-13章-
人界、魔界



 そこは不気味な静けさに満ちていた。海中の暗闇は深くなるにつれ色濃くなり、灯りがなければ何も見えない、一切の光が遮断された世界。エンが灯した炎のおかげで泡の中は淡い光に包まれているが、遠くを見通すことはできない。
「どこまで潜るんだ?」
 いくらなんでも、深すぎる。陸地の近辺であるというのに、この深海はおかしい。
「……戻れるのかな」
「どうだろうな……」
 こうも暗いと、どこが上でどこが下なのか区別もつかない。もしかしたら潜っているのは錯覚で、実は上下に移動しているのではないかとも思ってしまう。このまま泡がいきなり弾けて海中に放り出されたら、と思うと、不安になるなというのが無理な話である。
「何か、いるぞ」
 最早潜っているという感覚すらなくなったころ、ラグドが低い声で言った。
「昼間のイカか!」
 船の下を覗き込んでみるが、光が届いていないのか真っ暗なままだ。
「……我は海の主=v
 相手が声を発した。それだけで海全体が平伏すように厳粛となり、静寂は更に寂しげになった。エンたちとて思わず身を震わせたくらいだ。それほどまでに声の主は威厳に満ちており、尚且つ尊大であった。
「海の、主……」
「ネカルクという名もある=v
「んじゃあ、そう呼ばせてもらうとするか。オレはエンだ。よろしくな、ネカルク」
 海の主を名乗る相手に軽く接するエン。しかし相手は憤慨した様子もなく、むしろ友好的にすら感じられた。
「不思議な者たちだ。汝らからは、二つの魂を感じる=v
「あ〜、そりゃそうだな」
 四人とも、自分の心の奥に精霊の王を宿しているのだ。複数の魂を感じることができるのは当然だろう。
「普通に喋ってる……」
 呆れ顔で言ったのはイサだ。昼間見た魔物を相手にするのだから、最大限の警戒を、と思っていたのが馬鹿らしくなってきた。ラグドをちらりと見やると、そうそうに吹っ切れているのか特に何かを感じた様子はない。そもそも彼の表情は読み取りにくいのだが、一番分からないのはルイナで、彼女は全く表情を変えていない。
「この状況、どう思う?」
 さりげなくルイナとラグドに聞いてみたが、二人はイサの顔を見やった後、同時に言った。
「なるように、なるでしょう」
「なるようになるでしょう」
 ルイナは言葉を途中で区切ったものの、このタイミングには驚かざるを得ない。
「(ええぇ、一緒の答え?!)」
 一人疎外感を味わってしまったイサなど気にも留めず、エンはネカルクと真剣に話し込んでいた。
「ってことは、やっぱりここは魔界なのか」
 エンが最初に聞いたことは、この世界についてである。魔界へ辿り着いたと思ったらそこは自分の故郷で、もしかしたら違うかもしれないと可能性にまだ未練を持っていたらしい。古くから住むネカルクの言質で、この世界が魔界に違いない事を知らされた。
「でも、オレの村には魔物なんてスライムくらいなもんだったし、魔法だって御伽噺みたいなもんだった。んで、ウミナリ村じゃ強い魔物は昔からいたって話だしさ。魔界って一体どうなってんだ?」
 そもそもウミナリの村は、ミカガミ村の井戸を通り抜けて来たからだ。もしかしたらそこでまた世界が変わったのかもしれない。未だに未練がましいのも見っともないが、それでもつい拘ってしまう。情けないなという自覚はありながらも、聞かずにはいられなかった。
 ネカルクはしばし沈黙した後、ゆっくりと声を発した。
「……遥か古の刻。かつて世界は一つであった。魔、神、人の三種族の戦により世界は三つに別れたが、それは世界の空間そのものが別次元へと分離したものだ=v
「え、え〜と……どういうことだ?」
「ルビスフィアが切り取られたってことかな」
 ネカルクの言葉を憶測で言い換えてみたが、どうやら当たりらしい。ならば、ヒアイ村の村長が言っていたことが正しいという事だ。魔界や神界は、もともとルビスフィアの一部であった、という説が事実らしい。
そのため、魔界にも人間がいるということだ。
「分離した世界へ押し込められた魔族と神族。魔族の圧倒的な数は、元の世界にも繁殖できるだけの数が残ったようだ=v
「それでルビスフィアには魔物が平然といるのか」
 魔王ジャルートが人間界に出現したことにより、その数は圧倒的に増えた。それ以前までは、そこまで脅威となるような魔物がそこらにいるわけではなかったのだ。
「そしてこの世界。魔族が封印された世界は、魔族が住むには狭すぎた=v
 魔物は従来の闘争本能により争いが絶えない。そのため、魔物同士でその数を減らすこととなったということだ。
「そんな世界で、よくオレの村のご先祖様は無事だったな……」
 度々魔物同士の戦いが行われていた世界。その規模の大小に関わらず、巻き込まれないはずがない。
「いや、汝らの村は別の空間世界だろう=v
「え?」
 聞きなれない言葉にエンは首をかしげた。他の三人に振り返っても、当然、皆も知らない。
「もともと空間そのものが複数に存在するのだ、この世界は=v
 そのため、エンたちのいた場所は魔物の存在自体が極少で、そのうえ瘴気にも満たされていない。
「その複数の存在に気付いた『世界』は、自ら意志がある如く、空間を増やし始めた=v
 ルビスフィアから分裂した世界は、さらに分かれた。しかも、今度は『分離』ではなく『増殖』し始めたのだ。その増殖した空間世界に、増えすぎた魔物たちは飛ばされていった。おそらく、初期は増殖した空間との繋がりが不安定ながらも存在していたのだろう。
「誰かが空間を操り、魔物の配置を行っているということも在り得る=v
「空間を……操る!」
 四人が一斉に顔を見合わせた。
 空間を操る能力といえば、魔王ジャルートが得意としていることだ。ならば、空間ごとに魔物の分配を行っているのは魔王なのか。可能性の一つだが、限りなく正解に近いように思えた。
「多重世界……それが魔界の真の姿ってことね」
 なんとなくだが理解できてきたことに、イサは得心がいったように頷いた。ネカルクの言葉通りなら、今まで疑問に思っていたことも多くが晴れる。
「魔界であることには変わりねぇか」
 何故か残念そうにエンは言った。どうやら、未だに世界の仕組みを理解し切れていないらしい。ただ、ここが紛れも無く魔界であるという事実だけを認めた。
「それじゃあさ、今度は昼間のことだ。ウミナリ村が海の生命を脅かすって、どういうことだ?」
 話の通じる相手であるから、いたずらに命を奪う魔物とは格が違うということは既に知れている。ならば、そのネカルクが村を滅ぼそうとするのは何か深い理由があるはずだ。その理由としては、ネカルクの言葉が気にかかる。
「妙な魔力があの村から発せられている。正体は分からぬが、放っておくと危険であることに間違いは無い=v
 具体的な理由までもネカルクには分からないらしい。だが、常に厳粛であるネカルクから多少なりとも焦燥の感が取れることから、勘違いというわけでもなさそうだ。
「ふ〜ん。んじゃあ一旦、村に戻って調べてみるか」
 気軽な提案だったが、向こうは軽く驚いたようだ。それに気付いたのか、エンは不敵に笑って見せた。
「色々と教えてくれた礼さ。お前の身体じゃ、詳しく調べるなんてことできねぇだろ」
 ネカルクは海面に上がるだけで大津波を起こせるほどの巨体だ。これほどまでになると、村に近づくだけでも苦労するだろう。だから津波で村を沈めようとするという手段を取っていたのだ。
「……そなたらは、一体=v
「オレたちは元の世界、ルビスフィアから来た。三界分戦を戦った四大精霊の力を得て、な」
 精霊の力を得た者として――、この世界の住人として――、そのような考えは全く無い。単に、エンはネカルクを気に入っただけだ。だから、彼の手助けをしたい。ただ、それだけだった。
「根源の世界からの旅人たちよ。汝らに、海の祝福があらんことを=v
 ネカルクの祝詞は、どこか不安げだった。今日初めて会った相手に申し訳ないと思っているのか、それでも頼ってしまうのはネカルク自身が村を滅ぼすという形でしかまだ見ぬ厄災に立ち向かう事ができないからか。ネカルクとて、命を奪うという行為は望んでいない。
 だが不思議と、ネカルクはこの者たちになら任せられると思った。
 それは、海の主として培った勘だったのかもしれない。
「任せとけよ! なぁ」
 元気よくエンは仲間達を振り返る。突拍子も無い仕事を請け負ったものだというのに、三人の表情は明るい。いや、ルイナはいつも通り無表情だが。それでも、イサとラグドも同じようにエンの行動に付き合うことに決めていた。
 いちいち驚いていては仕方が無いと吹っ切れたのか、それとももう慣れたのか。どちらにせよ、彼の突飛な言動に不安はなかった。
 不意に、泡に包まれた船が上昇し始めた。どうやら、冒頭のイサの不安は解消されたらしい。戻れるかどうかを気にかけていたが、それも杞憂だったようだ。

 やがて船は海上に姿を現し、泡も弾けた。
 周囲は静かで、波の音だけが聞こえる。小さな波が船に当たり、ちゃぷちゃぷと小気味良い音を立てていた。その中にいると、まるで先ほどのことが全て夢であったのではないかと錯覚させられてしまう。
「楽しかったな、海の中」
 その幻想的な気分を、弾んだ声が打ち消した。
「もっと明るかったらなぁ、色々見られたんだろうなぁ……」
 悔やむべきはやはり明るさであった。空は暗く、海の底はなお暗かった。明るければ、あらゆる魚の姿なども見ることができただろう。
「収穫はあったんだし、良いんじゃない。さ、戻りましょう」
「そうだな。ルイナ、頼む」
 来たときと同じく、ルイナに船を動かしてもらうつもりだったが、それをイサが遮った。
「少しくらい、私にも何かさせてよ」
 途端に、船が風に包まれた。泡に包まれたり風に包まれたりと、忙しい限りだ。
「なんだこれ?」
 答えを聞く前に浮遊感が全身を覆った。背景が一変し、そこは海の真ん中ではなく、村の海岸だった。
移転呪文(ルーラ)か」
「そ。ウィーザラーの力を借りたの」
 イサは以前まで魔法を使うことができなかった。もともと武闘家なので前線に立つから不必要ではあったが、少なからずとも憧れを抱いていたのだ。それが、簡単な魔法ならば使うことができるようになったのだから、つい扱ってみたくなってしまう。
「さて、これからどうするかな」
 村から妙な魔力が発せられている、とネカルクは言っていた。
 調べるといってもどこから手をつけてよいものやら。
「ともかく、クォートと合流するべきだろう。村に詳しい者で協力を仰げるのは彼くらいだ」
 船を下りながらラグドが意見を述べた。とはいえ、クォートは昼間に散々探して見つからなかった。合流しようにもどこにいるのやら。
「もう一回探すか?」
「いや、今日の所は休み、朝から捜索を開始すべきだ」
 もう夜も遅い状態で人を探すのは難しい。それならば休息を取って明日に備える方が良いだろう。
「そうだな……つーか、腹減ったぁ」
 昼間は捜索、夜は船。気が付けばまともな食事はしていなかった。村の者たちは警戒心が強く、エンたちに食料を分けてくれそうにも無い。クォートが見つからないということは、食と寝床にも深刻な問題を与えていた。
「それは困ったわね。今から派手に動かなくちゃいけないかもしれないのに」
 村の方向に視線を向けていたイサが真顔で言い、装備している飛竜の風爪の具合を確かめるようにさすった。
「え――」
 どういうことかを問う前に、エンも気付いた。村のほうに、赤い不気味な光が点々と姿を現している。それは何処までも禍々しく、戦い慣れた四人に激しい警戒心を与えた。決してただの灯りでないことは確かだ。
「なんなんだ、あれ」
 言うとほぼ同時に走り出していた。他の三人も同様だ。
 エンの問いに答えられる者はおらず、しかし村に辿り着くとその答えは自ずと知れた。


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