森田先生 書痙がここで治ったのは、山野井君が第二例でありま
す。雑誌「診療」に昭和四年十一、十二月号に出ております。本症の
病理が従来わからなかったために、治療ができなかったけれども、こ
れが私の発見により神経質の病理と同一である事を知り、これを簡単
に治す事ができるようになった。なお面白い事は、頭痛とか赤面恐怖
とかいうのもは、本人が悪いといい、また治ったといっても、外から
認めることはできず、本人のいうままに聞くよりほかにしかたがない。
しかるにこの書痙は一目にしてその差別を見る事ができるから面白い
のであります。
山野井君が重役に会うのに、その前日には予期恐怖があり、その日
なれば不安がしだいに高まり、重役室の戸をノックする時には、もは
や絶体絶命になる。これは常に普通人の心理であります。山野井君が
これをもって普通の人には想像ができないかも知れぬと断わるところ
は、まだ少しく君の修養の不足するところといってよいかと思う。人
はまず誰でも腹がへれば食いたい、目上の人の前では恥ずかしい。こ
れを平等観という。「雪の日や、あれも人の子樽拾い」という時に、
たとえ酒屋の小僧でも、寒い時には苦しい観ずるのを平等観という
のであります。それを自分を寒がりであり、恥ずかしがりやであるか
ら、自分は特別に苦しいというのを差別観という。この差別をいとい
よ強く言い立てて、他人との間に障壁を高くする時に、ますます人と
妥協ができなくなり、強迫観念はしだいに増悪するのである。また例
えば吾人は、眼が横に二つついている事は平等であるが、その眼のつ
きぶりが、実に千変万化であって美人もできれば醜人もできる。これ
が差別である。しかるに吾人はただこの差別のみを強調して観ぜずに
平等と差別を両方面を正しく批判する時に、「事実唯真」を認める事
ができていたずらに自己中心的の小我にとらわれて、強迫観念になる
ような事はないのであります。
「砕啄同時」という語がある。面白い言葉である。砕は卵から雛が
生まれる時に、自然に成熟して殻を破って出てくる事である。啄とい
うのは、母親がそれを嘴でツツキ破ってやる事である。これがもし親
鶏が慌てて早く殻を壊せば、雛は早熟で生育する事ができない。これ
に反して成熟した雛が、殻を破る事ができなければ、窒息して死ぬる
という事になる。すなわち雛の完全に生育するには、砕と啄とが同時
でなくてはならない。
山野井君の40余日の入院生活は、卵がしだいに孵化しつつあった。
重役に会った時に、ここに初めて砕啄同時になって、心機一転し、初
めて新しき世界に生まれる事ができた。その時に暫時の間、息づまる
ような重い苦悩があったのである。これが生まれ出る苦しみでありま
す。今までも重役の前にはしばしば出たけれども、ますます萎縮し苦
悩するばかりであったが、ここに初めて機縁が熟して、
砕啄同時になり、心機一転したのであります。
なおここに最も大切なことは、私が同君に対する退院のときの注意で
あります。私も同君に対して、初め40日の予約で治療を引き受けた
が、期限になっても、なかなかうまく行かない。私も少し苦しくなった
から、一度退院して境遇を変え、それでも心機一転の機会がこなけれ
ば、再び入院してもらって無理にも治してみたいというつもりであっ
たのである。退院の時に、同君の将来の方針は、自分は生活には困らな
いから、むしろ田舎に帰って楽に生活しようとのことであった。
私はその時に問うた、君の人生は従来の会社に勤務する事と田舎に帰
る事と、いずれが将来の発展に都合がよく、いずれが自分の希望とす
るところであるか、という事を問うたのであります。もし自分の希望
を捨てて、自分の人生をしだいに退縮して行くならば、決して書痙も
対人恐怖も治る時節は到来せぬのである。我々が生きる必要は欲望の
ためである。強迫観念を治すのは希望に向かってのためである。欲望
を捨て、希望を失うならば、命も必要がなければ、病も治す必要がな
いのである。ここが最も大切なる自覚のあるところであるから、皆様
もこの点をよくよく注意をしなければなりません。
山野井君は初めから柔順すぎて、かえって鋳型にはまり、とらわれ
になるという風であったが、この時にも早速私の言をいれて、田舎に
帰る事を中止したのであります。それで直ちに会社に出頭する、重役
に面会する、対人恐怖も自分の思ったように楽にはならない。これで
は治ったという事がいえようか、と私を恨んだ事であろうと思う。
この恨みと同時に、一方にはむしろもう治らぬものと、覚悟し、捨て
鉢、捨身の態度になったでもあろう時に、初めてここに心機一転の時
節が到来したのである。またいわゆる「大義ありで大悟あり」という
ように、入院修養の時期の長かった事もむだにはならず、悟りの後の
働きが大きい、という結果になったのであります。
話は違うけれども、不思議な事には、今度、現在入院中の下川君の
紅痛症(エリトロメラルギー)が治ったことであります。これは内科の
広瀬君にも診てもらい、特殊の療法もなく、なかなか容易に治らぬも
のであるけれども、これがいつとはなしに治っていたのである。実際
に生きる力の強さとでもいいましょうか。生の欲望に対する自然の活
動のために、不治の病も治る事である。山野井君の治ったのも生きる
欲望の発揮された結果にほかならないのであります。
鈴木氏(25歳、文学士、今年2月入院)私は不眠と夜中尿意
頻数とで苦しんだものであります。今年の1月、寒い盛りに夜中多き
は20回も便所に立った時には随分苦しみました。この尿意頻数は既
に臥褥療法中に治ってしまいました。また私は咽喉の悪いという恐怖
のために声が出ないので、教師になる事ができぬとあきらめ悲観して
いましたが、ここへきてそれも治り、退院後、女学校の先生をしてお
ります。初めの2,3時間は恥ずかしくて顔も上げられないくらいで
あったが、後には平気になり、今はこの通り声も大きくなりました。
以前には何事にも消極的であったが、ここへ来たお陰で、今頃は向