Collapsing Sword -RE-
その昔、武器はまだ剣が主流だった時代。その時代に、実に多くの剣が生み出された。なまくらから名剣に至るまで、その数は計り知れない。そんな剣の中に、理論では語れない、摩訶不思議な剣も生み出されていた。
東国ではそうした類の物を妖刀と呼ぶらしい。
ここでは悪魔の剣や、魔剣という俗称がある。
その中で最も人に恐れられ、その反面、誰もがその存在を一笑に付す伝説の魔剣が在った。
全てを崩壊に導く魔剣。崩壊剣と呼ばれる『屍魄』という魔剣の刃は、打ち合った敵の刃も、その人間の意思も、肉体も、そして心すら崩壊すると云われていた。
特徴として、刃に『COLLAPSEクラプス SWORDソード』という文字が常に浮かび上がる、ということらしいが、それを実際に目にしたものはいない。
目にしたものは全て死を遂げているからだ、という意見もあれば、ただの伝説で実在しないから見た者はいない、という尤もな理由を主張するものもいる。
崩壊の魔剣『屍魄』は、人々の伝説の中に生きていた。
平和な村だ、行っても何もないよ。
道を尋ね、目的を言ったらそう返された。
だが、行かねばならない。確かめなければならない。
決意に満ちたその顔は、成人して間もない実際の年齢よりも高くに見られただろう。
それほどまでに、彼の顔は緊迫していたのだ。
「急がないと……」
馬を借りる金がなく、徒歩でいくはめになったのだが失敗だった。無理やりにでも資金を作り、馬で駆けるべきだった。そうしたらあっさり着いたはずだ。
地図と道を見比べながら慎重に行けるから、という考えもあったが、実際はほとんど一本道である。だが距離があるため、言葉通りに急ぐならやはり馬が必要であった。
彼は腰に帯びた剣がそこにあることで精神を落ち着かせるかのように、何度も剣の様子を確かめた。
徒歩だと後どれくらいかかるのだろうか。そうした不安に押し潰されそうになって心も弱り始めたとき、向かいから見えてくるものを気のせいとさえ思ってしまった。
そんなことがあるはずない、と決めつけるも、それは彼の意思とは裏腹に近づき、近づく度に明瞭になる。
目的の村の方角からやってきたのは、まさに求めていた馬だった。それも、二頭。乗っているのは村の人間だろうか。
あれに乗せてもらおう。いや、乗る。
そう決断した彼が、向かいの馬にその身を呈して止めようとしたため、さすがに相手も止まらざるを得なかった。
「いやぁ助かったよ」
男は礼を言いながら馬を下りた。
「困ったときはお互い様さ」
そう言ったのは、男を後ろに乗せて馬を操っていた若者だ。村では狩りを主にしているらしく、体つきはがっしりとしており、燃えるような赤毛が特徴だった。若者といえるのは、その精悍さのためで、年齢は既に嫁を貰っているし、もうすぐ子も授かるほどだという。
そしてもう一人、彼と一緒に併走していた馬に乗っていたのも、彼と同年代の若者である。朗らかに笑う赤毛の若者とは対極に、青みがかかった黒髪の男は不愛想な表情であった。
「村長を呼んでくる」
馬を下りて適当な所に手早く繋ぐと、不愛想な男はさっさと行ってしまった。
「ああ、頼む」
という言葉に対して、振り返りもしなかった。だが、頼まれたことを任せてくれ、とでも言うかのように、振り返らないまま手を挙げてひらひらとさせた。
「あの……やっぱり怒っている?」
男は堪らず赤毛の若者に聞いた。
「いや、気にしないでくれ。あいつはいつもあんな感じさ」
むしろなんで怒っていると思ったんだ、と聞き返されそうなほどだったので、男はそれ以上言わないことにした。
「まあでも、いざ街に向かおうと旅立ったのに、いきなり村に戻ることになったのはなんか複雑な気分だな」
そう言われてしまっては、男としては申し訳ない気持ちで一杯になってしまう。だが、不思議と嫌味は感じられなかった。赤毛の若者の物言いが、笑い話をしているかのようにしか聞こえなかったからだろう。
そうしている間に、不愛想なほうの若者が戻ってきた。
「村長の家で話を聞くそうだ」
男が求めたのは、村の代表者と重要な話がしたい、ということだった。それならばまずは村長に、ということになって呼びに行ったのだが、話が込み入ることを想定したのか立ち話にする気はないらしい。
男もそちらの方が都合もいいようで、しっかりと頷いた。
小さな村のため、村で起きた案件はまず村長のところへ相談に行く。最終的な決定を下すのは、村長の役割だからだ。
村で重要な立ち位置にいる村長は、すっかり禿げあがってしまった頭をさするのが癖になっているらしく、しきりに手を頭にやっていた。
「十分なおもてなしもできませんで」
「急でしたからね」
村長としては酒や馳走でも振る舞いたかったのだが、男の言う通り急なことであったので、ろくな準備ができていない。
「それに、今からする話はあまり気を抜けないものですから」
真剣な顔つきな男の言葉に、村長は困ったような笑みを浮かべた。
村のことに関わる決定を下す立場にあるものの、平和な村だ。このような重苦しい雰囲気の話は、めったにない。
村長は男を案内した若者二人に目を向けた。つられて、男も彼らを見る。
「村の代表者と話がしたい、ということでしたな。そこにいる赤毛の若者……カエンも一緒に聞いてもらっても構いませんかな」
カエンと呼ばれた若者は、指名されたことに驚いたのか目をぱちくりさせている。
男は即答せずに、カエンを値踏みするように見た。
あまり多くの人に聞いてほしくない話をするらしく、男は迷っているようだ。それに気付いた村長が、言葉を重ねる。
「村としての決断は私がしますが、いつも相談役になってもらっています。聞いた話を、また彼に話すのですから、それなら最初から一緒に聞いてもらったほうが良い」
「……わかりました」
渋々、といった感じで男は頷いた。
「それじゃあ、ルイスにも聞いてもらっていいよな」
と、カエンはその隣の若者を指名した。
ルイスと呼ばれた不愛想な男は、片眉をあげてカエンを見た。どういうつもりだ、と目で問うたのだ。
「どうせオレがルイスにも話すんだ。だったら、最初から聞いたほうがいい」
村長と同じ理屈を持ち出し、カエンはからからと笑った。
ルイスはため息をつきながらも、同席してもいいものか男に視線を投げる。
「わかった。あんたらにも聞いてもらう。けど……」
男はぐるりと村人三人を見渡した。
「さすがにこれ以上は増えないよな?」
男はシオンと名乗った。
旅の剣士であり、ある目的のためにあちこち行っているらしい。
その目的の一環でこの村に訪れた。それが何なのかを聞くと、シオンはその前に、と前置きをした。
「崩壊の魔剣『屍魄』って、知っているか?」
全てを崩壊に導く伝説の魔剣。その存在が、彼の旅に大きく関わっているらしい。
「有名な話だからな。子供の頃はよく脅されたっけ、『悪いことをすると、崩壊の魔剣を持った人間が命を奪いに来るぞ』って」
小さな村とはいえ、世間の常識くらいは知っている。魔剣『屍魄』の伝説も伝わっているのだから、それほど有名と言える。
「それじゃあ、ここから南にある街で、何人もの人が夜な夜な殺されているって噂は?」
シオンの言葉に、カエンとルイスが顔を見合わせた。村長は気まずそうに若者二人を見ている。
「知っているさ。殺人鬼を倒してほしいって、街が人を集めていることもな」
街の人間が何人も殺される事件が起きている。殺人鬼が出没している、という話題がここ最近で持ちきりだ。
街は他の人間に頼るほど切羽詰まっているらしく、この小さな村にも義勇兵の募集が来ていた。カエンが肩をすくめながら言って、ルイスがそのまま続けた。
「僕らは街の様子を調べるためと、それに参加するために、街に行こうとしていたんだ」
その途中に君に会って、村に戻るはめになったけどね、と言われてしまい、シオンは少し縮こまってしまった。
「……まあ、それで、だ」
少し言い淀んだが、一度咳払いをして気分を切り替える。
「……その殺人鬼が、崩壊の魔剣『屍魄』を持っているって言ったら、信じてもらえるか?」
シオンは真剣な顔でカエンとルイスを見た。村長は何を言われたのか分かっていないかのように目をぱちくりさせているだけだ。若者二人は、シオンを試すかのようにじっと見ている。
沈黙。
長い沈黙がこの場を制したかのよう思えた。
実際はほんの数秒もなかったのだが、この場にいたものは何十分にも感じられたことだろう。
「……伝説って実在するものなんだな」
最初に口火を切ったのはカエンだ。
続いて、ルイスが頷くように目を閉じた。
「信じて……もらえるのか?」
シオンとしては、ここで笑いものにされるかと思っていた。頭のおかしい人間と思われて、さっさと村が出て行ってくれ、と言われることも覚悟していた。それほどまでに、魔剣『屍魄』の伝説は知れ渡っている反面、誰もその実在を信じていないのだ。
「信じてもらいたくないのか?」
カエンに問われ、シオンは慌てて首を横に振った。
「じゃあ続きを話してくれ」
「あ、ああ」
シオンはまだ夢でも見ているかのように感じられたが、カエンに続きを促されてようやく頭を切り替えた。
「崩壊の魔剣『屍魄』はその伝説の通り、あらゆるものを崩壊に導く。更に、その魔剣を持つだけで肉体は信じられないほど強化されるん。いくら街に優秀な戦士が集おうと、その魔剣の刃には全員が屈するだろう。けど、崩壊の魔剣に対抗する手段がたった一つだけ存在するんだ」
シオンが語った、その魔剣に対抗する手段。
その話を聞いたとき、さすがのカエンとルイスも信じられないような顔をしていた。
◇
村の中心に、小さな祠がある。村では年に一度行われる祭りがあり、その時に崇めるくらいで、中身など誰も気にしたことがなかった。むしろ、中に何かがあるとは誰も思っていなかったのだ。
「うわ、本当にあったよ」
「あったけど、本当にこれなのかな?」
祠に祭られていたのは一本の剣である。
シオンの話が本当なら、この剣が崩壊の魔剣『屍魄』に対抗できる神の剣ということになるのだ。
名前を、宝剣『護魄もはく』と言った。
シオンの話はこうだ。
伝説の魔剣『屍魄』が何故、伝説上でしか扱われていないか。
それは『屍魄』を目にした人間が全て死を遂げているから、というのが大半の理由だ。それならば、この世界は『屍魄』による殺人鬼があちこちにいる事となる。魔剣『屍魄』は一本ではなく、世界中に存在しているのだ。
そうなれば一人くらいは逃げ出すことに成功した人間もいそうだが、実は『屍魄』を持つ人間も増えるばかりではない。『崩壊の魔剣を崩壊させる人間』が、存在しているのだ。
魔剣の凶気から人々を救う、希望の剣。
シオンは、その魔剣を崩壊させる旅をしている人間の一人だという。
今回の街で起きている連続殺人事件も『屍魄』の仕業ということを突き止め、崩壊の魔剣を崩壊させるためにやってきたのだが、その『屍魄』を持っている人間の正体が未だに不明で、一人の力では無理だと判断した。
宝剣『護魄』を持つ人間を、一人でも増やさなければならない。
そして、その宝剣『護魄』も、『屍魄』と同じように世界中に散らばっている。
この村に祭られていることが分かったのは、シオンが『護魄』の使い手であり、近くに『護魄』が存在する時に共鳴するからだという。
本来なら『屍魄』やそれに対抗する『護魄』は口外してはならない。余計な恐怖を世界に与えてはいけないというものだが、それを守って被害者が増えてしまっては本末転倒である。だから、カエンたちに話したのだ。
「これで魔剣に対抗することができるなんて、にわかには信じがたいな」
カエンが剣を抜いてみると、たいした手入れもされていないはずなのに、その刃は美しい光沢を放っていた。宝剣、という言葉が相応しいほどに。
「もし違っていても、君なら思い込みでなんとかできそうな気はするけどね」
ルイスの言葉に、カエンは首を傾げた。
「オレが使っていいのか?」
「君以外に誰がいるんだ?」
「お前」
「剣の腕は君の方が上だろう。カエン、その剣は君が持つべきだ」
まだ完全に納得しきれてないのか、カエンは微妙な顔で剣を鞘に納めた。
「まあいいけどよ。でも、もしこれが本当なら伝説の剣みたいなものだろ。使ってみたいとか思わないのか?」
伝説の剣、という言葉には言い知れない魅力がある。男なら誰しも、そんなものがあるなら使ってみたいと思うはずだ。
「カエン、君は何を言っているんだ」
ルイスはカエンに、不可解な顔を向けた。
「そんなの、当たり前に決まっているだろう」
と、会話は終わりだと言わんばかりにルイスは歩き出した。
「間違いない。『護魄』だ」
再び村長宅に戻ってきたカエンとルイスは、シオンに取ってきた剣を見せた。
村に隠れるように祭られていた剣は、本当に伝説の魔剣を打ち破る宝剣だったらしい。
「それじゃあ改めて言わせてくれ。魔剣『屍魄』を崩壊させることに、協力してくれないか」
カエンとルイスが、断るはずがなかった。
宝剣『護魄』を携えて、カエンとルイス、そしてシオンの三人は街を目指した。
今度ばかりはシオンも馬を借りて、街へはあっという間に辿り着くことができた。
村とは違う活気に包まれた街並み。旅人も多く訪れるため、大通りには旅の必需品を並べている店もある。街の喧騒は、静かな村暮らしをしているカエンたちにとってやや落ち着かないものがある。
ただ、あちこちに並んでいる露店も村にはないもので、特にその場で焼いた肉を売っているのを見ると、空腹感が財布の紐を緩くしろと言い出しそうだ。
明るくて賑やか、という印象だが、どこか重い空気が流れているのは、この街に夜な夜な殺人が行われているからだろう。
一刻も早く、この重い空気を取り払い、街の賑やかさを存分に楽しみたいものだ。
「宿屋『ディアンの蝋燭』。そこが、街が集めた傭兵や戦士に提供されている宿泊場所だ」
一度この街に来ているシオンが、迷いのない足取りで向かう。
彼は既に部屋を確保しており、まだ部屋に余裕があったはず、とのことだ。一度この街を離れたのはわずかな間だが、その間に埋まっていなければいいのだが。
「ついに来たんだな」
感慨深げにカエンが呟くが、隣でルイスはやや呆れた顔をしている。
「何度も来ているだろ」
「そうだけどさ」
今までこの街に訪れる機会は幾度もあった。食糧や生活品の買い付けだったり、村で取れた野菜を届けたりその他にも二人は何度も訪れており、交流が全くないわけではない。
それでも、伝説の宝剣を持っているというだけで、今までとは何か違ったように感じるのだ。
そもそも、今回は殺人鬼討伐の募集に応じてきたのだ。今までとは違うのは、当然といえば当然である。
そうしている間に、門からして立派と分かる宿屋に辿り着いた。
提供されている宿泊施設『ディアンの蝋燭』だ。
「でっけぇ」
「それだけ街の人たちも必死なんだろうね」
出没する殺人鬼を倒すために募った人々への対価として、この宿泊施設を無料で利用していいとのことだ。本来なら宿泊費は馬鹿にならないだろうが、それをただにするほどなのだから、街としてもなかば自棄になっているのかもしれない。
「部屋は空いているそうだ」
宿泊の手続きなどはシオンがやってくれたらしい。
そして、二人だけに聞こえるくらいの小声で続けた。
「たぶんだけど、今日は『屍魄』は現れない。今日はゆっくり休んでいいと思う」
このような立派な宿屋に泊ることは滅多にないのだから、二人はその言葉に甘えさせてもらうことにした。
旅人が酒場に好かれる条件は二つ。
一つは大いに食べること。
もう一つは、大いに飲むこと。
つまりは金を派手に落としていくことだが、もちろん雰囲気を盛り上げることも好まれる。
カエンとルイスは、その全てを満たしていた。
「もう一皿追加!」
「エール酒も追加だ」
気前の良い客は、どの酒場でも歓迎される。
彼らの机には次々と皿が重ねられ、酒が注がれていった。
見事な食べっぷりと飲みっぷりは、見ていて惚れ惚れするくらいだ。
店の人間は忙しく注文の品を運んでいるが、どことなく嬉しそうだ。
しかし、と二人は油断なくその様子を見ていた。
「疲れ切っているな」
「ああ」
他の人間には聞こえない程度の小声、と言っても周囲の喧騒の中では小声と言えるのかどうか怪しいが、ともかくこの会話はカエンとルイスにしか聞こえていなかった。
酒場が最も盛り上がるのは夜だ。
その夜に、殺人鬼が出没するとなると外出する人間はめっきり減るだろう。そうなれば、夜が最大の収入になる酒場にとっては悩みの種以外の何物でもない。
早々に解決してほしい事柄だろう。
それに、この街の人間全員に言えることだが、やはり不安そうな顔を隠しきれていない。
もしかしたら隣人が噂の殺人鬼かもしれない、という疑心暗鬼に囚われる人も、少なくはないだろう。周囲の人間が話していたことだが、酔っ払いの喧嘩で、お前が殺人鬼なのではないか、といちゃもんをつける人間も少なくはないらしい。
「何とかしてやりたいよな」
「ああ」
今の街の様子を見るためと、その殺人鬼討伐に手を貸すつもりで村を発った。発端は村に持ち込まれた義勇兵を募るお触れがあったからだが、村にも脅威が及ぶかもしれないと判断し、徴兵に応じた。
延いては村を守るため、これから生まれてくる子供たちのため、というのが大義名分の名目であったが、それだけでなく、街の人々の様子を見ていたら、彼らを助けてやりたいと感じた。今は伝説の魔剣に対抗できる宝剣を持っている、という事実が、その想いを強くする。
「やあ、お待たせ。おっちゃん、俺にもエール酒ちょうだい」
更に注文を追加しようとしたところに、シオンがやってきた。
彼はどっかと座って、額の汗を拭った。一仕事を終えた達成感に包まれているのか、運ばれてきたエール酒を一気に飲み干して一息ついた。
「とりあえず、俺がこの街を離れていたころからは特に進展してないようだな。殺人鬼の目撃情報はなし。出没する場所もどこかわからない。ただこの街のどこか、っていうだけだ」
シオンは情報収集を買って出てくれたのだが、大した情報は入ってこなかったようだ。事前に聞いていたことと、何一つ変わっていない。
「ただ……」
シオンの表情が曇る。
「一つだけ変わっていたよ」
何が、とカエンは聞いたが、隣にたルイスはすぐに察したのだろう。黙祷するように目を瞑った。
「被害者の数が、増えていた」
そこからは、勢いが止まらないように見えた食事も、あまり進まなかった。
月が出ている。
街灯で道は照らされているが、月明かりでも十分なほどだ。心地よい風もあり、静かな夜である。
こんな気持ちの良い夜に、人殺しがどこかで行われているなど、信じがたい。
「おい、カエン。しっかりしろよ」
「大丈夫だって」
ルイスの心配そうな声に応えたカエンの呂律は、うまく回っていない。
「いくら何でも飲みすぎだ」
「大丈夫だって、言ってるだろ」
「そんな状態で殺人鬼に出くわしたらどうするんだよ」
今のカエンならば、まず間違いなく殺されてしまうだろう。呂律どころか、足取りも怪しいのだ。
「今日は出ないんだろ」
「俺のことを信用してくれるのは嬉しいけどさ、さすがに少しは警戒してもいいんじゃないか」
シオンは『屍魄』の気配を感じることができる。その為、今日は現れないと踏んでいたのだが、だからといって必ずというわけでもないのだ。大いに飲んでいるように見えて、ルイスはしっかりと節度を守っていたのに対して、カエンは本当に限界まで飲み食いしていたようだ。
「不思議だな」
と、シオンがぽつりと漏らした。
「気にしないでくれ。こいつはすぐに人を信用するんだ」
人を疑うことをあまり知らない。それがカエンの良いところでもあるのだが、常に隣にいた身としては、さすがにもっと疑ってほしいところだ。
「カエンのことじゃない。あんたのことさ」
「僕?」
シオンが何を言っているのか分からず、先を促すように彼を見た。
「そうだ。俺はあんたの方が優秀だと思うよ。こういう人を信じすぎるやつは、いずれでっかい落とし穴に突っ込んじまう」
シオンは言いながらカエンを見た。その表情がどこか皮肉めいたように見えたのは気のせいだろうか。
「本当に人々から求められるのは、抜け目ない考えをしっかりと持っている人間だ。なのに、あんたの村ではカエンのほうが人気あるんだろう。それが不思議なのさ」
カエンがいなければ、きっとあんたが一番だろうに、とシオンが言ったのに対して、ルイスはため息をついた。呆れたといってもいい。
「僕はカエンのサポート役で満足しているよ。それに嬉しいじゃないか、親友が誰からも頼られる立派な奴なんだから」
当のカエンは、もはや何も聞こえていないかのようにぐったりしている。どうやら意識もはっきりしていないようだ。今の会話も、まるで聞こえていないだろう。
そんな様子の彼を見てルイスは苦笑し、シオンはまだ納得がいかないのか仏頂面だ。
「カエンがいなかったら、その誰からも頼られる立派な奴は、あんただったかもしれないのにな」
シオンはそれだけを言って、後は黙って歩き続きた。
ルイスは、カエンとシオンを交互に見て、やれやれと言わんばかりに肩をすくめただけだった。
結局その夜、本当に殺人鬼は現れず、被害者名簿に新しい名が載ることもなかった。
とはいえ、たまたまその日の被害者がいなかっただけで、殺人鬼の驚異が去ったわけではない。
平穏な日々を取り戻すためにも、殺人鬼の正体を暴き、倒さねばならない。
日もだいぶ上がってきた頃合、三人は作戦会議として宿屋の部屋で、街のタウンマップを広げていた。
三人の部屋は三階に位置し、窓から表通りを一望できる。さらに面白いのは、窓を開けたらそのまま屋根に登れる造りになっているので、天気の良い日は屋根で昼寝でもしてみたくなりそうだ。
だが、残念ながらそんな呑気なことをしている場合ではない。
「今までの凶行は全て夜に行われている。昼間は何かしらの行動が制限されている可能性があるな」
シオンの言う通り、昼間は何の行動もないことから、自由に動き回れない人物という可能性が大きい。もちろん、殺人鬼が犯行時間を夜にしているだけ、という可能性もあるのだが、少しでも犯人像を絞るためにも地道に推測していくしかない。
「そうなると、昼間に店を開いている人物か……。いや、それは考えにくいな」
ルイスが自分で言ったことを、いきなり自分で否定した。
「なんで?」
シオンはどちらかといえばルイスが否定したことを元に絞ろうとしていた。それだけに、少し反抗的な口調になってしまった。
「店の経営はこの街だとかなり忙しいからね。店を閉めた後でも、その日の後始末や翌日の準備で、夜な夜な出かけるなんて真似はそう簡単にできないはずだ」
ルイスの意見に、シオンは目を丸くした。
「よく知っているな」
「この街には、何度か来ているからね」
肩をすくめながら、ルイスはカエンを見た。
「カエン、君もそう思うだろ?」
話題を振られたカエンは、腕組をしたまま、難しい顔で座っていた。
「んー」
声を出すのが辛いかのように、唸るように言った。
「どうかしたのか?」
シオンが聞くと、やはりカエンは難しい顔のままシオンの方を見た。
「……頭いてぇ」
ただの二日酔いである。
「昨日あれだけ飲むからだよ。水でも飲んでいろ」
ルイスはカエンの様子を既に分かっていたようで、水差しを渡してやった。
「うー」
完全復活とはいかないようだが、少し楽にはなったようだ。カエンもようやく立ち上がって、地図を覗き込んだ。
「とりあえずさ、ぐるっと街を回ろうぜ。実際に見てみないとさ、地図だけじゃ分からないこともあるだろ。ルイス、どうかな?」
「良いんじゃないか。現場にも何か残っているかもしれないし」
さすがに片付けはされているだろうし、調べ尽くされているだろうから何かが見つかるとは思えないのだが、だからといって最初から見ないと決めつけるのもよくない。
そうと決まったら早速、と勢い良く飛び出そうとしたカエンの足がもつれたので、もう少し回復するのを待って出ることになった。
その間に知ったことなのだが、この『ディアンの蝋燭』に宿泊している人間はやはり熟練の戦士が多く、殺人鬼討伐の噂を聞きつけて協力のために訪れているらしい。それを聞くと、その中で凶行を重ねている殺人鬼も相当な手練れということになる。
それと、幾つかのルールがあるらしい。一つは、『ディアンの蝋燭』に宿泊している人間たちで幾つかのグループを作り、日ごとに交代で夜の見回りに行くこと。一つは、殺人鬼を見事倒した場合の褒賞金は、グループ内の人間で分け合う事。分配の方法はグループ内で決めていい。
カエンとルイス、そしてシオンは一つのグループとして登録してあるらしく、夜の見回りの順番はかなり後らしい。それほどまでにグループがあるのだから、それだけ屈強な戦士がこの『ディアンの蝋燭』に集っていることになる。
それだけいれば早々に解決できそうなものなのにな、と言ってしまいたくなるが、それは集っている戦士たちの誇りにも傷がつきかねない発言になってしまうので、誰もが思っていながらも言葉にはしていないようだった。
昨夜もそうだったが、昼間の盛況は平和そのものである。安売りを大声で宣伝している店や、大勢の並んでいる客を捌くのに必死な店、賑やかな街並みは、あちこちに目移りしてしまう。
カエンとルイスは犯行のあった場所を見に行ってみたが、収穫は残念ながらなし。何かしらのヒントもなければ、共通点らしい共通点もなかった。唯一の共通点は、大通りのような広い場所ではないということだが、さすがにそれは共通点とは言い難い。
「こうも広いと、待ち伏せとかもできそうにないよな」
「次に現れる場所の予測……か。もう少し調べたら何か出てきそうな気はするんだけどね」
今のままだと何とも言えない、とルイスは肩をすくめた。
「だったら、シオンに期待、か」
シオンは今、二人とは別行動を取っている。
今一度、『ディアンの蝋燭』に泊まっているメンバーから話を聞くとのことだ。何人かとは面識もあるし、夜の見回りにも出向いている人間から話を聞いて何かが見えてくるかもしれない、というのが理由だ。
その間にこうしてカエンとルイスは街を歩いていたのだが、今のままだとシオンに良い話は持って行けそうにない。
「もう少し回ってみるか?」
「うぅん、そうだなぁ……って、カエン?」
ルイスが考えながら歩いていると、ふと隣から気配が消えた。振り返れば、隣を歩いていたはずのカエンが途中から歩みを止めているではないか。そして、何かを熱心に見ている。
「どうしたんだよ」
戻ってきて、カエンが見ている方向をルイスも見た。見て、納得した。納得すると同時に呆れた。
カエンが見ていたのは出店である。
小麦粉を砂糖と卵、そして少量の牛乳を混ぜた後に薄く伸ばして焼いた生地で、生クリームを挟んでいる。単純に生クリームを挟んでいるだけのものもあれば、果物やチョコレートを一緒にしているものもあり、さすがにそちらは料金が跳ね上がっている。
クレープ屋だ。
「カエン……気持ちは分かるけどさ」
この手のものが、カエンは大好物なのである。
「こういうもの見るといつも思うけど」
カエンは真剣な眼差しでルイスを見た。
「イチゴチョコが一番だよな」
「カエン……」
対して、ルイスは頭を押さえながらため息を一つ。
「あのな、カエン。そうじゃないだろ」
ルイスが眉を寄せながら睨むようにしてカエンを見た。
「バナナチョコが一番に決まっているじゃないか!」
カエンとルイスはよくこのことで対立しているのである。
「いや待て、お前は分かっていない。イチゴの酸味と、チョコの苦みと、クレープ生地と生クリームの甘味が程よく混ざりあった時、究極の味になるんだ」
「分かっていないのは君だろ。酸味でせっかくの甘味が崩れているのに気付いていないのか。クレープ生地の甘味なんてあってないようなものじゃないか。バナナの甘さと、生クリームの甘さ。それをちょっと苦みのあるチョコレートを薄くかけて、生地で包めば完全なバランスが取れるんだ」
こうして言い争っている内に、日が暮れることもあった。
一番迷惑だったのは、店の目の前で論争を繰り広げられている店主のほうであっただろう。そうした経験があるからか、店主は見せびからかすように置いてあるクレープとは違い、その場で焼いたクレープを二種類作り、それを。
「ほれ、そんなに言うならこれでも食え!」
と、二人に手渡した。
「今の話を聞いてなかったのか? なんでオレにチョコバナナクレープを渡すんだよ」
「そうだよ。なんで僕がイチゴチョコクレープになるんだ」
カエンに渡されたのは薄切りにしたバナナを挟んでチョコソースをかけたチョコバナナクレープであり、ルイスに渡されたのはイチゴが豪快に入っている上にチョコソースをかけているイチゴチョコクレープである。それぞれ好みが違う。
「いいから食え! 食って、気に入って、もう一個買って、その後にどっか行っちまえ!」
怒鳴りながらもう一つ買わせようとするこの店主も、たいしたものであった。
『ディアンの蝋燭』に取っている部屋。その扉をシオンが開けた時、彼は目を瞬かせた。
「どうしたんだ?」
カエンとルイスは既に戻ってきており、二人は真剣な顔でシオンを迎えた。その様子に、シオンも思わずたじろいでしまったのだ。
「重大な発見をしてしまった」
「僕もだ」
二人の言葉に、シオンも顔つきが変わった。
「何か分かったのか!」
「ああ」
シオンが期待の眼差しを向けると、カエンはおもむろにシオンへあるものを差し出した。
「――って、は? なんだこれ?」
「見りゃ分かるだろ」
カエンが差し出したもの。それはこの近くの出店でも売っている、意外に評判の高い――。
「クレープなのは分かる。だが、なぜこれを出したのかが分からない」
訳も分からずとりあえず受け取ってしまい、シオンはカエンとルイスを交互に見比べた。
「いや、さっきな……」
と、カエンとルイスは先ほどのクレープ屋の前での論争について話した。
結局あの後、二人はそれぞれ好みが違うクレープを店主の前で食したのだが、その時に分かってしまったのだ。
「カエン、僕が悪かった。イチゴチョコの酸味と甘味と苦み、三位一体という言葉はきっと酸味一体という意味もあるんだろうね」
「いや、謝るのはオレの方だよルイス。それぞれ違う甘味が奏でるその様は、究極の味と名乗るに相応しい」
それぞれの良いところに気付いてしまい、あれほど一番だと信じていた自分の好みの味がまるで逆転してしまったかのようだ。
「あんたら……。『屍魄』についてはなんか分かったのか?」
シオンは必死になって情報を集めていたと思っていただけに、この状況にこめかみを押さえながら聞いた。
「とりあえず土産にお前のクレープも買ってきたから、それ食ってみろよ」
「何度かこの街に来ているけど、あそこのクレープ屋は最高だと僕も思うよ」
二人の言葉で、大した収穫はなかったんだな、とシオンは悟った。
「こっちも進展はなかったんだが……」
それだけにシオンは二人の行動に期待していた。その結果がクレープとはこれいかに。
手に取ったクレープを見下ろし、八つ当たりするかのようにシオンはかぶりついた。
「確かに、うまい、けどさ」
かぶりつきながら喋っているので途切れながらの言葉になってしまった。カエンとルイスが勧めるだけあって、味は一級品だ。だが、これからどうするべきかを考えたら、その味も楽しめないではないか。
「むぐ……ん?」
最後の一口を押し込むと同時に、シオンは違和感に気付いた。
慌てて押し込んだ一口を飲み込み、クレープの包み紙を見る。
「なんだこれ? 文字?」
店の宣伝をするために店の名前を包み紙に印字していることはよくあることだが、それが内側に書いてある。店の宣伝なら外側に印字しなければ見えるはずがない。店主が間違えたのかとも思うが、シオンがちらりとみたのは明らかに文章である。
包み紙を広げると、そこにはこう書いてあった。
黒髪の男。背丈は平均よりやや低め。
月明かり反射ではない、不思議な光を放つ剣を所持。
格好は旅装の為、街の人間ではない可能性が高い。
読み終えてもシオンはそれだけで穴が開くのではないかと思うほどの視線で読みかえした。
間違いなく、殺人鬼の風貌に関わる情報である。
「え、これ、えぇ?!」
言葉になっていない狼狽を繰り返すシオンは、この文章と二人を見比べた。
「何度かこの街に来ているし、最高のクレープ屋だって言っただろ?」
「街の人間たちだってなんとかしたいと思っているんだ。協力を仰げば、手を貸してくれるさ」
カエンとルイスがこの街に何度か訪れている内に、その実力を見込まれて自警団に誘われたこともあった。村での生活を決めている二人は断っていたが、それでもいつの間にか人脈が至る所にできあがっていたのである。あのクレープ屋も情報屋として二人によく協力してくれている。
「こっちが調べた時は、何の手掛かりもなかったのに……」
シオンは目を瞠りながらもう一度手紙を読んだ。
「そうだよなぁ。こんな宿屋も提供してくれているんだから、もっと協力的かと思っていたけど……」
その点はカエンも不思議に思っている。このような事態なのだから、こうした情報はこの宿屋に詰めている戦士たちに渡せば良いというに、それが行われていない。
「まあ、いろいろあるんだろ」
ルイスは複雑な表情をしながらそれだけを言った。
「なんだルイス、思い当たることでもあるのか?」
「あるけど言わないでおくよ。ただの予想だし、それを言って本当になったら嫌だからね」
無駄話は終わりだ、と言わんばかりにルイスは立ち上がった。
「グループ毎の夜の見回りってさ、別に当番じゃなくてもやっていいんだろ?」
「あ、あぁ」
「なら、行くか」
カエンも立ち上がり、出口へ向かう。
「行くって……どこか分かるのか?」
クレープ屋の情報は殺人鬼の風貌に関わる特徴だ。これだけでは行動を予測できない。
二人はシオンの方を見て、少し考えながら同時に言った。
「「勘」」
この二人、どうにも妙な所で似ているのである。
夜の街を歩くことで、何か別の発見があるかもしれない、ということもあり、三人は別々に街を探索することにした。
本当に殺人鬼に遭遇した時のことを考えて三人で行動したほうが良いのだろうが、それでは全ての場所を回ることができない。
シオンは担当した区域を歩きながら、夜空を見上げた。
月明かりは昨日と変わらず美しく輝いており、このような月の下で凶行が重ねられている事実が胸を苦しませる。本来なら『屍魄』の存在を人の目に触れさせずに消滅させるのが己の役目であるというのに、『屍魄』による被害者を増やしてしまっている。
情けない、とかぶりを振り、腰に帯びている剣を確かめた。
そこにあるシオンの『護魄』。それが手にあることを確認しないと、不安で堪らなくなる。ここ最近で、その想いは一層強まっている。
シオンは『護魄』を握りしめ、すらりと抜いてみた。月光を浴びて、不思議な光を放つ宝剣は見惚れてしまいそうだ。
ぼんやりとそれを眺めていた、その時である。
ドクン――と、心臓が一際大きく脈を打った。
◇
カエンは担当区域を歩きながらあちこちの様子を見ていたが、徐々に担当区域から離れて行っていた。別に、道に迷っているわけではない。
何故か、歩いている方向がやたらと気になってしまうのである。
気のせいであってほしいと願いながらも、何かが起こりそうな、しかも嫌なことが起こりそうな予感。最初はきっちりと担当区域を調べようとしていたのだが、やがて我慢できずに予感のする方向に走り出してしまった。
「カエン?!」
呼び止められ、振り向くとそこにはルイスの姿があった。彼の担当区域まで来てしまったか、と脳内の地図と現在位置を照らし合わせてみると、彼の担当区域も違う場所はずだ。
「君もか?」
それだけでカエンは納得して頷いた。ルイスもカエンと同じように、何かしらの予感がしたのだろう。
「ただの予感で済みそうにないな」
普段なら笑い飛ばしてさっさと戻ろう、と言い出しかねないが、今は違う。
とりあえず行こう、と言って歩きかけたルイスが目を細めて足を止めた。カエンも眉を顰める。
「今、悲鳴が聞こえなかったか?」
夜も遅く、人気はほとんどない。悲鳴など聞こえようものなら、一般の人間は恐怖で息を潜めるかのように家の中で震えているだろう。もっと人がいたなら、その人々が逃げる方角と逆に走ればいいのだから位置は掴みやすいが、今はそうもいかない。最初に聞こえてきた位置で大体の見当をつけねばならないが、どうやらその見当は見事に的中したらしい。
『ディアンの蝋燭』に宿泊していた人間の、見回り役の人間たちだったのだろう。薄暗い通路に、三人倒れていた。
ぴくりとも動かず、そこに飛び散っている血の量と、今もなお流れ出ている 血流を見れば生死は一目瞭然であった。
そして。
月光の反射とは違う不思議な輝きが、一閃した。
遅れて、月の明かりの下に鮮血がぶち撒かれる。
二人は見た。
剣を振り上げていた人間が、いとも容易く倒れていく様を。
二人は見た。
殺人鬼が血を払うように振った剣に、不気味な光が宿っている様を。
二人は見た。
その凶剣の刃に、『Collapse Sword』の文字が淡く浮かび上がっている様を。
二人は見た。
その旅装を。その背丈を。その黒髪を。その顔を。その剣を。その殺人鬼の姿を。
二人は呆然とその名を呼んだ。
「どういうことだよ……シオン」
つい先ほどまで一緒にいた。一緒に殺人鬼を探していた。崩壊の魔剣『屍魄』の脅威を伝え、一緒に倒してほしいと願っていた。『屍魄』を倒す手段である『護魄』をカエンたちに託した。
そのシオンが、昏い眼で、崩壊の魔剣『屍魄』を手にしていた。
シオンは首を傾げるようにしたが、すぐに得心したような顔になった。
「あぁ、俺が助けを求めた奴らっていうのは、あんたらか」
くつくつ、とシオンが笑う。
「お前……誰だ?」
シオンの姿。シオンの声。だが、何かが違う。
カエンの質問に、シオンがにまりと笑った。
「オレはシオンさ。『もう一人の』って言った方がいいか? こっちで会うのは初対面だから、初めましての挨拶でもしておこうか」
道化じみた仕草で、シオンはぺこりと頭を下げた。
「お初にお目にかかる。オレはシオン。『屍魄』の人格のシオンだ」
「『屍魄』の……人格?」
カエンが眉を顰め、ルイスは目を細めた。
「……多重人格、か……」
極度の多重人格は、記憶さえも別々に持つという。だが、『屍魄』のシオンは、『護魄』を持っているシオンの記憶を幾つか共有できているようだ。
「不思議がることはない。あいつだってオレが出てきているころの記憶も薄ら持っているはずだぁ。そうじゃなきゃ、自殺なんてしないだろうからな」
「自殺って……どういうことだ」
そんな素振りを、シオンは一度たりとも見せてはいない。話してもいなかった。
「なんだ、やっぱり話していないのか。いいぜ、教えてやる。シオンはもともと『屍魄』を消滅させる旅を続けていたってのは知っているな」
そのことはシオン本人からも聞いている。
「奴も人間だ。道中、人に恋することもあった」
偶然助けた娘に好意を抱き、相手もシオンのことをただの恩人では済まさなかった。シオンは自分の使命を話し、自分と共にいることは危険だと諦めかけたが、娘はそれでも一緒にいたいと願った。シオンはその娘を愛し、その娘を守るためにも『屍魄』消滅に一層励んだ。
だが、その想いは魔剣『屍魄』によって打ち砕かれる。
崩壊の魔剣『屍魄』に魅了された人間を倒し、『屍魄』を消滅させようとしたその瞬間、瀕死であったはずのその人間が信じられない速度で逃げ出し、復讐と称してシオンの恋人を手にかけたのだ。
『屍魄』を追ったシオンは、目の前で『屍魄』の凶刃に倒れる恋人の姿を見てしまった。
叫び、憎み、無我夢中でその『屍魄』を消滅させたが、同時に恋人をも失ってしまったのだ。
「崩壊の魔剣『屍魄』は、強い憎しみと人の生き血が混ざり合った時に生まれる。シオンは、相当『屍魄』を恨んだんだろうな。それに、奴は『屍魄』を消滅させるために、常に『屍魄』と隣り合わせだった。近すぎたんだろうぜ。自分でも知らないうちに、憎しみの心に汚染されていったんだろうよ」
魔剣『屍魄』を消滅させるはずの『護魄』は血に濡れ、シオンは恨んだ。
魔剣『屍魄』を。大切な人を守れなかった自分を。今まで『屍魄』を消滅させてきたことに対して、神が与えた運命を。
気が付けば『護魄』から不思議な力は消え失せ、刃には『Collapse Sword』の文字が浮かんでいた。
それから、シオンの中にもう一つの人格、『屍魄』が生まれた。
魔剣『屍魄』は恨みの塊だ。本能的に人の命を求める。
その『屍魄』を消滅させる旅をしていたシオンが『屍魄』に飲み込まれてしまったのだから、なんとも皮肉な話である。
「なんでそんな話をオレ達にする?」
あっさりと己の正体について語った『屍魄』は、あまりにも簡単に言ったのでむしろ不気味であった。
「記憶は少しだけ共有しているからな。あんたらのようなお人好しには、言っておいたほうがいいだろう。なんせオレは『屍魄』であり、シオンでもあるんだ。オレの持つ『屍魄』を壊せば、シオンは死ぬ。あんたらにオレは壊せず、俺は殺せない」
人の情さえも利用する。狡猾な『屍魄』は、勝利を確信したような笑みでくつくつと笑っている。戸惑っている二人を、楽に倒せると思っているのだろう。事実、カエンは『護魄』を抜くことを躊躇っていた。
「カエン!」
「!」
ルイスの叱咤に、カエンがはっとする。
ルイスは続けて何も言わなかった。その一言だけで充分だとでも言わんばかりに。
それに応えきれない、カエンではない。
「なに?」
シオンが目の前の現状に目をむいた。
本来ならシオンも持っている宝剣。『屍魄』に変わる前と同じ、崩壊の魔剣を崩壊させる、神秘の刃。
宝剣『護魄』が、月光の反射とは違う仄かな光を纏っていた。
カエンが『護魄』を抜き、その刃をシオンに向けたのである。
「ちぃ」
シオンが後退る。いくら屈強な戦士とはいえ、心に迷いがあれば『屍魄』に勝つことなど到底できない。だが、『護魄』を持ち、それを毅然と構えられると話は別だ。
狙い通りカエンは戸惑っていたようだが、ルイスの一言だけでまるで迷いがなくなったかのようだ。ルイスの存在を忌々しく睨みつけた。
『屍魄』は恨みや憎しみの心でさらに力をつける。シオンの『屍魄』も、そのせいか不思議な光が強まった。
だが、それに反応するかのように、カエンの『護魄』が激しい閃光を放った。
「な!」
目が眩むと同時に、意識が遠のく。
がくり、と膝をつくと、激しい動悸が訪れ、息切れも激しく、頭が割れるように痛い。
「シオン?!」
剣を杖代わりのようにしたシオンの目は、先ほどと変わっている。刃に浮かんでいる文字も消えていた。
「来るな!」
『護魄』を下して近づこうとしたカエンに、シオンは叫ぶように言った。
「今、全部……わかった。やっぱり俺は、『屍魄』に、支配されていたんだな」
シオンとしても記憶は曖昧だったらしい。意識がない内に、次々に人が殺されていく中、もしかしたらとずっと思っていた。何度か自殺も試みたが、その度に意識が遠のき、いつのまにか生きている。それは生命の危機に陥った時、『屍魄』が勝手に生きようとしていたからだ。
もし自分が『屍魄』に支配されているのだとしたら、それを止める人間を見つけ出さなければならない。じっくり探していては、被害者が増える一方だ。だから、『護魄』が扱えるうちに、他の『護魄』使いを探すことが急務であった。
今もこうして『屍魄』に支配されている間の記憶が全て引き継がれ、更に自分の人格が出て来られたのは、カエンが『護魄』を持っていてくれたおかげだろう。
「笑っちまうよな。『屍魄』を壊す人間が、その魔剣に操られてしまっているなんて」
「シオン……」
「これ以上、被害者を出したくないんだ。俺を、その『護魄』で……」
「何か方法はないのか。『屍魄』だけを壊す方法は」
シオンは首を横に振った。
「俺はもう、『屍魄』に浸食されすぎた。『屍魄』を持っているからこそ、生きているようなものだ」
魔剣は人の命を食らう。強すぎる呪いのような力は、人の身を簡単に滅ぼしてしまう。魔剣が人の命を奪おうとするのは、もしかしたらそうすることで己の生命がより強くなると錯覚しているのかもしれない。
「だから、頼む。俺ごとオレを殺してくれ」
シオンは覚悟を決めている。その覚悟を見せつけられて、迷う必要がどこにあるというのか。
カエンは『護魄』を構えた。
その様子を見て、シオンが薄く笑う。しかしその直後、苦痛の表情に変わった。
カエンはまだ何もしていない。ルイスはシオンの表情でどうなったのかを悟った。
シオンの刃に、再び『Collapse Sword』の文字が浮かび上がる。
すくりとシオンは立ち上がり、踵を返して脱兎のごとく走りだした。
「待て!」
二人も慌てて走りだす。
暗い道だが、土地勘はある。なんとか見失わずに追いかけられるが、なかなか追いつくことができない。
シオンは走っているだけでは振りきれないと踏んだのか、何度かこちらを確認した後に、信じられない行動を見せた。
「え?!」
シオンが屈んだかと思うと、人の身ではありえないほどの跳躍を見せた。その一飛びで、建物の屋根に登ったのである。
さすがにこれでは追いつけない。見失ってしまうのか、と悔しそうに見上げるカエン。ルイスは辺りを見て、あっと声を上げた。
「カエン、宿屋だ」
「え? ……そうか!」
気が付けば『ディアンの蝋燭』のすぐ近くまで来ていた。あそこの部屋は窓やら屋根に降りることができる。屋根伝いに行けば、まだ追えるはずだ。それに、あの宿屋には殺人鬼討伐のための戦士たちが詰めている。彼らが動くべきは、今なのだ。協力を仰ぐべきだろう。
二人は宿屋に入ると同時に、食堂に行った。今の時間帯なら、見回りグループ以外はそこで待機しているはずだからだ。
期待通り、物々しい恰好した連中が雑談しながらそこここに腰かけていた。
「みんな! 聞いてくれ!」
「例の殺人鬼が出た! 今、屋根伝いに逃げている所だ」
魔剣『屍魄』が相手ならば、一般の人間たちを巻き込まないほうがいい。だが、今は奴を足止めしなければならない。そのためには、数は多いほうが良いのだ。
二人の声に対して、戦士たちは胡乱な目を向けた。
他に、戦士たちはお互いに目配せしたり、ぼそぼそと仲間内で話したりしている。
「え……」
協力してもらえると思っていたばかりに、彼らの消極的な様子に戸惑うばかりだ。
そして、聞こえてくる会話は――。
「お前たちが行けばいいだろう」
「我らを使って様子見か? その手には乗らないよ」
「こちらはこの地に着いたばかりでね、長旅の疲れが取れていないからな」
「君が行ったらどうだ。その剣は飾りではないだろう」
「いやいや、そのような挑発には乗りませんよ」
「見回りをしている人間たちが戻ってきてからでもいいんじゃないか」
「本当かどうかもわからないまま動けるか」
「出し抜かれてはかなわんしなぁ」
お前が行け、そっちが行け、まだ準備ができていない……などと言うだけで、誰一人として動こうとしない。
ルイスが目を細めて、諦めるかのように言った。
「やっぱりな」
「どういうことだよ、ルイス」
「街の人間たちがここの戦士たちに協力的じゃない理由。信用なんて、していなかったんだ」
殺人鬼を倒してくれる人間のために用意された高級宿。それを無料で提供するという破格な条件を出しているが、釣られてやってきたのは、その恩恵を利用するだけ利用しようという考えを持った人間たちばかりのようだ。
その内の一人が、カエンとルイスに話しかけた。
「あんたら、そんなに必死にならなくていいじゃないか。殺人鬼が捕まらなければ、俺らはここの宿屋を好きなだけ使える。飯や酒だって無料だし、街のために、ってことで夜の見回りぐらいをしておけば、しばらく食うには困らないんだぜぇ?」
その男の言い方もさることながら、主張する内容に、カエンは思わず拳を握りしめた。
「カエン」
ルイスの恐ろしく冷静な声に、カエンはぴくりと動いただけで、ルイスを見た。彼は、カエンを諌めるかのように目を一度閉じた。
「こんな奴らより、シオンだ。行こう」
ルイスの制止がなければ、この場にいる全員を一発ずつ殴っていたかもしれない。カエンも冷静さを取り戻して、頷いた。
二人に話しかけていた男が、あからさまな迷惑顔になる。
「殺人鬼を倒したらこの宿屋を出る事になっちまうんだぞ!」
カエンとルイスの背中にかけられた言葉は、悪意に満ちていた。
三階から屋根に出て、そのまま近くの建物の屋根を経由していく。落ちたらそれだけで死は免れないかもしれないが、不思議と恐怖は感じなかった。
「殺人鬼が捕まらなければ良いみたいなこと言いやがって!」
愚痴を言ってもどうにもならないが、言わないと余計にどうにかなりそうだった。
殺人鬼が捕まらないわけだ。『ディアンの蝋燭』の戦士たちは最初から探す気はなく、なんとかしようとしていたシオン自身が殺人鬼の正体だったのだから。
「シオンが殺人鬼だったとして、彼がいない間にも被害者が増えていた。きっと、殺人鬼の名を利用して便乗した奴がいたんだろう。放っておけば、殺人鬼がいようがいまいが、犯罪だらけになるだろうね」
そうなれば『ディアンの蝋燭』に宿泊している人間たちも、ただ寝泊まりしているわけにはいかなくなるだろう。だがそれは、手遅れであるということを示している。
だから、今夜のうちに決着させなければならない。
だから、なんとしてもシオンの願いを叶えなければならない。
「だから、お前はオレが倒す。もう逃がさないぞ、魔剣『屍魄』!」
シオンが、忌々しく二人を睨み付けた。
屋根伝いに逃げている間に二人の姿が見えなくなったからと、高を括っていたに違いない。追いつく二人に気付かず、接近を許してしまった。
「逃げられないなら、お前らを崩壊させるまでだ」
シオンが魔剣『屍魄』を構えた。カエンは『護魄』を構え、ルイスも自分の剣を抜く。魔剣や宝剣ではないにしろ、ただ手をこまねいて見ているだけにするつもりはない。
シオンが地を蹴った。狙いは一直線にカエンだ。
「ッ!」
高い金属音が夜空に響いた。カエンは防御に徹していたが、自分も攻めようとしていたら危なかったかもしれない。
カエンはシオンの斬撃を防ぐと、後ろに跳び下がった。
入れ替わりに、ルイスが前に出る。
「邪魔だ」
ルイスの振り下された剣を、ほとんど見ようともしていない。ただ軽く『屍魄』で触れた、その瞬間である。
「なんだ?!」
ルイスの剣の刃が、崩壊した。一瞬でひび割れたようにも見え、手応えもほとんどなく、塵か何かになって消えた。申し訳なさ程度に、短刀ほどの長さだけを残した刃は、虚しく空を斬る。
これが、崩壊の魔剣『屍魄』の、あらゆるものを崩壊させるという魔性の力だというのか。
「カエン!」
今更だが、ルイスは魔剣『屍魄』の脅威を、身を持って知った。
「ッ!」
後方に下がったことで体制を整えきれていなかったカエンだったが、シオンの追撃には対応できた。再び、高い金属音が響く。
崩壊の力は、どうやら『護魄』には通じないらしい。ルイスの剣のように崩壊せず、互角に打ち合っている。
だから、シオンはカエンに狙いを定めていたのだ。ルイスなど、どうにでもなると思っているのだろう。
シオンが攻め、カエンはその刃が体に触れないようにするだけで精一杯だった。多少の怪我を覚悟に攻めれば勝機はあるかもしれないが、ルイスの剣の末路を見た今では、その刃に触れるだけで何が起こるか分かったものではない。
シオンがカエンを突き飛ばすかのように『屍魄』を振り払った。
「カエン! 後ろ!!」
「え」
勢いを殺すためにカエンは自ら後方に飛んだが、がくりと視界が一転した。少しずつ後退していっていたカエンは、いつの間にか端のほうまで来ていたのだ。真夜中の月明かりだけでは、足場を把握しきれていなかった。
ぎりぎりの所で屋根の端を掴み、落下は避けられた。だが、この状況下で安心できるはずがない。
シオンがにたりと笑い、恐怖心を煽るかのようにゆっくりと近づいてくる。
「カエン!」
『屍魄』の力に恐れている場合ではない。シオンはカエンを落す気だ。
助けようにも、既に位置はカエンとシオンの方が近い。
「動くな。動けばこいつを突き落す」
案の定、カエンがぶら下がっている前に立ち塞がり、いつでもカエンを落とせる位置を陣取った。
ルイスは駆け出しそうになったままの姿勢でピタリと止まり、歯噛みしてシオンを睨み付けるしかできない。
「そうだ。そのまま動くんじゃねぇぞ」
絶対的な優位に立ったシオンは余裕を持った表情で、しかし油断なく二人の動きを注意深く見ているようだ。
「さて、『護魄』を持っているカエンさんよぉ。あんたはどうしたい?」
屋根の端にぶら下がっているカエンは、『護魄』を片手に持ったままだ。さすがに、この状態を維持したまま自力で這い上がるのは難しい。
「何が、言いたい?」
「そうだなぁ。あんたが自ら落ちたら、ルイスは助けてやってもいい」
「?!」
シオンの出した条件に、二人が息を呑んだ。
「ふざけるな!」
叫ぶように言ったのはルイスである。
カエンを助けるために動かないでいるのに、カエンがその条件を受け入れてしまっては元も子もない。
だが、カエンが諦めなくとも、シオンは楽にカエンを突き落せる。彼が落ちたら、残る標的はルイスになるだろう。ルイスでは『屍魄』の相手にならないことは、先ほどの一撃で証明されている。
ルイスと『屍魄』が戦えば、確実に死ぬのはルイスだ。
冷静に判断できるからこそ、確実な死を分かってしまう。
何故か、村の人間たちの顔が頭の中に浮かんだ。村に置いてきている妻の顔が。その隣にいる自分の姿が。いずれ生まれてくる子供の様子が。
――生きたい。
「本当だな?」
カエンの弱々しい声が聞こえた。その声にルイスがはっとする。
「カエン!? 駄目だ!!」
彼は、シオンの出した条件に乗り、自ら落ちる気だ。
「ルイス、すまねぇ」
不思議と、隣で囁かれたかのようにはっきりとカエンの声が聞こえた。
「カエ――」
彼の名を呼び終わるより先に、カエンは手を離した。
重力に従い、カエンが落ちる。真下にクッションになるような天幕があるわけでもない。
「……」
気が付けば手を伸ばしていた。だが、その手が届くはずもない。
カエンの姿はもう見えない。暗闇の底に落ちて行った。
見えるのは、狂ったように腹を抱えて笑うシオンだけだ。
「まさか本当に自分で落ちるとはねぇ」
ひとしきり笑った後、シオンはルイスを見た。
ルイスは動かない。動けない。今起きた事が、夢であってほしいと願いながら。
「約束通りお前は助けてやるかな――なんてな」
ひゅん、と音がしたかと思うと、ルイスの視界に鮮血が映る。
誰の血か、一瞬分からなかった。次いで痛みが巡り、そして理解する。
「(あぁ、僕が斬られたのか)」
他人事のようにそう思った。
『屍魄』を持つシオンは、まるで約束を破るのが当然とでも言いたげに笑った。
崩壊の魔剣『屍魄』。人を殺し、カエンを殺し、救いもなく、ただ残虐に、そこに存在する悪夢。許すことなどできはしない。何を犠牲にしてでも、目の前の『屍魄』だけは壊したい。
そう強く願いながら、ルイスの意識は遠のいた。
◇
「君、大丈夫か?」
声が聞こえる。
どれほど時間が経ったのだろう。
意識が朦朧とする中、ぼんやりと見えるのは月。そして、自分を覗き込んでいる壮年の男の顔だ。
『屍魄』を持つシオンに斬り飛ばされ、死んだかと思っていた。手には『屍魄』のせいで短くなってしまった剣をまだ握っているのが、感覚だけでわかった。
「あんた、は?」
ルイスはまだはっきりとしない頭で、それだけを聞いた。
「この家の者だ。屋根で何やら音がしていてね、静まり返ったから様子を見に来たら君が倒れていたんだ」
シオンと戦っている間の足音を聞いて、最初は猫が喧嘩しているとでも思っていたようだ。だが、かすかに金属音や叫びが聞こえていたらしい。
「僕は……」
死んでいないのか、と聞こうとした。『屍魄』に斬られた肉体は崩壊の一途を辿る。斬られた個所の感覚が麻痺しているのか、それとも感覚さえ崩壊したのか、何も感じない。しかしまだ生きている。まだ死んでいない。それを理解すると、心の奥底である感情が芽生えた。
生きている。まだ生きていたい。そしてあの『屍魄』だけは許さない。
生きたい、生きたい。どうやって――?
奴を許さない、奴を壊したい。どうやって――?
生存本能と、魔剣『屍魄』を恨む心が入り交じる。
その時、シオンの、『屍魄』の言葉が思いだされた。
魔剣『屍魄』を持つことで、強力な肉体を得ることができる。
魔剣『屍魄』が生み出されるには、強い憎しみの心と。
「ひとの、生き血……」
「え」
ルイスを介抱しようとしていた男は、何が起こったのか理解していないまま、茫然としながら口から血を流した。そして、自分の心臓の位置を見る。ルイスの短くなった剣が、そこに突き刺さっているではないか。
不自然に短くなった刀身でも、人の心臓を貫くには充分であった。
死んだと思っていた。
強い衝撃と共に、身体中が痺れて、しかしそれだけだったのだ。
それでもしばらく痛みで動けず、呼吸さえ困難だった。
ようやく動けそうになり、『護魄』を杖代わりにしながらなんとか立ち上がる。
「生きている?」
自分でも信じられなかった。自分が落ちた場所を見上げると、生きているはずのない高さから落ちていることが分かった。見れば、『護魄』が一層輝きを増している。もしかしたら、これを持っていたからかもしれない。
「よぉ、やっぱり生きていたか」
振り返ると、そこには魔剣『屍魄』を持ったシオンが立っていた。
「『護魄』を持っていれば、『屍魄』を持っている時と同じように肉体が強化される。あれくらいじゃ死なないとは思っていたが、見に来て正解だったな」
どうやら『護魄』に助けられたらしい。死ぬつもりで落ちたのだが、まさか生き繋ぐとは思ってもいなかった。
「ルイスには手を出していないだろうな?」
「一撃では殺さなかった。すぐに助けに行けば、死なないかもなぁ」
その言葉で、カエンは理解した。助けると言っても、シオンにとっての助けるとはそういう意味であったのか。
「だったら」
カエンは『護魄』を構えた。
「オレとやるつもりか? そんな時間あるのか? 助けに行かないのか? ルイスを見捨てるっていうのか?」
シオンは言葉を重ねて、カエンを煽る。
だがカエンは、揺るがない。構えを解かず、ただ一点、シオンを見る。
シオンとしては、すぐに助けに向かおうとするカエンを背後から襲うつもりであった。それがどうだ、カエンは真っ直ぐに自分と向き合っている。
「お前を倒してルイスを助けに行く。順番通りじゃないか。それに、ルイスは強いからな。そう簡単に死にはしない」
ルイスのことを信用しているし、信頼している。
迷いなど、一切ない。
対して、シオンは迷った。逃げるべきか、ここで『護魄』を壊しておくべきか。
その一瞬が、勝敗を分けた。
シオンが決断するより早く、カエンは地を蹴って『護魄』で斬りかかった。
反射的にシオンが『屍魄』で防御しようするが、その刃が触れ合った瞬間、『屍魄』の刃が崩壊した。
「な!」
そのまま『護魄』の刃が、シオンの胸板を斬り裂く。
激しい鮮血と同時に、がくりと膝をつき、シオンは盛大に血を吐いた。
魔剣は心に強く反応する。宝剣もまた然り。迷いのあるシオンと、迷いなきカエンの刃では、勝つ方は決まっている。
魔剣『屍魄』の刃だけではなく、その柄も、ヒビが入ったかと思うと一瞬で割れるように崩壊した。
それと同時に、シオンの目が元に戻る。『屍魄』から解放されたシオンは、何が起こっているのか理解していた。
だから、カエンのほう向き、生命が今にも失われようとしていても笑顔を作った。
そして。
「ありがとう」
それだけを言って、ばたりと倒れる。
カエンは、黙祷するかのように数秒ほど目を伏せて、ルイスを助けるべく走りだした。
運よく、外の非常階段のような場所がそのまま屋上に繋がる造りになっている。建物の中に入らないといけないかと思ったが、どうやら不要だったようだ。
「ルイス!」
息を切らしながら階段を昇り終え、先ほど落ちた屋上まで辿り着いた。親友の名を叫び、安否を確かめようとしたカエンの視界に、一つの死体が入った。
月明かりだけの闇のせいで、一瞬、ルイスかと思ってしまったが違う。体格もそうだし、何より、ルイスはその死体の先に凛として立っていた。
「ルイ……ス?」
ルイスは無事だ。シオンはぎりぎり死なない程度に傷つけたようなことを言っていたが、怪我をしているようには見えないほど綺麗に立っている。
「やあ、カエン」
ルイスがカエンに気付いたのか、ゆっくりと首をこちらに向ける。月を背にしているせいで、ルイスの表情が読みにくい。だが、薄らとわかる。彼は、微笑んでいた。不気味なほどに。
彼の胸板は大量の血で汚れているが、それさえも気にしていないようだ。
「なぁ、ルイス。おい、どういうことだよ」
カエンの手が震える。恐怖と混乱と、怒り。どの感情が昂っているのか、自分でも分からない。
ルイスの手には、不気味な光を放つ剣が握られていた。
先ほど『屍魄』のせいで失ったはずの刃が再びそこに存在している。
ルイスの目は昏く、それは『屍魄』を持った状態のシオンと同一のものだ。
そしてルイスの剣の刃には『Collapse Sword』の文字が浮かび上がっている。
ルイスが、魔剣『屍魄』を手にしていた。
「死んだはずのカエンがここにいるっていうことは、ボクにもお迎えが来たのかなぁ」
ルイスはまるで夢でも見ているかのようにぼんやりと言った。
「オレは死んでいない。『護魄』のおかげで、助かったんだ」
「そうかそうか。それだったらぁ、シオンを倒さないとなぁ」
「さっき、オレが倒した」
「そうかそうか。それだったらぁ」
ルイスは半分寝ているのではないかと思うくらいゆったりとした口調で、喋るたびにゆらりゆらりと身体を動かしている。
カエンは『護魄』を構えた。
「ルイス、それを手放せ。お前もそれが危険なものだってことぐらい、わかるだろ」
魔剣『屍魄』は人の心さえも崩壊させる。その伝説通りならば、今のルイスの精神状態は真っ当ではない。
宝剣『護魄』の刃が向けられたことで、ルイスはむくれたような表情になった。
「ボクはこの『屍魄』を手にして分かったんだ。なぁ、カエン。この魔剣は素晴らしいよ。清々しい気分だ。それを邪魔するっていうなら、君といえども容赦はしない」
言いながら、しかしルイスは戦うような姿勢は取らず、くるりと踵を返して屋根の端まで歩いていく。先ほどカエンが落ちた場所まで行くと、顔だけこちらを向けた。
「容赦しないけど、今ここで戦ったらボクが負けるだろうね。こう見えて、結構深手みたいなんだ」
そういって指差した胸板は、今もなお血を流している。怪我の重傷具合の割には平気そうに見えるが、一般の人間なら致命傷だろう。魔剣『屍魄』が与える肉体の強化が、ルイスを行動可能としている。
「バイバイ、カエン」
「待て、ルイス!!」
カエンの言葉など聞かず、ルイスは先ほどのシオンと同じ驚異的な跳躍を見せ、夜闇へ消えた。
カエンが慌ててルイスが逃げた方角を見渡すが、どこにもいない。
虚しいくらいに涼しい夜風が、過ぎ去るのみ。
◇
翌日、カエンはシオンの死体を街の自警団に引き渡した。
殺人鬼の正体がシオンであることまでは伝えたが、魔剣『屍魄』については一切語っていない。
自警団はいたくカエンに感謝したが、カエンはあっさりと納得した自警団たちにむしろ不安になった。
カエンが適当な死体を殺人鬼とでっち上げて、謝礼を巻き上げようとしている可能性を考えていないのだろうか。
その辺りを聞いてみると、カエンの言うことだから間違いない、とのことだ。カエンのことをお人好しだというが、街の自警団連中もなかなかだ。
カエンが落ちた屋上で死んでいた人間も、殺人鬼の手にかかった、ということにしておいた。だが、カエンも気付いている。魔剣『屍魄』を手にするには、強い憎しみの心と人の生き血があればいい。ルイスが『屍魄』を手にしていたことを考えれば、誰がやったのか想像に難くない。
ともあれ、この街から殺人鬼の脅威は去った。『ディアンの蝋燭』に貪るように滞在していた戦士たちはさっそく追い出されているらしい。
ルイスは結局どこにも見つからず、再びクレープ屋などの街の情報網にも頼ったが、その姿はどこにもなかった。
この街にはいない。何故かそう思えた。
『護魄』を持っているせいで近くに『屍魄』の気配がないことが分かるのか、それともただの勘なのか。どちらにせよ、もうこの街に用はなかった。
カエンが村に戻った頃は夜遅く、大半の者が眠りについている頃合いだった。
自分の家も明かりは灯っていない。妻はもう眠っているのだろうが、これから話そうとしていることを思うと、少しでも早く言いたい気持ちと、少しでも後に伸ばしたい気持ちが半分ずつ。眠っているところを起こしてでも伝えるべきなのだろうが、カエンは少し悩んだ。
見れば、村長宅はまだ明かりが灯っている。どちらにせよ村長には仔細の報告をしなければならない。まずはそちらが先で良いだろうと、カエンは村長宅に向かった。
村長はまだ起きており、どうやら毎晩熱心に二人が無事であるようにとお祈りをささげていたようだ。
帰ってきたカエンのことを村中に知らせようとしたが、夜も遅いからやめてくれ、というカエンの願いで、腰を落ち着かせた。いくらなんでも、眠っている人間たち全員を起こすのは忍びない。
それに、報告と同時に相談したいこともあった。
まず報告から、ということになり、カエンは街で殺人鬼を倒したことを伝えた。
そして、なぜルイスがこの場にいないかという事、これからカエンがやろうとしている事。
最初は目を丸くした村長だったが、カエンの真剣な目を見て、何を言っても無駄だと悟った。
「好きにすると良い」
「ありがとう」
村長から許しが出たということで、カエンもいくらか気が軽くなった。
その日、家には戻らず、村長宅の客間で夜を過ごした。家に帰ったら、物音で妻を起こしてしまうかもしれない、というのが名目であったが、やっぱり話すことを少しでも先延ばしにしたいと思っているせいだ。
そして、夜が明ける。
カエンは自分の家の扉を前にして、その扉を開けるのをやや躊躇った。
その躊躇った雰囲気を察したのか、家の中から恐ろしい気配が膨れ上がる。『屍魄』より怖いんじゃないかな、とカエンは心の中で思ったが、あまり笑えなかった。
意を決して、扉を開けて中に入ると。
「ただい――」
ぱぁん、とカエンが言い終るより先に平手打ちが飛んできた。カエンにかかれば避けることもできたが、あえてそれはせず好きなように打たせる。
「おかえり」
にっこりとほほ笑んで立っているのは、カエンの妻のアンナである。すっかり大きくなったお腹には二人の第一子がおり、時折あばれて困ると笑いながらアンナはよく語っている。
「怒っている?」
「怒っている。なんでか分かる?」
アンナが逆に質問し、カエンはため息を吐いた。
「これから君たちを置いて旅に出ようとしているから」
村長に相談したのはこれであった。『屍魄』を持ったルイスを救うため、そしてルイスが罪を重ねないようにするため、『護魄』を手にした戦士としての宿命を果たすため。
カエンは村を出て、ルイスを探す旅に出ると決めていた。
これは、村長の使いの者が先にアンナに伝えていたはずだ。
だからか、アンナはにっこりとほほ笑んだ表情を崩さない。
無言で、「そうじゃないでしょ?」と言われているのが、嫌でもわかった。
「……それを君にすぐに伝えなかったから」
「正解」
というと、アンナはカエンに抱き着いた。
「あなたがルイスさんのこと放っておけない人だって分かっている。けど、それをあたしにすぐに相談してくれなかったのが悔しかった」
「すまん」
カエンは謝りながらアンナを優しく抱きしめる。どう話そうか迷った挙句、使いの者に先に報告させるという手段を取ってしまったが、それが最もアンナの機嫌を損ねる選択肢だった。
「あの子にも、会ってあげて」
アンナの言う『あの子』とは、ルイスの妻のことだ。彼女も、アンナと同じようにもうすぐ生まれる子供を身籠っている。
「あいつには、あわせる顔がねぇよ。オレだけのこのこ帰ってきてしまったんだ、恨んでいるに決まっている」
「あの子はそんな人じゃない。あなただって知っているでしょう」
それでも、カエンは会っても言える言葉が見つからなかった。自分がしてやれることは、ルイスをこの村に連れて帰ってくることだ。
だから、カエンは首を横に振った。
「そう……もう、行くの?」
「あぁ」
安心させるように、アンナの頭を軽く叩く。
それを最後に、カエンは踵を返して歩き出した。
村を出るまで、出た後も、カエンは一度も振り返らなかった。ルイスを連れ戻すまで、後ろは見ない覚悟。
その手元には宝剣『護魄』が存在している。
カエンの決意を励ますかのように、きらりと一度、輝いた。
その昔、武器はまだ剣が主流だった時代。その時代に、実に多くの剣が生み出された。なまくらから名剣に至るまで、その数は計り知れない。そんな剣の中に、理論では語れない、摩訶不思議な剣も生み出されていた。
その中で最も人に恐れられる伝説の魔剣が在った。
全てを崩壊に導く魔剣。崩壊剣と呼ばれる『屍魄』という魔剣の刃は、打ち合った敵の刃も、その人間の意思も、肉体も、そして心すら崩壊する。
それを実際に目にしたものはいない。
目にしたものは全て死を遂げているからだ、という意見もあれば、ただの伝説で実在しないから見た者はいない、という尤もな理由を主張するものもいる。
崩壊の魔剣『屍魄』は、人々の伝説の中に生きていた。
その伝説の中で、もう一つの伝説が語られている。魔剣の恐怖を振り払う為、とも言われているし、本当のことだと主張する者もいる。
崩壊の魔剣を崩壊させる人間がいる、ということだ。
彼は人々の希望の伝説として、今も旅を続けているらしい……。
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-Fin-
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To Be Continued?
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