背後から聞こえてきた薄ら寒い音と空気。
「しまっ」
 慌てて背後に注意を向けるが、遅かった。凍りつく吹雪が、エンを襲う。その効果は甚大で、身体の端のような温度の低い所から氷付けになってしまっている。
「『防炎』のフレアード・スラッシュ!」
 まだ腕は動くようで、必死に火龍の斧を振るった。エンの目の前に炎が吹き上げ、それが吹雪から身を守る盾となり、同時に身体を温めてくれる。何とか氷付けは回避できたが、背後から迫るイサに対抗することはできなかった。
「っ!」
 無様だなと思いながらも横に転がり、その場から離れる。爪と吹雪の挟み撃ちから逃れることはできたが、それでどうなることでもない。
「ちくしょう……卑怯だぞ!」
 エンは大の字に寝転がり喚いた。
「そう?」
 イサはからかうように、わざと可愛らしい声で聞き返す。
「当たり前だ。途中から二対一になっているじゃねぇか」
「二対一ではいけない、というルールは作っていません=v
 不平を洩らすエンの横に、ぱたぱたと近付いてきたのはスターキメラというキメラの中でも最高位の種族だ。木々の合間に潜み、攻撃の窺っていた彼こそ、エンに凍える吹雪を浴びせた張本人である。
「一対一対一の、三つ巴で戦うって決めただろ」
「最初はそうだったけど、途中から手を組んではいけないなんて決まり、あったかしら?」
「う……」
「それに隙がある相手を狙う、というのも当然のことでしょう=v
「スーラ……オレはそんなに隙だらけだったのか?」
 少し自信に傷がついた、というような顔でエンは聞いた。ちなみにスーラというのはこのスターキメラの名前だ。
「う〜ん、背後から攻撃された時とか特にね」
「後ろからいきなりなんて、誰でもだろ。後ろに目がついてるわけじゃないんだし」
「でも、エンの場合それが際立って弱いよ」
「……今まで背中はルイナに任せてきたからなぁ」
 心当たりはあるようだ。今ルイナがいないことを悔やみ心配もしている、というよりも単純に指摘された事を悩んでいる。ルイナのことを、それほどまで信用しているのだろう。
「何とかならねぇかな?」
「一朝一夕じゃ無理よ。地道に訓練するしかないんじゃない?」
 イサも適当な場所に腰を下ろし、楽な格好を取りながら言ったのだった。


 ムドーとジャミラスの戦いの後、エンたちはしばらく暇になっていた。それというのも、ムドーが旅の扉の捜索を買って出てくれたおかげだ。多くの部下を持つムドーは、その数と人間にはない機動力を活かして別の世界へ繋がる場所を探してくれている。
 こちらはのんびりと報告を待つだけであったのだが、エンが唐突に訓練に付き合ってくれ、と申し出たのだ。イサとしても身体が鈍ってはいけないと快諾し、それに乗じてムドーが最も信頼しているらしいスーラも一緒に、ということになった。
 ムドーの補佐をすべき立場にある彼――聞くところによると雄らしい――も、ジャミラスとの戦いが終わった後、暇を持て余していたようだ。その実力は、ムドーの隣にいるだけのことはある、ということを実感させられた。
 エンの言う通り、最初は三つ巴のバトルロイヤル形式だったのだが、いつの間にかイサとスーラは手を組んでいたらしい。
 三人――二人と一匹か――が背後からの攻撃について談議している中、そこへ別の声が割り込んだ。
「おぉ、やっぱりここにいたか」
 森に声を響かせたのは、人間の子供の背丈くらいしかない男で、顔を覆っている髭を揺らしながらのしのしと歩いている。髭に埋もれている顔以外を見れば子供のようだが、これでもエンとイサの年齢を足しても届かないほどの歳月を生きているホビットだ。
 それに気付いたエンは挨拶代わりに片手を挙げた。
「ダガカか。どうしたんだ?」
「ムドーにお前達を呼んで来て欲しいって言われてなぁ」
「何か見つかったのか?」
 ダガカの言葉に、エンの顔が期待に満ち、イサも言葉にはせずともエンと同じ気持ちだ。
 ムドーがエンたちを呼ぶという事は、別の空間世界への入り口が見つかったか、復活の宝珠の情報が新しく入った、という可能性が高い。期待するなというのが無理な話だ。
 だが、ダガカは申し訳なさそうに首を振った。
「いやな。なんでも、予兆があったらしい」
「予兆……?」
 何のことを言っているのかわからず、エンとイサは首を傾げた。スーラだけは、何かに気付いたのかその顔を険しくしている。
「まあ、とりあえず話は館に戻ってからだ」
 そう言って、ダガカは来た道を戻り始め、エンたちも慌ててそれを追った。


 ムドーの館に戻り、最上階にある主の部屋へ入った時、出迎えてくれたのはムドーの深刻そうな顔で窓の傍に立っている姿と、相変わらずスライム族独特の笑顔を保っているしびおである。しびおは我関せずと言った感じで、その触手で葡萄酒の杯を弄んでおり、ムドーはエンたちの入室に気付くと顔を綻ばせた。
「おぉ、よく来てくれた。我が世界の英雄達よ」
「からかうのはやめてくれ」
 苦笑いを浮かべながら言ったが、ムドーはふふと笑う。
「君たちがこの世界に訪れていなければ、余はジャミラスに敗北していただろう。それを考えると、つい、な」
 しかし実際にジャミラスを斃したのはロトルである。彼はエンたちを追ってきたと言っていたので、エンたちがこの世界に来たが為にロトルも訪れ、結果ジャミラスが斃れた。結果だけを見ればムドーの言う通りになるものの、納得はできない。
 それに、ムドーとしても実はからかっているだけなのだ。ただしそれは嫌味や悪意あってのことではなく、親しい間柄がじゃれあうような挨拶を交わすのと同義である。
「それより、何の用なんだ?」
初対面の時はあれだけ警戒していたというのに、今ではそんなことがなかったかのようだ。エンは適当な椅子に腰を下ろしながら尋ねた。
「ダガカから聞いているだろう」
「聞いたけど……よくわかんねぇよ。予兆があった、とは聞いたけど」
「まさにその通りだ」
 ムドーは満足げに頷くが、未だにエンとイサは理解できていない。
「だから、なんの予兆だよ」
「ふむ。それは……」
 言いかけたムドーは顔つきを変えた。その様子で、決して朗報の類ではない事を察したが、だからと言って正解を予想することなどできはしない。
 ムドーの次の言葉を待ったが、しかし彼は口を閉じて窓の外に視線を投げる。
 外に何かがあるのかと思い、追う様にエンも窓を見やるが、大した変わりのない風景がそこにあるだけだ。
「一体、何が――」
 あるんだ、という言葉は出てこなかった。
 言い切るより先に、地面が揺れ始めたのだ。揺れたかと思えばその震動は急に激しくなり、立ったままだったイサとダガカは何かに掴まることで何とか転ばずにいたが、椅子に座って寛いでいたエンがそこから転げ落ちた。
「じ、地震?!」
 立つことができないほどの揺れの中、ムドーは平地にでもいるかのように平然と立っている。人間の成せる業ではないが、実際に人の形をしているだけで人間ではないので当然ではある。
 そんなことを場違いながら考えていると、最後に一際大きく揺れ、それを境に揺れは収まり始めた。
 揺れが完全に収まると、後に残ったのは何もなかったかのような静けさだ。しかし、地震により定位置からずれたり落ちたりしている装飾品の数々や、自身に残っている感覚が確かに起こったことなのだと告げている。
「以前、ジャミラスと余の世界が結合した時も、同じく大きな地震が起きた」
 唯一地震の影響を受けていないのでは、と思えたのはムドーと、そして浮いているしびおとスーラだ。しびおとスーラは浮いていたから納得できるが、人の姿をしたムドーも平然としているのは複雑な気分になってしまう。そんな気持ちでいることを解せずムドーは淡々と口火を切った。
「その時、世界全体を包む魔力に微細な変化があった。それが世界結合の予兆ではないかと思っていたのだが、どうやら正解だったようだな」
 予想が当たっていたことを嬉しそうに言いながらムドーは卓についた。
「そ、そういうことは……」
「早めに言ってくれ……」
 イサがまだふらつきながら言いかけた言葉を、椅子を支えに立ち上がりながらエンが言ったのだった。


「世界が結合したんなら、また『主』同士が戦うのか?」
 地震の影響で散乱した装飾品やらの片づけが一通り済み、ようやく落ち着いたところでエンが問いかけた。
「そうなるので、あろうな」
 ムドーの口調は、できれば戦いたくないといった様子だ。争いを起し、部下や仲間が消えていくことを憂いているのだ。勝てば良い、という単純なことではなく、どうやっても少なからず犠牲が出てしまうだろう。
「今度はどこの世界と繋がったんだろうね?」
 イサがふと思った疑問を口にした。複数ある魔界の空間世界のうち、どれかは解からないが、もしかしたら赴いたことのある世界なのかもしれない。
「……さぁ、どこだろうな」
 それに対して、エンはどこか物憂げだ。どうしたのだろうと首を傾げたが、すぐに思い当たるものがあった。
 赴いた世界の中に、エンとルイナの故郷もあるのだ。魔物の数が少ないとはいえ、争いの渦中に在るというのは、喜ばしいことではない。ムドーならば無意味に蹂躙などするはずがないが、ジャミラスのような好戦的な主がいる世界と結合していたならば、戦うことを知らないヒアイ村の人々はその力に屈してしまう。
 考えられる可能性を咄嗟に思い出せなかったことが、エンの心配を煽ってしまったように感じてイサはなんとか弁明しようとしたところ、それはムドーの言葉によって遮られた。
「そろそろ解かる頃だろう」
 言うなり、ムドーは目を閉じて天を仰いだ。まるで目を瞑ることで他の景色が見えているかのようだが、実際に見ているに違いない。狩人や船乗りが、鳥獣の目を借りて位置を把握する『鷹の目』や『海鳥の目』という特技を使うと聞いたことがあるので、それと似たようなことをしているのだろう。
「これは……」
 眉を顰め、思案顔を作ったかと思うと、ゆっくりと目を開けて短い嘆息を一つ洩らした。
「どうだったんだ?」
 ムドーは間違いなく新たな世界の姿を知っている。エンとてそれは解かっていた。だからこその問いだ。
「広大な砂漠と、いくつかの島々だな。ここからだと、かなり離れている」
 ムドーが言うには、ジャミラスと戦った荒野の先にある、幾つかの山を越えた先に広がっていたはずの海原に、大陸が追加されるような形で結合したらしい。ジャミラスの時とは違い、世界の容量自体も増えたとのことだ。
「スーラなどの翼を持つ者でも二日はかかるな」
 スーラという名は、エンたちがつけたものである。スターキメラには名前がなく、呼び易いようにするための処置であったが、ムドーもその名を使っている辺りどうやら気に入られているようだ。
 ムドーはジャミラスに勝利した支配力を用い、日頃から各地に偵察のための魔物を放っていた。先ほどの『目』は、それの一体である。
「ここを拠点にすると動き辛くなる。場所を変えるつもりだが、君たちも来るかね?」
 考えるまでもないことだ。二つ返事で返し、ムドーは鷹揚に頷いた。
「スーラ、ダガカ。ここは任せたぞ」
「御意=v
「おうよ」
 二人が応えたのを確認すると、ムドーは再び目を瞑り、魔力を集中させた。彼を中心に光が地面を走り、それは複雑な魔法陣と化す。その範囲内に、エンたち三人も立っている。 魔法陣が盛大な光を放つと、浮遊感が全身を包んだ。
 その一瞬後、背景は一変し、ムドーの館から四人は姿を消した。

 ジャミラスとの戦いの後、ムドーは他の世界とも結合することを薄々感づいていた。世界の捜索は、エンたちのためでもあるが自らが動きやすくするためでもあったのだ。その中で、ある程度の場所に目をつけ、各地に拠点を設置した。
 エンたちが辿り着いたのもその拠点の一つで、ムドーの館ほどではないが、実用性が高そうな建物である。分類としては砦のようで、造りが似ているのかイサはエシルリムにあったシャンパーニの砦を思い出した。
「余はここで部下の報告を待つが……」
 君たちはどうする、と問いはしたものの、ムドーは返ってくる答えが予測できているだろう。
「オレはその辺を見てくる!」
 新たな世界が広がったのだから、何かしらの発見があるかもしれない。人間がいるのか、それとも魔物だけなのか、はたまた全く別の種族が栄えているのか、いずれにしろ興味は尽きない。
 新しい世界に対する興奮は、自らの目で見て、自らの耳で聞くのが最適だ。
「私も行く!」
 エンは一人で飛び出しそうな勢いだったので、それを呼び止めるようにイサも声をあげた。
「それでは私も……」
 二人が行くのなら、だろうか。しびおがゆったりとした動作でエンの横に浮く。
「余計な心配だろうが、気をつけてくれ」
「おう!」
 ムドーの気遣いに元気よく返事をして、エンたちは砦を出た。


 砦を出て、ほんの少し歩くとそこには砂漠が広がっていた。
 もともとムドーの世界の全てを知っていたわけではないので、本当に新しい場所なのかどうかは解からないが、恐らく当たりだろう。
一面砂だらけの風景に、高く聳え立つ茶色の岩。照り返す太陽光は強く、立っているだけで汗が滝のように流れそうだ。
「さすがに熱いなぁ!」
 この灼熱をむしろ楽しんでいるかのようにエンは言った。
 イサとしては、砂漠というのはあまり良い思い出ではないため、エンほど浮かれた気持ちにはなれない。そのためか、どこかイサの表情には陰りがあった。
「エン……さっきのことなんだけど」
「ん?」
「その、ごめんね。変なこと言っちゃって」
 イサは俯きながら、先ほどのエンの不安を煽るような発言に対して謝罪をしたが、肝心の本人は何故そんなことをいうのか解からないという顔をしている。
「別に気にしちゃいねぇよ」
 ヒアイ村が、故郷が、争いに巻き込まれるかもしれない。それを考えなかったわけでもないが、それでもエンはそこまで案ずる必要はないと思っている。
「それにあそこには、オレを殴り飛ばせる奴がいるんだぜ?」
 もちろん、本当に魔物との戦いになったらヒアイ村の人々は無力だろう。だが、エンは親友を信頼しているし、心配するのは友を疑うのと同じだ。そんなことをすれば、見送ってくれた友に申し訳ない。
「でも――!」
「待った」
 イサが更に言い募ろうとした所を、エンは片手を挙げて制止させた。
「なぁ、ウミナリの村のこと覚えてるよな」
 いきなりエンの顔が真剣味を帯びた事と、唐突に出された村の名前に、イサは戸惑いながらも頷いた。魔物の謀略により、村人全員が魔物と化し、誰一人救えなかった。あの苦い後悔は、今思い出しても胸が痛む。
「その後、英雄ロベルと戦った」
 それも、褒められるような思い出ではない。旅の扉の中での邂逅、そして戦闘。こちらは何も手出しが出来ず、赤子の手を捻るかのようなあっさりとした敗北。
 精霊力を得たといっても、それで何かを勝ち取り、何かを救えたということはない。強大な敵や悪意の前に、未熟さを痛感させられるばかりだ。
あんな思いは、もう二度としたくない。だから、わずかな時間でも修行に費やしていた。強くなって、守れずに失ってしまったということがないように。
 そこまではイサも解かっている。
「オレたちは精霊力を得て、それ以前の自分よりは強くなった。けど、まだまだだ」
地平線の向こうに、求めたものがあるかもしれないと言わんばかりにエンは砂遠くを見やった。
「今は、前に進むしかないんだ。そうだろ?」
 どちらにせよ、今居る空間世界からヒアイ村がある空間世界に渡る術がないのだ。戻りたくても戻れない。
 魔王ジャルートの存在により魔界が結合を開始したのならば、先に魔王を斃すことで結合は停止し、魔界はその拮抗を保つ。そうなれば間接的にヒアイ村を守ることにもなるのだ。今は、前を見るほかにない。
「うん!」
 エンの問いは、イサに聞かせると同時に自身にも言い聞かせているようにも見えた。だから、イサは力強く頷くことを選ぶ。灼熱の砂漠の中に弾けたイサの応えに、エンは振り向いてにやりと笑う。
 その笑みに、ありがとうと言われた気がしたのは、イサの思い過ごしだったのだろうか。


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