17.小雨(こさめ)(ふる)(ごとく)


 キィ……。
 椅子の軋む音を聞いて、ムーナは自分が座ったことを認識した。先ほどから自分が現在、何をしているのかが解らない。ただ、自分の部屋に戻って椅子に座ったということだけは認識できた。魔法の研究に使う資料や道具。書きかけの呪文書や報告書。どこからか拾ってきたガラクタや、遊び半分で作った魔法道具の数々。間違い無く、ここは魔道団長ムーナに振り分けられた、彼女自身の部屋である。
 だが違う。部屋だけではない。この部屋を包み込む、ウィード城そのものが違う。同じ場所であるのに見知らぬ場所に放り込まれたような――言うなればパラレルワールドに迷い込んだ気分であった。もちろん気分だけであり、本当にパラレルワールドに迷い込んだわけでも、見知らぬ場所に放り込まれたわけでもない。
 黒いカーテンの隙間から、外が見える。窓という境界線を挟んだ向こう側には、雨が降っていた。大雨にならず、天が誤って落してしまったかのような小雨。
「……小雨。……コサメ、か。皮肉なもんだねぃ………………」
 無理に笑ってみる。口の端が上がっても、笑ったという感じはしなかった。


 この大雨にならない小雨は、呪いでもかかったように三日三晩降り続いていた――。


 サァァァァァァァァァァァァァ――――――
「…………」
 雨音が風音と共に流れる。
 玉座の間、そして謁見の間である玉座に座ったまま、ウィード王はその雨音にしばし耳を傾けていた。今日は来賓もないし、あるとしても雨では歩幅が狭まってしまうだろう。
 サァァァァァァァァァァァァァ――――――
 ウィード王は、雨音に耳を傾けながら自問する。自分は、間違っていなかったのだろうかと。正しかったのだろうかと。こうする以外に、何かなかったのだろうかと……。
 医務団長であるサーライブ・リカバーから、コサメの魔霊病≠ノ関する話を聞いた時、ウィード王は動揺せずに指示を出したと側近の者たちは言っているが、表に見せなかっただけであり、心内では激しい動揺を隠し切れないのではと思っていた。
 城内の兵士などが奇妙な病に倒れ始め、はやり病かと心配していた元凶がコサメであったのだ。しかし、その存在はあまりにも大きすぎた。ウィード城王女、イサの、大切な友であったからだ。
 イサはウィード城王女として生まれ、この城で育った。十三歳にまでなるその間、イサには臣下こそおれど、友達がいなかった。人生が最も輝かしく感じられる年代に、共に対等な立場にたち、共に話し、共に笑い合い、共に怒り合い、共に悲しみ合い、共に生を楽しむ。イサには、そんな友と呼べる存在がいなかった。
 ムーナは親しくやっているが、彼女とて臣下の分を常に心がけていた。ムーナにとっても、イサは『王女』という存在だったのだ。そんなイサに、コサメという『友達』と呼べる存在ができた。それはウィード王でありイサの父親であるスタンレイスも望んでいた事でもあり、イサやコサメは親友とも呼べる間柄にまでなった。
 そのコサメには去ってもらわなければならなかった。
 そして、ただ追放しただけならば、民や他国に魔霊病≠フ影響で苦しんだはずだ。だかこそ、魔霊病をこれ以上蔓延させないためにも、死という形で去ってもらった。コサメにこのことを話すと、快く死を引き受けてくれた。理由を知ったから、と言って……。
 だがそれでも、コサメはイサの友だったのだ。
「…………」
 自問をしても、自答すらでない。ウィード王は目を伏せて、俯いた。まるで今は亡きコサメに黙祷するかのように。
 ……ウィード王は、選んだのだ。国民や他国を救うために。国王として、間違ってはいない判断であった。だが父親として、正しくなかったのかもしれない。娘から大事な親友を奪い殺したのだから。
 許してくれ、などとは言えない。すまない、とどれだけ詫びても足りないだろう。
 だがそれでも、イサには立ち直ってほしかった。
 目を伏せて見えていた暗闇に、いつしか妻でありイサの母親であるアイスリン=レウ=リザベラ=ウィードの姿が映っていた。
「(アイス……わしは、どうしたらいいのだろう……)」

 サァァァァァァァァァァァァァ――――――

 聞こえてくるのは、答ではなく雨音だけだった……。


 ラグドは今、ムーナの自室を目前に沈黙していた。入り難い雰囲気が、その扉に漂っているのだ。この部屋の主である彼女は、今は客の相手などできないと扉越しに言っている気さえしてしまう。
「…………」
 溜め息をつきながら首を横に振る。
 諦めて帰ろうと踵を返した矢先、後ろからガチャリと扉の開く音が聞こえてきた。
「なんだ、ラグドかい」
 彼女の期待していた人物とラグドは違っていたらしい。
「ムーナ……」
「入りなよ。アタイに用があったんだろ?」
 見透かされている、というよりも、この場所この状況にて違うというわけにもいかず、事実ムーナに用があったので、ラグドは素直に彼女の個人部屋に入った。
「アンタが来るなんて珍しいね。雨でも降るんじゃないかい……ってもう降っているっけ」
 彼女の専用の椅子とは違う椅子を勧めながら気楽に言う。しかし、その行為にも翳りがある。晴れない天候の所為ではないことを、ラグドも解っていた。
「……ムーナよ。俺は、これでよかったのだろうか」
 単刀直入に切り出した。
 勧められた椅子に座り、手を組み、俯き、いつも目が見えない程度の髪は鼻先まで覆い隠す。
「何がだい?」
 彼女の椅子は、主人が背もたれに重力をかけるとキィと鳴くような音を出した。
 ムーナはわかっている。聞き返さずとも、ラグドが何を悩み、何に後悔しているのか。
「イサ様のことだ。俺は、イサ様を裏切った……」
 コサメの死の決定。それに基づき、イサを止める。そうでなければ、話だけでは納得するはずがないイサは無理矢理コサメを連れだし、治るはずのない病魔を相手にするだろう。そして結果は目に見えていた。だからこそ、イサをコサメに会わせるわけにはいかなかった。
 ウィード王から下された命令は、如何なる手段を行使してでもイサを止める事。
 その命令に、ラグドは従った。『風を守りし大地の騎士団』騎士団団長のラグドとして。イサ、ラグド、ムーナ、ホイミンの『風魔の大地騎士』(仮)としてのラグドを押し殺して、王の命令に従ったのだ。
 だからこそ、瀕死の身体であろうとイサを止めた。実際、彼の猛攻撃が無ければイサはコサメの元に辿りついていただろう。
「これで良かったのだと、信じようとしても駄目なのだ。三日三晩考え抜いたが、どうしても信じることができない。夢に出てくるのだ、コサメが『あたしが死んだのはあなたの所為』、イサ様が『コサメが死んだのはあなたの所為』と言う光景が……。その光景が脳裏に焼き付いて離れない……!」
 ラグドの言葉に、ムーナは黙って耳を傾けていた。
 ムーナは何も言えない。何を言ってやれば良いのだろうか。自分も、この目の前の大男と同じであるというのに。
「……アタイもさ、結局はアンタと同じなんだよ」
 終始、俯いていたラグドの顔が、その言葉に反応して上がる。その目は見えないが、どういうことだ、と問いただしているようだ。
「…………倒れていたイサを、アタイは助けなかった。助けようとしたホイミンを止めてだよ。あの時、アタイが止めずにホイミンがベホマをかけていたら、多分イサは間に合っていた。でも、それをさせなかったのは、紛れも無くアタイなんだ……」
 ムーナも選んだのだ。『風魔の大地騎士』(仮)の自分ではなく、『風を守りし大地の騎士団』魔道団団長としての自分を。ウィード王の命令に従うことで、彼女もイサを裏切った。
 裏切り者二人、その部屋の時間が止まったかのように、延々と沈黙だけの時間が始まった。


「イサ様ぁ〜。食べないの、イサ様ぁ〜〜?」
 ホイミンは、右にクルクル左にクルクル上にクルクルと、いつも以上に回転しながらあちこちを浮遊していた。それも、イサの自室内を、である。
「……いらない。ホイミン、食べて良いよ」
「ホント!? わぁ〜〜い♪」
 イサのために運ばれてきている食事。それは二人分であった。一人はイサで、もう一人はアノ日からずっとイサの自室にいるホイミンの分である。ホイミンの分はもうすっかり空っぽで、イサの分が余っている。
 イサはアノ日からずっと、自室に篭もっていた。食事も睡眠も、ほとんど取っていない。ただ椅子に座り、机にうつ伏せているだけ。思い出したように二、三口ほど食べるだけであったり、ふらっとベッドに倒れ込んだと思ったらすぐに起き出して椅子に座ったりの繰り返しであった。この部屋は、まるで無限ループであるかのような日々が三日間行なわれていた。単調で、変化がない。
「って、やっぱりイサ様も食べなきゃ駄目だよぉ〜。身体壊しちゃうよぉ?」
 いつもアハアハ顔のホイミンが、珍しく困ったかのような表情を見せる。しかし、イサは何の感慨も沸かなかった。興味がない。食べるものにも、眠る事にも、音楽を聴く事にも、冒険に出ることにも、この世界にも、この生にでさえ興味がない。
「私は、いい……。いらない」
 何の動作もなく、ただうつ伏せのまま声だけを出す。
「むぅ〜〜」
 イサの言葉に困り果てたのだろう。ホイミンはイサの分を食べずに、いつも通りクルクルとただ回転し始めた。特に意味はないのだろうが、気が紛れるのかもしれない。
「…………」
 空腹ではあった。三日間、ほとんど何も食べていないのだ。断食の訓練をしたことがあるわけでもないし、食料不足で困った事もない身体に、その影響は絶大なものだった。力も入らず、眠ることすら困難になっている。水だって飲んでいない。脱水症状でも起きているかもしれないな、と他人事のように思ってしまう。
「ねぇ〜。やっぱり食べたほうが良いよ〜。イサ様、何で食べないの?」
 気ままに回転するのに飽きたのか、それとも本当にイサの身を案じているのか、ホイミンが回転をやめてイサの近くを浮遊する。
「…………。……コサメは、もうおいしいものを食べることもできない。飲むこともできない。それなのに、私だけ食べるなんて卑怯でしょ」
 何も考えていなかった。ただ、機械的に、無意識に答えた。自分の言葉に驚いたくらいだ。そう思っていたから、食べたくなかったのだなと勝手に納得する。
「でも……」
「ほっといてよ、ホイミン……」
 何かを言いかけたホイミンを遮って、ホイミンの視線から逃れるように顔を背ける。
 その背けた後、視線の先に、一本の短剣が見えた。部屋に飾ってある、装飾品の一種である。ホイミンと初めて会った時と同じく儀礼用であり、斬れないことはないが戦闘には使える代物ではない。だが、人一人の骨肉を斬るくらいなら、十二分な役割を果たしてくれる。
 何気なくその短剣に腕を伸ばし、柄を握る。鞘から抜いて、美しい装飾が施された刃が姿を現した。キラリと光る刃がイサの目に映る。
「…………」
 刃を軽く腕に這わせる。
 這わせた先は右腕の手首。
 血管があると思われる場所。
 そこに短剣の刃が辿りついた。
 短剣の刃をその肌につきたてる。
 そして短剣を握る手に力を込めて。
 鮮血が――。
「イサ様! ダメだよっ!!」
「!」
 イサの視界から短剣が消えた。
 ホイミンがイサから奪い取ったのだ。その時の弾みで、少し斬れたのだろう。情けない程度の血がイサの右腕に流れた。しかしその流血も、ホイミンがすぐさまベホマを唱えたので完治してしまった。
「死なせてよ、ホイミン!」
「ダメだよぉ!」
「剣を返して! コサメはずっと独りだった。死んだ世界でも独りなんだよ! だから私も死んで、一緒になるの!!」
 錯乱したように叫び、三日間動かないでいた人物とは思えないような動作ホイミンから短剣を取り戻そうとする。そのイサの目には、枯れてしまったとさえ思っていた涙が大量に溢れ落ちている。
「ダメったらダメだよ!」
「返しなさい!」
 イサが戦闘の構えを取る。風の爪を装備していなくても、武闘神風流は名の通り武闘術である。危険である事には変わりない。
「えっと、えっと……ラリホー!!」
「なっ!? ……ホイ……ミ、ン……あなた……ラリ、ホーなんて…………使え…………――」
 最後まで言い切ることができずに、魔法に耐え切れずイサは眠ってしまった。
 強制睡眠魔法ラリホー。敵を眠らせ、その間に倒すなり逃げるなりをするための呪文である。


「それじゃ、お願いね」
「おう、任しときんしゃい」
 ホイミンの言葉に、一人の男が頷く。
「睡眠学習方式げな、効果あるかどーか知らんばってん……」
 ホイミンの言葉に頷いたはいいが、自信なさげに頭を掻く。
「なぁ王女様。コサメが死んで、皆悲しい。それなのに王女様まで自殺なんかしてしもうたら、えらい悲しむんよ。そりゃやおいかんことったいね。コサメも、王女様の死ば望んどらん。コサメば思うなら、死んだらいかんって」
 その男の言葉は、イサに聞こえただろうか。男にはそれを確かめる術はなく、とりあえず、イサの頬を伝っていた涙を拭った……。


 ――ここは、どこだろう。
 暗闇。それだけは解る。ホイミンに眠せられて、それからここにいる。
「イサ……=v
「コサメ?!」
 暗闇の奥に、コサメが立っていた。死んだはずのコサメが。
「コサメ! コサメ、コサメ!! ……ごめんね」
「なんでイサが謝るの?=v
「私、コサメを助けることができなかった」
「あたしは死を受け入れたの。イサが責任を感じること、ないよ=v
「でも……」
「ねぇ。あの時、近くにいたのイサなんでしょ?=v
「え?」
「ほら、あたしが街を追放されて、知らない男の人に逃がしてもらって、砂漠にいた時よ=v
「気付いて、いたの……?」
「今なら解るの。あれはイサだったんだなって。……だから、知ってるでしょう。あたしが生きたかった理由は……=v
「「『何も知らないまま死にたくない』=v」
 二人の声が重なった。
 あの時、コサメの過去を見ている時、イサはコサメがそう言ったのを覚えていた。
「ここに来て、王様やサラ先生から理由を知った。あたし、知らないうちに皆に迷惑かけていたんだなって、ちょっと悲しかったけど……。でもね、あたしも思ったの。このままだったら、イサにも魔霊病の影響が出るかもしれない。友達にそんなことさせたくないもん。それを防ぐためにも、あたしは死を選んだ=v
「コサメ……。やっぱり、コサメは死んだんだよね。そっちは、独りで寂しいよね。私もすぐに逝くから、もう少し待っててよ……」
「そんなことしたらあたし、怒るよ?=v
「でも……」
「あたしの身体は死んだ。でも、あたしの存在は『ここ』で生きている。イサ、あなたの中で。……イサの話してくれる冒険の話は、あたし、大好きだった。一緒に冒険に行きたいって思っていた。だから、連れて行ってよ。イサが生きている限り、あたしはずっとここにいるんだから!=v
「私の中に……コサメが……」
「そう。遠い場所に、別の場所にいても、ホントの心は繋がっている。それとも何? あたしが死んだからって理由で生きることを放棄するの? ヒドイわねぇ、死ぬことをあたしの責任にするつもり?=v
「そんなんじゃ……」
「だったら、あたしに捕われないで、さっさと元気を取り戻しちゃってよね!=v
「…………」
「何よ、その顔は=v
「ううん。なんか、可笑しくって。あんなに消極的だったコサメが、なんかお姉ちゃんみたいに強気なんだもの」
「人は死を超えると強くなるものなのだ、なーんてね=v
「何よそれ」
 いつしか、イサは笑っていた。
 ただただ純粋に、笑っていた。


「(――大丈夫、信じてください。それに、イサはあなたと同じで強い子ですよ――)」
「アイス!?」
 一瞬、妻の声が聞こえた気がして、ウィード王は思わず声に出してしまった。周囲を見ても、アイスがいるはずがない。気のせいだったのかと思ったが、聞こえてきた声は間違いなくアイスリンの声だった。そしてその言葉は、ウィード王の脳に刻み込まれていた。
「(そうか、そうだな。ワシが正しかったと正当化するつもりはない。正しくあるよう努力せねばならないな。イサも、立ち直ってくれる。そう信じてやらねば、あの子の親ではなくなってしまう)」
 空耳でも、幻聴でも、幽霊でも、ウィード王はアイスリンの声に感謝した。


「……でもさ、やったことを『これでよかったのか』なんてアレコレ悩むより、今後のことが必要じゃないかい。イサを裏切ったのは事実だ。だけど、それはアンタとアタイの信念のもとに下した決断だ。そんぐらいで崩れるほど、アタイたちの信頼関係は脆くはないはずだよ」
 自分にも言い聞かせるように、ムーナは語った。これはラグドへの言葉であり、自分への言葉でもある。
「……そうか、そうだな。イサ様が立ち直ったら、今度こそ俺は、我が槍をイサ様に捧げよう……」
 過去をすっぱり忘れることは許されない。その過去を戒めとし、経験とし、未来へ、自分の生き方へと繋げる。そのために、過去を思い悩み、歩みを止めるのではなく、自分が納得できるまで歩き続けなればならない。
「イサは強い子だよ。きっと、立ち直るさ」
 アタイたちもいい加減立ち直らないとね、と付け加えて、ムーナは窓を開けた。


「…………雨は、止んだのか?」
 ウィード王の耳に、延々と聞こえていた小雨の雨音が、届かなくなっていた。


 目を開けると、天井が見えた。自室の天井だ。ホイミンは……いない。どこかへふらふらと行ってしまったのだろう。
 しかしそのことにも気を留めず、イサは目を閉じて語った。自分の中にいるコサメに。
「……コサメ、ごめんね。……でも、この『ごめん』は、さっきまでとは違う。あなたの言う通り、私はコサメためじゃくて、コサメのせいにしていたみたい。それで謝ったの。許してくれるかな。謝るだけじゃ足りない? 大丈夫……」 
 身を起こして、ベッドから降り立つ。
「その分、きっちり生きていくから!」
 窓から差し込む光は、太陽の光。
 三日三晩降り続いた雨と打って変わって、輝く太陽の光。
 七色の虹が、窓の外に見えた。まるで何かを祝福しているかのように、綺麗な虹。
 そして、微笑むイサの顔は、それに劣らないほどの輝きを持っていた。

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