61.(わかれ)(つぐ)婚儀(こんぎ)


 ――こういう時、何に願えばいいのだろう。
 神様か。皆を騙し続けてきた人間が今更祈って応えてくれるのか。
 悪魔か。それにしちゃ願いは悪魔が好みそうなものじゃない。
 精霊か。そういや星降りの精霊ってばどうしたんだろう。
 知るか。余計なこと考えている余裕なんてないんだ。
 誰でもいい。
 何でもいい。
 ただ純粋に。
 最期に祈る願い、叶えてくれるなら――。


 押し寄せてくるザルラーバ兵士軍の真上を、影が覆った。
 その影は数人まるごと飲み込めそうな大きい影で、何事かと思い上を見上げたザルラーバ兵は、次に仰天する。
 紫色の毛皮に翼を持った大きな獣。ダークパンサーという魔物が、自分たちの真上で殺意を見せているのだから、驚くなというほうが無理な話だ。
「『ガンガン行く』っす! クラエス!!」
「おうよ!=v
 たちまち、クラエスとリィダの二人は辺りのザルラーバ兵士たちを蹴散らしにかかった。この付近は既死兵ではなく、一般兵なので恐れることはない。勇敢な兵士はクラエスをも相手にしようとしたが、クラエスはリィダの『言霊』で強化されているため、あっさりと勝負はつく。
 向こうも同じように王族の『言霊』の加護があるが、さすがに基礎能力が違う。
 それでなくても、ザルラーバ兵が何故か浮き足立っているように見える。  どうしたのかとリィダは、戦闘はクラエスに任せて頭を巡らせた。それでわかったことは、なるべく相手にはしないようにしていたが、ちらほらと見えていた既死兵の姿が全く見えない。
 どうやら、その理由が全くの不明でザルラーバ兵もウィード兵も戸惑っているらしい。
「とにかく今のうちに攻め崩すっす!」
 少しの時間も隙も無駄にしないために、リィダは再び戦闘のほうに意識を向け――かけて思わず自分の頬を触った。その触った手は水で濡れており、涙や汗の類とは違う。
「雨……?」
 曇天の空であったが、ついに雨が降り出したのだ。一度降り始めれば、堰が切れたかのように雨脚は速くなっていく。
「だぁぁ! 毛皮が濡れる!=v
 文句を言いつつも、クラエスはザルラーバ兵を何人かまとめて吹き飛ばした。
 いくら翼があるとはいえ、飛びっぱなしはさすがに疲れる。それに雨まで降られてはたまったものではない。故に、体勢を整えることを兼ねてクラエスは一度、地に足をつけた。その時、雨のせいで足を滑らせたのは、リィダを乗せているから不幸がうつったのかも知れない。
 着地に失敗し、派手な音を立ててクラエスはその場に倒れそうになった。なんとか踏ん張り、倒れることはなかったが、背中がやけに軽く感じた。地に足をつけたせいで一気に軽くなった、という感覚ではなく、あくまで微妙な違和感であったため、目の前でずっこけているリィダの姿を見ても、事態の把握に数秒の時を要した。
「あれ?=v
「ふぇぇぇ!?」
 今まで魔物を操っていた女性が転がり込んできた、ということで殺気立っているザルラーバ兵たちは優先してリィダを狙ってきた。魔物と違い、大した能力を持ち合わせていないと判断されたのだろう。
 繰り出される攻撃を必死に回避しながら、リィダは逃げ回った。敵前逃亡だが、リィダだから仕方ない。
「チッ=v
 翼をはためかせ、クラエスは再び空を舞った。その際に、リィダの首周りを咥えて、窮地から脱出させた。
 救出の方法はともかく助かった、と安堵の息をつくのも束の間。その顔は不安に支配されていく。
「ウィードの『風の騎士団』……押されてるっすね」
 平野を中心として、ウィード砦側に兵士が密集している。少しずつだが、砦に押し戻されているようだ。リィダの近辺にはウィードの兵士がやたらと少ない。さきほどまでは周囲はほぼ味方であったのに、気が付けば周囲はほぼ敵になっている。
 これが、王家が持つ『言霊』の有無の影響なのだろうか。
「一旦、砦に戻るぞ。ここで孤立戦やったって意味なさそうだ=v
 リィダを背中に戻しながら、クラエスは息を吸い込んだ。
 せめて思い知らせてやろう、と激しい炎をザルラーバ兵に浴びせてから行く。
「こ、殺しちゃダメっすよ」
「戦争でそりゃねーだろ。ま、心配するな。雨降ってるから死にゃしねーよ=v
 と言って、クラエスは悪童のような笑みを浮かべた。


 雨というのは視界も悪くなるし、機動力がどうしても奪われてしまう。もともと機動力を重視していない『地の騎士団』はともかく、その機動力を大きな戦術としている『風の騎士団』にとって雨は天敵である。もちろん、雨中の戦闘訓練も重ね、なるべく克服できるようにしてはいるのだが、状況は不利であることなど一目瞭然だった。
 キュア騎士団長は戦況を見極めると、すぐに伝達した。
 砦まで退却せよ、と。
 守備兵の役をやってもらっているラックスからも不満の声はでなかった。むしろ、戦場のど真ん中に立つより篭城戦のほうがマシだ、とでも思っているのだろう。
 相手は『言霊』の加護に加え、相手が引いていく姿を見せてより士気を高めるはずだ。そのことを悔やみ、一刻も早くリアッカ女王が救出されるのを願いながら唇を噛みしめた。


 いくら聖浄の槍が既死兵に有効だとしても、その一撃で斃すことができなかった。
「しまった!」
 疲労のためと、雨による手元の狂いから急所を外したらしい。既死兵に急所などあるのかどうかは疑問だが、ともかく倒れて塵と化さずに再び襲ってきた。それを躱してもう一度聖浄の槍を叩き込むが、会心の一撃であろうと相手は倒れる気配がない。どうやら、聖浄の槍の持つ効果に対して耐性がついてしまったようだ。
「ラグド!」
 別の方面から迫ってきていた既死兵を吹き飛ばしたイサが、彼に駆け寄ろうとする。しかし吹き飛ばした所で一時しのぎに過ぎない。だからといって何もしないのもまた愚かなことである。
「って、あれ?」
 イサが既死兵を吹き飛ばす前に、ラグドが何らかの行動を取る前に、既死兵が勝手に倒れ、そのまま中身は砂や塵となったようだ。ザルラーバの武具一式だけが、その場にぽつねんと残る。
「既死兵が勝手に死んだ?」
 既死兵が身に着けている武具一式は、ザルラーバ兵自身も区別するためかやや独特だ。
 そして、見回すとその独特の兵士姿が極端に少ない。先ほどまでうじゃうじゃと集まってきていたと言うのに。
 むしろ少ないというよりも、いないといったほうが正しい。
「…………ムーナ?」
 何故か、ラグドがぼそりとその名を口にした。その呟きは小さなもので、すぐ隣にいたイサでさえ聞こえない程度だ。
「ウィード兵のみんな、引いていくよぉ?」
 ホイミンの言葉につられてウィードの兵たちを見ると、確かに砦に戻って行っている。どうやら、かなり緊迫しているらしい。
「私たちも戻ろう」
 既死兵がいなくなった今、この場にいても無意味だ。
「御意」
 イサに従って、殿役を務めるため定期的に背後を確認した。周囲には既死兵ばかりであったため、自分達を追ってくるザルラーバ兵は今のところいないようだ。相手も既死兵が消えた事に困惑している。
 まだ敵が迫っていないようなので前に顔を向けた直後、すぐにラグドは弾かれるように後ろを振り返った。
 いつもなら感じられない気配が、当てつけられるように感じたからであり、その気配のもとは目に映る老騎士のものだ。
「レイゼン?!」
 いつもながら唐突の登場に驚き、言葉を失くす。聞き出したい事は山ほどあるというのに、いざとなると動揺して何を言えばいいのか分からなくなる。
「今、貴様の仲間が死の淵に立っている」
「なに?」
 リィダだろうか、とまず思ってしまったのは失礼だったかもしれない。
 レイゼンはくくっと笑い、言葉を続けた。
「既死兵を全滅させた代償に、あの魔術師は放っておいても死ぬが……手向けを送ろうと思ってな」
「魔術師……ムーナか? 嘘だ!」
 迷うことなく否定したのも、ムーナの実力を知っているからだ。そう簡単に死に瀕するとは思えない。いつもはホイミンほどではないがおちゃらけているものの、彼女の秘めた力は想像以上のものだろう。
「嘘か真か、その目で見てみるか」
 レイゼンがラグドを指差すと、足元から揺らめくように消えていく。
「これは?!」
 ルーラの類か、それとも別の何かか。何処かに飛ばされようとしていることだけは理解できた。
「別れの言葉を交わすがいい」
 レイゼンの言葉が、皮肉にして自嘲めいたように聞こえたのは何故だろうか。


 イサは背後に違和感を覚えたので振り返った。そこにいるはずのラグドの姿がない。
「あれ? ラグドは?!」
「知らな〜い」
 ホイミンも見ていなかったようで、探しに戻ろうとするが、この場はまず砦に戻ったほうが良いだろうと判断する。ラグドなら心配することもないだろう。たとえ逃げ遅れていたとしても、ザルラーバ兵に劣るとは思えない。
「イサさぁーん!」
 雨音の中で、頭上から声がかけられた。クラエスに乗ったリィダである。
「リィダ! ラグドとムーナ、見なかった?」
「ほぇ? 見てないっす。いないんすか?」
「うん。どこに行ったのかな」
 もう一度辺りを見回すが、やはりいない。雨のせいで視界が悪くなっているため遠くまで見通すことはできないが、それでも近くにいない事は確かである。
「とりあえず、砦の方に戻ったほうがいいみたいっすよ」
「わかってる!」
 なんとなく、嫌な予感がしたのは何故だろうか。あの時――コサメを失った時も雨が降っていたからだろうか、不安が胸中を支配する。
 だから、目の前に降り立った青年の姿にすぐ気付かなかった。
「はぁ〜い、『神風の王女』♪」
 呼ばれてようやく気付いた。そこに立つ青年は、人の形はしているが人ではない。それを確信付けるのは、腹にある大きな口だ。鎖を巻きつけ、封印されているかのように錠前がついている。
 そして、いきなりイサのことを王女と呼ぶ辺り、妙な相手であることに変わりない。
 イサの傍らに降り立ったクラエスとリィダも警戒し、身構える。クラエスが唸り、リィダが睨みつけ、ホイミンが首をかしげ、イサは毅然たる表情で迎える。
「あなたは、誰?」
「今のところは『死神』って名乗っておこうか。それ以上は何も言わない。ただ、君たちにちょっとした情報を提供する者、とでも思っておいてよ」
「情報?」
「そう。今、君達の仲間の一人が死を迎えようとしている。看取ってあげなよ、『棄てられた教会』にいるはずだから」
 青年の姿が揺らめく。その場から消えようとしている、というのは直感からである。
「ちょっと待って!」
 イサの呼びかけも虚しく、それだけを言うと、『死神』と名乗った青年は姿を消した。
 目の前に元から誰もいなかったように感じられたのは、足跡すら残っていなかったためだ。幻であったのか、とさえ思ったが、幻聴でもなかったようだし、他の三人(一人と二匹)もその存在を確認していた。
「イサさん、今の……」
 リィダが震えた声で問う。その脅えは、それとも別の心当たりがあったものを『死神』の言葉で確信づけたようだった。
「どうしよう! 姐御が、姐御が死んじゃうっす!!」
「ムーナが……」
 『死神』は仲間の一人、としか言っていない。それでもムーナと位置づけたのだから、やはり彼女は何か知っているのだろう。しかしそれを追求している暇はない。『棄てられた教会』というのも何処かわからないのだから、せめて名前ではなく正確な位置も教えてほしかった。
「チッ。おいホイミン!!=v
 クラエスが舌打ちしてホイミンの名を呼ぶ。もちろん、その言葉が聞こえたのはリィダとホイミンだけだ。
「なぁに?」
「お前ならあの女の魔力辿れるだろ=v
「えぇ〜。あっちの方じゃないとできないよぉ」
「じゃあ今すぐ戻れ!=v
 そのやり取りを聞いていたリィダがホイミンの触手を掴み、懇願する。
「お願いっすホイミンさん!」
「あぅぅ、わかったよぉ」
 唯一この場で何も分かっていなかったのはイサだけだが、瞬きをしたその間にホイミンが消えて別の青年が立っていたことには、さすがに驚いた。エシルリムでも見た、あの青年である。
 困ったような顔をして、彼は目を閉じて辺りを探っていく。
「んー、あっちかね。こまいお嬢ちゃんはついてきんしゃい!」
 何かを感じ取ったのか、勢いよく地を蹴った。
「え、なに、えぇ?!」
 訳がわからずにリィダとクラエスと青年を見比べるが、明確な答えを聞く余地などない。
 仕方なく、イサは青年の後についていった。
「お前は行かないのか=v
「……ウチ、姐御に云われてあるっす。『頼む』……って」
 イサを見送るリィダは、雨とは別の雫が頬を伝わっていた。
 言付けられたのは、開戦前のことである。リィダには何があっても自分の役目に徹するように云われていた。その時の様子で、ムーナは何かを既に悟っていたのだろう。それに気付き、リィダはそれに応えるために、『棄てられた教会』ではなくウィードの砦へ向かう。
「ウチが、ウィードを、姐御の国を守るっす。任されているんすよ!!」
 決意の口にするが、その顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。
 本当はイサと共に行きたかっただろうに、とその表情を見るまでもなく理解できた。嘆息してから彼も覚悟を決める。
「上等だ。どんな大群でも、俺に任せときな!!=v
 雨音もうるさい戦場に、巨大な咆哮が一つ、轟いた。


 まだ雨雲が届いていないのか、ラグドがその場所に降り立った時には雨が降っていなかった。
「ここは……?」
 周囲は瓦礫や燃え跡の山となっているが、どことなく教会であることは判別できる。
 ここがレイゼンの言った『棄てられた教会』なのだろう。
 ここにムーナがいるらしいのだが見当たらず、代わりに妙な階段を見つけた。どうやら地下に向かって伸びているらしく、向かうとしたらそこしかないのだろう。何が起こるかわからないのだから慎重に行こうとしても、つい足を速めてしまう。一段一段を慎重に下りるのがもどかしく、ついには走り出してしまった。
「(ムーナ……!)」
 心の中で彼女の名を呼び、応えてくれるはずもないのに何度も呼びかけを繰り返した。
「ムーナ!!」
 そして声に出したのは、階段を下りた先の地下大教会の中心に、その名の女性が倒れていたからである。
 何が起ころうと構うものか、と普段以上の速さで駆け寄る。
「しっかりしろ!」
 ムーナはぴくりとも動かない。
 レイゼンとの会話もあったせいか、それは死という単語に直結した。
「死ぬな! 死なないでくれ、ムーナ!!」

 ――死ぬな! 死なないでくれ、セルディウス!!――

 自分で言った言葉と似た台詞が頭をよぎる。よりによってこんな時に、失われた記憶が戻ろうとしているのだろうか……。
 彼の声に反応したのか、全く動かなかったムーナの唇が細く動いた。
「あぁ……ラグド、かい?」
「そうだ、俺だ」
 薄っすらと目を開けているのにも関わらず確認しているのは、この場に彼がいることを信じられなかったのか、それとも目が機能を果たしていないのか、どちらにせよムーナはそれでも微笑んだ。
「最期の願いって、意外に叶うもんなんだねぃ……」
 笑いながら、ムーナは言った。
「最期の、願い?」
「んふふ、ラグドに会いたいな、ってね」
 からかうような笑み。しかしそれも弱々しく、儚い。
 ラグドは初めてだった。こんなにも、力なく笑うムーナを見るのは。
「最期などと言うな。今からホイミンの所へ連れて行く」
「もう無駄だよ。回復魔法も、届かない」
「やってみなければわからないだろう!」
 すぐさまムーナの言葉を否定したのは、自分でもわかっているからだ。数多くの戦いを潜り抜けたラグドだからこそ、回復魔法で治せる範囲というのもわかっている。
「あのホイミンのことだ。魂回帰魔法(ザオリク)も使えるかもしれない」
「でもねぃ、ダメなんだよ……」
「諦めるな」
「諦めるとか、そういうことじゃないの。もう、この身体、ダメみたい」
 震える手で、ムーナは自身のローブを剥ぎ取った、色白な上半身が露になり、こんな時に何を、とラグドが目を逸らす。
「ちゃんと見てよ、アンタには知っておいてほしいんだから」
 見えていないだろうに、気配だけで悟ったのだろう。
 目を向けると、ラグドは思わず目を疑った。
 膨らんだ双丘の合間、そこには異質な傷跡があった。青黒いような、赤黒いような、とにかくまともな傷跡ではない。
「これは……」
「呪の傷……アタイたちのウィード王、スタンレイス様につけられたのさ」
「なに!?」
 そんなはずはない、と続けようとしても、こんな時にムーナが嘘を言うはずがない。そのため、ラグドは言葉を詰まらせた。
「アタイの本当の名前、なんだけどねぃ」
「お前はムーナだ。ムーナ=ティアトロップだろう!!」
 聞きたくないように、自分を無理やり納得させるかのようにラグドは言った。それでも、ムーナは自分の言葉を続ける。
「――ムーンティア=レム=カース=ウィード。イサとは、腹違いの姉になるんだ……」

 二十六年前。イサが生まれる十三年も前のことである。当時十八歳であったスタンレイスは、なかなかの遊び人であった。冒険の許可を貰う以前のイサのように、『風の如き自由こそ全て』という言葉を考えなしに実行し、城を抜け出しては城下町で遊び暮らしていた。
 ある時、酒場で呑み過ぎたのか酔っ払い、その勢いで一般市民の女性に手を出した。たった一夜の交配で子供ができたのだが、スタンレイスは当然知らず、ちょうど先代の王が隠居したため、城で王としての責務に負われ始めていた。
 遊びまわっていた頃から一年程が過ぎ、一国を治める身としての責任と自覚が現れ始めた時である。城の占い師が、スタンレイスには既に子供がいる、と告げた。その時、ついでに行われていた姓名占いの結果が、ムーナの本名である。
 まだ王位に就いて一年弱だというのに、問題を起こすわけにはいかない。そう思いつめたスタンレイスは、宝物庫に保管されていたらしい禁忌の武具を持って、身ごもっていた女性を探し出した。
 ムーナは既に生まれており、まだ乳飲み子であった彼女は無力である。そしてその母親も、スタンレイスが王となったことを承知で、その死を受け止めようとした。だが、いざとなると諦められなかったのだろう。腹を痛めて自ら産んだ子が殺されようとしているとなれば、その母親は何事に変えても子供を守ろうとするものだ。
 だから、スタンレイスが呪いの武器を使ってまで存在を秘密裏に消そうとした時、逃げ出した。
 移転呪文(ルーラ)。ムーナの母親もまた、魔道士だったのである。
 逃げられても、スタンレイスは深追いせず、する必要もなかった。少しでも傷をつければ、必ず死に至る呪いをかける武具であったのだ。そして、母親の背を貫き、赤子の胸元に傷つけたのを確認していた。
 何処へ行こうと助かるまい、と判断したのだ。
 その思惑とは裏腹に、ムーナの母親は星降りの山へと赴いていた。その頂上にルーラで着地し、祈った。彼女は、星降りの精霊の伝説を知っていたのだ。願いを叶えてくれるために数年に一度だけ姿を現してくれる精霊の存在を。
 そして、あらゆる病に対抗することのできるパデキアの花。
 その効力で一命は取り留めたものの、呪いの進行を和らげるにしかすぎなかった。
 さらに母親は助からず、ムーナは彼女の魔道士仲間によって育てられた。包み隠さず自分の過去を話してくれた育ての親には感謝している。何も知らなければ、ただの魔道士として気長に暮らしていたかもしれない。しかし胸の傷こそが、平凡を否定する証拠でもあったのだ。

「……いつもアタイが飲んでいる『栄養剤』ね。あれ、ほんとは強力な痛み止めなんだ……」
 自身に害を及ぼすほどの劇薬。それを服用し続け、二十五年も生きたのだから大したものだろう。
 自分を棄て、母を殺し、尚且つ安泰の地位についているスタンレイスをムーナは許さなかった。だから、その恨みをいつでも晴らすことができるべく城に仕えることで近づいた。『風を守りし大地の騎士団』の魔道団団長にまで上り詰めた彼女は、絶対の信用を得ていた。
 まずは、愛する者の死を教えてやろうと、イサを狙った。
「だけどね、できなかったんだよ……。イサは、どうあれアタイの妹なんだ……その命を奪うなんて、できやしない」
 その時だろうか。何があっても、イサだけは守ろうと誓ったのは。
 標的をスタンレイスに変更したが、いつでも可能という事実があったため、何かと後回しにしていた。だがそれも遅かった。現代のウィード城は魔王軍の攻撃を受け、そこにいたであろうスタンレイスも命を落としたのだから。
 ムーナは、力なさげに手を持ち上げてラグドの頬に触れた。
「何故、俺にそのことを話す。何故、俺でなければならないんだ……」
 ラグドの声は震えていた。今にも泣きそうなほどに。
「言ったでしょ。最後に、アンタにだけは知っておいてほしかったから」
「それが、何故――」
 歯を食いしばり、俯く。そのことを気配で察したのか、ムーナはふっと笑った。
「アンタのことが、好きだから。こんな時に言うのもなんだけどさ、心の底から愛していたから」
 はっとしてラグドはムーナの顔を見つめた。突然の告白に、ラグドは泣きそうな自分を抑え込み、一気に捲くし立てる。
「俺もだ! 仲間として、そして一人の女性として俺はお前を失いたくはない! だから――!!」
 ああ、いつからだろうか。ただの同僚、仲間、そんな意識しかなかったのに、言われて、そして自分で言って初めて気付く。
 ラグドは目の前の女性を愛していた。
 その人が今、死のうとしているのに、自分は何も出来ない。その無力感がラグドを絶望させる。
「よかった。それが聞けて、ホントによかったよ……」
 ムーナは顔を地下教会の祭壇へ向けた。
 こんな隠れた場所でも教会は教会。せめて悪魔を奉っていないように願う。
「相思相愛ってことで……ムーンティア=レム=カース=ウィードの名に於いて命ず。我、そして我が最愛の者、誓いの口付けを持って、それを婚儀の証とせん――」
 魔法詠唱のように紡がれた言葉に、ラグドは何かを言おうとして、何も言えなかった。
「さあ、これが済んだら、アンタはラグドラス=レイ=ゼルム=ウィード……ウィードの王様だ」
 しかしラグドにとって、それは決断できかねるものだ。それはレイゼンの話であり、自分が時折思い出す記憶のためである。
「だが俺は――」
 言いかけたラグドを、ムーナが遮る。意外な言葉をもって。
「グランエイス王子云々の話は、レイゼンから聞いてるよ」
「ならば……!」
 俺のような男は、相応しくないだろう。そう続けたかったのだが、瀕死の彼女を目の前にしてそれが言えないでいる。その迷いすら見透かしているかのように、ムーナは諭すような声でラグドに言う。
「関係ないよ……。躊躇わないで。恐れないで。諦めないで。アンタはウィードの騎士で、そしてウィードの王になれる男だ。アンタにはアンタの『風』がきっと吹くよ」
「ムーナ……」
 彼女は苦笑した。ラグドがこんなにも弱々しく笑うムーナを初めて見たように、ムーナはこんなにも弱々しく自分の名を呼ぶラグドが初めてであったからだ。
「結婚式のキスくらい、女の子からさせるもんじゃないでしょ」
 まだなんとか手を動かす事ができても、彼の顔を近づけさせるほどの力は残されていない。強がりのような、言い訳のような、叱るような、そしてからかうような口調であり、ラグドはムーナに顔を近づけた。そのまま、互いの唇が触れる。
 その柔らかい感覚に満足したようにムーナは微笑んだ。
「ありがと。それから、ごめんねぃ――」
 最期の笑みは、
 どこまでも儚く、狂おしいほどに愛おしく、暖かく、麗しく、優しく、美しく、悲しく、強く、深く、甘く、切なく、明るく、
 そして安らかな笑顔であった――。

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