-12章-
人と、魔と



 巨大な物体は巨大な影を作り、巨大な影は脈動しているため、その巨大な影の元となっている巨大な物体は物体ではなく生物であることを示していた。そしてそれは野生の動物の類ではなく、その生物から発せられる瘴気が、魔の生物――魔物であることを物語っている。
 魔物は、巨大で真っ白なイカの魔物であった。大王イカ、という魔物のはずだが、その巨体さはエンが思わず口走るほど。
「うわ、なんだあれ。でっけー!」
 その巨大王イカが海底からの出現により津波が発生した。迫る、迫る。巨大な大王イカと共に、巨大な津波がウミナリ村へと襲う。いくら海辺の村とはいえ、堪えきれるものではない。
 巨大さに心を奪われている場合ではないとようやく気付き、エンはルイナへと振り返る――が、もういない。ルイナは小走りで浜へと向かい、ひとり突出して襲ってくる津波に立ちはだかる。
「ルイナ!」
 ようやくエンが彼女を追いかけて浜に辿り着く前に、ルイナは意識を高めた。魔力を高め、己のうちに眠る大いなる力を呼び覚ます。
「……行きます」
「……=v
 心の中に眠る四大精霊の一人、水の精霊スベリアスは声こそ返さなかったものの、その反応は確かにあった。今までに無い魔力が奥底より溢れ出し、大きな力となって具現化する。
「――マヒャド=v
 大きな力を制御できるか心配であったものの、それは杞憂であったらしい。今まで通りにすればいい。例えそれがどれだけ大きなものでも、自分の力なのだ。己に負けさえしなければ、操るのは容易なこと。
 ヒャド系呪文最大の効果を発揮する魔法は、襲ってくる津波を全て凍りつかせた。
「大丈夫か?」
 エンがルイナの横にまで追いつき、声をかけた。彼の言葉は津波のことなのか、それともルイナのことかのか。どちらにでも取れるが、どちらの答えも同じなのでルイナは頷いておく。
「よかったねぇ」
「さすがですな」
「……」
 イサが感心し、ラグドが同意するように頷き、クォートは目を丸くしてぽかんとしていた。
「やはり、神の怒りか」
「神の加護がなくなり、魔物が容易にこの土地へ訪れるようになってしまったのだ」
 ゆっくりと歩いてきた村長と占い師の言葉に、エンは顔をしかめる。
「まだそんなこと言ってんのか」
 エンは二人を一瞥したあと、大王イカへと視線を変えた。突然現れたあの魔物が、動く気配を見せたからだ。
「何者、だ=v
 低い声が轟いた。隠れるように扉の隙間から魔物の出現を目の当たりにしていた人々がその声で一斉に扉を閉じる。
「やっぱりこっちに質問してるのかな?」
 イサが頬をかきながらラグドを見る。それに対して、ラグドはおそらくはそうでしょう、と頷いた。
 先ほどの津波を防いだのだから、並大抵の人間にできることではないと相手もわかっているのだろう。クォートに村を守ることに協力すると言った手前、事を隠すわけにもいかない。
「ちょっとした旅人だ!」
 エンが律儀に答えを返すが、それで通じるのだろうか。
「我の邪魔をする者は、許さん=v
「邪魔って……」
 相手はいきなり出現し、その余波による津波で村が沈みそうになったのだ。それを防いだのは事実だが邪魔をしたつもりはない。
「その村を沈ませることこそ、我が意思=v
 大王イカの声は、いくら家に閉じこもっていようとも嫌でも聴こえる。ウミナリ村の人々は、耳を塞いで身を震わせていた。
「なんでそんなことするんだ!」
 戦うしかないと思っていたが、次の相手の一言で躊躇ってしまった。
「無論、海の命を守るため=v
「なんだって?!」
 意外な言葉に、全員がその後の言葉に詰まる。
「どういうことだ?」
 距離が離れているため、叫びでもしないと聞こえないと思っていたが、大王イカは呆然とした呟きも聞き逃していなかったらしい。
「その村を放置しておけば海の生命が脅かされる。今ならば、まだ間に合う=v
 巨大王イカの言葉に、四人は村人三人を見やる。そのうちの一人は、他の二人を見ていた。つまりエンたち四人とクォートの視線を、村長と占い師は浴びていた。この二人なら何かを知っているのではないか、と直感的に思ったからだ。
 だが当人の二人はその視線に気付かないほどに動揺しているのか、何も言わずに震えているだけだ。
「今日は引いて置こう。だが、近いうちにその村は必ず滅ぼす=v
 ゆっくりと大王イカは海へと戻っていった。津波を止めたルイナの実力と相当する物を他の三人も持っていると判断したのか、好戦的な魔物としては冷静な方だろう。だが近いうち、と予告していくだけに、相手にいつか分からない『いつか』という恐怖を与えていくことは忘れていない。
「逃げられたか」
 結局は何もできなかったエンが悔しそうに言う。
「でも、本格的に襲われていたらどうなっていたか……」
 いくら精霊の力を持っているとはいえ、実戦で上手く扱えるかどうかはまだ分からない。ルイナは既に使いこなせているようだが、だからといって自分たちも上手くいくかどうか。
「まあいいさ。けど、なんか気になること言ってたなぁ」
 言いつつ、エンは村長のほうを向いた。
「あんたら、何か知っているんじゃないか?」
 その問いに、村長と占い師は答えない。それどころか、未だに恐怖が抜け切れていないようだ。立ったまま失神でもしているのだろうか。
 しばらく沈黙が続いた後、ようやく村長が髭をもごもごさせながら言葉を発した。
「やはり、神の怒りだ」
 これだけ待っておいて出てきた言葉がそれか、と呆れ気味にエンはため息をつく。
「あれは魔物ではなく、きっと海神様の化身じゃ」
「あーはいはい……って、あれ? クォートの奴は何処に行ったんだ?」
 気が付けば浜辺にいるのはエンたち四人と村長と占い師の合計6人。浜辺に来る頃はイサやラグドと一緒だったはずの、クォートの姿が見当たらなかった。


 その頃クォートは、村の奥にある湖へと向かっていた。
「ミラ! ミラぁ!」
 焦燥感からか、人魚の名を大声で叫ぶ。いつもは他に人がいたらと気を遣うのだが、今は気にかける余裕など無い。
「クォート?」
 彼の声に反応し、ミラは湖から顔を出す。海で起きた事など露知らず、きょとんとした顔で首を傾げた。
「どうしたの?」
「今すぐ、ここを離れよう。こんな所にいたら、魔物に襲われるかもしれない」
「え……」
 相手はまるで事情が飲み込めていないというのに、クォートは構わずにミラに手を差し伸べた。
「さあ早く!」
「待って。ねぇ、落ち着いてよクォート」
 度重なるミラの声に、クォートの顔から焦りが少しずつ消えていく。
「ミラ……?」
 ようやく、ミラが脅えていることに気付いた。何に脅えているのか……紛れもなくクォート自身に、だ。次いで自分が汗だくになっていることに気付き、力なくその場にぺたりと座り込む。
「落ち着いた?」
「あ、あぁ……」
 ミラの優しい声音に、クォートは放心したように頷いた。
「それで、どうしたの」
 クォートはミラを見て、視線を地面に落とした。これ以上、彼女と目を合わせておくのが申し訳ないような気がしたから。
「魔物が、村に襲ってきたんだ。とてつもなく大きな大王イカだ。最初の襲撃はあの旅人たちが何とかしてくれたが、あいつは次にいつやってくるかわからない。もしまた襲われたら、ひとたまりも無い」
 海で起きた事を目の当たりにしたクォートは、巨大王イカの威圧感と危険性をその肌で感じ取った。次も助かる保障などどこにもないと、長年の漁師としての勘が告げている。
「いくら俺でも、あの魔物からミラを守りきることはできない。あの旅人たちを囮にして、俺たちはどこか遠くへ逃げよう」
 協力を頼んだ相手へ何とも酷な扱いだが、その囮にさせられる本人たちは誰一人としてここにはいない。
「でも、クォート……」
 ミラは湖から両手を差し伸べ、彼の頬を優しく撫でる。
「逃げてばかりではだめよ。また襲われたら、その度に逃げないといけない。だから、戦いましょう」
「戦う……」
 温和な性格で、争いを好まない人魚のセリフとは思えなかった。魔物に襲われるご時勢だから仕方ないと言ってしまえばそれまでだが、それでもクォートは戸惑った。
「私も力になる。だから、一緒に」
「一緒に……」
 ゆっくりと、ミラはクォートを抱きしめた。
 クォートは、放心したように、言葉を繰り返した。
「戦う……!」


 夜。
 昼間の氷はすっかり溶けて、夜の海は静けさに満ちていた。もちろん、波の音が絶え間なく続くが、あの大津波を見たのでそれさえも静寂に感じてしまう。
「よし、行くぞ!」
 船の先頭に立つエンは、気を引き締めるように言い放った。
「本当に行くんだ……」
 呆れ気味に言ったのはイサだ。
 四人も乗れば狭く感じる小船に揺られる気持ちは、否応無く不安にさせる。
 その不安を抱えながら、小船は沖合に向けて出航した。
 昼間のあれから、村長と占い師のことはもう見放して、四人でどうするかを話し合った。
 そもそもクォートがいなければウミナリの村人はエンたちと話そうともしない。そのためクォートを探したのだが見つかることは無く、湖にも行ったがミラにすら出会えなかった。
 それで、エンが一つ提案したのだ。
 あのでかいイカと話をしたい、と。
 最初は冗談と思ったが、小船を借りてこうして沖に出ようとする辺り本気であったと証明させられた。
「村を滅ぼそうとしてたんだよ。遭遇するなりいきなり襲われたりなんかしたら……」
 イサはあくまで慎重論を貫きたかったのだが。
「大丈夫だろ。相手はイカだし」
 エンが相手では意味が無かった。
「ただのイカであれば、問題はないのだがな。相手は魔物だ、用心するに越した事はない」
 言いつつ、最も用心しているのはラグドだ。それもそうだろう、彼の装備している鎧は誰よりも重く、いくら身体を鍛えているとはいえ海に落下して助かるとは思えない。それだというのに、襲われる危険のある相手の陣地に乗り込むどころか危なげな夜の船だ。
 これで転覆したらラグドは果たして生きられるのだろうか。ただでさえこの小船ではただの魔物でもあっという間に沈められてしまうのは明白であるのだから、危険性は高い。
 ラグドは浜で待っていたほうがよかったんじゃないかな、と今さらに思うイサは、何気なく進行方向を見やった。
「こっちで合ってるの?」
「知らん!」
「あのね……」
「ていうか、オレ、操船技術なんて持ってねぇし」
「はぁ!?」
 浜辺から随分と離れた場所で聞かされた事実に驚嘆。
「だったらこの船、どうやって動いてるの?!」
 波任せというわけでもなければ、風任せでもない。そういえば、漕ぎ舟のようだが櫂などは見当たらない。
「ルイナに任せてある」
「へ?」
 間の抜けた声と共に座っているルイナの方を見やると、彼女は目を瞑って何かに集中しているようだ。
「水の精霊に命令して海水を……なんだっけ。まあいいや、ともかく任せとけってさ」
 波任せや風任せなどは聞いたことがあるが、ここにきて新たな任せる先があるとは思いもよらなかった。ルイナ任せ――いや、水の聖霊任せか――という新ジャンルを切り拓いたルイナ本人は、会話に参加しようとせずに一心不乱で水の精霊を操っているようだ。
「なんだか、もう使いこなしてるって感じだね」
 羨ましげにイサは言って、自分の心の奥底に眠っている力を感じようとした。風の精霊ウィーザラーの鼓動を感じることはできるが、それを上手く使いこなせるかどうかはまだわからない。
「……そろそろ、です」
 閉じていた目をゆっくりと開きながらルイナが言うと同時に、船も前進するのではなくただ波に揺られるだけになった。静寂に満ちた海は心が安らぐようだが、暗い風景がどことなく不安にさせるようだ。
「この辺りか」
 船頭に立ち、エンは片腕を掲げる。
 何をするのかと問いかける前に、彼は行動を起こした。
 息を精一杯吸い込み、掲げた腕に炎を灯らせた。魔法的なその炎は荒々しく、しかし暗い夜にはこれ以上に無いほど目立つ。
「昼間の旅人だ! 聞こえてるか!? 話がある!!」
 意気揚々とした大声であの大王イカを呼び寄せようというのか、それならそれで先に言っておいて欲しかった。声を張り上げるとなかなかのもので、間近にいたイサは思わず竦み上がりそうになったのだ。
「……聞こえるものなの?」
「さあ?」
 大音量に顔をしかめつつ聞いたイサは、次いで呆れた。
「『さあ?』って……」
「聞こえると思うんだけどなぁ。昼間だって、あいつ耳が良いみたいだし」
 確かにこちらの呟きすら聞こえていたような素振りもあったが、偶然という可能性もある。しかし、それ以上疑う余地はなかった。船の周囲に変化が訪れたのだ。
 船を中心に泡が立ち、その泡が弾けるとまた新たな泡が浮き上がり弾ける。ぶくぶくと不協和音を奏でながら、次第にその数は不気味に思えるほどになった。
「なんだ、何が起きるんだ?」
 不安、というよりも楽しそうにエンは言った。
 その言葉に急かされたように、また急激な変化が起こる。
「これは……」
 船全体が、一つの巨大な泡に包まれたのだ。弾けることのなさそうな不自然な――魔法的な泡だ。
 泡に包まれた船は、ゆっくりと海の中を潜り始めた。
 やがて全てが海中に入り、海は再び静寂が支配した。


次へ

戻る