11.羽手義阿



 ここはウィード城の医務室。一国の城にある医務室なので、規模もそれなりに大きい。その中で、コサメは一人隔離室で寝込んでいる。その部屋とは別に、イサとサラは向き合っていた。
「コサメちゃんの状態、一体なんなのかしら。身体が動かなくなるパーキンソン病にも近いし、それとも……」
 医務室を任されているサラことサーライブ・リカバーは困った顔でカルテと睨み合いをしている最中。話が見えてこない、というよりもただブツブツと言っているだけのサラに文句でもあるかのようにイサは答を催促した。
「ねぇ、サラ。コサメはどうなったの?」
 今にもサラに掴みかかりそうな勢いでイサが聞く。今のイサは完全に動揺しているのだ。目の前でコサメが倒れたのだから、当然といえば当然である。
「えっと、ちょっと待ってくださいね。とりあえず調べてわかったことを報告しますから」
 サラはどこか嬉しそうな顔をしているが、その反面、サラ自身も焦燥を感じていた。未知の病気とも言える症状なので、助かる可能性が低いのだ。イサの初めての友達を、死なせたくはない。それに、サラとて医者だ。病人を助けるのが役目である。
「半年間ほど気付かれずに、コサメちゃんの体内で病原菌が増加していったのですね。今のコサメちゃんの状態は、高熱で倒れ込んでいます。それから、足」
「え?」
 サラの最後の一言に、イサは反応して疑問を持った。
「足? 足がどうかしたの?」
「はい。ひどく腫れていますし、肌が変色しています。何をどうしたらあんなふうになるのか……」
 やはり、とイサは思った。ホイミンが光の波動とベホマを使用して治療したはずの足が、治療前の状態に戻ったのだろう。魔法の効果が切れたということではなく、恐らくは病気の所為のはずだ。
「コサメは治るの? 助かるの? 生きていられるの?」
「……まだ解りませんが、病気には薬草。『パデキアの花』っていうのが効果的らしいですよ。この城の地下第三扉室から行ける、『星降りの山』の頂上に生える『パデキアの花』。アレは難病や奇病に効くパデキアの根よりも、数十倍の効果が得られるはずで……」
 ウィード城は、城のありとあらゆる場所に旅の扉が設置されている。理由は、死と守りの大嵐(デスバリアストーム)の影響である。通称、死壁風と呼ばれるデスバリアストームは、かつて、誰かの都合で一時停止などという芸当はできなかった。そのため、ウィード領から外へ出るには、ウィード城地下や郊外に設置されている旅の扉を使用せねばらないのだ。だが、このことはあまり公にはなっていない。旅の扉を通じて魔物などが押寄せてくる可能性を考えてのことである。ゆえに、エルフの森付近や、星降りの山など、人目にはつきにくい場所に多く点在しているのが現状である。イサとしては他の国にも赴きたいので、新たな旅の扉設置を願っているのだが、一つ創るだけでも数ヶ月の儀式と魔力の蓄積が必要とかで、その願いが叶えられる日は遠いだろう。
「……行く……」
 珍しく数十秒間沈黙してサラの説明(星降りの山に行かない方がいい理由)を聞いていたイサだが、聞いていたのではなく考えていたのだ。そして、サラが詳しく語ろうと息を継ごうとしたところで、イサがぼそりと呟いた。
「え?」
 聞こえていたが、サラは今一度聞き返した。空耳かなにかであることを期待して。
「行くって言ったの。『星降りの山』に行って、『パデキアの花』を採って来る!」
「な……。無茶ですよ、イサ様! 昔と違って魔物が多くて、それに最近は強い魔物が……」
「全部倒すわ。コサメのためだもの」
「でも――」
 咎めの言葉を発する前に、イサの幼い声が響く。
「私は、初めて出会えた友達を助けるの! 私が、私の力で! 一刻でも早く!!」
 こうなってはイサは考えを変えない。それはサラも、この場にはいないラグドやムーナ、国王でさえ知っているだろう。危険な冒険になることはわかりきっている。それでも、イサは冒険者であることを認められている。危険を冒さない冒険者など、ただの探険家だ。冒険者とは違う。
「(あぁ、国王様。何故、イサ様の冒険者活動を認められたのですか……)」
 半年前、イサがコサメを連れて帰ってきたその日、イサはとても嬉しそうだった。事実、冒険者活動が認められたし、コサメという友達もできたからだ。そのとき、サラも心からその喜びを共に喜んだ。あのようなイサの顔を初めて見たからだろうか、サラ自身も心の底から喜んでいたのだ。しかし、今は喜んだ事を後悔している。こうなってしまうならば、イサが冒険者などに手をつけなれければよかったとさえ思えてくるのだ。
「サラ! コサメをお願いね!」
 応答を聞く前に、イサは医務室を走り出てしまった。
 入れ替わりに、黒いローブを着た女魔術師が入室してくる。
「……ムーちゃん、聴いてたの?」
「ん〜。ちょっとそこでエネルギー切れで倒れている時に偶然、ね」
 にこやかな顔を保ち、朗らかな口調でムーナはサラの問いに答えた。
「……嘘ばっかり」
 サラは苦笑し、視線を足元に向ける。イサを止められなかったことを悔やんでいるのだ。
「サーちゃん、アタイがイサについてくよ。あと、ホイミンも連れていくから安心して」
「……ラグド騎士団長は?」
 ラグドはイサの教育係も兼ねているし、なにより『風を守りし大地の騎士団』騎士団長である。その実力は計り知れず、力強さだけならばウィード一、いや、世界一かもしれない。それなのに、ムーナのいうメンバーには含まれていない。『風魔の大地騎士』(仮)と同じ冒険者チームでもある彼は、どうしたというのだろう。
 憶測だけでは解決しないので、サラは直接、ムーナに聞くことにした。ラグドは、今回は参加しないのか、と。
「ん〜。その事なんだけどね〜」
 ムーナのにこやかな顔に、明らかに困惑の表情が浮かべられた。


 愛用している風の爪。武闘着。薬草が入っている袋に、キメラの翼や聖水を無造作に押し込む。冒険者活動が認められる前のように、こっそりと一人で城を抜け出さなければならない。星降りの山に出没する怪物の噂は、聞いた事があったのだ。それでも行かなくてはならない。コサメを助けるため。親友を助けるために。
「ねぇ、イサ……」
 部屋を出てすぐに呼び止められ、イサの身体がビクリと震える。しかし、振り返らない。そこにいる人物が誰かを知っているからだ。声を聞いただけで、その主は解る。
「止めないで、ムーナ」
「止めるつもりはないよ」
 ここでやっと、イサはムーナへと振り返った。そこで目を見開く。ムーナが大きな袋を背負っている、旅支度を整えた格好で立っていたからだ。イサは、ムーナが自分を止めにきたとばかり思っていたので驚くのも無理は無い。
「『星降りの山』に出る魔物には魔法がないと苦戦になること知らないの? アタイも行くよ」
「……わかった。一緒に行きましょ」
 すぐに気持ちを切り替え、それに仲間は一人でも多くいた方が良いと判断し、イサは再び城の地下へと向かう。
「あ、そういば今回、ラグドはお休みだよ」
「……ふ〜ん…………」
 深くは追求しなかったが、イサはそのことに引っ掛かるものがあった。いつもラグドはイサを守るために同行している。忠誠心の塊みたいなものであるラグドが参戦しないというのは珍しいからだ。
「じゃあ、今回はムーナとの二人旅だね」
「いや、二人と一匹かな」
「え……?」
 ムーナが背負っている大きな袋。そこから出てきたのは、顔のついた青いゼリーに触手が生えた――
「ホイミン?!」
「あぅ〜。暑かったぁ」
 間の抜けた声。間違い無くホイミンだ。
「こっそり行動するためには、ちょっと大人しくしてもらわないと」
「だからってギューギュー詰めにすることないよぉ〜」
 怒っているのだろうか。顔や口調はまるで怒っていない。
「ほら、回復呪文があったほうが心強いでしょ? だから連れてきたの」
「ねぇ〜。僕の話、聞いてる〜?」
 ムーナは徹底的にホイミンを無視しているが、ホイミンはホイミンでずっと喋っている。数秒後には話題が変わり、いつの間にかいつものようにアハアハ言っていた。確かに少しうるさいかもしれないので、大人しくしてほしいものだ。

 地下第三扉室の前までには、幸運にも誰にも会うことなく辿りついた。辿りついたとはいえ、当然ながらその部屋には鍵が掛かっていた。イサもムーナもホイミンも、誰一人とてその部屋の鍵を持っているわけがない。
「仕方ない、アレをやるか……」
 イサが拳で扉をぶち破ろうとしたのをムーナが止めて、ため息をつきながら魔道師の杖構えた。
「――常に変化する精霊。形無き精霊。空気と無の精霊。不定の形状を変えて、我が望みの形とならん。我が目前に在りしは壁。我望むは壁の突破。複雑なる錠前を汝らの手にて開かん。我求めるは先に在りし新たな道。未知への道を示せ――アバカム=v
 扉が光り、高い音が響いた。鍵を開けた時に生じる音だ。
「ムーナ……解錠呪文(アバカム)、使えたの?」
 アバカムと言えば、どのような難しい鍵でも開けてしまうという、世界中の泥棒が欲しがる呪文である。だが、悪用しようにも難し過ぎるのだ。高位の魔法使いにしか使えないものを、ムーナは使って見せた。
「けっこー疲れるから、あんまり、やりたくなかったんだけどね」
 白い歯を見せながら、ムーナは杖を腰に戻す。
「でも凄いよ。私だけだったら、きっとこの扉にさえ苦戦してた!」
 イサは言いながら、部屋へと入る。その部屋の中に渦巻く、銀と青の光。サラの言い分が正しければ、『星降りの山』に続いているという旅の扉のはずだ。
 イサは躊躇うことなく、その渦に身を預ける。続けてムーナが入るとき、ぼ〜っとしていたホイミンの触手を掴んでから一緒に入った。ホイミンは触手を掴まれて驚いただろうが、驚く間に、移転は完了していた。それほど鈍いのだ、ホイミンは。

 旅の扉をくぐり抜けた先は、城の地下室とは違い、青空の下。青い空ではあるけれど、大好きな青空なのだけれど、今日は何故か寒い青空。胸中の不安がそうさせているのだろう。
「ここが……星降りの山……」
 かつて、この山に流星が降り注いだことが名前の由来らしい。三界分戦の頃からあるなどとも言われている、かなり古株の山だ。
「行こう、皆!」
 イサは自分に、そしてウィード城で寝込んでいるコサメを元気付けるように明るい声をだして、歩き出した。

 イサが先頭を歩き始めて間も無く、魔物たちはイサに襲いかってきたが、その殆どがイサたちの手によって倒されていた。傷はホイミンが癒してくれたし、何より、ムーナの援護魔法のおかげだろう。いつも、のんびり屋と呼ばれる彼女ではあるが、その名称を変えなくてはいけないのでは、と思うほどの働きだったのだ。ムーナは現れた魔物に対して即座に弱点を見抜き、最も効果的かつ低コストで済む魔法を使い続けたのだ。
 おかげで、頂上に登るまで、対して苦戦はしなかった。
 そう。頂上に登るまで、である――。

「もうすぐ頂上なのに……」
 イサの、悔しさが伝わるほどの重たい声は、ムーナの耳に届いていた。もうすぐ頂上、というよりも、頂上へ続く道が目の前にあるのだ。星降りの山の頂上は平野状になっているので、一言に頂上と言っても広いの何の……。それで、とりあえず頂上の端が目の前にあるというのに、そこまで行けないでいるということは、何らかの障害が存在しているというわけだ。
「おっきぃ〜ねぇ〜」
 事の重大さが解っていないのだろう。ホイミンは間の抜けた声でソレを見上げている。
「確かに大きいね。ボストロールにしちゃ、研究対象にしたいくらいの大きさだよ……」
 ムーナの言う通り、イサの目の前には巨体の魔物――ボストロールの姿がある。それも、通常の倍はある巨大さだ。
「迷っていられない。倒そう!」
「ん〜、勝てるかなぁ。そういや、サーちゃんが言ってたなぁ。星降りの山に、最近強い魔物が住み着いて困っている、って……。こいつのことだったんだねぇ」
 イサも、そういえばサラから同じことを聞いていたな、と今更ながらに思い出した。
「じゃ、どちらにしろ困りの種を取り除く、ってことで。今まで通り、ムーナは援護、ホイミンは回復に専念して……行くよ!」
 ここに来るまで苦戦はしなかったので、ほとんど万全の状態で挑むことができるのはありがたいが、勝てる気がしないのは、何故だろうか。ムーナがそう思っていることも露知らず、イサはボストロールに挑みかかった。大男と小型犬ほど――いや、それ以上の体格差であることは容易に解った。
「考えても仕方ないか……。こういう時にラグドとかがいれば良かったのに!!」
 今回は冒険に参加していない仲間に愚痴をこぼしながら、ムーナは腰にある魔道士の杖を握り締めて、イサの方向に向けた。
「ちょいと、戦の神に使えし大地の精霊さんがた! 我が主のその剣を、爪を、牙を、神へ近づけちゃってくださいな。無鉄砲で猪突猛進だけど、勇気や優しさは本物だからさ。あの子の気持ちとアタイの魔力、通じたならば、不可視なる勇気の刃をここに出してくださいな――バイキルト=I」
 長い詠唱を終えると、イサの身体が金色に包まれた。
 その光と、イサの足音に気付いたのか、ボストロールは妙な声を張り上げて棍棒を振り翳した。
「武闘神風流『颯突(さくづ)き』!」
 威力は少ないものの、イサの移動速度が急激に上がり、右の拳をボストロールに突きたてる。ちょうど真後ろに棍棒が振り下ろされていたので、イサはちょうど脇下の辺りにいることになる。
「……?」
 風の爪の先端がささっているように思えたが、刺さるのではなく埋もれていた。あまりにも分厚い脂肪が、身体全体を覆っているように思える。
「イサ! 離れな!!」
 ムーナが叫びながらバイキルトとは違う呪文を唱える。
 イサの身体に、水色の光が宿る。防御呪文(スカラ)を唱えても、イサに効果はあるだろうか。イサの防御力に対して、あのボストロールの攻撃力は魔法で補い切れないものと思えてしまう。先ほど振り下ろした棍棒がそれを証明するかのように、地面を砕いていた。
「ど、どうしよう?!」
 イサが慌てて間合いから離れる。ボストロールは呪文を使ってこないため、間合いから離れれば多少は安心できるのだ。
「しょうがないね。攻撃呪文をありったけ叩き込むか……」
「で、でも!」
 イサの言いたいことは解っている。イサは、呪文を一切使えないのだ。魔法的作用のある武闘神風流は、プロセスが違うために魔法を同一視できないらしい。
「アタイが何とかするからさ。イサは、相手を撹乱させて! ホイミン、イサが少しでも傷を追ったら治すんだよ?」
 ホイミンが頷き、イサは既に相手を撹乱させるために周囲を走りまわっている。スピードだけならイサがダントツではあるし、反応と素早さが遅くて低いボストロールにはとにかく周囲を走るだけで撹乱できるだろう。
「飛空せし風の精霊。渦巻く風の精霊。自由なる乙女よ。斬り裂きの刃となりて、悪の肉を断て。風の裁きよ、巨なる竜巻を生み出せ――バギマ!!」
 イサに夢中であったボストロールの身体に、巨大な竜巻が発生する。唐突であったためか、ボストロールはかなり驚いた様子だが……それだけだ。
「効いてない?!」
 イサが驚き、ムーナが焦る。最も得意とする魔法が効かなかったのだ。バギクロスを試すこともできるが、今の状態≠ナ放てるかどうかすら解らない。制御に失敗すれば、己に風が巻き起こるのだ。
「こうなったら、片っ端から試すしか――」
 魔道士の杖を構えなおすムーナの目に、一人の少女が映る。もちろん、それはイサである。そして、巨体の魔物であるボストロール。魔物はムーナのバギマに驚いたせいか、憤怒の表情を見せてこちらを睨みつけている。明らかにムーナを狙っている眼だ。しかしムーナはその魔物を無視して、イサを見ていた。
 ボストロールの気が逸れているうちに、風の流れを生み出している。風と気が混ざり合い、それはやがて、龍に変化していく。
「あれは……『風死龍(かざしりゅう)』!?」
 以前、カエンとの戦いで成功した武闘神風流『攻』の最終秘奥義、風死龍。イサはそれを放とうとしているのだ。
「だったら!」
 風死龍は一撃必殺。まともに食らえば、巨大なボストロールでも一溜りもないはずだ。それなばらムーナができることはただ一つ。時間を稼いで、ボストロールの注意を引くこと。先ほどまで、イサがやっていたことだ。
「ちょっと慣れていないけど……。――凍てつく北風の精霊。吹雪の中に住まう氷の精霊。流れに見を任せし水の精霊。その牙を氷壁と成して、この場に現せ。氷の刃よ、悪なる魔を凍らせ、永久の後悔なる名にて戒めよ――ヒャダルコ=I」
 ボストロールの足元から、氷の塊が発生する。上手く行けば下半身を凍らせ、動けないようにできるはずなのだが、魔物の怪力は発生した氷の塊を砕くほどだった。
「(今からじゃ他の呪文が間に合わない――)」
 間合いから少しでも離れようとした時、ムーナの足がピタリと止まる。ボストロールでさえ、後ろの気配に気付いて振り返ったている。
 そこには、風の龍が存在していた。
「イサ!」
 ムーナの歓声がイサに耳に届いた。
「……フッ、ハッ、ッ、フッ、ハッ、ァッ――……」
 激しく、低い息切れ。こうしている間にも力を吸われている感覚。これで、二度目だ。二度目であるかといって慣れるものではない。激しい疲労が溜まる一方の最終秘奥義。早く、打ち出さなければならない。龍を操り、ボストロールを倒さねばならない。
「イサ!」
 ムーナの声がまた、聞こえた。だが、今回は歓声などではない。警告するような声だ。
 風死龍の生成で朧気だった視界に、ボストロールが突進してくる様子が見える。カエンと闘ったときは、相手が待っていてくれた。今回は違う。危険なものは最優先で破壊してくる魔物が相手なのだ。この技は、時間が掛かり過ぎる。
「(でも……コサメを助けるためだもの。初めて、初めての友達を助けるためだもの……。これくらいの苦労は、やってのける! コサメが……、コサメが大好きだから!!)」
 小さな身体に負担をかける一方の龍を動かし、ボストロールに向けて放つ――。
 放つ……はずだった。

「っあ……!」

 風死龍が、不完全だったのか。恐らく間に合わなかったのだろう。ボストロールは、その巨体には不思議なくらいの跳躍を見せ、風死龍の龍を叩き消したのだ。
 風の龍の圧力からは逃れたものの、その龍に全精力を込めていたのだ。たまらず、イサはその場に倒れ込んでしまう。ボストロールといえば、もちろん容赦などせずに、イサを殺すために棍棒を振り上げた。
 そのボストロールの巨体に、再び真空渦の呪文が降り注ぐ。
 バギマを放ったのはムーナであり、気絶してしまっただろうイサを、ボストロールの気から逸らすために、効きもしない呪文を放ったのだ。しかし、そのムーナの顔も恐怖とは違う意味で青くなっている。
「こんな……時に……」
 胸を押さえ、ムーナはその場に倒れ込んでしまった。いつも彼女が言っている『エネルギー切れ』というやつだ。ローブの中に携帯している栄養剤を手に取る前に、ムーナの意識は飛んでしまっていた。

 残ったのは、ホイミン一人だ。
「え〜と……え〜と……?」
 ホイミンはただ一人、イサとムーナを交互に見つめながらオロオロとしていた。
 ボストロールが、どちらから先に殺そうかと悩んでいるかのように、ホイミンと同じくイサとムーナを交互に見回す。そして、唯一動いているホイミンに目を止めた。
 その視線に気付いたのか、ホイミンもボストロールに初めて目線を合わせる。
「“ぶもぉぉぉ!!!”」
 奇声をあげながら、ボストロールが突進をしかける。
 しかし、それはあっさりとかわされてしまっていた。
「……オイ、コラ。うちの主君になんばしとうとね」
 ホイミンが避けた先を見たボストロールは、不思議なものを見る目でそれを見ていた。そこにホイミスライムの姿は無く、人間の若者の姿があったのだ。
「こぎゃん事ばして、ちくっと腹かいたばい」
 ボストロールに……いや読者に、この言葉の意味が通じただろうか。解るだろうと思って話を進める。話を進めるが、進める必要もなかった。一瞬の間に、ボストロールは死んでいた。ただ、それだけだったから――。

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