-11章-
人と、魚と



「人、魚?」
 イサが信じれないといった口調で言ったのも当然で、人魚を見たことがなかったからである。森の妖精たるエルフには何度か会ったことがあるが、水の妖精たる人魚は存在の噂さえ聞いたこともなかった。
 不思議と、体が動かなかった。どうすればいいか戸惑っており、どうすべきなのかが見出せない。言葉を発するのも許されない空気に包まれているからであり、互いが互いを警戒し、同じ状態になっているためである。誰も言葉を発そうとはせず、しかしこのままでは埒が明かない。
 少しでも状況を変えようとラグドが何か話しかけようと口を動かした瞬間、時は動いた。
 たった一瞬で、その人魚は湖に潜り込んでしまったのだ。その速さは、対応できるほどではなかった。波紋を残して、もう人魚が顔を出すことはなかった。
「何だったんだ?」
 結局なにもできず、しかしこれでよかったと安堵し、エンはため息をついた。
「お前ら!!」
 今度はいきなり背後から鋭い声が飛んだ。
 先程までが緊迫していた所で、ようやく気を緩めた所にこれだから驚くのも無理はない。びくりと肩を震わせながら声の主の方向を振り返る。
「って!」
 振り向いたら振り向いたで驚いた。声の主はエンより年上らしい青年で、それならまだしも、手に鋭い短剣を持っており、しかもそれでエンを貫こうとしていたのだから当たり前か。
「うわ」
 ほぼ無意識に防御を考える。今からではいくら手馴れた火龍の斧でも召還に間に合いそうにない。だからといって避けるよりも防いだぼうがいいだろう。一瞬の判断であったものの、その一瞬で事は足りたようだ。召還した皮の盾には穴が開いてしまったものの、刀身が短かったのか体には届いていない。
 武具召還(ウェコール)が成功してよかった。ルビスフィアとは違うこの世界で、果たして向こうの世界の力が使えるか不安であったのだ。一重に刺されていたかもしれないと考えるとゾッとする。
「なんだよお前」
「お前こそなんだ!」
 近くで見るとなかなかの美丈夫で、しかし漆黒の瞳はぎらぎらと殺気を放っていた。
「ミラを狙う奴は、俺が許さない」
 短剣を皮の盾から引き抜き、斬り払う。これ以上は皮の盾では防ぎきれないと判断し、武具を変換する。
「ミラ? 誰だよ、それ」
 盾は光に変わり、光は形を成し、形を成した光は武器となって具現化する。雄々しい炎を模した斧、『龍具』たる火龍の斧が召還された。
「問答無用!」
 明らかに相手の武器の方が勝っているというのに、青年はがむしゃらに短剣を振り回した。いや、一見いい加減に見えても、しっかりと一撃一撃が急所を狙っている。
 突然の事態に戸惑っていた他の三人は、このままではどちらにも危険が及ぶと判断し、行動に移す。最も早かったのはルイナだ。水龍の鞭を召還し、そこから水鞭を放出。ぐるりと青年の周りを旋回したかと思うと、一気に縛り上げた。
「なんだこれ!?」
 さすがに驚いたのか、振りほどこうと身体をよじる。しかし強固な水鞭は少しも緩まない。
「くそ! 卑怯だぞ!!」
「背後から襲うのは卑怯じゃないのか?」
 エンは構えこそ解いたものの、まだ火龍の斧を出したままだ。万が一のため、と思ったがルイナがそう簡単に離すこともないだろう。
「うるさい! 悪党どもにそんなことを言われる筋は――」
 何もした覚えがないのに悪党扱いか。だがその青年が最後まで言い終わる前に、そしてこちらから何かを言う前に、さらに声が背後からかかる。
「クォート!」
 湖を見ている時に背後から青年に襲われ、そちらを向いたのだから、今度の背後はもとの湖ということになる。
 叫んだ声は艶やかな美声で、その短く発した声だけでも虜になりそうだった。
「さっきの人魚!」
 とっさに振り返ったイサが、思わずそう言った途端にクォートと呼ばれた青年の顔色が変わった。
「お前らやっぱりミラを狙ってやがるな! ミラ、俺のことはいいから逃げろ!!」
 どうやらミラというのがあの人魚の名前らしい。
「だから違うって……」
 激しい思い込みにより敵として認識されているのだから、どうしようもない。このまま延々と話しが食い違ったままになるかと思ったが、ルイナが懐から何やら液体の入った瓶を取り出す。
 鎮静剤の類だろう。一度黙らせたいのは確かだが、どのような副作用があるかわかったものではない。そのうえ誤解が深まるかもしれない。
 だからエンはルイナを止めようとしたが、それよりも先にミラが艶やかな声でクォートに話しかける。
「落ち着いてクォート。この人たちは悪い人じゃない。さっきは、ただ私が驚いただけ。この人たちは大丈夫よ」
「……そうか」
 あれほど殺意を剥き出しにしていた彼は、いきなり神妙になった。まるで魔法にでもかけられたように、もう殺気は微塵も感じられない。
「あなたも、クォートを解放してあげてください」
 言われるまでもなく、ルイナは水龍の鞭の束縛を解いた。
 殺意は感じられなくなったものの、まだ警戒しながらクォートはミラに向かって歩き出す。エンたちは道を譲り、その間を歩いていたが距離が短くなると駆けていった。
「ミラ……」
 優しく人魚の名を呼び、クォートはゆっくりとエンたちに振り返る。
「本当に、ミラを狙ってはいないんだな?」
「さっきここに飛ばされたばかりだからな。事情もわかんねぇよ」
 信じてもらえたのかどうかはともかく、どうやら危険は去ったらしい。エンは火龍の斧を戻し、ルイナも水龍の鞭を精神に還す。
「人魚の血肉は、あらゆる万病にも効き、不老不死にさえなれる……という話を聞いたことがあるが。やはり狙われるようなものなのか」
 ムーナならもっと詳しく知っていたかもしれないな、と思いつつラグドは持っている知識を披露した。とはいえ、そうした伝説があるだけで本当かどうかまではわからない。
「否定はしない。俺も、ミラに助けてもらった身だからな」
 そう言って彼は右腕に視線を下ろした。無意識にそうしたのだろう、四人の問いかけるような視線を受けて、クォートは渋い表情で自身の右腕を掴む。
「この近くにあるウミナリの村で、俺は漁師をやっていた。けど、ドジを踏んで右腕に一生治らない傷を負ったんだ。ずっと漁師としての俺を支えてきてくれた腕が使い物ならなくなり、俺はこの湖に身投げをしようと思った。……そこで、ミラと出会った」

 ミラは人間に出会ったことに戸惑い、クォートも伝説の人魚に出会ったことに驚きを隠せなかったが、すぐにその興奮も冷めた。死ぬ前に、一目でも伝説にめぐり合えたのは最後の神の恵みであったのだろうと解釈したからだ。だがミラは、クォートが死のうとしていることを知って必死に留めさせた。
 その際に、自身の手を傷つけ血を垂らし、クォートの右腕に溶け込ませるように流した。するとどうだろう。治らないはずの傷は癒え、元通りどころか、以前よりも右腕の性能は上がっていた。
 クォートはひたすらに感謝した。しかし、人魚が人間に、人間が人魚に手を貸すということは禁忌である、という言い伝えがウミナリ村にはあった。それでも命を救われた喜びは、何ものにも代え難い。
 禁忌とされていたとしても、二人それ以来、度々出会っていた。もちろん、クォートは村の者には隠しており、ミラも仲間には内緒にしてのことだ。
 幾度も会う内に知ったことで、ミラたち人魚は人間に狙われることがよくあったと言う。もちろん、ウミナリ村の者ではないらしいが、人魚の存在を知れば襲う輩も続出するだろう。
「――だから、俺は誓ったんだ。ミラは俺が守るって」
 先程の必死さを見れば、その誓いに対する情熱も伝わってくる。異常なまでに固執しているのも、ミラを想ってのことだろう。
「いきなり襲ってきた理由は分かったけどさ。いいのか、オレたちにそんな話までして」
 結果的には、人魚の血肉は万病に効くのが事実であるということも知ってしまったのだ。もとより、人魚と人間が関わること自体が好ましくないだろう。
「お前ら、強いんだろ。聞いたからには協力してもらうぞ」
 否定を許さない、挑みかかるような目でクォートはエンを見る。
 勝手に聞かせたのは彼だが、とりあえず頷いておくことにする。北を目指していたところに、いきなりどこか分からない場所に飛ばされてきたのだ。ここが炎神の宝珠(レッド・オーブ)に導かれた場所なら、何かがあるはずである。何らかの行動に移すためにも、ここはクォートの話に乗るしかない。
「俺は、ミラを守りたいんだ」
 そう呟くクォートは、決然とした表情で空を仰いだ。


 案内された村は、ヒアイ村やミカガミ村と違い、重苦しい空気に包まれていた。
「それでなくても空が暗いのに」
 ますます気分が落ち込みそう、とイサは空を見上げた。太陽は雲に遮られ、吹いてくる潮風は湿っている。
 砂浜には幾つか漁船が停泊しており、どれも使い込まれているのだが、そこまで整備はされていないようだ。
「見られていますね」
 ラグドは無駄なく周囲を探ると、家の中からこっそりこちらに向けられている視線に気付いた。旅人に警戒しているのか、それとも別の何かに怯えているのか。
「いつもこんな感じなのか?」
 エンが聞くと、クォートは認めるのが嫌そうにしかし頷いた。
 ミカガミ村では警戒こそされたものの、明らかに種類の違うものだ。
「魔物が急増して、漁師が次々と命を落としている。誰だって、不安になるさ」
「魔物?! ここには魔物が出るのか?」
 ミカガミ村で聞いた話では、ヒアイ村と同じく魔物とはスライムくらいという特に害のないものであったが、命を落とす危険性がある魔物となると反応するのも無理はない。
「当たり前だろ。以前は、少し注意すれば何とかなっていたんだ。けど、いるはずのない時間や、明らかに新種の魔物が横行している」
 物憂げに言うクォートに、エンは少しだけ、クォートに対する認識を変えた。出会い頭に勘違いで襲われた挙句に、強引に協力させられているためか、正直言ってあまり良い印象ではなかったのだが、彼は彼なりに村のことを思っているのだ。そして、漁師としての腕を誇りにしている。
 同じ世界に住む者としてだろうか、つい考えてしまう。もし、自分が同じ目にあったら、と。平穏な日々の中で、突然魔物が増大し、村が襲われることになったら。
 今は戦う力があるものの、ルビスフィアに飛ばされる前の自分は、どうなっていただろうか。家に閉じこもって魔物が去るのを炎の神に祈るだけだったかもしれない。
 それでも、彼は、クォートは利用できるものは何であろうと利用し、村を救おうとしている。その努力は賞賛すべきだろう。
「ここだ」
 クォートが案内したのは、村の、どの家よりも大きな建物だ。家、というわけではない。正方形の箱そのものに扉をつけたようなもので、他の家屋と比べると何とも場違いな建物だ。
 中に入ると、中央に祭壇がひとつ、ぽつねんとあるだけであり、この箱の建物はそれを風雨から守っているかのようだ。そして、祭壇の脇に暗い面持ちで向かい合っている人間が二人。何かを話し合っていただろうが、乱入者に驚き、顔をあげる。
「クォートか」
 一人は髪が全て抜け落ちている代わりに、真っ白な眉と髭が目と口を覆い隠している老人。
「後ろの者はなんだね」
 もう一人は、黒いローブに黒いフードを纏った老婆である。こちらも髪が真っ白で、黒い服装のためにそれがよく目立つ。
「村長、そして占い師よ。魔物たちを倒す時が来た。彼らは、あの魔物たちを倒すだけの力を持っている」
 どうやら、ヒアイ村と同じくこの村にも村長と占い師がおり、村の政などは二人で取り持っているらしい。
 しかし現れた希望に、二人は無関心どころか、軽蔑するような目をこちらに向けてきた。
「必要ない」
 それだけを言うと、村長は顔を背けた。
 その視線の先は、祭壇。そして祭壇に祭られているものは――。
「あれって……」
 イサは目を見張り、次いでエンを見た。
 それを察したエンは頷く。
「さしずめ、水神の宝珠(ブルー・オーブ)ってところか」
 後ろに控えている四人にしか聞こえない程度に呟く。祭壇の中央には、薄く青色に光る宝珠が置いてあり、色を抜かせばエンが預かり持っているレッド・オーブと全く同じもののようだ。どうやら、ミカガミ村の井戸にあった旅の扉は、別のオーブがある場所へとエンたちを導いたらしい。
「どういうことだ! 説明してくれ!!」
 そのようなことなど全く知らないクォートは、何も言わない老人二人に食って掛かっている。
「魔物たちを倒せば、昔みたいに漁ができる! なんでそれをしないんだ!!」
 必死に説得を試みているが、老人二人の反応は頑なに無言を保っている。
「前みたいに、うまい魚は食いたくないのか! 手強い魚を相手に、自分の可能性を広げようと挑戦したくないのか! 時間と共に、漁師としての誇りまでも失ったとでもいうのか!!」
 どの言葉が二人を揺さぶったのかはわからないが、ようやく村長が顔を上げてクォートを見る。
「ワシらは、魚を獲りすぎたのだよ。増えてきた人間を食って生かせるために、漁で獲る魚を増やした。だからこそ、海神様はお怒りになり、加護を与えなくなった。海神様のご加護なしで、ワシらは生きてはいけぬ」
「だからこそ、魔物たちを倒すんじゃないか!」
「それは一時の幸せにしかすぎぬ。今、魔物たちを倒せる戦士がいたとしても、それは一時のこと。戦士が地を離れれば、そして老いてしまえば、再び魔物に脅かされる」
 確かに、エンたちとてこの土地に死ぬまで居座るわけにはいかない。
「だからこそ、不死たる海神様のご加護を再び受けなければならぬ」
 ぐ、とクォートが言い詰まる。クォートの言い分としては、表面上は村を救うためのものだ。真の目的は、進行してくる魔物に対してミラを守ることだとしても、海神の加護とやらが戻ればその目的も達成できる。
「そんな方法、あるのか」
 ついに自分の主張ではなく相手の言い分の聞き手に回ってしまった。その行為が、討論する者としては不利になることは、イサとラグドはよくわかっていた。一応、イサは国政の会議にも顔を出していたし、ラグドも騎士団長としてその場に居合わせていた。二人は、クォートが言いくるめられてしまうな、という結論を導き出す。
 だが――。
「あるとも。海神様の怒りを静めるには、若い娘の命を捧げることだ。怒りが静まるまで続ければ、いずれ海神様は許してくれる」
「そんな馬鹿な!」
 誰もがその声に何らかの反応を示した。老人二人は声の主へ顔を上げ、イサとラグドとルイナは声の主を見やり、クォートはゆっくりと背後を振り返った。
 誰よりも早く言ったのは、エンだったのだ。
「そんなわけあるかよ。お前らの村の神様が、命を求める? そんなわけあるか!」
 いきなり会話に参加した第三者に、ウミナリ村の三人は奇異な視線を送り、イサとラグドは目を瞬かせ、ルイナはエンの言わんとしていることを理解したのかゆっくりと同意するように頷いた。
 同じように神を祭っている村の出身だからこそ、祭っている神がそのようなことを要求するはずがないと確信していた。
「嘘ではない。ワシはしかと海神様の声を聞いたのだ」
 それでもエンは納得しなかった。
「空耳だ!」
「そんな無茶苦茶な……」
 いくらなんでもその決め付けはどうだ、と言わんばかりにイサが呆れる。
「生きるために仕方なく犯した行為に対して、命を奪うような罰を与える? そんなの、村を守ってくれる神様なんかじゃねぇ!」
 どこに根拠があるのかはわからないが、不思議と彼が言うと本当らしく聞こえてしまう。
「よそ者に、なにが――」
 村長がありきたりな言葉を言おうとしたが、全てを言い終わることができなかった。それどころか、髭に覆われた口をあんぐりと開けたまま、その光景に釘付けになってしまった。
 まだ開きっぱなしであった扉の向こうには、暗い海が見えている。
 その海から突然、轟音ともに巨大な物体――いや、魔物が現れたのだ。


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