-17章-
魔森、迷走



 その光景は、あまりにも唐突で、あまりにも実感があり、夢や厳格ではないかと疑うことができなかった。
 自分の身体は動けず、ただ何もできず、守るべき主君が目の前で殺害される悪夢。騎士として、男として、守らなければならないというのに、見ていることだけしかできない。守るべき相手は、凶刃に貫かれ、血しぶきが辺りを染める。
 ――守れなかった。大事な人を、守ると決めた主を。己が槍を捧げた相手を。
「イサ様!!」
 がばりと勢いよくラグドは起き上がった。
 胸の鼓動が激しく、全身は汗だくで、それが先ほどの悪夢によるものだと気付くまで数秒を要した。
「大丈夫、ですか」
 その声で、ようやく落ち着いた。淡々とした口調は、狂いそうだったラグドの気を静めてくれたようだ。
「ルイナ……こっち側に飛ばされていたのか」
 今の状況になっても表情を変えない彼女は、ゆっくりと頷いた。見れば、ロトルのギガデインによる傷が治っていた。身体の痺れも特にないし、痛むところはない。
「感謝せねばらないな」
 ラグド一人だけであれば、応急手当すらもままならなかっただろう。下手をすればこの場で息絶えていたかもしれない。
「いえ……それよりも」
 ルイナが辺りを見回す。
 すぐには気付かなかったが、ラグドも意識がしっかりしてくると現状がわかってきた。
 あたり一面が砂だらけなのである。別に、砂場に辿り着いたというわけではない。恐怖による汗は引いたが、今度はその熱によって全身から汗が吹き出るようになっている。
「砂漠、か」
 旅の扉の中でこじ開けられた次元の穴から出てきたのだから、まっとうな場所ではない可能性の方が高い。この場でじっとしていれば、危険であることくらいは二人とも分かっている。
「ともかく、休める場所を探そう。これからのことは、その後だ」
 しかしどこに歩けばいいのかは見当がつかない。下手をすれば一生この砂漠から抜け出せない事もあるのだ。
「東……です」
 不意に、ルイナが空を見上げながら言った。
 その言葉の意味はすぐに浸透しなかったため、ラグドはぽかんと間を開けてしまった。
「東に行けばいいのか?」
 太陽を見て方角の確認ならば容易だが、それはルビスフィアから見た太陽だ。この魔界にも太陽は見えているのだが、果たして同じ法則なのかまでは確証がない。とはいえ、手をこまねいているだけではどうしようもないのは確かなので、ルビスフィアでの法則と同じ方法で方角を決めた。
 その先に何があるのかは分からないうえ、ルイナもそれ以上は言うつもりがないようだ。
 しかし、信じてみようと思った。この場にエンがいたら素直に従うだろうし、イサであってもそうだ。
 だから、というわけでもないが、ラグドも信じようと思った。そして、今はエンの代わりに自分がルイナを守らなければならない、とも。
「(ルイナは俺が守る。だから……イサ様を頼んだぞ、エン)」


「おい、そろそろ起きろ」
 その声に、遠のいていた意識が揺り起こされた。
「ぅ、ん……」
 小さく呻き、起きようとするが、何故だか今の状態が心地よい。まどろみ、もう少し今を楽しみたい衝動に駆られてしまう。
「あと……五分」
 つい、そう口走ってしまった。これにはさすがに声の主も呆れたようで、仕方なしに彼は実力行使に走った。
「起きろってば」
 実力行使といっても、ただ頬を両手でつまみ、そのまま両端に広げるだけだが。
「いひゃい!」
 これにはさすがに驚いて、イサは目を覚まして身を起こした。
「ったく、いつまで寝てんだよ。こっちは貴重な道具まで使っちまったんだぞ」
 イサの目の前に立っているのは、当然エンである。
「あれ? ここ、どこ? どうなったの?」
 イサは唯一、あの攻撃の後に意識を回復しなかったため、ギガデインを放たれた後に目を覚ましたら今、ということになる。
「ロトルのギガデインで、旅の扉に穴が開いたらしくてな。それに巻き込まれたんだ」
「そっか。私、あの一撃で意識が……」
 途中で言葉を切り、イサは自分の身体を見下ろした。次いで、エンのほうを見る。
「ケガが治ってる」
 たった一発とはいえ、あの激しい攻撃を受けたのだ。五体満足に動くということが不思議でたまらなかった。
「さっき言っただろ。貴重な道具を使っちまったって」
 エンはすぐそこに転がっていた小瓶を指差した。小瓶の中は空っぽで、それが元々なにであったのかは理解できなかった。
「なにあれ?」
「世界樹の雫が入っていた瓶」
 エンがあまりにも当たり前に、しかも即答したため、うっかりと聞き流すところだった。
「世界樹の雫って……あの世界中の雫?!」
 イサも名前だけならば知っていた。あらゆる傷を一瞬で治す秘薬の一つで、その希少価値はお金に換算するのが難しいとさえ言われている。
「精霊探しをしている時にいろんな所に行ってなぁ。オレの仲間の一人にレア物を収集するのが趣味の奴がいて、そいつにもしもの時のために持っとけって言われてたんだ」
「そのレア物好きって、ファイマさんのこと?」
「なんだ、知ってんのか」
 イサの知識は、もちろん魔書によるものだ。それに、ファイマとは実際に会ったことがある。
「まあいいけどさ。それより今からどうするかだよなぁ」
 エンに言われて、イサは周囲をぐるりと見回した。
 初めて魔界に来た時、森の中であった。ミカガミ村からウミナリ村へ飛んだ時も、森の中であった。
「また森なの……?」
 今のこの場も、これまた森の中なのである。
 これが海のど真ん中や、砂漠のど真ん中であるという状況よりはマシではあるものの、代わり映えしない背景というのもうんざりしてしまう。
「おや、お目覚めになりましたか」
「しびお……あなたもこっちにいたの?」
 見れば、いつの間にかしびおがふわふわと浮いていた。しかもその手に、いくつものリンゴを抱えている。
「戻ってきたか」
「この通りでございます」
「へへ、サンキュー♪」
 エンがひょいとそのリンゴを受け取り、しゃくりと一かじり。しびおがいることに動じていないということは、彼は既にしびおが同じ場所に飛ばされていたことを知っていたらしい。
 未だに状況を理解できていないイサに、エンはリンゴを投げ渡しながら言った。
「世界樹の雫を使う間、しびおに食料を探して行ってもらってたんだ。収穫は見ての通りさ」
 リンゴを受け取った時、イサは少し悔しかった。それというのも、自分が最も弱かったからだ。精霊の力自身、風磊に封印されているから弱いままではあるが、ただの言い訳でしかない。結果として、足を引っ張っているようにしか思えなかったのだ。
 しかし、だからといって空腹がどうにかなるものではない。おいしそうに熟したリンゴを前に、悔しさは自然と空腹に変わり、目の前のリンゴに遠慮なくかじりつく。しゃりっ、と小気味良い音を立て、芳醇な香りが口の中全体に広がる。喉もからからだったようで、甘い果汁が潤してくれた。
「あれ? 何か聞こえない?」
 しびおが採ってきたリンゴの一つを食べ終わり、もう一個いただこうとした矢先、イサがその手を止めた。
「そりゃリンゴだからな。どう食べたって音はするさ」
 エンは呑気に三つ目のリンゴを口にしながら答えた。
「違う。そんな音じゃなくて……」
 何かはわからない。エンには聞こえていないようだ。
「虫の、羽音……かな」
 その音は少しずつ近づいてくる。それにつれ明確になってくる『何か』。
「森の中だし、虫くらいいるだろ」
「それはそうだけど……」
 ここがただの森ならばそれで会話は終了していただろう。だが、ここはただの森というわけではない。
「あのぉ」
 しびおも持っきていたリンゴを一つ食べ終わり、残りの一個をイサに手渡しながら恐る恐るといった具合で触手の一本を挙げた。
「なんだ?」
「そろそろ来ますよ」
「何が?」
 しびおと、ようやく何かの正体に気づいたイサが答えるまでもなかった。
 深い木々で視界が悪くなっているが、その奥からそれは近づいてきていた。
 何故、今まで気づかなかったのだろうと思うほどの羽音を聞かせながら、それは飛び出してきた。
「蜂?!」
地獄雀蜂(ヘルホーネット)よ!」
 ただの蜂にしては大きすぎる。じっくり比べる暇があれば、イサより大きいのではないだろうか。ヘルホーネットは普段、攻撃態勢でないときの移動は羽音がかなり小さい。そのため、ずっとリンゴをしゃりしゃりと食べ続けていたエンは気づかなかったのだろう。
 標的を見つけたヘルホーネットは殺気に満ち、間違いなく三人を敵として見なしたようだ。ヴヴと羽音を高く鳴らし、大顎をカチカチとやっているのは何かの合図だろうか。
「一匹くらいならなんとかなるか……」
 ヒアイ村で暮らしていたときに雀蜂にくらい遭遇することはあった。それはただの昆虫だが、そのただの雀蜂ならば、攻撃の意思を見せずに去れば向こうも襲ってこない。ところがこちらは魔物だ。人を見つければ無条件に襲ってくる危険性がある。
「一匹ならいいのですが」
 今の状況に表情一つ変えていないしびおは、ある意味では海の主の風格があるのか。
 しびおの言葉に聞き返そうとする前に、それは聞くまでもないことに変わってしまった。次々と羽音が大きく、そして増えているのだ。その数は、数匹所か十数を超えるだろう。
「逃げろ!」
 ともかく離れたらなんとかなるかもしれないという希望を抱き、ヘルホーネットと逆側に三人は走り出した。いや、一人は浮いているが。
 ヘルホーネットは、敵が逃げ出したことでむしろ相手が弱い獲物だと認識したのか、一斉に動き出した。むろん進行方向はエンたちである。
「ちょっと! 炎で焼き払ってよ!」
 全力で走りながらイサが言った。
「んなことできるか! 森に燃え移って大火事になる!」
 ルイナがいればすぐに消火できるのだが、この場にはいない。イサの風では、炎の勢いを煽ってしまうだろう。そんなことをすれば大惨事だ。
「お前こそ風で吹き飛ばせよ!」
「無理! 数が多すぎる!」
 互いに全力疾走しながらの会話ではあるが、決して余裕があるというわけではない。
「物は試しだろ!」
「他人事だと思って!」
 このまま逃げ続けても逃げ切れる保証はない、ということはイサもわかっている。走りながらでも何とか風を操り、極限にまで圧縮させた。一瞬だけ、振り向きざまにそれを放つ。
「風連空爆!」
 風の爆発を起こして相手を吹き飛ばす技は、ヘルホーネットの一体に命中した。命中したはいいが、無効は軽く驚いて後方に下がったくらいで、捗々しい効果は得られなかった。
「駄目ね。こうした森の魔物って、風に耐性持ってるわよ=v
「早く言ってよ!!」
 ウィーザラーの指摘に、イサは大声で返した。これでは無駄に技を放ったにしかすぎない。
「おい、前!」
 エンに言われて、ついに逃げることすらできなくなったのかと思い前を見ると、前方に小屋が建っていた。それも、それなりに大きく、一見しただけで二階建てであることは間違いないようだ。
「なにあれ?!」
「さあな! あの中が安全であることを祈ろうぜ!」
 ヘルホーネットの大群からは、あの小屋の中に入れば少しは免れるだろう。見たところ、近くに魔物がうようよしている割に傷ついた痕などは見られない。誰もいないから、ということも考えられるが、それでも今よりはましになるだろう。
「鍵がかかってたらどうするの?」
「開いてることを願うさ」
 これで鍵が開いてなかったら致命的である。ヘルホーネットにはすぐ追いつかれてしまうだろう。
 全力で疾走していたので、すぐにそこに辿り着いた、考える暇などない。中が安全であることを祈り、鍵が開いていることを願い、ついでに中に入った痕は魔物が侵入してこないことをまた祈った。
「せーの!」
 鍵は、開いていた。無意識に扉を押したが、これが引き扉だったらそこで手間取っていただろう。しかし扉は開いた。中に入り、すかさず閉める。ヘルホーネットの羽音は五月蝿く鳴り響き、だが少しずつそれは薄らいでいった。  扉を閉めた頃は肩で息をして、汗は滝のように流れていたが、それもおさまることには辺りが静寂と化していた。魔物の気配もなく、どうやらヘルホーネットたちは自分たちの巣に戻って言ったらしい。
「助かった……」
 安全が確認できた途端、エンはその場に座り込んだ。
 そうしたことにより視線は下に行く。その先に、立っていた状態では視界に入らなかった者が、そこにいた。
 その存在を理解するまでエンは目を瞬かせ、ようやく自分たち以外の何者かがそこにいることに気づいた。
「な、なんだお前?!」
 慌てて立ち上がり身構える。
 イサとしびおも目の前の存在に気づいたらしく、エンほどではないが警戒を表した。
「勝手に人様の家に入り込んでおいて、なんだとは何だ」
 その者はイサよりも背が低く人間の子供のようで、しかし顔の大半の面積が髭と髪で覆われている。
「あ、それもそうだな。わりぃ」
 ここが彼の家ならば、断りもなしに飛び込んだのはエンたちだ。非がある方は、言うまでもない。
「オレはエン」
「イサよ」
「しびおと申します」
 それぞれが紹介を終え、律儀にも相手は一人一人に頷いていった。
「ワシはダガカ。この小屋で暮らしておる。しかし人間と出会うとはな」
 言い方からして、そして見た目からして、ダガカは人間ではないようだ。基本は人間に似ているが、それでも別の種族というものが存在する。
「ダガカってもしかして、ホビットなの?」
 身長だけで判断するなら、ホビットかドワーフあたりである。そしてこの二つの違いは、後者は前者と違い腕力が人間以上あり、背丈が低いながらかなり恰幅が良い。だが目の前にいる彼はそこまで力強そうではないため、イサはホビットではないかと思ったのだ。
 案の定、ダガカはホビットであるらしく、軽く頷いた。
「ところでお前達はいったい何の用があってワシの家に転がり込んだのだ」
 こちらが名乗ったことで少し表情を柔らかくしたが、すぐにまた厳しくなってしまった。
「ヘルホーネットの大群に教われてたんだ。その時にここ見つけてさ」
「それは大変だったな」
 またあっさりと表情が緩んだ。穏やかになったり険しくなったりと忙しい男だ。
「そうだ。どうせなら飯を食っていけ。寝床も用意してやるから泊まっていけ。望むなら風呂も沸かしてやる」
 ダガカはいきなりにこりと笑うと、いろいろと勧めて来た。
「え? いや、でも……いいのか?」
 ここが何処であるかわからない以上、盛の中での野宿は危険である。それならば、これからの行動の方針が決まるまではここでお世話になったほうが安全とは言える。
「おう、構わん構わん」
 むしろダガカが、泊まっていってくれと言いたげであったので、エンたちは彼の申し出に甘んじることにした。

 夜になるまでの間、ダガカから可能な限り情報を集めようとしたが、収穫らしい収穫はなかった。オーブのことやラーミアの神殿のことに関してはそれらしい話も聞けず、ここがどの辺りでどういうところであるかも、「一人暮らしが長すぎて忘れた」の一言で終わってしまったのだ。
 ただ、この近くで人間を見ていないと聞いたので、ルイナやラグドは全く別のところに飛ばされてしまっているらしいことはわかった。それと同時に、人間が住んでいない地域であるということもだ。ホビットや魔物がいるのは確かなので、いよいよ魔界の名に相応しい場所に来てしまったらしい。
「人間たちの口に合うかはわからんからな」
 夜になり、出された料理に思わず眼を見張った。香草そのものが見た目に貢献しているスープ、黒胡椒で味付けされた鳥桃肉、焼きたてのバターパンに引き締まったハム肉など、食欲をそそるご馳走が並んだのだ。これを一人であっさりと作ったダガカを尊敬できる。
「すごい料理だな」
「遠慮せずに食っておけ」
 言うなりダガカはものすごい勢いで食べ始めたかと思うと、最後に酒瓶を一気に飲み干し席を立った。
「どうしたんだ、そんなに急いで?」
 もしかしたらいつものことかもしれないが、あまりにも早すぎる。エンやイサもそれなりに早く多くを食べるが、ダガカはそれを更に上回っていた。
「寝床の準備をな。そこのちっこいのはともかく、でっかいお前さんじゃ今あるやつじゃ小さすぎる」
「ちっこいって私のこと?!」
 もちろんエンとイサでは体格差からしてイサのほうが小さい。だがイサとダガカを比べたらダガカのほうが低いので、そのダガカにちっこいと言われるのは心外だった。もしかしたらしびおのことを言っていたかもしれないが、ダガカの視線は明らかにイサに向いていた。
「オレは毛布とかあれば床でもいいぜ?」
 エンはイサの不満は軽く流した。そもそも背が低いことを気にしていることなど知らないのだから当たり前だ。
「それでも合わないやつしかないでな。すぐこしらえておくさ」
 そう言ってダガカは二階へとどたどた上がっていった。

 毛布だけでも良いと言っておいたはずだが、実際に寝室に案内されると、そこには人間が普通に寝られる寝台ができあがっていた。ホビットは大人でも人間の子供くらいの大きさであるため、大きな寝台は必要としない。エンの体格にあわせて作ったのだろう。そして、もう一つ寝台が作られていた。
「どうせ作るならと思ってな。なに、ついでだ」
 ついで程度で作れるものとは思えないが、さすがと言うべきか。
「それでもやっぱり小さいんだ……」
 新しく作られていた寝台の片方は、明らかに一回りは小さい。イサがそれに寝そべるとちょうどいいくらいの大きさになるため、これはこれでまたもの悲しいものがあった。
 肝心の寝心地は、快適であった。ラグドたちのことが心配で夜も眠れない、ということはなく、先ほどの食事も満腹になるまで食べたのであっさりと眠気に包まれたのだ。
 だが、その数時間後、イサは唐突に目を覚ました。まだ窓の外は暗く、横の寝台で寝ているエンも静かに寝息を立てている。
「(喉、渇いたな……お水……)」
 寝ぼけ眼でふらふら歩き、飲み水を頂こうとしたが、どこをどう歩いたのか居間にまで来ていた。
「(あれ……?)」
 何故居間に今いるのだろうと思った直後、細く開いた扉から明かりが漏れていることに気付いた。ダガカがまだ起きているのだろうかと思い、何か気になって扉に近づく。
「……だな……だが…………本当に……」
 気になったのは話し声が小さく聞こえていたからだ。声の主はダガカであるが、相手がわからない。イサの知る限り、この小屋に他の住人はいないはずだ。
「確認するぞ。あの三人をお前さんのところへ連れて行けばいいんだな」
 イサが隙間から覗くと眠気が一気に吹き飛んだ。ダガカが話しかけているのは、鏡だった。ただの鏡ならばまだいい。鏡に映っているのは、ダガカではなく黒い影――魔物であったのだ。
 ここで月並みに音を立てて気付かれる、ということは幸い無く、イサは慌てて寝室に戻った。
「二人とも起きて! ねぇ、エン!! しびお!!」
 昼間とは逆になってしまったなと思いつつ、イサはエンを揺さぶった。だが、エンはすぐ目を覚まさず、むにゃむにゃと寝言を呟いているようだ。何を言っているのかと耳を傾ける。
「もう……食えねぇよ」
「起きてって、言ってるでしょ!!」
「ぐふぁ!?」
 イサの拳がエンの腹に落とされたのだ。痛みと驚きで、さすがのエンも飛び起きた。
「何しやがる!」
「ここから逃げるの! ダガカも魔物の仲間だったのよ!」
「……ダガカが?」
 まだ眠いのか、目をこすりながらエンは聞き返した。その横でしびおも大きな欠伸をしている。
「夢でも見てたんじゃないか?」
「そんな事……!」
 言われて見れば、確かに寝ぼけていた。それでもダガカと魔物が話し合っていたからこそ眠気が吹き飛んだのだ。その後の会話もしっかり聞いている。
「いいや、そこのちっこいやつの言う通りだ」
 いつの間にそこにいたのだろう、ダガカが捕縛のための縄を持って部屋の入り口に立っていた。
「ダガカ……」
 イサが彼の名を寂しげに呟いた。それというのも、ダガカ自身、自責の念に押し潰されてしまいそうな顔をしていたからだ。
「抵抗しないで捕まってくれ。こうするしか、皆の衆を救えん」
「何か、理由があるのか?」
 一宿一飯の礼もあるし、追い詰められた目をされてはエンも抵抗する気はなかった。だが、何故このようなことをしているのか、その理由があるはずだ。エンにはそれが気になったのだ。
「ここら一帯の魔物を仕切っている森王ムドーとの契約だ。森の外れにワシらホビットの集落があるが、常に魔物に襲われていた。ワシがムドーの手下としてここで一人で住む代わりに、集落を襲撃しないことを約束させたのだ」
「なるほどな。それで、そのムドーってやつの指令が……」
「あんたら二人を連れて行く。それだけだそうだ」
 エンとイサが本気を出せばダガカを振り切って逃げることは容易だろう。だが、二人はそれをしなかった。自分達が逃げれば、ホビットの集落が滅びるかもしれない。それならば、大人しく捕まったほうがまだいい。二人は自然にその結論に行き着いたのだ。しびおは二人の決断に素直に従った。

 小屋を出ると、そこに大型の鳥獣が待ち構えていた。ただのキメラよりも大きく、メイジキメラともまた違うようだ。鮮やかな桃色の翼を持つそれは、スターキメラと言うキメラの最上位種である。
「首尾は上々のようだな=v
 見た目よりも遥かに高い声で、スターキメラはエンとイサとしびおを見た後にダガカを一瞥した。
「言いつけは守ったと伝えておけ」
「無論。そうでなければお前達の集落が滅びるのだからな=v
 スターキメラとダガカのやり取りを横で聞いていて、エンはふと何かが引っ掛かった。
「……?」
 スターキメラの口調が、皮肉やからかいというよりも、本当にダガカを労わっているように思えたのだ。気のせいと言えば気のせいのように感じるが、それでも嫌味な感じは全くしなかった。
「それでは来てもらおうか=v
 唐突にスターキメラが翼を広げ、エンとイサを見下ろした。
「来てもらおうかって、どこにだよ?」
「なに、すぐに着く=v
 一陣の風がスターキメラごとエンたちを包んだ。
移転呪文(ルーラ)……?」
 イサが気付いた頃には、全員が浮遊感に包まれ、一瞬にして姿を消していた。
 残されたのは、ダガカ一人。
「…………すまん」
 俯き、呟いた謝罪の言葉は、もうエンたちには届かなかった。


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