第21回 形外会 昭和7年5月15日 第21回 形外会 1-1 全集第五巻 216頁
森田邸新築記念・兼 春期大会
森田邸新築落成祝いを兼ねて、春期形外会大会を久方ぶりに、森田
先生のお宅で開催した。
形外会員の人びとにとって、苦悩と喜びと、幾多の懐かしき思い出
を秘めた旧邸が姿を失ってから7ケ月、希望の新邸は出来上がった。お
互いに提携して、会の進展に、社会への発展に努めたいものである。
来賓、森田先生御夫妻、佐藤・古閑・長谷川・野村・香川の諸先
生。遠来の会友、黒川・浦山氏両等の出席は、一段と光彩を添えるも
のがあった。出席者は総数80余名に達したけれども、今度の新邸は、
は、これを容れて、なお余裕があったのである。
午後2時半開会、山野井副会長の挨拶ありて、直ちに余興に移る。
1.講談 「忠僕元助」 一竜斎貞鏡
2.落語 「本膳」 春日米丸
3.映画物語 「次郎長・三度笠」 福田秀粋
4.万才 小源太・桃竜
5.娘手踊
盛り沢山の出し物であった。中にも落語は大当たりで、しばしば一
座をドッと笑わせたのであった。第一部・余興を終わりて後、一同打
ちそろい、前の広場にて記念撮影をなす。その後、会員中にて、「職
業あて」「尻押し」等の余興に打ち興じ、5時半、晩餐につく。
6時半、例の如く、会員の自己紹介あり、のち再び会員の予定およ
び飛び入り余興に移る。
長唄 「紀文大尽」 浦山一哉氏
三味線 杵屋小六
浦山氏の長唄は、かつて神経質のため、神戸の某病院入院中、つれづ
れのままに稽古されたもので、神経質者は 「転んでもただは起きぬ」
というように、何かと手を出して、安閑としてはいないものである。
7時20分ごろ終わる。素人とは思われぬ、なかなか堂に入ったもの
である。
尺八独奏 「六段」 佐藤先生
次に先生の著、『神経衰弱及強迫観念の根治法』の内におなじみの
黒川大尉のお話。
「7年前入院いたしまして、60日くらい、御厄介になりました。私
の経歴は、熊本幼年学校・中央幼年学校・士官学校・大村連隊・陸軍
大学の経過をとっております。幼年学校3年の時に、発病しました。
7月の終わりの卒業試験に、大いに気合いをかけて、やったところ、神
経衰弱になって苦惨をなめました。両親にも、悲観した手紙を出しま 1
したが、成績は案外によくできました。私は新しい人の間に入ると、
恐ろしかったのです。中央幼年学校に入校した時は、非常に怖くあり
ました。私はこんどは三百人と力を競うのだから、怖くて神経をいら
だたせましたが、第一学年の時は、相当の成績でありましたので、自
分も、そう馬鹿ではないなと安心しました。その後、卒業試験を受け
る前に、インフルエンザにかかって、肺炎になって、入院したので、
充分に勉強することができず苦悶しました。その後、一生懸命に勉強
したところ、神経衰弱がひどくなって、堪え切れぬ様に思われました。
そのため、紅療法をやったり、田中なんとかいう人の精神療法も受け
ましたが、激しくやると、それに正比例して、症状もひどくなった様
で、気が狂いはしないか、と思いました。卒業試験を受けた時は、本
当に気違いになりはせぬか、と思ったが、成績はよくありました。将
校になったら、自由がきくから、楽をして、治療に専念して治さんと思
っていたところ、下宿して、自由がきくに従って、なおひどくなった。
こんな具合では、陸大にも入れないと苦悩のあげく、もし今度治
らずんば軍人をやめるのみと思って、ここに、入院しました(註󠄀―大
正14年7月中頃)。幸いに全治して、8月終わりに退院しました。
退院しましてから、大正15年の春、陸軍幼年学校職員となり、昭和
4年陸大卒業、最近は伊勢の明野飛行学校へ3ヶ月、それから現在の
千葉の飛行学校に入っております。
退院後は、良きにつけ、悪しきにつけ、その日その日を感謝し、先
生を思うて、有難さの涌かない事はないのであります。以前の日記を
見ると、自己内省の事ばかり、多く書いていますが、この頃では、心
は外の方にばかり向く様になって、修養に関する記事等は少ないので
あります。社会問題・経済・時事問題を論じています。心が外向的に
なっているのであります。時には、頭の左半分がセメントで固めた様
になったり、胸が一杯につまって、苦しくなることは、今でもあるの
であります。これは徹夜を2,3回続けると、現れてきます。しか
し、現在では、アアまたきたなという程度に考えるだけで、第3者の
立場から見る事ができるのであります。それで、それ以上には成長せ
ず、消えてしまうのであります。無理にやり抜いたり、少し休んだり
すると、なくなるのであります。私はこのごろ勉強する時に、居眠り
をします。それがために、床に入ってしまうと、朝まで覚めないか
ら、机に寄りかかって寝て、覚めた時に本を読むという具合に、やる
事があります。そんな事を長く続けますと、以前の神経質の症状が現
われてくることがありますが、大きくならずに消えてしまいます。今
は、仕事の緩急に応じて必要な力を与えて行き、着眼点を定めてよく 2
さばき、まとめて行くのであります。今は学生の身分でありますが、
前と違って、ゆっくりと自分の思う通り研究していますので、胸のつ
まったりすることは少ない。今でも、時にふれて、必要な力が出ると
いう具合には行かない事もあり、喜んだり、悲しんだりする事があり
ますが、翌日の仕事にさしつかえることはなく、ドンドン仕事はやっ
て行けるのであります。
また、皆様も御存じでしょうが、あの爆弾3勇士の出で、下元旅団
長は、親しく存じておりまして、旅団長にあなたが今までに、最も
お感じになったお言葉を、書いてくださいとお願いしたところが、達磨
の絵を描いて下さって、それに賛して、 『得意冷然・失意泰然』と書
いて下さいました。旅団長でさえ、喜んだり、悲しんだりしておられ
ると思って、深く感じたのであります。
ここを卒業以来の、毎日の所感はそれでありますが、もう一つ、先
般、雑誌「神経質」に「軍隊教育と思想矯正」と云う文章を書いた事が
あります。あれは実在の人物ですが、その後、どうなったか、消息を
お話しいたしたいと存じます。その男は社会主義者で、世の中の富の
分配が不平等で、貧富の差がはなはだしいのが不平で、貧乏なものも幸
福な生活ができるように社会を立て直さなければならない、という考
えを抱いていたのでありますがまだその具体的な方法については、充
分考えていませんでした。ストライキに入ったり、無産党の応援演説
をやったりしていました。それを私が教育するのに、本人の持ってい
る特質をとらえて伸ばしてやる、という方針でやりました。すなわち、
人の不幸を哀れんで、これを救わんと尽す心、親孝行である、とい
う2点をとらえて、伸ばしてやったのであります。すなわち、どんど
ん人のために働かせ、また働けるように、地位を与えてやり、親とも
連絡をとって、指導したのであります。かくて、立派な兵になりまし
たが、これは、本人のもっている特質を伸ばし、口とりをやったに過
ぎぬのであります。この者は1年の終わりに成績優良で、伍長勤務・
上等兵になりました。
この者の父から「あの子は不遇で、いろいろ不満や苦痛の多い生活
を送ったが、軍隊に入って初めて楽しい生活を送ることができた、と
いっていました」とのことです。かくの如き立派な兵をつくったの
は、一に森田先生の御指導をうけたお陰によるものと、感謝いたして
おります。私は狭量の男で、妻が苦しむから結婚もできない、と思っ
ていたほどでありますから、先生の御指導を受けなければとてもそん
な指導はできなかったと思っております。
私の軍隊が出兵して私は残留しましたが、私がもし戦争に行ってい
たら、死んでいたかもしれません。神経質は、人前で恥ずかしい振舞 3
いがないようにありたいと思う心が強いから、部下の前では恥ずかし
いことはできぬ、それで死ぬのは最初が私であったろうと思います。
森田先生 黒川君は、去年お子さんができて、私が黒川大輔という
名前をつけてあげました。昔、結婚はできなかろうと心配されたとい
う人が、こんなおめでたい事になったのであります。そのお子さんの
写真もここにあります。
再び余興に移る。
森田先生の「土佐・木遣節」
「やはり私が余興をやったほうが、皆さんも元気がつくだろうと思
い、木遣節をやる事にします。
(絵図を示して)ここに古来エジプトのピラミッドやスフィンクス
に使った石をひいている行列の絵があります。そのそばに象形文字の
記録もあります。こんな風で、大石をひく時に歌う木遣節というもの
です。
僕が子供の時に、八幡様に献納する大石を行列でひくとき、歌った
歌の聞き覚えであります。およそ4、50年前の記憶で、歌もただ1
つしか知らない。また僕の歌は、いつも調子はずれで、佐藤君が、心
細がって嫌いますけれども、今日はしかたなしに、破れかぶれでやる
のであります。
木遣節を歌う男は、縞の羽織りを着ていたと思う。絹の股引をはい
ていたが、ここにはないから、家の小娘の長靴下を代用してやりま
す。それから八幡太郎義家の持つような5色の采配を持っていた。・・
・・・」
前口上よろしくあって、そのお姿は、これはまた平常の先生とは、
似ても似つかぬ珍妙さで、頭には赤木綿の頬かぶり、尻を端折り、縞
の羽織りを召し、手には、またなんと、ほこりハタキを持ち、股引に
白足袋よろしく、お立の姿は、梅の古木で、形は変でも品がある。
さては顔を挙げ、眼を細くし、あらん限りの声を張り上げて、
「五台山ヤマの北うらへ、タルミが来たぞ、ヤレコラサーノ
―、ウン。ヤレコラサーノ―、ウン」
(タミルという地名で、五台山の北方にあるが、方言タルムすなわ
ちユルム(弛緩)という意味にかけて、緩んで来たぞ、それではいけ
ない、しっかりやれ、という意味です)
歌とともに、ハタキを振りかざし、一歩一歩と調子を取りて進む様、
素晴らしい滑稽味であり、満場どよめき、拍手喝采、しばしば鳴りも
やまなかった。
勢を得て余興は意外のほうに発展
熊本及び鹿児島民謡 古閑 先生 4
東京行進曲 野村 先生
オケサ節 長谷川先生
諸国民謡5、6種 香川 先生
大島節 浦 山 氏
名優声色 入院患者総代 矢 野 氏
鼻琵琶 吉松 夫人
一中節 大野 夫人
マンドリン 田 原 氏
その他の飛び入りが次つぎと出て、時のたつのも忘れた。
酒のない簡単な会合で、かえって余興の盛んに発展するものである
という事を初めて知ったのである。9時過ぎ、山野井副会長の閉会の
辞をもって、思い思いに散会した。
(『神経質』第3巻、第8号・昭和7年8月) 5
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