第92回 女性の為の札幌・五巻を読む会 2023.6.15
森田正馬全集第5巻378頁形外会・第35回例会 昭和8年7月2日から
例えばつまずいてたおれる
と、2階から落ちてもしかたがないのに、軽い怪我で有難いと感謝
し、人にたたかれて痛ければ、痛みのあるのは、麻痺でなくて幸福で
あるとか、十日も病気して死ねば、即死でなくてよかった、とかいう
風に感謝する。(笑声しきり)
感謝も喜びも自分の力量の発揮
哲学には、厭世観とか楽天観とかいうものがあるが、みなおのおのそ
の哲学者の自分の気質から割出した人生の一方面の観察であって、一
歩誤れば理屈の遊戯になるのである。「事実唯心」ということから、人
生の全体を見れば、そんな自分の都合のよいような理屈は、用に立た
ないのである。
さて、賀川さんの感謝・神経質の苦痛・香取さんの楽に能率をあげ
たいということは、みな同一の事柄です。つまり香取さんは、絶えず
気がもめてハラハラするという喜びであり、賀川さんは、有難い有難
いというハラハラであります。
僕は、今日、6人の患者で、続けざまに、5時間しゃべった。そし
て、またこの形外会で、しゃべらなければならない。これが僕の感謝
であり、同時にハラハラであって、同一の事柄であります。
形外会では、かくの如く、大勢が来て、僕も気がもめて、その日は
食が進まない。このうるさい事が、同時に感謝です。皆さんが僕を慕
って、集まって下され、僕に気をもませてくれるという事は、有難い
事でなくて、なんでありましょう。誰も来てくれる人はなくウツラウ
ツラと昼寝でもしていれば、どうして感謝の生活がありましょう。低
級の思想の人は、無為を安楽というかもしれんが、これは僕の絶対臥
褥療法で「寝るほど苦しいものはない」という体験で、思い半ばに
過ぐるものがあります。 思い半ばに過ぐるもの :考えてみて思い当たることが多い。
賀川さんは、至るところひっぱりだこで、大講演に暇がない。すな
わちいつも大感謝であり、私は少人数の人から喜ばれる。すなわち小感
謝がある訳である。
その一面を見て、うるさい・気がもめる・もっと楽にできないかと
いうのが、香取さんの考え方である。実は賀川さんも・香取さんも・
僕も同一のもので、ただ少々その大小が違うだけであります。
人間の喜びも感謝で、みな自分の力量の発揮であって、決して酔世 1
夢死が安楽ではないのであります。
働くと安楽と、どっちが命を延ばすか
香取氏 武藤さんの話に、ある百万円もうけた人が、ホテルに泊
ったところ、丁度隣室に、千万円もうけた人が泊った。自分はこん
なに嬉しいから千万円の人は、どんなに喜んでいるだろうと、鍵穴か
らのぞいたら、案に相違して苦悶していたという。こんなのは、どう
ですかね。
森田先生 それは「欲の袋に底がない」という事の喩で、別に難し
い説明はいらない。
話は違うが、僕は前から、東電の株を持っていて、これで生活が安
定するかと思って、安心していた。それがしだいに配当がなくなって
しまって、生活費の出どころがなくなった。それで世の中は、安心の
できないものだ、残念な事をしたと、それっきりで、その後べつに悔ん
だりする事はない。
香取氏 偉いものですね、我々ならば、煩悶即幸福とは、決してい
かない。煩悶のところで、止まってしまう。
森田先生 なくなったのはなくなったのであるから、それきりなん
ともしかたがない。生活費がなくなったから、これから自分が病気で
働けなくなった時の準備と、自分の死んだ後に残る家族の生活のため
の資本金を働いておかなければならぬ。すなわち、気楽に熱海で静養
する事ができなくなったまでの事である。なお、僕が現在静養する事
と働く事とは、どっちが生命を延ばすに、よき条件になるかという事
は、今日の医学などでは、なかなかわからない事である。ただ働く事
が、まだ丈夫で、田舎の家で、田地の貢物をまけるとか、まけないと
かいって盛んに欲張って、働いています。楽隠居になれば、こんなに
長生きはできなかろうと思います。
香取氏 熱海で楽に静養できない。そこが普通人の悩みどころか
と思います。寒い時も東京にいて、働かねばならん、あんな事がなか
ったら、こんな事はなかろうにと煩悶する。これが人情ではないでし
ょうか。
思おうとする心と思うまいとする心の葛藤が煩悶である
森田先生 物事を言葉で詮索し、解釈しようと思う時には、どうし
てもその言葉の意味、すなわち「煩悶とは何ぞ」とかいう事を、ま
ず、つきつめてかからなければなりません。「金がなくなった。」「働 2
かなくちゃならん」そんな事は煩悶とはいわない。煩悶とは心の葛
藤です。欲望と恐怖との拮抗闘争です。「金がなくなった。残念な事
をした」とか「働かなくちゃならん。苦しい事だ」とかは、そのまま
であれば葛藤ではない。「あの時に、あんな事をしなかったらよかっ
た。もしああしてあったら、こんな苦しい目にあわなかったろうに」
とかいうのは、どうにもならぬ、過ぎ去った事をいたずらにかこつだ
けで、こんな事を繰り言という。ただこんな事をくり返し・思い出
し・口走るたびに、これに関連した悔しい残念な事柄ばかりを思い出
して、苦しい思いが、募るばかりである。ここまでは、まだ闘争では
なく、葛藤ではない。この繰り言は果てしがなくて、心が滞り煩累を 煩累:物事にわずらわされること。
感ずるから、ついにはこれを思い捨てて、あきらめるようにと、その
方には思おうとする心と、他方には思うまいとする心との葛藤が起こ
る。これが煩悶である。強迫観念の原理も全くこれと同様である。
我々は、苦しい事を苦しいと思い、残念な事を残念と思うのは、自
然人情の事実であるから、腹がへった時に、食べたいと思うと同様
に、これをどうする事もできない。これをそうでなくしようとするか
ら、全く不可能の事で、あせればあせるほど、いたずらに奔命に疲れ 奔命:忙しく立ち働くこと。
るばかりである。これが煩悶であり・強迫観念であるのである。
達磨大師の仏性論
僕の『根治法』の中に、達磨大師の仏性論という事がある。「故に
至人は、その前を謀らず、その後を慮らず、念念道に帰す」という事至人:十分に道を修めて、その極致に達した人。
がある。その文字に拘泥したら、なかなか解釈は難しいが、至人、す
なわち達人で・悟った人は、金をなくしたとかいって、以前の事の繰
り言をいったり、「来年の事をいうと鬼が笑う」というように、当て
にもならぬ未来の事を空想するような事をしない。ただ念念道に帰し
て、その時どきの現在に対して、全力を尽くすというくらいの事であ
ろうと思うのである。この「現在にある」という事が、ちょっと言葉
や屁理屈ではわからない。ただ体験するよりほかに会得はできない。
株式が没落して、僕の生活費がなくなった。もとより残念でたまらな
い。誰でも人情ですから、同様です。ただ残念だったと、それきりで
す。昔、僕の父が、石井借銭王の商業銀行で大金を損をした事があ
る。この商業銀行は、利子が少々高いために、他の銀行から、9千円
の金を引き出して、この商業銀行に預け換えたのである。ところが、
思いがけなくその翌月支払い停止になった。僕の妻が、この事を知っ
て、残念がって父に報告したとき、父はただ「しまった。先手を打た
れたな」といったきり、その後も一度も、この事について、繰り言をいった事がなかったのであります。 3