第23回 形外会 昭和7年6月12日 全集第五巻 233頁
熱 海 旅 行
7月のわが形外会は、熱海に1泊旅行を行なった。昨年の湯ケ
原行が、予想外に面白かったので、再びどこか旅行をと希望す
る会員が、多かったのであるが、なにぶん、費用がかかる事ゆ
え、どうかと心配された。幸いにも、最近先生が経営せられ
る温泉旅館があり、先生の御好意で、破格の勉強をしていただ
き、かつ沢山の御寄付も下さったので、極めて、安い会費で行
けたのである。
一行は、先生御夫妻のほか、荒木幹事、以下17名。9日(土)午
後1時25分、東京駅発。入院中の方が多かった故か、車中あまり
話が弾まぬ。先生はよく「わかる人でなければ面白くないから、話す
気になれぬ」といわれる。一般に治った者ほど、先生に接近する。逆
に先生に接近する者ほど、治り方も早いのである。汽車の座席につく
にも、なるべく先生のお目の届かぬ所を選ばんとする。これでは、先
生も、お話になる張り合いがないというものである。先生のおそば
は、混雑して、幹事が遠慮するくらいにやって欲しい。
私は形外会の一会員として、参加することのできるのを喜ぶ者であ
る。師と弟子である。師は一生を我等の指導に尽くされておられ
る。弟子は、概ねかつて一度は、死をも思いつめた人たちである。
我々グループに対する車中の人たちの考えを想像すると、なかなか
面白い。私共も今夜は、温泉に浸って泊まるのかと思うと、自ら朗ら
かになってくる。
熱海の伊勢屋で
宿の伊勢屋では、会員の浦山氏と、支配人格の井上氏とが、珍客御
入来とばかり、歓迎してくれた。場所は熱海銀座と呼ばれる大通り
が、海岸に突き当たる。すぐ左側で、海とは道一つの所にある。河原
の湯伊勢屋といって、古くから有名だった家。今年暮れまでには、
宏壮な新館が出来上がる由。しかも会員は勿論、本誌読者には、宿泊
料その他、勉強とのこと。先生はますます御多忙である。宿に着くな
り、浴衣に着替え、先生につれられ、大湯というに行く。昔、世界に
有名であった、間欠泉のあったところであるが、大正12年の大震災
のとき破壊して、蒸気を吹き上げる事のなくなったものである。浴槽
は三間に八間の大プールにて、一同子供のように喜ぶ。なかには抜き
手を切って、遊泳を試みるものもある。水谷君などは、なかなかうま
いものである。宿に帰って、一同くつろぐ。先生は私共を眺められ、
微笑まれつつなかなか盛会です。僕は骨を折って、皆さんを子供の 1
ように、こうして世話をやくのが楽しみである。君たちも僕と一緒で
は、随分窮屈だろうに、こうして我慢してやって来るところが面白
い。そこになんともいわれぬ心の結びつきがある。とかいわれる。
先生は将棋が、お好きである。なかなかお強く、小野寺氏そのほか
がたちまち、引き下がる。
にぎやかな夕食の後、余興を始めた。向かい合った二組に分かれ、鉢
巻をして、これを順々にやるリレー・レースをやる。先生も奥様も御
一緒である。要領の好い人・悪い人、先生かならずしもお上手ではな
い。先生が失敗されると、ドッと大笑いになる。次は竹の箸で、碁石
をはさむリレー・レース。これには、器用・不器用が、ハッキリとわ
かり、人によって、なかなかはさめない。その都度大騒ぎである。次
の人に急がれて、折角はさんだのを、落としてしまう始末、この点、
さすが奥様は、要領を直ちに会得され、その早きこと驚くばかりであ
る。奥様に引き換え、先生は極めて拙劣で、まず落第組である。
酒をのんだでなしに、極めて単純な遊びである。それが先生とともに
するときは、腹を抱える様に面白いことは、不思議である。
その後で、一同随意に散歩に出た。不断に涼しい風が吹いて、昼の
暑さは、忘れてしまう。海岸に立つと、白く寄せる波の音を聞く。海
岸も街も、散歩の客でなかなかにぎやかである。
初島見物
翌日は、舟を雇って、初島見物にでかけた。海は極めて静穏であ
る。浦山・井上両氏、それに旅館の芥川氏が案内に立ってくれた。前
夜、初島行きの有志を募ったとき、水谷君ほか2、3は、少し荒れて
も、行きたいと希望したが、大部分はごく静かならばという組だった。
先生もその静かな方の組であった。しかし芥川氏は「熱海では珍しい
凪の御座んす」と保証したので、先生も行かれる。残念なことは、奥
さんがお酔いになるため、行かれぬことだった。「残念だけどよそう」
と、おっしゃるので「思い切って、お出になったら」とおすすめする
と「皆さんに迷惑をかけますから」といわれ、中止された。「後で話
して聞かせてくださいよ。少しは嘘もいれていいから」と。私共の乗る
発動機船が、出るのを、ひとり見送られた。
船頭は熱海第一の美声の持ち主だという。なるほどともに座って、
歌う追分は、さびてゆかしい。初め船中で先生のお話を、伺いたい意
向だったが、発動機の音に声が消されて、だめだった。大体今度の旅
行は、先生のお話が少なかった。いつの会でも、先生のお話が、唯一
の目的の様に、思われる方が少なくない。しかし、話ではない。要は
先生の態度に接するにあると僕は思う。
初島までは、45分かかる。その間、芥川さんの持ってこられた 2
双眼鏡で代わるがわるのぞいた。同氏は熱海生まれの人で、だんだん
と視界に入り来る山や村やについて、話して下さる。熱海の一青年が、
その恋人である初島の娘に、夜々、灯で合図をすると、娘はいかな波
の荒い夜でも、盥に乗って、海上三里を男に会いに行くという伝説も、
この船の中で聞くと、ほんとに、そうした中に自分の身をおいた気持ち
になったことである。初島は、周囲一里弱、面積34町9反、戸数
41、人口約3百。それ以上は収容できない、共産島であるとの事
だった。私共の興味も、大部分そこにあった。
船着場のすぐそばにある和木神社の祭りが、丁度明日に迫ったとい
う日だったので、島の人は仕事を休み、風呂を沸かし、御馳走を作る
に、余念がなかった。神社の前には、祭りの旗のぼりが立てられ、立
派な神輿が引き出されていたりした。島人挙って仕事を休むために、
折角我々が楽しんだ昼飯に、トコブシを食べる事のできなかったのは
残念であった。島には椿の木が多く、他には見た事のないひと抱え以
上もある幹のもの多い。
村落は島の北西隅、熱海に対したところにある。その宅地は全部で
4反6畝で、これが大体平均に、41戸の宅地に分割されてある。
家は多少の変化のある事は勿論であるが大体において、間口6間、奥行
4間くらいである。
今から580年前、観応2年から文禄4年まで、245年間
は、戸数28であった。それは農業生活のため、多数人口の生活が
できなかったためである。次に島民が漁業に覚醒して、その後100年
間に40戸となり、またその後1戸を増して230年間を経て、
今日におよんでいる。その後は半農半漁の生活をして、安全な生活を
しているのである。人口は明治19年には、1戸平均6.6人であっ
たが、昭和2年には、平均7.7人の割合になっている。
この島の村落の位置は、風の方向に対して、最も悪いところにある
けれども、島の内で、飲料水の出るところは、この場所に限るので、
ここに住民が固定し、南東の最も気候のよいところには住む事ができ
なかったのである。自然の支配というものは、えらいものである。
村落の背後の高地は畑地になっている。それが15町2反2畝あ
り、また山林が18町6反ある。
畑地の所有割合は、昭和2年調べで、4ないし5反を所有するもの
が6戸、3ないし4反を所有するものが35戸である。その他に寺
領が5反あって、これは村民が共同で農作をしている。
我々は船頭の案内で、畑地を一巡して、寺の境内に出た。庭に大き
な蘇鉄がある。幾百年かたったものであろう。大幹が4本あって、横
に延びているのは、2間余りもあろう。珍しい花がついている。ここ 3
で蘇鉄をバックにして、熱海からついて来た写真屋が、我々の記念撮
影をした。
初島の共産制度
芥川氏の尽力で、島の古老・高橋氏のお宅に案内されて、島の風俗
や制度について、お話を聞き、先生の質問に対して、答えてくださった
のである。
住民は、動産・不動産ともに私有たる事は勿論で、ただ土地の売買
は昔からない。それもとくに規約を作って、そうあるのでなく、昔か
ら自然にそうなっているのである。
漁業は共営で、個人的にやる事は許されない。抜け駆けをする事は
できない。昔からの不文律であって、規則も制裁もないけれども、互
いに風俗・習慣に反した事をすれば、隣人、島民から憎まれ排斥され
はすまいかという良心が、自ら自然の制裁となっているのである。漁
業に関する漁具や設備は共有で、日と時とを定めて、一家から一人宛
出て、共同作業につく、明日は出漁と定まれば、一同に志気がふる
い、その日合図の法螺貝が鳴れば、我先にと競うて集合する。漁業に
よりて得たる収入は、維持費・経営費を差し引いた残りは、全部戸数
に平均に分配する。病気・入営等にて出漁のできぬ場合も、その分配
を受け、特別に働く者もこれに対して不平を持つという事はない。
住民は相続人以外の者は、他の地方へ出て職につくのであるが、こ
れも別に申し合わせはないが、生活の安定から、自然にこのようにな
る。土地や物の売買はなく、個人の企業等はないから、貧富の懸隔と
いうものもない。昔から飢饉もなければ、伝染病の襲来等もなかった
ようである。
血族結婚は、一般にない。近傍の地方のものと結婚するとの事で
ある。
村内には雑貨商が、昔から世襲で1戸あり、また菓子屋が1戸、1
年交代で、1年1回の総会で定め、その収益は年々数名の青年を選
び、伊勢参宮、その他一定の神社参拝の費用に供するとの事である。
白痴や精神病も昔から、あった事を知らないとの事である。病人の
ある時は、昨年から初めて、熱海から医者を呼ぶ事になったが、ちょ
っと診断して薬を指図して帰るだけであるから、病の変化に応ずる事
もできず、詳しい事のわかるはずもないから、治るものは治るし、死
ぬるものは死ぬる。昔から医者のこなかった時と、結果は同様である
との事である。
以上の事を、先生の質問によって、こまごまと説明を聞く事ができ
たので、今度の旅行の思いがけなき大収穫であったのである。
午後1時ごろ、厚く謝して別れを告げた。ここでちょっと書きたい 4
と思うのは、その家の主人に対する先生の挨拶のしぶりに、処女の如
きはにかみがあり、非常に謙虚であったということである。私の常に
接する先生は、たいてい患者か弟子たちに対していられる。こうした
場合は、私は初めてである。
赤根の海魚
直ちに、もとの船で赤根に向かう。熱海から約一里の所にあり、海に
洗われて岩の部分が、赤色がかっているためその名がある。船の着く
所に、海水を取り入れた池があって、鯛やヒラメやイワシが沢山放っ
てあり、釣堀になっている。私共には泳ぐ海魚が珍しい。川の鯰に似
た3尺ばかりもあるグロの奴もいる。名を聞かされたけれど今はもう
忘れてしまった。茶店で昼食をとる。一同腹がへって、宿でこしらえ
てくれた沢山の握り飯を、平らげ尽してやむなく腹の虫を押える始
末、先生も大分食欲がお進みとみえ、近頃にないほど、召し上がられ
た。
赤根からはまた船で、海岸に近く、錦浦を通って熱海に着いた。宿
で小憩の後、5時半の汽車で帰途につく、駅まで浦山・井上・芥川の
3氏が見送って下さった。
今度の旅行では、旅館がいかにも親しみ深く、自分の旅館という様
な感じがしたのである。
来る時に比べて、帰りは寂しい。小田原では杉山氏が下り、水谷君
も帰郷のため、途中で別れたのである。
先生は、小さい活字の書物を拡げておられた。前夜床へ入られて
も、しばらくは読んでおられたのである。
(山野井房一郎・記)
(『神経質』第3巻、第10号・昭和7年10月)
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