第93回 女性の為の札幌・五巻を読む会 2023.7.20

森田正馬全集第5巻385頁形外会・第35回例会    昭和872日から

この事について、繰り言を

いった事がなかったのであります。これが達磨(だるま)の「(その)(まえ)(はか)らず」と

いう事ではあるまいかと思う。

 香取さんも、17歳のお嬢さんを亡くし、僕も20歳の一人子を亡

くした。僕も悲しみのあまり慟哭(どうこく)した。こんな悲しい事はない。絶対

です。ただそれきりです。どうする事もできない。その後も思い出す

たびに、最大限の悲しみがある。ただそれだけであって、僕には繰り

言もなければ、この心持ちを否定したり・曲げたりする事は毛頭(もうとう)ない。

「ああ苦しい。どうすればよかろう」とか、あきらめよう・思い開こ

う・気を(まぎ)らせようとかいう事は、全く考えないのである。僕のこの

心境は「正一郎の思出」の中に書いている事で、おわかりになる事

と思います。

 次に金がなくなったから働かなければならぬ。これが将来に対する

欲望である。苦しくても我慢しなければしかたがない。それきりであ

る。それで僕は身体が弱いから、こののち、半年の命があるか、それ

とも5年7年と生き延びるか、そんな事は全くわからない。それと関

連して、働く事も少しも見積もりはつかない。しかもこれだけすれば

借金が払える、これだけすれば貯金ができるとか空想しながら、これ

を少しも当てにしないで、その日その日の現在を働いている。すなわ

ち未来をあこがれてあわてふためき、身のほどを忘れて無理をする、

という事もないつもりである。

  煩悶(はんもん)強迫(きょうはく)観念(かんねん)も消失する

 なお「(ねん)(ねん)(みち)に帰す」とは、僕は高い診察料を取る患者の診察をし

ても、ごみ(、、)わら(、、)などまでも捨てずに整理して、風呂(ふろ)焚き(たき)をする時

も、この無報酬の原稿を書いても、常に最善・全力を尽くしてやって

いる。仕事も遊び事も、僕には同じ熱心さである。とくに自分なが

ら、おかしいのは、将棋をさす時に、負けたら・悔しがり、勝ったら

喜ぶ。4、5番もやって後には、いく番やって、なん度勝ったとかい

う事は、少しも覚えていられない事である。ただ現在になるばかりで

ある。したがってその(かち)(ほこ)りも、負けの(うら)みも、少しもその後に残

らないのである。言葉の上の説明では、宗教家のいう事とは全く違っ

て、その専門家からは、もとより非難されるであろうけれども、ただ           1

僕の体験と自覚とから、このように考えるだけであります。               

 なお「現在にある」という事にはついて、皆さんに御注意したい事

は、金をなくした残念と、働かなくてはならぬという本意(ほい)なさとを、

全く別べつに感じ考えて、これを差引勘定しない事であります。例え

ば、前に人から損失をかけられた事から、今度別の人から、金を取り

引きする時に、詐欺(さぎ)してやろうという風に、前の事と関係をつけない

ようにするようなものです。働いて苦しくなると、前に金をなくした

事が残念である。しかし、それは自分がいま20歳くらいならばよか

ろうにとか、冬寒い時に、今が夏であればよいのに、とかいうのと同

様で、全く関係のないものであるという事を、多くの人は気がつかな

いのである。

 以上述べたように、我々は残念はそのまま残念になりきり、働きた

いという欲望は、そのままその欲望になりきり、いたずらにその両方

を無理な関係をつけて、こんがらかしたり、人情自然の事を、強いて

否定したり・抑圧(よくあつ)したりする事をやめさえすれば、香取さんのいうよ

うな悩みや煩悶(はんもん)はなくなり、強迫観念も雲散(うんさん)して、我々生命のエネル

ギーが、最善の活動をするようになり、いわゆる「(ねん)(ねん)(みち)に帰す」と

いう事の、人道をはずれ(、、、)ないような事にもなるのであります。

十円紙幣が風に吹き飛んでいる

 早川氏 欲望と恐怖との葛藤(かっとう)があるのが、仕事であって、その葛藤

のないのが、遊び事ではないでしょうか。

 森田先生 ここでは、そんな屁理屈(へりくつ)は、一番面白くない。そんな定

義は、少しも当てにならない。理論の稽古(けいこ)にはなるが、少しも実行に

導き・修養になるという訳に行かない。

 仕事と遊び事・義務と道楽という事については、私の『恋愛の心

理』の本の内に書いてある。

 禅では、仕事に熱中する事を、遊戯(ゆうげ)三昧(さんまい)といってある。三昧とは、

「なりきっている」という事であろうと思う。私はこれを「物そのも

のになる」という。診察をすれば、なんとか適切に治したい。風呂()

きをすれば、ごみをうまく整理して上手に焚き、一同に(とどこお)りなく風呂

に入らせたいと思い、この原稿を書けば、なるたけ人に読みやすく、

理解しやすく(ただ)ちに有効になるようにと、一心不乱(いっしんふらん)になる。これが(ざん)

(まい)である。子供が砂いじり(、、、)をしたり、積み木をしたりする心持と同様

である。

 これに反して、自分はこれだけの月給を取っているから、それ相当

の勤務をしなければならん、「一月(ひとつき)働かなければ一月(ひとつき)食わず」という           2

から、風呂焚きもしなければならん、人に頼まれた事は、これを(いと)う           

ようでは、義務が立たない、男らしくないとかいうのが、仕事であり

義務である。

「世の中に我というもの捨てて見よ、天地(てんち)万物(ばんぶつ)すべて我物(わがもの)」という歌

がある。この「我を捨てる」という事は、人が思い違いやすいし、ま

た実は不可能でもある。それ(ゆえ)に私は、

「何事もそのものになってみよ、天地万物すべて我物」という風に、

いい換えて見たのである。

 いま、十円紙幣(しへい)が、風に吹き飛んでいる。ハッと思って、つかまえ

てくる。その時に「物そのものになっている」。これに反して、その飛

んでいるのをみて、アレは誰のであろう。自分のは、ガマ口の中に入

れたから、飛ぶはずはないとか考えていれば、それは「人の物」であ

る。あるいは幼児が、井戸のそばへ()いかかっている。驚いて裸足で

飛び出して、これを抱きあげる。これが「物そのものになる」であ

る。アレはどこの子かしらん、子供1人くらいは、どうでもよかろう

と思えば「人の子」である。町の大掃除のところを通れば、風呂の燃

料が沢山に捨てられてある。これを利用すればよかろうにとか、ある

いは青物市場には、貧民が沢山に生活しうるくらいの、食料が捨てら

れてある、()しい事だとか、すべて物そのものの気持ちになれば、決し

て自他の(へだ)てなしに、すべてが我物を大事にする心持と、同様になっ

てしまうのである。

  (ふん)を見て虫を見つける

 水谷氏 今日、先生がお庭でバラの木の葉に、小さい虫の糞が沢山

にあるのを()されて、これを見つけると、虫のいる事がわかるといわ

れる。なるほど、よく見ると、その上の方の葉に小さい青虫が、一杯

たかっている。虫は保護色のために、容易(ようい)に見つける事はできない

が、糞は黒いから、すぐ見付(みつ)かるのである。

 先生はこのとき患者たちに説明された。先生から、こんな事を指摘(してき)

せられて、たちまち「ハハアなるほど・面白い事だ」と感ずる人は、

上等で、知識は「日に新たに、また日々に新たに」進歩するようにな

る。あるいは一方には、「今日は1つよい事を覚えた。書きつけて置

かなくてはならない」とかいうのは、下等(かとう)であって、習った事よりほ

かの事は、何もできない人で、十を聞いて一しか働きのない人であ

る。また他の人は「アア自分は、こんな事にも気がつかない。もっと

注意を働かすようにしなければならぬ」、とかいうのが最下(さいか)(とう)で「(あく)()」であり、心は内向的で、  3