Collapsing-Sword



その昔、武器は刀が主流だった時代。その時代に、多くの刀が生み出された。なまくらから銘刀に至るまで、実に数が多かった。その中に一つ、理論では語れない、摩訶不思議な刀も存在したわけで、それは俗に言う『妖刀』だ。
 その中で最も人に恐れられ、その反面、誰もが存在を信じない伝説の妖刀が在った。
 全てを崩壊に導く妖刀。崩壊刀と呼ばれる『屍魄(シハク)』という刀の刃は、敵の刀も、意思も、肉体も、人の心すらも崩壊すると云われていた。特徴として、鍔に崩≠フ紋字が刻まれ、柄には壊≠フ紋字が刻まれている。
 そして、崩壊の伝説が語られるならば、その反対の、希望の伝説も語られている。崩壊刀『屍魄』に対抗する人物がいるというのだ。崩壊刀を崩壊させる人間。呪滅士(ジュメツシ)と呼ばれるその人は、伝説上の人物として人々の中に生きていた。



「兄上ー!」
「兄上ぇ〜!」
 可愛さだけが特徴であるような年頃の少年と、同年齢と思われる少女が、声を弾ませながら一人の少年に近付く。こちらは、同じ少年ではあっても、「兄」と呼ばれるほどの年齢である。
「どうしたんだ、二人とも?」
 微笑みながら、理由は解っているのにも関わらず、二人の口から聞き出そうとする。
「もうすぐ、もうすぐなの!」
「あと少しで、産まれれるんだって!」
 弟妹が喜びながら伝えているのは、新しい子供のことである。自分たちに弟か妹かが出来るということで、はしゃいでいるのだ。兄と呼ばれた少年は、二人の無邪気に喜ぶ様子を見て、二人が何かを話すたびにいちいち相槌を打ったりしていた。
 そんな仲むつまじい兄弟の映像が、どんどん遠ざかっていく……。遠ざかる度に、周囲は暗闇に包まれ、やがて、闇が全てを支配した――。

「……あれ?」
 目が覚めると、そこは森の中だった。朝日が朝の挨拶を交わすかのように輝いている。
「……そっか、昨日は野宿だったんだっけ」
 まだ少年と呼べるその男は、刀を腰に帯びて、旅立ちの準備を始めた。
「さて、と。今日は何処に行こうか?」
 その口調は、まるで誰かに問い掛けるようなものだった。もちろん彼の周囲には、誰もいないのだが。



 人通りが多い、大通り。あまりにも人が多いので多通りと改名することをお勧めしたい気分になった。そこに佇むはまだ一七歳前後の少年だ。腰に刀を一本さしており、少年でありながら誰が見ても侍である。
「なんでこう、人って多いのかな」
 祭り時期でもないのに、この街の大通りは人が多い。一体、これだけの人が果たしてこの街に収まるのかどうか、という疑問さえ出てきた。
下らんことで悩んでいないで、早く宿へ行け
 他人の声が、鼓膜を振動させるわけではなく、頭に直接響く。
「あー、はいはい」
 腰にある刀を軽く二、三度叩いて、その少年は宿屋へと向かった。

 大通りに人は多かったが、宿も人が多かった。どうやら最後の一人だったらしい。
「お名前よろしいどすか?」
 宿帳簿を片手に、女将が聞く。
「えっと、夢紫苑(ムシオン)不動(テイシ)。『夢』に、そう紫苑はそのまま。あ、停止じゃなくて! え〜……『不』って書いて、あぁ『布』じゃなくて。『不動(ふどう)』って書いてください」
「これで『ていし』って読むんどすか? 変な名前どすなぁ」
「ん、まぁよく言われます……」
 不動はそのまま客室に案内された。その間に解ったことだが、やはり人が多い。特に、不動のように刀を持った輩が頻繁に見受けられた。癒しを求めての慰安旅行、という言葉から掛け離れた、生死の狭間で生き抜いている、侍の類だ。
 案内された客室は思ったよりも広く、宿代に比べれば贅沢なほうだと思える。
「後で夕食をお持ちしますんで、どうぞお寛ぎくださいな」
「後で、か……」
 不動にしてみれば、朝と昼は何も食べていなかったので早く食料にありつきたかったのだが、宿の事情というものもあるので仕方ないと割り切った。
「お暇でしたら、温泉とかおすすめどすえ」
「温泉?」
「当宿の自慢の温泉どす」
 待つ間は確かに暇だ。先に温泉に浸かって、旅の疲れを取るのも良い。不動は再び案内を頼み、客室を後にした。

「これまた広いなぁ。さすがはおすすめ」
 しかも、宿泊している人数は多いのに、今の時間帯は不思議と誰も居ないのだ。より広く見えるのはそのためだろう。
不動! おい、不動!
「オレも運が良いなぁ。誰もいないとは」
不動! 聞け! 不動!!
「さぁて、のんびり浸かるかぁ」
不動! この阿呆!
「誰が阿呆だ……」
 ずっと無視するつもりだったが、さすがにこれには返答してしまった。
お前が無視するからじゃ。今は誰もおらぬから、話しても大丈夫じゃろう
「むやみに話しかけるなって言ったのはじじぃのほうだろ……」
 不動の視線の先には、一本の刀が在る。不動の刀であり、声の主はそこにいる。
誰もおらぬときは別にいいんじゃよ
 この声は不動にしか聞こえていない。しかし不動が話しかけるときは声に出さなければならず、周囲に丸聞こえになる。そうなれば、刀と独りで話している変質者さながらの気味悪さだ。
「というか、話すことなんてないだろ……」
 特に話題があるわけでもない。つまり話す必要は無いと判断して先ほどは無視していたのだ。
実はな、先ほどから疼いておるんじゃ
「……は?」
じゃから、もしかしたら『目的』がおるかもしれぬと
「先に言えよ! この妖怪じじぃ!」
な!? 誰が妖怪じゃ!
「妖怪みたいなものだろうが!」
 不動は早々と衣服を脱ぎ、温泉の湯へと向かった。もし「じじぃ」の言う通りに『目的』がいるのならば、のんびりとはしていられない。しかしせっかくここまで来たのだから、温泉に浸からず、というのはさすがに勿体無いので入ることにしたのだ。
不動! 不動!!
 湯に浸かって身体が温まってきた頃、「じじぃ」がしきりに呼ぶ声が届いた。
「……あと五分」
 刀の所まで戻ろうとしたが、温泉が気持ち良過ぎるので、ついそんなことを思って、そして実行。
不動! 不動ぃ!!
「……?」
 さすがに尋常の呼び方ではないと感じ取り、不動は湯から出て刀のところへ走り戻った。
「なんだよ」
わしを持て
 妙に深刻な口調だったので、理由も聞かずに刀を持ち上げる。
よし。そのまま壁際へ
 急いで壁際へ走り、壁に張り付くようにして不動は刀を構えた。
「『目的』か?」
まぁ待て。わしを掲げろ。……もっと高く!
 わけも解らず、不動はとりあえず言う通りに刀を高く持ち上げる。一体、何があるのだろう。
……見えんのぉ
「なにが?」
 これでも精一杯高く掲げているのだ。これ以上は踏み台でもなければ上には行かない。しかし、はたと気付く。「見えない」と言った。確か、この壁の向こうは……。
何がって……女湯じゃよ
「沈んでいろ! このスケベじじぃー!!」
 大きく重いものが水中に落ちる音が聞こえた。
 不動が刀を温泉に投げ入れたのだ。



し、死ぬかと思った
「死なねぇだろアンタは……」
 溺れて死ぬ人間はいても、溺れて死ぬ憑き物はいないと思える。
 不動は今、客室に戻っていた。あれからゆっくりと(じじぃの悲鳴を聞きながら)寛ぎ、今では充分に疲れを取ることができている。
「後は、飯を食って寝るだけだな」
『目的』は……
「本当にいたら、だな」
 不動とて『目的』を忘れたわけではないが、さすがにいるかどうかは不確定のままなので、いないならばいないで、穏便にこの街を出たい。
「失礼します。お食事の用意ができました」
 戸が開き、さきほどの女将ではない、まだ若い娘がそれを伝えた。年の頃は不動と同じの十七前後、可愛らしい顔立ちに、宿の服が似合っている。看板娘なのだろうか、つまるところは美人なのだ。
「ここで食べるんじゃないのか……」
「月ノ間にて用意をしております。ただ……」
「ただ?」
「合い席になりますが、よろしいでしょうか?」
「別にオレは構わないけど」
「でしたら、こちらへどうぞ」
 その娘は、どことなく嬉しそうな顔をしたのを不動は見逃さなかった。とはいえ、理由までは解らないので、とくに気にすることにはしないようにする。どちらにしろ、飯が食えればそれでいいのだから。
「そういえば、この宿って妙に刀を持っている人が多いよね」
 案内されている途中、不動はずっと疑問に思っていたことを娘に尋ねた。
「お客さん、知らないんですか?」
「……なにを?」
 知らないものは知らない。知っていたら、こんな質問はしないだろう。
「最近、殺人鬼がこの街で出るんですよ。十二人くらい殺されて……。それで、街の長があらゆる所から侍を雇ったんです。その人たちがこの宿に泊まっているんですよ」
「じゃあ、街の人が多いのは……」
「あれは旅行客です。有名な侍が集まるので、それの愛好家ですよ」
 街に人が多い謎と、侍が多い謎は解けた。ここで、もう一つ疑問が出てくる。
「君……女将さんとは口調が違うけど、ここの宿は統一してないの?」
 不動が旅中で、宿の人物は男女の差こそあれど、口調が統一されていることを発見していた。先ほどの女将は語尾に「〜〜どす」とつけていたが、この娘は普通の敬語なのだ。
「あ! すみません。いつもそれで叱られるんです……どす……?」
「……さっきのままで良いよ……」
 無理に直そうとしてはかえって変になるので、さきほどの口調のほうが聞き取りやすかったし、それになりより……。
「さっきの方が似合っているしね」
 娘が少々顔を赤らめて、笑顔で頷いた。
普通、初対面の娘にそんなこと言うか?
 聞こえてきた「じじぃ」の声を、完全に無視をして質問を続ける。
「オレは夢紫苑不動。君は?」
「トヨって云います」
「へぇ……。可愛い名前だね」
 さっきよりも顔を赤らめ、トヨは照れ笑いを浮かべながらに、そうでもないですよ、と答えた。どうやら誉め言葉に慣れていないらしい。普通の宿娘なら、ありがとうの一言を作り笑いで言うものだ。
いつからお前はそんな女ったらしになったんじゃ?
 この言葉はさすがに無視せず、さり気なく、あくまでもさり気なく、刀を拳で殴りつけた。
痛っ! 何をするんじゃ!
 少し黙っていろ、と声に出したかったが、さすがに今のまま声に出すとトヨに聞こえてしまうのでそれは我慢する。その代わりに、もう一度殴りつけた。そのときに「じじぃ」がもう一度叫んだのは当然の事である。

 月ノ間には、既に相席になる相手が座っていた。相手は一人の侍である。座っていても背が高いことがすぐ解るほどの長身に、それに見合った長さの刀。目は鋭く、凄腕の侍というのが見るだけで知れた。それというのも、目は鋭いのに殺気が感じられず、己の気を巧みに操れるというのが証拠だ。
「……唐津之(カラツノ)……蒼雹(ソウヒョウ)……?」
 じろり、と相手の視線が不動に向けられる。目で答えたのだ。「そうだが、それがどうかしたか」と。
知っておるのか?
 知っているもなにも、唐津之蒼雹と言えば現在の日本で、最強の侍の一人と謳われる侍である。そのことを「じじぃ」には説明できなかったが、侍で彼のことを知らない人はいないはずだ。そんな大物と合い席するなど、恐れさえ感じてしまう。だが、さすがに別室を申し出るわけにもいかないので、そのまま席に座った。
 出された夕食は、麦飯、鯖の塩焼き、味噌汁、山草、漬け物という普通のものではあるが、見た目はかなり旨そうだ。食べれば、見た目通り、いやそれ以上の旨さで、不動は隣に最強の侍がいることも忘れて、食事を楽しんだ。
 不動は食べるのが早い方だ。腹が減っていたこともあったが、唐津之よりも先に完食できたのは、やはり不動の早食性のおかげだろう。
 トヨは客からくる要望を聞くために同室にいたが、不動は食べることに専念し、唐津之は黙々と食べていたので、役目はほとんどなかった。役目があったといえば、不動が麦飯の替わりを頼んだだけである。
 茶でも飲みつつ、ふと不動はトヨのほうを向いた。何らかの気配を感じていたが、それはトヨの視線だったのだ。少し呆けているような目で、こちらを見ている。
 ただの目つきではない、どこか夢見がちで、憧れの対象を見るような目だ。
「(これは……。……)」
 ぼ〜っとしている、というよりもうっとりしていると言ったほうが合っている。
「(オレに……恋の機会!)」
不動! この阿呆!
 不動の心の声でも聞いたのか、おとなしくしていた「じじぃ」が声をあげる。
ちょっと立って移動してみろ。おもしろいことがわかるぞ
 不審には思ったが、不動は言われた通りにその場を立って、トヨの視線から外れた。少し離れたあと、さりげなくトヨを見てみると、視線は変わっていない。その視線の先にいるのは、唐津乃蒼雹である。
「(……もしかして、ずっと唐津乃を見ていたのか……)」
 むしろ、トヨは不動が席を立ってうろうろしていることに気を留めてもいない。完全に無視をしているわけではなく、唐津乃のみしか視界に入っておらず、気付いていないのだろう。
いきなり失恋じゃのぉ
 声に出してはいないというのに「じじぃ」は不動の心内を見事に見抜いていた。「じじぃ」の声も、今の不動には届いていないようで、不動は名前通りに思考が停止している。
「……おい、席を外してくれ」
 男性の声が不動の耳に届いた。今になって唐津乃の声を初めて聞いたが、思ったよりも高く、そのことでトヨは更に惚れたらしいことは不動の知らないところだろう。
おぉ。不動、お前は邪魔者らしいぞ
「(邪魔者って……)」
 涙を流しながら走って退室、というわけではないが、のろのろと出入り口まで移動するまえに、トヨの可愛らしい声が聞こえてきた。
「それでは失礼します」
 はたと振り向くと、トヨが退室している。不動は後ろを向いていて気付かなかったが、唐津乃はトヨに対して退室を促したらしい。不動は自分に言われたと思っていたが、「じじぃ」にはめられただけだったのだ。
 トヨが退室する際、寂しそうな顔をしていたが、唐津乃自身は気にしていないようだ。そして、彼女が退室して数十秒、沈黙の時間は数倍の時間に感じられた。
「……さて」
 唐津乃の口が開く。ただ一言喋るだけで、不動の心は高ぶった。日本最強の侍の声。その声は偉大にも、恐怖にも感じられたからだ。
「その五月蝿い刀はお前のものだろう。少しは静かにさせたらどうだ」
「え……?」
 しばし、沈黙の時間が流れた。唐津乃の言葉は最初、何を言っているのか解らなかったが、次第に意味を理解していく。
「これの声が聞こえるのか?!」
わしの声が聞こえるのか?!
 二人の声が見事なまでに重なった。
「それがどうかしたのか……」
 まるで、聞こえるのがさも当然かというような口調で、表情を一つも変えずに彼は言った。刀が喋ったら普通は混乱するはずだが、唐津之は驚きすらしなかったのだ。そのことに不動たちが逆に驚いてしまった。
「こいつの声が聞こえるってことは、呪滅士(ジュメツシ)の才能があるってことだ」
「呪滅士……?」
 聞いたことはあるが、と唐津乃は鋭い目で疑った。
「どこから話そうかな……。じゃあ、崩壊刀『屍魄(シハク)』って知っている?」
「有名な話だからな」
 当然だ、と唐津乃答えた。確かに有名で、知らない人間は日本にいないだろう。しかしそれは、あくまでも伝説上として、である。
「だったら、それが実在するってのは信じるかい?」
 これには誰もが笑うだろう。ただの伝説だ、噂だ、夢物語だ、と。伝説にあるのに、誰も見たことがないからである。見たという噂さえないのだから、やはりただの伝説として扱われる。
「……あぁ」
「嘘ぉ?!」
 意外な反応に、不動は逆に驚いてしまった。今まで、伝説の実在を信じている者などいなかった。このようなことは初めてであり、いくら最強の侍とはいえ、まさか実在を信じているなど、不動は考えもしなかったのだ。
「それで?」
 不動の動揺を無視して、唐津乃は先を促す。
「……あ、あぁ。それに対抗する呪滅士は存在する。それで、その呪滅士はオレなんだよ」
 自分を指差し、自信満々に言い放ったが、唐津乃は驚いた様子もなくただ冷静な反応を見せた。つまりは、ただ一言「そうか」と言っただけである。
「もしかして、あんまり信じてない?」
「いや……」
 絶対に信じてない、と反論したい口調だ。むしろ、狂言に仕方なく付き合ってやっている、というような感じだが、もしかしたらそれが唐津乃の喋り方なのかもしれない。
「まぁそれで、崩壊刀『屍魄』に対抗するために、この刀を使っているんだ」
 そう言って、不動は刀を持ち上げて見せつけた。
「目には目を、歯には歯を、そして妖刀には妖刀を、ってね」
誰が妖刀じゃ!!
 声が響く。確かに唐津乃の言うとおり、この声が聞こえたら五月蝿いにもほどがあるだろう。
「呪滅士、か。お前のような小僧で務まるのか?」
 聞こえてくる「じじぃ」の声を、唐津乃も無視しているようだ。いちいち喋っていたら、数秒で終わる会話が数時間かかるかもしれない。
「オレは……師匠の後を継いだんだ」
 不動は一代目の呪滅士ではなく、何代目かは知らないが、師匠の跡を継いで呪滅士というものをやっている。不動はまだ二十歳にも到達してもいないが、師は死んでしまい、それゆえに剣を受け継いだ。
「最初は、師匠が刀と喋っている変な人と思っていたけど、呪滅士となった今はじじぃの声が聞こえている。だから、呪滅士の才能がある人間はこいつの声が聞こえるんだよ」
 二、三度、軽く刀を叩く。痛めつけるのではなく、軽く、宥めるようにだ。
「刀が喋るのは解った。だったら、少しはシツケをしっかりしたらどうだ。俺としてはただの五月蝿い蚊と同じだ」
な!? わしが、わしが蚊と同じじゃと!? おい不動! わしを抜いてこいつを斬れ!
「できるわけねぇだろ……」
 そんな私的なことに刀を抜きたくはないし、相手は最強の侍である。返り討ちにあうのは解りきっていることだ。「じじぃ」が乗った挑発で、むざむざ死に行く真似はしたくはない。
「……俺を殺せるなら殺しても構わんぞ。どうせ、俺を待つ者など居ないしな」
 気付けば、唐津乃の善は全て空になっていた。
「待つ者はいないって……家族とかは、いないのか?」
 唐津乃は立ち上がり、トヨが退室していった方向へと歩き始める。この部屋から出ようとしているのだ。不動の質問は無視しているのかと思ったが、ふすまを開けて、部屋を出ようとしたときに唐津乃は動きを止め、顔を振り返さずに答えた。
「……殺された。『屍魄』を持つ人間にな」
「え……!?」
 詳しく追求する前に、これ以上の会話は無用というかのように唐津乃がふすまを閉じた。
 今から追いかければ、まだ間に合うかもしれない。だが、追いついてどうする。辛い過去を聞き出して、何になるというのだ。ただの好奇心を埋めるための、そんなつまらないことをしたくはない。
『目的』……いや、『屍魄』を知っていて当然じゃな
 呪滅士である二人(?)の云う『目的』とは崩壊刀『屍魄』のことである。彼らは崩壊刀を崩壊させるために旅を続けている。不動が崩壊させた『屍魄』の数は今までで四本。世界にただ一本あるかどうかすら解らない『屍魄』を、不動は数多く見ていた。己の師匠が崩壊させた『屍魄』を合わせれば二十という数字を超えるだろう。師匠もこれを不審に思っていた。もしかしたら、誰かが『屍魄』を作っているのではないか、と考え、元凶を探しつつ呪滅士の役割を果たしていたのだが、その途中で不動に世代を交代したのだ。
「けど、やっぱりいるんだな。『屍魄』のせいで、何かを失った人って……」
 今まで、『屍魄』が表沙汰になる前に呪滅士が崩壊刀を崩壊させていたのだ。そのおかげで誰もが『屍魄』の実在を信じていない。実在したとしても、誰もその存在を信じていないから『屍魄』を目の前にして、それが『屍魄』と思う人はいないだろう。
不動……。必ず、『屍魄』を壊すのだぞ……
「……言われるまでもねぇよ。トヨさんが言っていた殺人鬼。ありゃ、『屍魄』を持つ人間の仕業だ」
 証拠などない。長年の、呪滅士としての勘が、確信の元となっている。月ノ間から出て、不動は元の客室に戻らず、宿の外へと駆け出した。『目的』を、『屍魄』を、崩壊刀を崩壊させるために。



 全ての客が寝静まった頃合、宿で働く者はこの時間だけが休める時となる。トヨはこの宿が誇る温泉へと足を運んでいた。宿での働きは疲れるし、まだ働き始めて間も無いので苦労することが多い。唯一の楽しみは、他人が誰一人いない温泉を一人占めできることだ。他の、トヨと同じ宿働きの女性が入ってくることもあるが、トヨと同じ時間になることは滅多に無い。
 心が安らぎ、身体中の疲れが抜けて行く。……はずだった。今日ばかりは、何故か疲れが取れない。疲れが取れない、というよりも、なんだか妙な感じなのだ。ふと気付くと、唐津之の顔が浮かんでくる。初めて見た時から、彼を見るたびに不思議な感覚に囚われる。もっと、少しでも多く、彼の顔を見ていたい。不動とかいう人の食事係になったとき、どうにかして唐津之の食事係になりたかった。それゆえ、合い席という手を使って、唐津之と同じ場所にしたのだ。
「……」
 湯に映る自分の顔を、唐津之の顔に見たてた。それが簡単にできて、そこから何か不思議な感じに、彼を見るときと同じ感覚に囚われる。何かが引っかかる気がしてならない。そういえば、不動とかいう人にも似た感じはあったが、唐津之の方が強く感じた。しばらく自分の発展途上の小さな胸を見たりしながら、トヨは小さな溜め息を一つ洩らした。考えるのは苦手なのだ。
「…………あ」
 映る顔を見続け、ちょっとした拍子にふと思い出した。
「まさか……!」
 まだ温まり切れていない身体を湯から出し、トヨは脱衣所へと急いだ。
 確認しなければならないことがある。いや、確認など要らない。これは確信。間違い無い。違うはずがないのだ。トヨは衣服を素早く身につけ、唐津之がいる客室へ急ごうとした。ここで問題が発生。
「……どこだったかしら?」
 ど忘れである。
 唐津之のことばかりを考えて、肝心の唐津之がいる客室の場所を忘れてしまったのだ。
 忙しい時には、より一層に忙しくなるものなのだろうか。普段は何もなく暇なくらいなのに、ちょっと忙しい時に何かが起きて更に忙しくなるという不思議な事態。
 宿の外から、悲鳴が聞こえたような気がしたのだ。



「どこだ! おい、じじぃ。どこだ?!」
 さきほど、確かに不動は悲鳴を聞いた。噂の殺人鬼が出たのだろう。悲鳴は女性のものだった。何故、今の時間帯に外にいるのかは理解できなかったが、犠牲者が出たことは確かである。
その前に……ここはどこじゃ?
「……さぁ?」
 不動は勢いよく外に出たまではよかったが、裏路地に入った途端、道に迷ってしまったのだ。先ほどから、行く道全てが行き止まりである。出口の無い迷路のようだ。
「せめてここから出ないと……」
 新たな犠牲者が出る前に、己の使命を果たさなければならない。すなわち、崩壊刀の崩壊。
 勘に任せて走っていると、見慣れた建物が見えてきた。不動がさきほどまでいた宿である。あそこに行けば、裏路地から表に出られるはずだ。しかしその考えは甘かった。宿は見えているのに、道は行き止まりだったのだ。目の前にある塀を越えれば、宿に行ける道だというのに。
「……仕方、ないよな」
 不審者さながらの行動ではあるが、不動は塀をよじ登り、乗り越えた。
 道なりに走ると、そこは宿の目の前にでる道だったらしい。不動がここに来たときと違って、人通りというものはないが、見違えることもなく宿の入口と向き合っている。数時間前は多すぎると思うほどの人も、今はいない。こんな時間に外をうろついていれば危険極まりないし、殺人鬼が出るといわれているのだ。よほどの事でもない限り、外に出てくることはないだろう。
 だが、出て来なければならない人間が、出て来ていない。この宿に泊まっている侍のほとんどは、その殺人鬼をどうにかするために雇われた人間たちのはずである。悲鳴が聞こえていないはずはないのだが、誰一人出てくる様子はない。中からはざわめきのようなものが聞こえているというのに。
 不審に思った不動は、殺人鬼を捜すのを一時中断して、宿へ入った。中の侍たちが何をしているのかが気になったのだ。
「……なんだよ……これ……」
 不動は驚愕した。刀を持った人間が、入口付近に大勢集まっているのだ。だが、誰一人としてそこから前に行こうとしていない。
「お主が行けばよかろう」
「私を使って様子見かね? その手には乗らぬよ」
「我が輩はまだこの地に着いたばかりだ。疲れが取れておらんしなぁ」
「君が行ったらどうだ。その刀は飾りではなかろうて」
「いえいえ、そのような挑発には乗りませんよ」
 などと、無責任且つ他人任せの言動を繰り返しているのだ。これで侍とは、呆れてしまうのは無理がない。不動はぱっと見回し、何げなく探してみた人物がいないことに気づいた。もしも彼がこの集団と一緒に臆病風に吹かれていたのならば、完全に失望していただろうが、彼はいない。唐津之蒼雹がいないのだ。ここにいないだけで部屋にいるのかもしれないが、目の前で無様な姿をさらされるよりはましである。
「不動さん!」
 聞き覚えのある可愛らしい声が、ざわめいている軟弱者たちの中で響いた。その声が一番大きく、それでいて女性のものだったせいか、ざわめきがパタリと止まる。そして、全員が声の元を向いた。肝心の声の主は、その視線に照れることも驚くこともなく、不動に近づく。
「トヨさん?!」
 トヨは不動の方を向いており、集団はトヨの後ろで、不動は集団から少し離れており、トヨが集団に背を向けているということは、不動は集団と向き合っている形になっている。つまり、注目の視線を一斉に浴びていることを知っているのは不動だけだ。
「(恐ぇぇぇぇぇ)」
 臆病風に吹かれている集団とはいえ、全員が人斬り生業としているようなものだ。それらの視線を、何故か恨み籠もった視線を受ければ、恐怖を感じるのは当然だろう。
「ど、どうしたの?」
 さすがにトヨを無視するわけにはいかず、不動は小走りで己の元へとやってきた娘に自分を呼んだ理由を聞いた。
 トヨは、悲しいような、嬉しいような、焦っているような、恐れているような声で、それを伝えた。



 裏路地の一つ。大通りでは目立つが、目立って困ることは特にない。ただの雰囲気作りだ。ただ、人斬りを楽しんでいる。最強の妖刀で、最凶の刃で、人を斬り、殺人鬼と謳われることが何よりも楽しいのだ。今では、食事は豚肉や牛肉の代わりに人肉を喰らい、飲み水は水や酒の代わりに生き血を呑んでいた。最初は、ただ目的の人間が斬ることができればよかった。だが、それが達成されたあと、遙か高みを目指したのだ。何年前になるだろう。まだ自分が『人間』と思えることができたのは。

「――見つけたぞ」

 風が一陣過ぎ去った。ただそれだけなのに、辺りの空気が一変してしまった。今まで吸っていた空気が、全く別物の気体になったかのような、呼吸が乱れる苦しげな雰囲気。
「ぎ、ざまは……?」
 こうして声を出すなど、これも何年振りだろうか。上手く発音できなかったようだが、相手には通じたようだ。
「俺か? 別に名乗るほどでもないさ。言えるのは……ただ、そうだな。一三年前、貴様に家族を殺された生き残り、とだけ言ってやるよ」
 日本で最強の侍と謳われる唐津之蒼雹は刀を抜き、それを『奴』に向ける。
「お、おれざまを、ごろず、づもりが?」
 変なしゃべり方をしているものの、脳の思考能力は至って一般並みなど自負しているつもりだ。それが相手に伝わるかどうか疑問ではあるが、相手は、目の前にいる侍はそのような些細なことを気にはしないだろう。理由は、眼だ。あの眼は、恨みが積もり積もった殺意の眼。彼の云う『一三年前』の事件なら覚えがある。裕福だったらしい家の人間を、何人も斬った。小さな子供を二人、生まれたての赤子を一人。疲れ切っていた親を一組。その家に居合せていた人間を何人か。そして、確かに一人だけ少年を逃がしてしまった。あの時の少年が成長すれば、今のような男になるのだろう。
「『屍魄』を持つ者よ。俺が殺してやる!」
 美しい光沢を見せる刃を見て、崩壊刀の持ち主は、己のソレを抜き放った。鍔に崩≠フ紋字が刻まれ、柄に壊≠フ紋字が刻まれた、伝説の妖刀『屍魄』を。
「がえりうぢに、じでやるざ!」
 唐津之の刀が一閃するが、それよりも速く、『屍魄』が唐津之の身体を貫いていた。



「それ……本当?」
 トヨの話を聞いて、不動は唖然としていた。
「間違いありません。それで、確かめに行ったのですけれど、部屋がどこか忘れてしまって、ようやく思い出して行ったときには既に部屋は空でした……」
ということは、『屍魄』を追ったな
「……じじぃ。『屍魄』の気配、解るか?」
 唐津之がいるところに、『屍魄』の持ち主はいる。『屍魄』の持ち主がいるところに、唐津之がいるはずだ。
あぁ、解るぞ。ここから西へ移動しておる。まだ近いな。そして……、亡くなったばかりの人間の気配が近くに一つ
 死んだばかり、と聞いて『もしや』と思ったが違う。恐らく、最初に聞こえた悲鳴の主だろう。
それから、その近くに弱っているが知っている気配がするのぉ
「なに……? それってまさか唐津之蒼雹の?」
 知っている気配で、『屍魄』がいた場所の近くとくれば唐津之が該当する。
あぁ、間違いない
「唐津之が……やられた?!」
「え?!」
 刀と話す不動の奇妙な行動を不思議と思う前に、トヨはその事実だけで不思議という言葉を捨て去ってしまった。驚きのあまり、感情を操作できずにいるのだ。
まだ生きておるようじゃぞ
「生きているのか。……トヨさん」
 まだ驚いている途中に、やられただのまだ生きているだの聞かされ、混乱状態に陥りかけたトヨは不動の呼びかけで正気に戻った。
「は、はい!」
「オレは『屍は……。――殺人鬼を追うから、トヨさんは唐津之がいる場所に向かって。ここから……南西に少し行ったところ辺りらしいから!」
 不動はトヨの返事すら待たず、西を目指して走り出した。この街は大きいので、一言に西と云ってもそれはかなりの幅になる。南西に少し、というのも難題ではあるだろうが、ここに住んでいるなら迷いはしないはずだ。
 トヨは不動が見えなくなると、少し呆然とした後、すぐに走り出した。不動に言われた、南西の裏路地に向かって。



 迂闊だった。いくら崩壊刀を持っているとはいえ、生身の人間を相手に傷を負わされるとは思っていなかったのだ。左腕に大きな刀傷ができたが、酷い支障があるわけではない。まだ大丈夫ではあるが、もしここで、己が最も恐れる者が来たら、返り討ちにする術は少ない。伝説の妖刀『屍魄』と共に伝説で語られている、崩壊刀を崩壊させる者、『呪滅士』。そんなものはいないはずだ。だが、どうしても不安になってしまう。いない相手に恐怖し、逃げている。呪滅士などいるはずがない。だが逃げている。これは本能の直感だろうか。逃げなければ、自分の身に何か良くないことがおきる。速く、速くこの場から逃げないと……。何かに見つけられてしまう!
「見つけたぁぁぁ!!」
 ビクリ、と身体が震えた。そんなはずはない。またどうせ、違う侍が追ってきたのだ。
逃がさぬぞ、『屍魄』!!
「ぎっ?!」
 聞き覚えのある声がした。人間の声ではない、恐るべき相手。
 逃げていた足はもつれ、無様にその場で転倒してしまった。
 相手を見ると、まだ少年であった。前見たときはかなり高齢の老人だったが、若返りの秘法でもあったのかしら。
「というより、五年は探し続けたぜ。師匠を殺した、『屍魄』の持ち主さんよぉ!」
 刀を鞘に収めたまま、先端を向けてくる。
「じゅめづじ?!」
「ああそうだ。オレは呪滅士だよ。お前が殺した師匠の弟子だけどな」
 不動の師匠は、使命の途中で命を落とした。その頃未熟だった不動は、目の前の男に師匠が殺された所を見ていたのだ。それから呪滅士を受け継ぎ、『屍魄』を壊しながら師匠を殺した『屍魄』の持ち主を追っていた。師から聞いた話によると、一五年以上も、呪滅士の目から逃れ続けている最悪最強の屍魄。それを壊すことが、師匠への手向けになると不動は信じている。
「師匠と戦ったことがあるから解るよなぁ? この刀がなんなのかを!」
 不動は、刀を鞘から抜きはなった。見た目としては至って普通の刀。しかし違うのは、その微量な発光である。月明かりに反射しているというわけではない。刀自体が、白い光を発しているのだ。
「伝説の妖刀、崩壊刀を崩壊させる神之剣。魄護神(ハクモガミ)を刀に纏わせることにより、神刀という名を抱く。健全なる全ての魂を守り、導く神刀『護魄(モハク)』。崩壊刀が崩壊することのできない、唯一の刀だ!」
ほぉ。さすがにこういう時はワシを妖怪扱いせぬか。感心、感心!
「……人が決めている時に水を差すようなことを言うな……」
 気楽な「じじぃ」の――魄護神の声に、不動は少し気後れしてしまった。相手は一六年以上、呪滅士の目を逃れ、師匠を殺した相手である。気を抜くことはできないし、それは魄護神も解っていると思ったのだが。
なぁに、心配するな。やつは気が動転しておるし、ケガもしている。支障がないように思い込んでいるようじゃが……、放っておくだけで出血多量で死ぬぞ
 見れば、確かに左腕の傷は酷い。大きく裂けており、そこから流れる血は止まることがないように勢いが凄い。
「そうか。……んじゃ、すぐに終わらせてもらうぜ!」
 神刀『護魄』を振りかざし、それを『屍魄』で受け流そうとしたが、『屍魄(シハク)』は『護魄(モハク)』と刃がぶつかった途端、その刀身が、鍔が、柄が、鞘までもが、一瞬にして崩壊した。崩壊、というより、消滅に近かい。五年前に呪滅士と戦った時は、こんなことにはならなかったはずである。
「な゛ぁぁ?!」
 刃が触れただけで『屍魄』が消滅するようなことはなかった。何故だ、何故だ、なぜだ、なぜだ、ナゼだ、ナゼだ、ナゼダ、ナゼダ?
 その疑問は考えてわかることはなく、そのまま意識は混濁し、やがて意識というものがなくなっていた。
「勝った……」
『屍魄』は持つ者の精神力によって、時々に力が変わる。やつは、気が動転していたおかげで、本来の強さを発揮することができなかったのじゃ。勝って当然じゃよ
 師匠の仇を討ち、感動に浸っているところに魄護神の声が響いた。それでも勝ったものは勝ったのだ。
 相手はぐったりと倒れ込んでおり、動く気配はない。長年『屍魄』に依存していた所為で、それが消滅した今、命の灯火がまだ灯っているかどうかの判断はできないが、助かる見込みは無に等しい。毎回、崩壊刀を崩壊させるのは役目だとは解っているが人殺しをしていることには変わりないので、苦しい気分になる。仇を討ち、勝ったので嬉しいことに変わりはないのだが。
「あ、そういえばトヨさんと唐津之は……?」
 恐らく死んでいるであろう『屍魄』の持ち主だった男を一瞥し、不動は宿へ戻る道を走った。
 何か、嫌な予感したのは気のせいだろうか。



 少し時を遡る。
 唐津之は刀を抜き、相手も『屍魄』を抜き放った。唐津之が刀を一閃、相手が刀を振るう速度と比べれば、断然早い。恐らく、相手は痛みというものを知らないまま死ねるだろう。一瞬の間、それよりもっと短い刹那に、唐津之は確信していた。
 だが、途中でその動きが止まる。闘争心が、意志が、心が、全てが停止した。一時的にとはいえ、己の心が『崩壊』されていたらしい。それを理解したときには、崩壊刀『屍魄』が身体を貫き、唐津之は無様に倒れ込んでしまっていた。
「が、ぁっ……!」
 死に関るほどの重態だ。自分のことだから手に取るように解る。このままだと死んでしまうのは明白である。しかも、それは家族の仇にやられて、だ。日本で最強と謳われるほどの実力を、仇を討つためだけに身につけたというのに、やっとの思いで仇を見つけ出したというのに、このような場所で終わってしまう。たった数瞬で、今までの生きる意味が無に帰してしまう。
「ぼうがいどうが、『じばぐ』がぼじぃが?」
 意識が遠のきかけているが、皮肉にもヤツの声が聞こえた。崩壊刀『屍魄』が欲しいか、と。目には目を、歯には歯を、妖刀には妖刀を。夢紫苑とかいう小僧の言葉である。妖刀には妖刀……崩壊刀を相手にするには、崩壊刀が一番の決め手となる。ならば、欲しい。伝説の刀が、妖刀が、崩壊刀が、『屍魄』が、欲しい。崩壊刀を手に入れば、それこそ日本最強なのだ。
「ぼうがいどうにば、づよいにぐじみど、いげにえがびづようだ。おんな゛のいぎぢどがな……」
 崩壊刀には……強い憎しみ? そんなもの、在るに決まっている。いや、その憎しみだけで生きてきたのだ。それを無くして、今を生きているとは言えない。それと生贄か。女の生き血……?
 唐津之の意識は途切れ、崩壊刀の持ち主は既にその場から消え去っていた。己が傷を負っていることに気付いたからだ。唐津之の剣は届いていた。相手に気付かれないほどの剣だったのだ。

 それから、数分後くらいである。
「唐津之さん、唐津之さん!!」
 声が聞こえる。最近聞いた声だ。確か、宿を取ったときの宿娘だったはず……。
 名を呼ばれ、唐津之は意識を少し取り戻した。目を開ければ、そこには心配そうな顔をしている宿娘がいる。名前こそは知らないが、見覚えは確かに在る。まだ若い、夢紫苑と同じくらいの女だ。……女?
「唐津之さん!」
 トヨは唐津之が大量の血を流しながら地に伏しているを発見し、急いで駆け寄った。何度目か呼び掛け、やがて唐津之は目を薄く開ける。焦点は定まっていないようだが、今から治療すればまだ間に合うはずだ。
「よかった。目を覚ましたん――」
 トヨの言葉は、最後まで続かなかった。
「……つよいにくしみと、おんなのいきち……」
 寝言のようなたどたどしい口調で唐津之は呟いた。右手には刀の柄が在る。右腕を前に突き出している。目の前にはトヨが、若い女がいる。刃は柔らかいような、堅いようなものにぶつかっている。
 唐津之の刀は、トヨの心臓を貫いていた。
「……あ……」
 トヨには何が起きたか解らなかっただろう。唐突であったし、このようなことが起こるとは思っていなかったからだ。これは何かの間違いだと信じたい。しかし、痛みが、流れる血が、これが事実だと告げている。間違い無く、自分は唐津之に刺されている。
「……お…………に……」
 目を開けたまま、その目の光は途絶えた。
「鬼か……。そうだな、俺は仇を討つため、鬼になろう。殺人鬼という名の鬼に……」
 なぜか朧気だった意識がはっきりしてくる。『屍魄』に貫かれた傷も痛みを感じていない。血が止まり、傷口が塞がっているようだ。唐津之は刀を握り締め、立ち上がる。その刀の刃は血に塗れており、なぜか刃が血を啜っているようにも見える。
 その刀の鍔には、先ほどまで無かった崩≠フ紋字が、柄には壊≠フ紋字が刻まれていた。



 不動は護魄を持ったまま走って戻り、唐津之はソレを持ったままゆっくりと仇が走っていった方向に歩いていた。唐津之の歩きは、まるで死者の行軍のように危うい足取りではあったが倒れる様子は全く見せない。そんな唐津之を、不動は宿屋の前あたりで見つけた。最初は無事だったことに喜びの声を出そうとしたが、どうも様子がおかしい。トヨがいないし、持っている刀がまるで『屍魄』に似ている。
「……唐津之?」
 近付き、確認する。似ている、ではない。まさにソレなのだ。
「そんな?!」
 唐津之の持っている刀。それは鍔に崩≠フ紋字が、柄に壊≠フ紋字が刻まれた妖刀『屍魄』だ。呪滅士になれると思っていた、それも日本最強で、無敵の呪滅士になれると信じていた。今、その相手が最悪にも『屍魄』を持っている。
 いや、違う。呪滅士の才能があったのではない。あれは前兆だったのだ。魄護神の声が聞こえるのは、確かに呪滅士の才能がある人物はもちろん、世界にもう一種、『屍魄』を持つ人種がこの声を聞くことができるのだ。あの時、唐津之が魄護神の声が聞こえたのは『屍魄』を持つ可能性があったからこそだったのだ。
「嘘だろ……」
「……ヤツはどこだ……?」
 殺気篭もった眼で、唐津之が睨む。日本最強の睨みだ。不動は思わず一歩引いてしまった。
「……オ、オレが倒したぜ。それが役目だからな……」
 逃げ出したい。この殺気の渦から。しかし、ここで逃げ出したりして背中を見せた瞬間、一瞬で不動は唐津之に斬られてしまうだろう。本当にそうなるかどうかは明確ではないが、わざわざ試したくはない。
「そうか。ならば、俺は貴様を殺す。そうなれば、間接的にやつを越えたことになる……」
 唐津之は『屍魄』の切っ先を不動に向けた。本気だ。
「……オレは呪滅士だ。崩壊刀を崩壊させるのが役目。あんたが崩壊刀を手にしたからには、その役目を果たさせてもらう!」
 返り討ちになるだろうことは解っている。だが、やらなければならない。呪滅士が崩壊刀を前に逃げるなど許されないのだ。
 遠い間合いから、唐津之が異常的な跳躍で一気に迫る。狙いは右の脇腹。不動はすかさず護魄を『屍魄』が来るだろう位置に構えて防御。高らかな金属音が闇に響いた。
「(さすがに……簡単にはいかないか……)」
 さきほどは相手が動揺しきっていたため、刃を触れさせるだけで『屍魄』を崩壊させることができたが、今回は無理だった。崩壊させるどころか、衰えてすらいない。
「お、ぉお、おおおおおおおお!!」
 唐津之が、防御されているのにも関わらず力を込める。
「んなっ!?」
 踏ん張りを利かせていた不動の足が、浮いた。そのまま文字通り吹き飛ばされ、壁に衝突。激しい振動に肺の中の空気が全て吐き出され、それに伴い少量の血を吐いた。
「なんて力だ……」
崩壊刀が従来の何倍にも力を与えておるんじゃ。しっかりせい!
「わかっている!」
 いつまでも壁と密着しているわけにはいかず、口から出た血を拭って構えを再び取る。
 唐津之が再び攻めようとした。このままでは先ほどと同じ結果になるのは明白だ。不動は相手よりも先に飛び込み、護魄を振るう。刃と刃を打ち合い続ければ、やがて崩壊刀は崩れるだろう。そのためには攻めに攻めて、相手に防御を取らせれば良いのだ。
「小ざかしい!」
 唐津之が数歩、不動よりも早い速度で動く。唐津之は左腕に傷を負ったが、不動のほうがひどかった。
「うっぁぁああ!!」
 右肩を『屍魄』で貫かれたのだ。大量の鮮血が、闇に飛沫を上げた。防御を考えない攻撃。多少の傷よりも、相手の致命傷。これで唐津之は日本最強まで上り詰めたらしい。
 不動は右肩を押さえて血が出るのを少しでも防いだ。護魄を握る手に力が入らない。
「死ね!」
 唐津之が『屍魄』を振り上げる。狙いは、不動の首。
「死ねるか!」
 寸前、不動が後ろに下がり、刃を避ける。右肩の痛みはさらに増した。激痛により、意識を失いそうになるほどだ。しかし、痛みだけ済んだ。もしかしたら、崩壊刀の妖力で魂や精神が崩壊していたかもしれないのだから。
「……一つ聞く! トヨさんはどうした?」
 少しでも時間を稼がなければ、確実に不動は唐津之に殺される。時間さえあれば、隙が見えてくるかもしれない。咄嗟に出た質問は事実気になっていたことであるし、せめての時間稼ぎになればと思った。
「……トよ……? あぁ、あの女のことか。……ころした。『しはく』を手にいれるためにな」
「っ!」
 不動は、自分が崩壊刀と闘っているということを、この間だけ忘れてしまった。唐津之から聞いたそれに、強過ぎる衝撃を受けたからだ。
「殺し……た…?」
「そうだ」
 不動の身体が、がくがくと震える。
「アンタ……自分が何したか解っているのか!!」
「おれの生きる意味のかてとなっただけだ」
「ふざけんなぁぁ!!」
 肩の傷を忘れ、不動は護魄を握りなおす。それを振り翳し、唐津之に斬りかかった。
「ふざけているものか! 十三年もうらみ続けた仇をうつことが我が生がいのいみ!!」
「それがふざけてるって言ってんだ!」
 唐津之も『屍魄』を振り翳した。同じような構えで、同じ速度で、同じ狙いを定めて刀を振るう。互いの刃が交差する瞬間、ぶつかりあい、高い金属音を奏でた。
「トヨさんは、トヨさんはぁ!」
「おぉぉおおお!」
 先ほどと同じく、唐津之は不動を吹き飛ばそうとしたが、今回はそれがうまく行かない。不動は肩に傷を負っているというのに。唐津之はさらに力を入れるべく、酸素を貯め込んだ。
「トヨさんは、お前の妹だったんだぞ!!」
 瞬間。
 全ての空気が止まる。
 それと同時に唐津之の力が弱まるのを不動は見逃さなかった。不動の護魄が、唐津之の屍魄を弾き飛ばす。そのまま、勢いで不動は護魄を振るう。入りは浅かったが、唐津之の胸板を斬り裂いた。
「ぐぅっぁぁあ!」
 唐津之がよろめく。それは、『屍魄』を手放したからか、致命傷にならずとも大きな傷をつけられたからか、それとも不動から聞いた事が衝撃を与えたのか。恐らく、全て該当するだろう。意識が混乱し、まともに立つということができていない。
「く……」
 怒りに身を任せての攻撃は、最後の一瞬だけ輝きを増す蝋燭の灯火だったかのように、痛みを忘れてのものだった。痛みが再来したときには、数倍の痛みを伴い、それに堪えきれずに不動はその場に倒れ込んでしまった。
早く立て不動!
 魄護神の慌てた声が不動の頭に響く。言われずとも解っている。まだ崩壊刀は弾き飛ばしただけで、崩壊させていないのだ。身体が上手く動かないため、うつ伏せに倒れ込んだまま顔だけを上げて唐津之を見る。唐津之は重い足取りで『屍魄』がある場所へと歩いていた。再び屍魄を手にしようとしているらしい。
不動! 実の兄を、早く『屍魄』の呪縛から解放してやれ!
「……今、なんて言った……?」
 視線を、唐津之から護魄に、魄護神に移す。
お前は、先代の呪滅士に拾われたな? 拾った場所は、十三年前、一家斬殺事件が起きた場所じゃ。その場で先代はお前を拾い、お前は奇跡的にも助かった。その代わり、記憶を失っておったがな。そして、奇跡的にも助かったのはもう一人おったらしい。それがトヨという娘じゃ
「……初めて、聞いたぞ……ボケじじぃ……」
んなっ! 誰がボケじゃ!! わしは先代から、お前が兄と出会ったら告げるように、伝言を承っておっただけじゃ! それで、先ほど『屍魄』に触れた時、あやつの過去風景を見せてもろうた。そしたら見事に該当しておったんじゃ
 上手く動かない身体を、不動は無理矢理にも立たせる。物心がついたときから師匠の下で育ったが、拾われたということは知っていたし、それに言われた事でかすかな記憶が頭をよぎる。裕福な家に生まれ、数多い家族に囲まれた、いつの日のかのぼやけた記憶。魄護神の言った言葉は事実だろう。そういえば、『屍魄』に刃に触れた時、その持ち主の過去を見ることができると、魄護神に聞いたことがある。
 不動は痛みを増し続ける肩を無視して、唐津之を追う。唐津之は真っ直ぐ歩けておらず、尚且つ移動速度は死者の行軍よりも遅い。そのため、遅いと言える不動の速度でも唐津之が『屍魄』の場所に辿りつくよりも早く追いつくことができそうだ。
「終わらせてやるぜ、唐津之……」
 唐津之よりも早く追いつくことができそうではあったが、所詮は予測。不動が追いついたころには、唐津之は『屍魄』の目の前にいた。だが、唐津之の身体は痙攣しており『屍魄』を握ろうにも上手く掴めていない。
「……なぁ、じじぃ……」
なんじゃ? 早くせい!
「この状態ってさ、かなり『屍魄』に依存していないか……」
む……。確かに、いやしかしこのような短期間で……
 今の唐津之は、己が生み出した『屍魄』が在ってこそ生きているようなものだ。それが意味する事は、『屍魄』を壊せば唐津之も死ぬと言うことだ。師匠の仇だった相手と同じように。
 よく見れば、先ほど不動が斬り裂いた胸板。そこには、もう一つ最近できた傷がある。間違い無く致命傷で、不動を吹き飛ばしたりした時のような動きをすることは不可能なはずだ。『屍魄』が、唐津之を死なせていないのだろう。
今なら一撃で『屍魄』を壊せるんじゃぞ、早くせぬか!
「あぁ、わかっているとも!」
 護魄を振り上げる。肩に痛みが走ったが、あとはこれを振り下ろすだけで全てが終わるのだ。兄を『屍魄』の呪縛から解放させることができる。振り下ろすだけだ。振り下ろすだけ。いや、むしろ手を離すだけで良いだろう。刃と刃が触れれば、崩壊刀は消滅する。
 しかし、不動の動きは文字通り停止してしまう。
て、不動?! 何をやっておる!
 魄護神の声が響くが、手は震え、眼には涙が溜まる。痛みによる、肉体的なものが動きを邪魔しているのではない。精神的な、感情が不動の動きを止めているのだ。
 仲の良い兄弟たち。兄と、弟と妹。あの兄が成長すれば、きっと唐津之のような男になっていただろう。あの妹が成長すれば、きっとトヨのような娘になっていただろう。あの弟は、自分に似ていた。楽しかったあの頃。漠然としか覚えておらず、何が楽しかったのかすら知らない。しかし、あの兄弟たちは笑顔だった。とても優しい笑顔だった。その映像が凝縮され、不動の脳裏をかすめる。
「……っ」
 目を瞑り、護魄を振り下ろそうとする。しかし、その刃は屍魄の刃に触れることなく、地面に叩きつけられた。
不動?!
「できねぇよ! できるわけねぇだろ! いくら今聞かされたからって、実の兄を殺すことなんて、オレにはできねぇぇ!!」
 不動はそのまま膝をつき、溜まっていた涙をボロボロと流す。どうせなら、言ってほしくなかった。魄護神が余計なことを言わなければ、役目だ使命だと割り切れただろう。だが、聞いてしまった。同じ血が流れる、唐津之とトヨと自分の繋がりを。
 もともと、嫌な職業だったのだ。使命とはいえ、人を殺すなど。ましてや、肉親を殺すなど、できるはずがない。
不動……。……ム?! い、いかん不動! 立て!!
 動揺を隠し切れないほどに、魄護神の声が震えていた。唐津之が、『屍魄』を手にして立っているのだ。浅い呼吸で息切れをしているが、その殺気の込もった眼は不動に向けられている。『屍魄』に依存しきった心が、今さら家族の情に反応することはないだろう。
「……甘い、な。きさまは……それ、でも、呪めつ士、か……?」
 不動は答えない。地に膝と手をつき、涙を流し続けているからだ。
「きさまが終わらせられないならば、おれが終わらせてやる!」
不動! 立て! 動け、不動ぃ!
 二人の声は不動の耳に、しっかりと届いていた。それでも不動は動かない。家族を殺さなければならないのならば、殺されたほうがまだ良い。別に死にたいというわけではない。己が死ぬか、家族を殺すかという選択ならば、どうしても前者を取ってしまう。ここで唐津之の崩壊刀を壊さなければ、新たな憎しみがあらゆる場所で起きるだろう。それこそ、唐津之が歩んだ人生と同じように、憎しみだけの人生になるだけの人間が増える。一人の家族よりも、世界の平和。それが呪滅士としての判断だが、不動にはそれができなかった。
「これで……終わりだ!」
 暗い夜空に、鮮血が勢いよく渋く。
 不動は、痛みというものを感じなかった。



「……?」
 痛みが無いのは当然である。
 背中にある感触は、生温かい液体の感じだ。
 ゆっくりと上を見上げる。そこには唐津之がいた。崩壊刀『屍魄』で、己の心臓を突き刺している唐津之蒼雹が。
「――な、なにしてんだよ……」
 不動は殺されることを覚悟していた。だが、唐津之の屍魄は、唐津之自身を貫いている。
「この……大馬鹿者が……。実の兄を、殺せないだと……? 俺も、殺せるわけないだろう……せっかく、生きていた実の弟を……。知ら、なかったとは、いえ……妹を、殺して……いたなんて、な……。こうするのは……当然、だ……」
 唐津之が、薄く笑う。眼の焦点は既にあっていない。
 そのまま、唐津之は倒れた。いくら『屍魄』の所為で生きていたとはいえど、心臓を貫かれればさすがに死に至る。今この瞬間、日本最強と謳われる男が絶命した。
「か、唐津之……? おい、唐津之?」
 死んだ唐津之を揺さぶり、不動は呼び続ける。まだ生きていてほしい。生きていてほしいからこそ、不動は死を覚悟していたのだ。
「唐津、之……っ、ぅ……ぁ…………兄上ぇ……」
 せめて、生きている間にそう呼んでやればよかった。しかし、それはもう叶わぬこと。
 唐津之の顔は、笑ったままだった。顔は綺麗そのものだが、それが余計に不動の心を突く。魄護神は何も言えない。いくら神とはいえ、こうした時にかける言葉が見つからなかったのだ。
 不動は、唐津之の手を握った。最早、ぬくもりすら感じられない冷たい手だ。せめて、兄の手を覚えておこうと、強く握ろうとした。だが、崩壊刀の仕業か、唐津之の身体が崩壊し始めたのだ。皮膚が、肉が、内臓が、血が、骨が、原型を止めず、むしろ人間の身体があったのかどうかすら解らないほどに。これは崩壊刀が崩壊するのに似ている、つまり消滅。
「っ……!!」
 不動は、主を失った崩壊刀を斬った。『屍魄』は呆気なく消滅。それでも不動は悲しみを押さえきれない。この気持ちをぶつける相手もいない。それゆえに……叫んだ。
「うわぁぁあぁあああぁぁっっっ!!」
 誰もいない虚空に向けて、喉よ壊れろと言わんばかりに、心臓が止まるかと思うほど長く、叫び続けた。それは永遠に続くはずがなく、途切れ、噎せてしまう。蹲って咳を繰り返し、涙が落ちる。
「……バカは、お前だろうが……」
 あの幼い頃は、そんなこと思わなかった。しかし初めて本気で、兄をそう思った。考えを否定したのだ。
 二度と会えない、実の兄を。



 結局、宿にいた臆病者たちはいつの間にか逃げ出していたらしい。なんとも間の抜けた話だ。
「……よし、行くか」
次の『目的』はどこじゃろうなぁ
「あぁ? ったく、じじぃは『目的』ばっかりだなぁ」
 周囲には誰もいない。宿の女将はトヨの葬儀で忙しいらしく、他の宿働きはそれの手伝い。そして侍たちは前述通り逃げ出して行方をくらましている。姉か妹なのかは解らないが、不動はトヨの葬儀には参加しなかった。
あったりまえじゃ。なんと言っても、『屍魄』は強い恨みと、生き血だけでお手軽にできるからのぉ。いくら壊しても足りぬわい
「まったく、そういうことは早く言えよ。師匠も不思議がっていただろ」
 この世に『屍魄』が数多くある理由。それは、人間の強い恨みが具現化したからだそうだ。
「まぁいいさ。オレはもう諦めない。……師匠に助けられて、兄上に貰ったような命だ。投げ出したりはしないし、『屍魄(シハク)』が無限にあろうと全部壊してやるさ」
ば、ばかもん! このような場所で軽々しくその名を出すな!
「……誰もいねーよ……」
 不動は呆れつつも、この魄護神(ハクモガミ)のことを信頼している。仕事仲間だとか、そういう意味ではない。この神も、家族ようなものに感じているのだ。
「まぁとりあえず……。じじぃ、次はどこへいく?」
 右肩の傷は、完全とは言えないが動かせないほどではない。この街には名医がいたらしく、殺人鬼を倒したことから、無料で治療してもらったのだ。その他にも、街の長とやらから、礼金を貰っていた。
まだ疼いておらぬ。どこか適当に行けぃ
「そっか。それじゃ、お言葉に甘えて」
 不動は歩きだす。
 その荷物袋には、二つの位牌が存在していた。



 その昔、武器は刀が主流だった時代。その時代に、多くの刀が生み出された。なまくらから銘刀に至るまで、実に数が多かった。その中に一つ、理論では語れない、摩訶不思議な刀も存在したわけで、それは俗に言う『妖刀』だ。
 その中で最も人に恐れられ、その反面、誰もが存在を信じない伝説の妖刀が在った。
 全てを崩壊に導く妖刀。崩壊刀(クラプス‐ソード)と呼ばれる『屍魄(シハク)』という刀の刃は、敵の刀も、意思も、肉体も、人の心すらも崩壊すると云われていた。特徴として、鍔に崩≠フ紋字が刻まれ、柄には壊≠フ紋字が刻まれている。作成方法は強い憎しみと人間の生き血。もし、現代の世界にこの刀があったとしたならば、戦争、殺人、強姦、麻薬、窃盗、猥褻、悲痛、詐欺、事故……その他多数。数多い憎しみが渦巻く中、どれだけの数が存在するだろうか。
 そして、崩壊の伝説が語られるならば、その反対の、希望の伝説も語られている。崩壊刀『屍魄』に対抗する人物がいるというのだ。崩壊刀を崩壊させる人間。呪滅士と呼ばれるその人は、屍魄に対を成す神刀『護魄(モハク)』を持っている。作成方法こそは知られていないが、それは平和を望む心こそが護魄の役目をしているとかなんとか。そして、呪滅士は今もどこかで旅をしているらしい……。

◆〜Fin〜◆


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