-15章-
人魚、実態



 クォートが呪文を使ってきたところを見て、接近戦に持ち込めば有利になると思っていた。
 だが、甘かったようだ。
 エンからの一撃を今まさに受けようとしているのにも関わらず、クォートは微動だにせず不敵な笑みを浮かべたままだ。
「っ!?」
 不意に、クォートの後ろから閃光が迸った。その光に邪魔されて狙いが定めることができず、火龍の斧は虚しく空を裂いた。
 閃光の源は、クォートの後ろに控えていたリビングデッドだ。
「ここにもいやがったのか」
 エンは舌打ちして、周囲の気配を探る。自分達を包囲していたのが全てだと思っていた。だが予めに護衛役を置いていたとなると、伏兵もいると考えた方がいいかもしれない。
「他にもいるかもしれないと不安か? そんな心配は無意味だ」
 はっとエンは身構えた。いつの間にか、クォートを中心に魔力が渦巻いている。また爆撃呪文(イオラ)だろうが、至近距離から、しかも狙いを一人に定めるほど圧縮されたその呪文は致命的になる恐れがある。
「すぐにお前らが死ぬからな!」
「『防炎』のフレアード――」
 防御の炎を前面に噴出させようとしたが、ぴたりとその動きが止まってしまった。先ほど閃光を放ったリビングデッドが、再び不気味な光を放ったのだ。その光は目くらましにもなるが、もっと恐るべき呪いが宿っている。
「(しまった!)」
 集中力が急速に奪われ、脱力感が全身を覆った。
 魔法には、自らの精神力を高めることで多少は緩和することができる。だが、そのための集中をないがしろにしては、無防備にも程がある。そしてリビングデッドの不気味な光には、呪文に対する抵抗力――すなわち集中を乱す効果がある。
 だからエンは、爆撃呪文を最大の威力で受けてしまった。
「エン!!」
 リビングデッドに囲まれたままのイサの声が聞こえた後、エンの意識は遠のいた。

「もう! 邪魔しないでよ!!」
 イサはリビングデッドを叱るように言葉を叩きつけたが、彼らがその言葉を理解しているとは思えなかったし、例え理解できたとしても大人しく包囲をやめてくれはしないだろう。
「ルイナ、回復は?!」
「このままでは……」
 できない。回復魔法を施すのにも、回復の水を浴びせるのにも、距離がありすぎる。いや、距離はなんとか届くかもしれない。だが、リビングデッドたちがエンとの合間に立ちはだかっている限り、回復の効果は魔物たちに邪魔されてしまう。
 場合によっては、敵が回復の力を受けてしまうかもしれない。もともと死体のようなものだから回復の呪文でどうなるかは分からないが、試す気にはなれなかった。
 数を増したリビングデッドの包囲は、簡単に抜け出せそうに無い。
 イサは風連空爆を何度か試してみたが、相手を吹き飛ばす奥義もあまりの数の多さには効果が薄い。リビングデッドの周りにリビングデッドがいて、それらが壁になっているために吹き飛ばしてもすぐに戻ってきてしまう。
「イサ、あたしの力を使いなさい!=v
「(ウィーザラー?)」
 心の奥底から己に宿る風の精霊の声が響いた。
「(でも、もうあなたの力を借りているじゃない)」
 そのために強化された風連空爆や聖風呪文(バギマ)を使うことができたのだ。これ以上、どうしろというのか。
「忘れたの? 私の力は四大精霊の中では弱いけど、それは力が封印されているから。その封印を解き放つものが、あなたにはあるじゃない=v
 早くしなければエンが手遅れになるかもしれない。そうした不安と焦りで、すぐに思い出すことが出来なかった。
「……そうか、風神石!」
 イサは腰にある道具袋の紐を解き、拳大の石を取り出した。風神石は風の精霊ウィーザラーの力を秘めている『風磊』の一つである。少し前までなら恐れていただろう。だが、今らなら大丈夫だ。片方の飛竜の風爪に、躊躇うことなく風神石をはめ込む。
 その刹那。
 どくん、と心臓が一際大きく脈を打った。同時に風が吹き荒れ、全身に力が満ち溢れる。
「吹き飛べ――『風襲・連空爆』!」
 イサの声音が、どことなく変わっていた。そして風連空爆とは比べ物にならない風の爆発が、連続して起こった。吹き飛ばされた後にもう一度吹き飛ばされ、さらに爆風に飛ばされる。
 木々や湖さえ吹き飛んでしまうのではないかと思うほどの風爆は、周りの壁となっていたリビングデッドを全て風の彼方に飛ばしてしまった。
「ルイナ!」
 言うよりも速く、既に彼女は行動に移っていた。
「潤う水の鼓動――完治呪文(ベホマ)=v
 金色の輝きはエンに纏いつき、全ての怪我を一瞬にして治す。
 エンはすぐに立ち上がり、反撃に移る――かと思えば、傷は癒えたというのにぴくりとも動かない……。

 傷が癒えていく感覚はあった。遠のいた意識は戻り、しかしすぐに立ち上がることができない。それというのも、あるものに目が釘付けになっていたからだ。視界に飛び込んできたそれは、目を逸らしたくないと身体が訴えている。
 いつからそこにいたのだろう。
 湖から突出した岩の陰に隠れて人魚が――ミラがこちらを見ていたのだ。
 変わり果ててしまったクォートを嘆いているのか、両手を口に当てて、その目は悲しげだ。
「(逃げろよ。今のクォートは、狂ってやがる……)」
 言葉に出さず語りかけてみるが、それで伝わるはずがない。
 今のクォートは狂っている。このようなことをするクォートに、ミラは幻滅するかもしれない。人間は危険な生き物であると認識し、二度と人里に近寄らないかもしれない。本来の種族から言えばそれが正しいのだろうが、せっかく出会えた奇跡を、そんな悲しい結末に終わらせたくない。
「(頼むから、逃げてくれ……)」
 切実に祈った。どうか伝わって欲しいと。
 だが。
「(……あれ?)」
 不意に、違和感に気付く。
 その違和感が何なのかまるで分からない。何かが決定的におかしなことになっているというのに、それが分からないでいる。なんだか心臓に棘でも刺さったかのような苦しみに、エンは苛立った。
 そして、ようやく理解した。
 ミラは、笑っていたのだ。
 両手で口元を隠しているが、何故かエンにはわかった。彼女の唇は手に隠れて笑みを作っている。一度それに気付いてしまえば、悲しげな瞳も、すぐに羨望の眼差しのように見えてきた。

「エン! ちょっと、しっかりしてよ!!」
 リビングデッドがまた包囲してくる前に、慌てて駆け出す。とどめを刺される前に回復できたのはいいが、また至近距離から呪文を放たれてはそれも無意味だ。
 クォートは、エンは放っておいても良さそうだと判断したのか、視線を三人に移した。溜め込んでいた魔力を、イサたちに向けて放とうとする。
「――」
 それよりも早く、ルイナが呪文を解き放った。先ほどクォートがイサにかけたのと同じ、マホトーンである。青色の光は彼に纏いつき、魔力を急速に減じさせる。だが、その魔法に対する対抗力が強いのか、マホトーンの光は彼を包みきる前に消滅してしまった。
 それでも、一瞬の隙は生まれていた。その隙を逃さず、ルイナは水龍の鞭を操る。水の鞭は意志があるかのごとく旋廻し、初対面の時と同じように彼を縛り上げた。
「こんなもの!」
 やはりマホトーンは失敗に終わっていたのか、魔力が渦を巻き、球体へと変わった。またイオラかと思いきや、規模が小さな爆発が連続して起こる。どうやらイオラの下位に当たるイオを連発したらしい。
 その爆発に飲まれ、彼を縛っていた鞭が弾け飛んでしまった。
 再び水龍の鞭を操ろうとしたルイナの手が止まった。駆け出していたイサとラグドも足を止めて、それを見る。一番それに気付くのが遅かったのはクォートだ。彼はもう、エンが死んでいたと思い込みでもしていたに違いない。
「よぉ」
 まるでさっきまで昼寝でもしていたかのように、ゆっくりと身を起こした。鬱屈そうに立ち上がる様は本当に寝起きではないかと疑ってしまうほどだ。
「なんだかよ、全然わかんなかったぜ」
 強張った身体をほぐすように首を振り、肩を揉む。その表情はどこか悟ったような、あるいはこの魔界に来てから初めて見るような清々しいものだ。
「着いた魔界が自分の村だったり、その次に着いた場所がのどかなとこだったり、そんで人魚とか珍しいもの見てさ、ネカルクから教えてもらった世界の成り立ちってのも、あんまし理解できてないけど、やっぱりここは魔界なんだな。すっかり忘れてたぜ」
 にやり、とエンが笑う。その笑みの先は、湖――の岩陰。
 そこでこっそりと身を隠していたのは、美しい人魚だ。クォートやリビングデッドたちばかりに気を払っていたため、そこにいたことに全く気付かなかった。
「お前が、こいつらの黒幕なんだな……ミラ」
 一斉に、視線が彼女に集中された。その視線に戸惑い、何も分からないように小首をかしげる姿に魅了されそうになるが、エンはその仕草さえも道化の芝居の一部にしか見えなかった。
「ルイナ!」
 エンが呼ぶ頃には、彼女は精神の集中を終えていた。右手に水龍の鞭を持ち、空いている左手でミラを指差す。その真っ直ぐに伸ばした左腕には、冒険者の紋章と違う紋章が浮かんでいるではないか。三叉の槍を挟んで向かい合う二頭の竜。それは水の精霊の紋章だ。
「封滅せよ――マジャスティス=v
 紋章の竜が実体化したのか思われるほどの、竜の咆哮が響き渡った。
 イサとラグドは、かつて同じ魔法をエシルリムで見たことがある。今は亡きムーナが魔書の力を利用して使用した魔法だが、今はルイナが、水の精霊の力を借りてその魔法を実現して見せた。
 全ての魔法を封印し、滅する封滅呪文(マジャスティス)は、ミラに纏いつき、その魔力を純粋に消し去る。
「あれは……」
 そこには、ミラという美しい人魚はいなかった。妖艶ではあるものの、決して好感を持つことの出来ない魔物が、そこに存在していた。
「――デスセイレスか?!」
 船乗りの間で恐れられる人魚の魔物だ。海に潜む魔物の中でも狡猾な性格で、人間を魅了して操る、ということをラグドは記憶していた。
「やっぱりな。クォート、目ぇ覚ませ! ミラはお前が思っていたような奴じゃない魔物だったんだ!!」
 その正体を現したミラは、もう演技は必要ないと判断したのか勝ち誇った笑みを浮かべている。
「無駄よ」
 彼女がくすりと笑った途端、エンは身に危険を感じた。咄嗟にその場から飛び離れると、寸前にエンが立っていた場所に爆発が起こる。イオの呪文だ。
「クォート!?」
 無論、そのイオを放ったのはクォートである。
「おれハたたかウ。コノちからデ、みらを、まもルンダ!」
 明らかに正気ではない。エンは改めてミラを睨みつけた。
「てめぇ、クォートに何をした」
「別に。ただ、ちょっと虜に」
 ミラは嘲笑を響かせた。可憐な声ではなく、不快感しか与えない彼女の声は、そのまま事の真相を語った。
「ウミナリ村の人間達の魔力も、みーんな私がいただいたわ。魔力の抜け殻になった肉体に細工して不死の軍団を作った。あとはクォートを筆頭に、この不死の者たちを使って海を支配するだけ」
 ネカルクの言っていた妙な魔力――その源は、ミラであったことに間違いが無い。魔物ではない純正な人魚を装っていたために、明確なことが判別できなかったのだろう。
「みら ヲ まも ル」
 まるで夢遊病者の如く言葉は途切れ途切れで、動きも俊敏ではないにしろ、殺意だけはそこにあった。もし彼が夢を見ているというのならば、それはとびきりの悪夢だ。
「だったら――」
 クォートと対峙していたエンは標的を変えた。操っているのはミラであることは間違いない。ならば、彼女を斃せばもしかしたら皆は解放されるかもしれない。
「クォート!」
「っ!?」
 ミラが名を叫ぶと、クォートが目にも留まらぬ素早さでエンに襲い掛かった。右手にナイフ、左手に魔力を溜め込んでいる。
 エンは咄嗟にその場から飛び離れ、追撃を防ぐために火球の魔法――メラミを放った。ちょうどクォートがエンの立っていた位置に入れ替わり、メラミの火球は真っ直ぐにクォートへ向かう。彼は左手の魔力を解放し、イオでそれを迎撃。ダメージ自体はなかったようだが、魔法による攻撃は未然に防げたようだ。
「かぁぁぁ」
 クォートの動きが変わった。腰を低くし、両手を交差させ、頭を下げる。奇異な行動に戸惑うよりも早く、エンたちは目を見張った。
 彼の周囲に幾つもの光の球体が同時に出現したのだ。イオラほどの強力な力は感じないのでイオの呪文だろうが、それにしては数が多すぎる。
「質より量ってか」
 エンが火龍の斧を構え、彼の傍に集まった他の三人も、これから起こり得ることに対して態勢を整えた。
「き え ろ」
 その言葉は、エンたちに向かって言ったのだとばかり思っていた。
 しかし複数のイオがついに放たれると思った瞬間、消えたのはクォートだった。イオのの光球も同時に消え、その間に一瞬の隙が生じた。
「後ろ――」
 ルイナがいち早く気付いたが、遅かった。
 ただその一言で皆は理解したのだが、行動に移すまでの余裕は無かったのだ。
 複数のイオが、『連続』ではなく、『同時』に爆破を起こしたことにより、相乗効果もあってか通常の何倍の威力を有していた。
 それぞれが軽微ならぬ損傷を受けながらも、エンは攻撃に、ルイナは回復に、ラグドは守りに、イサは補助に転じようとしたが、途端に動きが鈍った。デスセイレスから発せられた闇の波動が、皆の動きを封じたためである。それでも、ルイナは水龍の鞭から回復の水を振り撒こうとしたが、クォートがイオを放ち、回復の水は効果を発揮する前に爆風で弾け飛んだ。
 回復を封じた代わりに、クォート自身の守りは薄かった。とにかく彼の動きを止めようとエンが火龍の斧を振りかざし、攻撃を仕掛ける。
「『瞬速』のフレアード・スラッシュ!」
 威力を失う代償として瞬間的な斬激を放つそれは、思った以上にあっさりとクォートの体を斬りつけた。だが、それでもクォートは動じた様子がない。
 他の村人と違い、リビングデッドと化していないクォートの肉体は不死というわけではないはずだ。それだというのに、何も痛痒を受けた様子がないというはおかしすぎる。
「魔力の壁の、せいで……」
 傷つきながらも、ルイナは相手の状況を観察していたようだ。エンはすぐに理解できなかったが、とりあえず物理的な攻撃は無駄ということだけはわかった。
「リビングデッドたちが!」
 イサが先ほど吹き飛ばしたはずのリビングデッドが、一体、また一体と戻ってきた。また包囲されると厄介なことこの上ない。それまでに勝負をつけなければならないが、複数の同時イオによる痛手は思った以上に影響があるようだ。
「クォート、一気に片付けてしまいなさい」
 ミラが優しく撫でるような声で語りかける。彼はその言葉に従い、また先ほどと同じ体勢を取り、先ほどよりも早くイオの光球を出現させた。
 回復を阻まれ、ダメージを追ったままあの同時爆破を受けることになれば、ただでは済まないだろう。エンやラグドはともかく、元より体力の少ないルイナや魔法に対する耐性が低いイサは致命的になりかねない。
「させるか!」
 ただ、そう思った。
 全てを打ち落とす。それさえ可能であれば未然に防げる。可能か不可能かは考えなかった。
 こちらには炎を司る精霊がついているのだ。炎を自在に操るのはもとより造作もないことだった。
 エンの周囲に、クォートの光の球体と同じ数――いや、それ以上の火球が浮かび上がった。闇を照らすそれは、荒々しくも幻想的である。
「――連火弾(メラズ)=I」
 クォートが光球を放つよりも早く、リビングデッドたちが戻ってくるよりも速く、ミラが横から邪魔をするよりも疾く、エンはその火球の群れを放った。その火球は威力さえ低かったものの、イオの光球に吸い込まれては暴発させていく。
「ぐぅ、う」
 物理的な攻撃では意味がない。それは正しかったようだ。自らのイオの爆発を身に受けて、クォートは明らにダメージを負っている。
 普通の人間ではもう動けない傷ではあるが、それでも気を失っていないあたりはさすがと言うべきか。だが、もう戦えないだろうということだけは、一目瞭然であった。
「クォートと村の人間を元に戻せ」
 エンはミラを振り返り、静かに言った。声は荒くないものの、静かな怒りは悪寒が走るほどだ。
「それで勝ったつもり?」
 ミラは勝ち誇ったように笑った。まだ何かあるのかとイサたちは身構えたが、エンは違った。
「ああ。あんた自体には大した力がない。だからウミナリ村のみんなを利用しようとしたんだ」
 美しい人魚の顔つきが厳しくなる。エンはただの勘で言ったようだが、当たっていたようだ。
「最初はね。でも、今は違う。村の人間の魔力……本当は私の命の糧にしようかと思っていたけど、戦いに使えばかなりのものに――」
 ミラの言葉は、激しい水音にかき消された。
 何事かと見ると、クォートが湖に落ちたらしい。最早動けない身体だだと誰もが思っていたため、誰もが不意を付かれていた。
 それはミラも同じだったらしく、もう使えない道具が自分の湖(テリトリー)に入ってきたことに嫌悪したようだ。
「ふん、せっかくリビングデッドの頂点として私の手足になってもらうつもりだったのにね。もう要らないわ」
 今からならまだ助かるかもしれない。ミラにとって彼を生き長らえさせることは可能であっても不必要だと言い切ったのだ。
「てめぇ」
 クォートはどんな状況でもミラを守ろうとした。彼女に恋をしたということがあったとしても、命を助けてもらった恩としてもだ。誇りとしている漁師としての命を助けてもらった恩だ。彼はそれを忠実に守っていたというのに。
「今日のところは引いてあげる。でも気をつけなさい。あなた達の命を奪うことは、とても簡単なのだから」
 あなた達の魔力はとても魅力的よ、と彼女は付け加え、ミラは湖の底に去ろうとした。他の場所に繋がる穴でもあるのだろう。
「逃がすか!」
 だが――。
「気をつける、のは……」
 ルイナが静かに言った。
 ミラは気にせず去ろうとした。
 だがそれを遮ったのは、クォートだった。
「え?!」
 あの身体で水中を泳いだのだろうか。一体、何が彼を突き動かしているのか。
「く、クォート?」
 ミラの声は震えていた。それもそうだろう。言い知れない狂気がクォートを包んでいた。
「みら たすけて くれ。 いたい んだ」
 彼の右手にはナイフが握られていた。
「おまえの 血を また わけてくれ」
「クォート!」
 やめて、と言おうとしたのだろう。それを言う前に、クォートはミラの喉にナイフを突き立てた。彼女が言いたかった言葉は出ず、代わりに鮮血が迸り、悲鳴ではなく何かが蒸発するような異音が響いた。
「血、 人魚の、 血・・・・・・」
 かつてクォートの腕を治したという人魚の血は、クォートの身体を癒すことなく、ただ水に溶けていった。
 ミラの身体は固形を保たず泡となり、それに合わせる様に、クォートの身体とリビングデッドたちも次第に泡と化していく。そして、やがては消え去ってしまった。肉体がそこにあったということを感じさせず、肉も血も骨も残らず、ただ汚れた衣類だけがその場に点々と残っただけだ。
「……」
 誰もが無言のまま動けなかった。
 何かが起こればいい、そんな期待を抱きながら、しかし時だけが過ぎていく。
 やがてルイナが傷の手当てを始めた。イサはその場に座り込んだ。ラグドは周囲が安全であるかを確認した。
 エンは、空を見上げて呟いた。
「終わったのか?」
 虚しさしか残っていない。誰一人、助けることはできなかったということだけは、理解できている。
 朝日が、昇ろうとしていた。


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