第91回 女性の為の札幌・五巻を読む会 2023.5.18

森田正馬全集第5380頁形外会・第35回例会   昭和872日から

これは治ら

ぬ、これは幾ヵ月(いくかげつ)くらいで死ねる、とかいう事を明瞭(めいりょう)にいう事ができ

る。

 しだいに年をとり・経験が()むに(したが)って、診断が軽々(けいけい)にできなくな

る。それは多くの例外に当たった経験から、診断に(まよ)いができる事

と、患者に対する同情(どうじょう)から、悪い場合の予後(よご)が、簡単にいえなくなる

事とである。

 医者の中には、時どき自分が「この病気は、まもなく死ぬる」と診

断して、その患者が治った時には、自分の診断が当たらなかった事を

残念がる事さえもある。それが老練(ろうれん)になると、自分の診断の当たらな

かった事を、患者とともに喜ぶようになるのである。

 私共も、自分の子供が亡くなって(のち)は、患者に対する同情(どうじょう)が深くな

って、治らぬ病気や死ぬるものも、これをありのままにいう事ができ

なくなった。病症(びょうしょう)のよい方面ばかりを見付けて、なんとかして治るよ

うに、死なないようにと、いつまでも欲目(よくめ)で見るようになる、診断や

予後(よご)不明瞭(ふめいりょう)になってきた。すなわち医者という単なる職業や、学問

でなくて、我身(わがみ)になって考えるという人間味ができたのである。

  我々は食欲(しょくよく)増進(ぞうしん)()(かん)しないと同じく、欲望(よくぼう)発展(はってん)

歓喜(かんき)する

 次に香取さんの欲張り方についてお話します。実際は香取さんは、

普通の人の3人前くらいの仕事をしています。それでいて、仕事がで

きない、できないとこぼしている。これもやはり自我(じが)主張(しゅちょう)して、自

分ばかりが苦しいと考えて、人を思いやらぬという事の結果でありま

す。

 私共も香取さんと同様に、いつも欲張って・あせってばかりおりま

す。香取さんばかりにかぎった事ではない。とくにここで全治(ぜんち)した(せい)

(せき)のよい人は、山野井君でも・井上君でも・誰でも、みな欲張(よくば)一杯(いっぱい)

になっています。私は今日は、思いがけなく患者が多くて、今朝6人

の診察をしましたが、これは単に行きがかりの事で、これだけでは、

なんだか仕事をしたような気がしない。例えば原稿(げんこう)を書くとか、自分

思惑(おもわく)で予定の行動をしないと気持ちがよくない。時どき古閑(こが)君などに

も「今日は何も勉強しなかった」とこぼして、笑われる事もある。こ

んな事もみな、香取さんなどと同じ心持(こころもち)である。なお私は身体が弱           1

く・年はとっているが、それでも四角(しかく)八面(はちめん)に欲張る事を、やめない。く

たぶれて横になる。それが読書の時間である。夜中でも、目が覚めた

ら、本を読む。その時一番いや(‘‘)なのは、目がまぶしくて・ショボショ

ボと痛む事です。本が面白いと、時には眼を片方ずつ休めて、交替(こうたい)

目をつぶって読むような事もある。少しく功利的(こうりてき)に考えてみると、()

い先の短い年で、やたらに知識を(たくわ)え込んでも、あの世へ持って行く

ばかりで、しかたのないはずである。しかるになお深く、自分自身を

観察してみると、我々が死ぬるまで、食う事をやめないのと同様であ

る。知識欲も食欲もともに、我々の本来の性情(せいじょう)であるからである。

 我々は、人がすし(‘‘)を食べていると、それが欲しくなり、羊羹(ようかん)を見れ

ば、またそれが食べたい。あれもこれもと食欲が(さか)んである時に、(みずか)

活気(かっき)を感じ、楽天的になる。食欲が進んで(こま)るとかいってこぼす人

滅多(めった)にない。これに反して、食欲がなくなるとなんとなく心細くて

悲観(ひかん)するようになる。

 香取さんや我々は、知識欲や仕事欲や、あれもしたいこれも手を出

したい、と限りない欲望に()ちている。つまりこの希望の心が、我々

光明(こうみょう)であり元気である。食欲を悲観(ひかん)しないと同様に、我々はただこ

の欲望を歓喜(かんき)するだけのものであります。

  迷信(めいしん)療法(りょうほう)馬鹿(ばか)げているほど信者が多い 

 香取氏 我々でも、西式(にししき)などに(まよ)う事があるが、こんな事は、先生

断定(だんてい)してもらえれば、(もっと)も便利です。

 森田先生 ルボンの群集心理(ぐんしゅうしんり)迷信(めいしん)馬鹿(ばか)げていればいるほど、(ぐん)

(しゅう)信念(しんねん)が強くなるという事があるが、矛盾(むじゅん)のようであって事実であ

る。天理教(てんりきょう)やそのほかの宗教(しゅうきょう)でも、道理(どうり)(ちょう)(えつ)しているほど、その信

者が多い。西式(にししき)のような通俗(つうぞく)療法(りょうほう)でも皆その通りである。

 西式(にししき)でとくに面白いのは、その一番馬鹿(ばか)げて・間違ったところを、

多くの人が感服(かんぷく)するという事である。あの(ねこ)(ほっ)かむりのをさせて、

背中をたたきつける実験や、金魚(きんぎょ)の説などがその例である。みな科学

的実験の真似(まね)をした独断説(どくだんせつ)というにとどまる。常識(じょうしき)をもって、少し(くわ)

しく吟味(ぎんみ)すると、ある事実から一足(いっそく)()びに、空想(くうそう)的の結論(けつろん)ができてい

るという事がわかるはずである。

 実際において、迷信(めいしん)療法(りょうほう)の一番いけない事は、治療に大胆(だいたん)で、思い

切った事をやり、医者にかかってはいけないとかいう事である。そこ

随分(ずいぶん)いろいろの危険があるのである。医学でも、その弊害(へいがい)の点ばか

りを指摘(してき)して攻撃(こうげき)すれば、勿論(もちろん)いろいろの間違いはある。それは電車

や自動車が、人を()き殺すようなものである。医者でも、とくに近来(きんらい)          2

は、人格の低い医者が、全く無意味な・馬鹿(ばか)げた注射(ちゅうしゃ)などを、やたら

にやって、注射料(ちゅうしゃりょう)を取るものがある。

  苦痛(くつう)安楽(あんらく)とは一つの事柄(ことがら)

 香取氏 私は先生のところで修養したが、もう一段高い修養をすれ

ば、楽に仕事ができるようになるかと思い、多くの高僧(こうそう)・知識の門を

もたたいた。賀川先生のところに行けば、賀川先生は、人と対坐(たいざ)して

も、いつも感謝の念に(あふ)れているといわれる。先生は大変不自由な眼

で、(かく)大鏡(だいきょう)を使わないと、字が読めない。書物は人に読ませ、原稿(げんこう)

口授(こうじゅ)して書かせる。それであれだけの仕事をなさる。(えら)いものです。

 あるとき、私が行った時のお話に、翌日までに千円の工面(くめん)ができね

ば、神戸の方の会がつぶれるという事になって困っていたところに、

(おり)よく某氏(ぼうし)がやってきて、その話をしたところが、早速(さっそく)その千円を出

してくれる事になった。こんな事はみな神様のお(かげ)であると、感謝さ

れるのです。

 森田先生 感謝とかいう語は、みな相対的(そうたいてき)なもので、(うら)むとか(のろ)

とかいう事と対立したものです。希望と恐怖・苦痛と安楽(あんらく)とかいう語

も、みな同様であります。1円を得たという事と、1円だけ働いたと

いう事とは、同一事件の表裏(おもてうら)・両方面です。その得たのを喜びとい

い、働いたのを苦痛というのは、単にその一面を取り立てて高唱(こうしょう)し、

注意を(うなが)すというにとどまり、実は必ず同時に、その両面が切っても

切れぬように、接続(せつぞく)連関(れんかん)しているのであります。

 賀川さんが感謝と名付けるものは、実は香取さんがもっともっと仕

事をしたいと、じれったがる心や、僕があれもこれもと、気のもめる

心やの反面であり、同一の事柄(ことがら)である。働くというあせり(‘‘‘)には、必ず

出来上がりの喜びと楽しみとがある。ただその一面のみを見てはいけ

ない。

 賀川さんが、千円を恵まれたという感謝は、自分が人びとのため

に、千円を犠牲(ぎせい)にしたという事の困難の反面である。すなわちその千

円の支出と収入とは、差し引き(ぜろ)になるはずである。僕などはただ事

実をありのままに見るだけで、()いて苦難(くなん)とか・感謝とかいう事を(こう)

(しょう)しないで、ただ「人は、常にその全体を見逃(みのが)すな・認識不足になる

な・事実(じじつ)(ゆい)(しん)である」という事を高唱(こうしょう)するのである。この感謝という

事は、宗教(しゅうきょう)生活には、欠くべからざる条件である。それは、科学者が

事実(じじつ)(ゆい)(しん)」という事を、最も大切な事とすると同様である。とくに

キリスト教や真宗(しんしゅう)に、この感謝という事が著明(ちょめい)であって、日常、その

感謝の仕方を工夫し、練習するのである。例えばつまずいて倒れる2階から落ちても     3