C 足るを知る
私は最近、老化現象のためか、たまに身体的な死の危機を感じることがあり
ます。自分が間もなく、この世から消えてなくなってしまう寂しさがふと頭をよぎ
ります。その感じを発展させると、将来に希望がなくなり落ち込んでいくのです
が、その一方で「今まで生かしてもらったのだから、それだけで充分ではない
か」という考えが出てきます。そうすると不思議に、これからの人生がおまけの
ように思われてありがたくなり、落ち込みから解放されるのです。
本当にものは考えようで、心身の状態ががらっと変わることがあります。いず
れの感情や思考も事実ですが、私の場合は寂しさが先にきて、ありがたさが
後から出てくるようです。もっとも、その「ありがたさ」は、「感謝探し」をして毎
日意識していることではありますが、そのような場合、素直に成り行きに任せ
ておくと、思考の癖の影響を受けながら、時間の経過とともに「考え」は自然に
変化するものです。
思考の癖は、自分で作ることができますから、ふだんから「いい癖」を作るよう
に心がけたほうがよいと思います。言うまでもありませんが、ここでいう「いい癖」
というのは、自分が幸せになるような「考え方」のことです。
同様に、今の感じや考えもそう永くは続かないものです。時間の経過とともに
どんどん変わっていきます。刺激を変えればすぐ新しい感情が生まれてきますし、
周囲の状況が変われば、意識も自然に変わっていくことになります。要するに、
人はそのときどきの状況に応じて、素直に柔軟に対応できれば、幸せに生きら
れるのではないかと思います。
私は、「ありのままの事実を素直に認めて生きる」ことは、「当たり前で平凡に生
きる」ことだと思っています。そして最近は「当たり前で平凡に生きる」ことが最高
な生き方ではないかと考えるようになりました。それは、「存在すること自体に最
高の価値を認める」考え方から生じたものであると思いますが、朝目覚めたとき、
今日も生かしてもらっていることに感謝して、その日のスタートを切ることにしてい
ます。そういう意味で、私の生活は原則として一日単位になっていて、毎日記録
を更新している感じです。それを別の言葉で表現すれば「いつでも感謝して死
ぬことができる」ということです。そうなれば、人は一日ごとに人生を楽しめるよう
になるのではないかと思います。
基本的には前にも述べたとおり、できるだけ是非善悪の評価をしないで、しかも
過去のことや自分を含めた他のことと関係づけないで、目の前の事実に素直に
従う態度で生きていますが、実際にそういう生き方をするようになりますと、とても
楽に生きられますし、自分なりに與生を楽しむことができるものです。私はそれを
「当たり前で平凡な生き方」だと思っています。
以前の私は、そういう生き方がしたくてもできなかったのですが、いつの頃からか
できるようになりました。そのきっかけを作ってくれたのは、神経症という嫌な事実
を、やむを得ず受け入れた経験が基になっているのは間違いないと思います。で
すから今は、あれほど嫌っていた神経症に対して、逆に感謝しているのであります。
「足るを知る」ということは、過不足のない現象のなかに満足を見つけることでは
ないのでしょうか。そのためには「ものごとをありのままに認める素直さ」というもの
がどうしても必要になってくると思われます。
相手の立場になって考える
対人関係で悩んでいる人の特徴は、「人によく思われたい」という欲望が強いこと
ですが、それをよく自覚して、その欲望を具体的に実現するべく日々努力している
人は意外に少ないものだと思います。そういう人にありがちなことの一つに、人前
で「かっこよくする」傾向のあることです。そういう場合は、たいてい自分のことばか
り考えていて、その結果、相手がどういう思いをするかについては、ほとんど考え
ていないところに問題があると思われます。
自分がかっこよくすれば、すなわち非凡にふるまえば、相手は負けたような気持
ちになって快くないものです。もっとはっきりいえば、相手に劣等感をもたせること
になるわけです。
逆に、自分がかっこよくしなければ、すなわち平凡にふるまえば、相手は自分の
ほうがまだましだと思ったり、自分と同じだと思って快く思うものです。つまりこの場
合は、相手に優越感を持たせることになるわけです。
このように、かっこよくすれば自分もきついし、相手にも不愉快な思いをさせるの
に対して、かっこよくしなければ、少し恥ずかしいけれども自分も楽だし、相手にも
快い思いをさせることになって、両方ともいいわけです。このように、相手の気持ち
まで考えることができれば、かっこよくする必要のないことがよくわかるのです。
人とつきあったり、会合に出る場合に、「かっこよくする必要はない」「ありのまま
の自分でいいんだ」と思えればとても気軽になり、人に会うのが楽しくなるものです。
「生かされて」生きる
私たちは、ともすれば自分独りで生きていると考えがちです。自分を救うものは
自分以外にないと思っている人は、結構多いのではないかと思います。たしかに、
人間にはそういう側面があると思いますし、その点を否定するものではありません。
が、よく考えてみますと、現実はそんなものではないようです。ごく身近なことで、
何かをする場合を考えてみても、厳密な意味で、他のものの助けなしにできるも
のが一つでもあるでしょうか。
私は「他のもののおかげ」を「他力」と言い、自分独りでできることを「自力」と言っ
ていますが、実際にこの世の中は、他力の支えがなければ自力を発揮することは
できないようになっていると思います。
森田理論では「努力即幸福」と言って、努力すること自体が幸福なんだと強調し
ています。私はそのことを否定するものではありませんが、私たちが努力するこ
とができるのは、いろんな他力の支えがあつて初めてできることで、まったく自分
独りの力でできるものではないと思っています。それは生きていること自体が、
他力の恩恵なしには成立しないのと同じです。
自力の世界から出てくる言葉は「自分で生きる」というものになり、すべて自分
で背負い込んだ、重たいものになってきますが、他力と自力が支え合う世界から
出てくる言葉は、「生かされて生きる」というものになり、自分を超えた大きな力
や他者に助けられて生きている、といった「おおらか」なものになります。私は後
者のほうが、より現実に即した真実な言葉であると思っていますが、いかがでし
ょうか。これは、ありのままの事実を素直に認めることによって得られる認識では
ないかと思うのです。
以上、「素直」ということについて私見を述べましたが、私たちは何ごとにも「と
らわれてはいけない」わけですから、たとえ「素直」であっても、それにとらわれ
てはいけません。日頃は素直に生きていても、必要なときにはいつでも頑固に
なれるというように、時と場合に応じて、それらを自由自在に使いこなせる人間
になることが望まれているわけです。私は自分が未熟者ですから、今後どれだ
け素直になれるかを生涯の課題にしているものですが、それが森田理論の主
要な側面でもあると考えています。それが良いのか悪いのかはわかりませんが、
そのことが、森田先生の言われた「純な心」に、少しでも近づくことになれば幸
いです。
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