第25回 形外会 昭和7年9月18日 第25回 形外会 全集第五巻 246頁
午後3時半開会。
来会者39名。野村・香川両先生、日高・山野井両副会長の
出席あり。例の如く、開会の辞の後に、自己紹介あり。
治らぬ人は自分の殻に閉じこもる
高浦医学士 神経質の研究生で、今年5月には、修養体験のため、
入院した事もあります。特別の症状はありません。
端・慈恵医大生 昭和2年入院・隙間風恐怖。
馬場夫人 大正10年外来診察1ヵ月余りで治りました。その後病
気以外に、夫が亡くなるとか、種々の人生の大問題を、楽に解決する
事ができるようになった事を大いに感謝しているものであります。
森田先生 端君は、雑誌の形外会記事の中に、1、2回出ている。
馬場さんは『神経質及び神経衰弱症の療法』の著書の終わりの方に、重
症神経衰弱症の例として出ている方である。山野井・日高両君は、雑
誌に、たびたび書かれてある事で、皆様の御承知の通りです。そのほ
か今夜の出席者の内には、雑誌や本の内に出ている人が多い。
ここで一言したいのは、治った人と、治らぬ人との区別。治らぬ人
は、自分の殻に閉じこもり、城壁を築いて、なかなか自分の事を発表
する事ができない。自分のような特殊なものは、世の中にないと、こ
とさらに差別観を立てて、頑張っている。人に話す事が、恥ずかしい、
恐ろしい。治った人は、夏は暑く、冬は寒い。恥ずかしい事は恥ずか
しく、苦しい事は苦しい。世の中は、誰でも同様である。という事実
を認める事ができて、平等観に立つ事ができる。「事実唯心」といっ
て、世の中の心の事実を、明らかに認識する事ができるようになる。
治らぬ人は、世の中の事実に対して、近頃のいわゆる認識不足である
のである。それで治った人は、自分がしゃべるために、世の人の害に
なる事は、いわないけれども、少しでも、人の為になり、ここでいえ
ば、同病相憐んで、人を治すために、少しでも効のある事ならば、俗
人から見て、自分の恥になるような事でも、喜んでこれを告白する事
ができるようになる。私が想像するに、馬場さんや端君やは、これが
できる人であろうと思う。皆さんは、自分で省みて、この発表ができ
るか、出来ないかという事が、治ったと、治らないとの区別のメータ
ーになるから、自己紹介のついでに、これもつけ加えるとよいかと思
います。
治った人は昔の苦痛も痛快に思い出す
また治った人と、治らぬ人との区別は、昔の病気の時の苦痛を、ど
うしてあんな馬鹿げた、つまらぬ事に苦しんだものであろうかと、夢
のように思い出すのは、治った人であって、まだ治らぬ人は、今にも 1
その時の事を思い出して、地獄の苦しみのように思い、はなはだしき
は、思い出すのも、身の毛がよだつという風では、たとえその人が、
現在その苦痛を免れているにしても、必ず他の変化した形で、再発す
る事の多いものであります。皆さんも、自ら前の苦痛の時の事を思い
出してみれば、そのどちらかという事がわかるはずであります。
私は明治39年ころに、富士登山に同伴した事がある。3日間くらい
は、歩けないほど足が痛んだ。しかしその時の事を痛快に思い出す。
昭和2年には、79歳の母の富士登山に同伴したいために、大勢の
家族とともに、私は喘息があるにもかかわらず、強いて6合目までつ
いて行き、ついにここで、私1人落伍者になり、呼吸困難のために随
分苦しんだ事がある。これでも私はまだ懲りない。場合によっては、
駕籠ででも登山しようと思う事ができる。また私は、昭和4年に肺炎、
昨年6年3月に、重症の喘息で、2度ともに、主治医も、治るものと
は思わなかったほどの重症であった。昨年の時は、急に発病とともに、
ドテラを着て寝たまま、2昼夜の間、寝返りも身動きもできないほど
の苦しみであった。それにもかかわらず、いま思い出しても、さほど
恐ろしいとか、地獄の苦しみとか、いう風に考えないのである。
我々の精神活動にも、表裏両面の2通りの見方がある。すなわち欲
望と恐怖・成功と苦痛との両面である。この両方が調和し平均する時
に、恐怖も苦痛も、自覚から消失する。登山や病気の後に、これを生
の欲望の立場から観察して、自分は、あれほどまでの困難にも、危険
にも、打ち勝ち耐えこたえた。将来まだ、あれ以上の事ができるかも
知れぬと考えるときそれは大なる喜び・希望であって、決して苦痛・
恐怖ではない。これに反して、一方には、ただ欲望と向上との方面を
忘れて、いたずらに恐怖・苦痛の殻にとじこもって、これをかこち、
恨み・悲しむ時に、これは誠に地獄のさいなみでなくてはならない。
すなわち結局は、事物の全般を、認識不足のないように「事実唯心」
で、正しく認識する事を、稽古しなければならない。学校教育の幾何
学や倫理学やも、いたずらに机上の空論でなく、これを実行の上に、
修養するように、教育家が、少しく注意を傾けるならば、種々の認識
不足を、防ぐ事もできるはずである。学校で、物理の挺子作用の問題
で、百点とった生徒が、薪を割っても、石をこねても、毛頭その応用
ができないで、学校教育の多いほど、反比例で、知識と実行とが遠ざ
かって行く、いわゆる知行合一とは、全く反対になるのである。
人が唾を吐くと、うがいをせずにはいられない
桑木夫人 心悸亢進で、外来で通ったものです。今のお話のよう
に、まだ一向わからないものです。この頃は全く治ったとはいえませ
んが、苦しくても、なんでもやって行かれるようになりました。 2
犬塚氏 いろいろの強迫観念で、悩んでいましたが、去年から、雑
誌を見ているうちに、自分の悩みが、馬鹿らしいようになりました。
苦しみに堪えながら、やって行かれるようになりましたが、まだ未熟
ですから、よろしく。
酒井氏 現在、佐藤先生のところへ入院しています。私も、もとは
普通の人の恐ろしがる事を、恐ろしがった訳になります。不潔恐怖・
縁起恐怖であって、道で人の唾をはくのを見ると、あの人は結核では
なかろうかと気になる。なんだか自分に散りかかって、口の中に入っ
たような気がして、自分も唾を4回も5回もはく。次には人が唾をは
けばうがいをする事にした。またそのうがいする回数が気になりだし
た。1回では、物足らず、2回3回は、中途半ぱでいけない。4回は
死で、縁起が悪い。5は男の厄年に当たり、6はろくでもない。7は
この若さで、質を置くなどは御免だ。8は8ぷん下がりで、9は苦労
する。まあ1と3とが、1番よいという事に決めた。それで1か3か
で止まればよいけれども、ちょっとそれをやり損ねると、一晩中やり
続けるというような事もあった。夜の9時頃からうがいを始めて、1時
2時までやっても、やめる気になれない。身体の方も疲れて、ヘト
ヘトになる。それでもやめられずに、休みやすみやった。しかもその
水も、自分で持って来るのではない。母がその水を持って、座敷へ上
がったり下がったりするために、病気になってしまった。このうがいの
事が一番苦しかったが、治る時には、一番早く治った。また御飯を食
べる時でも、それがなんだか、毒ででもあるかのように思われ、そば
から、それは御飯である、決して心配ないという事を、何度となく
くり返し証明してもらって、ようやく食事するという風であり、毎日
看護人2人と、母と妹とで、世話をしてもらわなければ、ならなかっ
た。
治ってよくなった今日でも、やっぱり唾をはかれると、汚い。下肥
を運ぶ人が通ると、泣きたいほど汚くなるけれども、この頃は、人に
頼らなくとも、進むべき道は進み、なすべき事はなすようになった。
たった20日くらいで、これほどによくなったかと思うと、感謝せず
には、おられません。
倫理的に完全な人になりたい
堀部氏 前に頼病恐怖で、宗教によって治そうとし、禅をやって、
そのままに苦しむよりほかに、しかたがないと思い、我慢してやって
いるうちに、頼病恐怖はなくなりましたが、次にまた狂犬病恐怖にか
かり、ここへ入院しました。今では、すっかり治り、苦しかった時の
事は、はっきり思い出す事ができません。
地主氏 現在入院中、不正恐怖を中心として、それに関連して、責 3
任恐怖・不決定恐怖などがあります。反省を、どこの辺で打ち切って
よいかわかりません。倫理的に完全な人になりたいと思います。「汝
等の父の全きが如く、汝等も全たかれ」の言葉に悩まされます。大き
な人でなくとも、純粋な人になりたいと焦慮します。この欲望と、自
分が何か、不正を行なったのではないか、という事とに苦しめられま
す。
中沢氏 現在入院中。学校時代はしゃべる方であったが、デパート
に勤めていて、あるとき主任の悪口をいった事があって、それが気に
なりだし、主任が来ると、仕事が手につかなくなり、後にはお客の来
るのも、怖くなり、なんともしかたがないようになり、勤務する事が
できないようになりました。
大場氏 大正13年に、赤面恐怖で入院したものです。赤面恐怖に
悩んだ当時は、学校の先輩に、道で会うのに赤面し、後には、何時こ
ろ、あの人がいるなど、細かく観察するようになり、ついには、それ
がすべての人に対して起こるようになり、あの人は何時ごろ、どこ
を通るかという事を、精密に注意するようになった。本屋で先生の著
書を見て、赤面恐怖という事を知り、親のいう事も聞かずに、東京に
来て、入院して、45日間で全治しました。今では普通の人よりも、
盛んに仕事をやって、どんどん片付けています。
早川氏 1昨年の1月、普通神経質で入院したが、完全に治らず、
退院しました。今では昔の事を考えると、夢のように思われます。こ
の頃は、苦しいという言葉が、嫌いになりました。苦しいという事
は、誰でも同様で、苦しむべきに苦しいので、当然の事です。1年く
らい前には、倉田さんの書いたものを、夢中になって読んで、涙を流
したものであったが、近頃は、それがあまりくどくて、じれったいよ
うな気がするようになりました。
父に反抗するようになり
尾崎氏 現在入院中ですが、成績が悪くて、まだ完全に治りませ
ん。主なる症状の足の震えるのは、殆どなくなりました。前には、
立っていると、足が震えるので、人前では、とくに激しく、人から
小心者と思われるのが、恥ずかしくて、気を大きくしようとして、力
を入れると、ますます震えるという風で、大勢の前に出るつらさは、
なんともたとえられないほどで、穴があれば入りたいように思いまし
た。
大木氏 心悸亢進を恐れるために、長い間、寝返りもできないほど
の有様でありましたが、先生の著書で、これだと思い、現在入院中で
すが、この頃はほとんどよくなりました。その他、いろいろの事が気
になって困りましたが、今では全くなくなりました。 4
石橋氏 小さい時から、例えば電柱の間を、1から10まで勘定し
て、それが通過中に教えられない時は、気持が悪い。また学校に行く
に、鞄がチャンと、横にかかっているという気がしないと、気がすま
ないというような事もありました。不潔恐怖・正確恐怖等で、森田先
生の診察を受け、古閑先生のところへ入院しました。今考えると、無
自覚で過ごした事を後悔しています。
森田信〇氏 神経衰弱を非常に恐れ、不眠症になって、7月に先生
の診察を受け、その後『根治法』を2回読み「あるがままの自分を見
つめよ」というお言葉は、今でも身に沁みて感じています。眠れない
という苦しみから、全く逃れた時は、嬉しく夢中でありました。生
まれつきの神経質かと思いますが、1つの事を難しく考えすぎて、身
体を動かすよりも、考える時間の方が多いようであります。母が神経
質で、その感化かと思われます。父はこれに反して、神経質でなく、
小さい時に泣くと、母にあまやかされましたが、父はうるさいといっ
て、叱りつけます。それで年とともに、父に反抗するようになり、あ
る時は、家を捨てたいような気もしましたが、ともかくも父の仕事を
するようになりました。
田舎の村長のような人、これが先生
鈴木氏 昭和3年の入院。胃病やそのほか、いろいろの症状があり
ましたが、不眠が最も苦痛でした。ずっと前に、形外会記事中に、私
の事が出ていますが、コトンという音でも気になり、土蔵の中に退却
し、不眠が癪にさわって、刀で柱をきったのもこの私です。不眠のた
め、捨て鉢になり、夜中に家人に知られぬよう、そっと出歩くと、後
から犬を先頭に、父母が私を探しに来た事などがあったのも、この私
であります。中学3年から、3年間続きました。
退院して後に、初めて自分が、前と非常に、違っている事に気がつ
きました。非常に勉強の能率があがるようになった。この頃、ここの
新築を見て、昔の家の位置が、ハッキリ思い出せないように、私も昔
の苦しみも、なんだか、ハッキリわからないようになりました。
初め診察を受けたとき、今日おいでの野村先生に、予診をしてもら
いましたが、次に田舎の村長のような人かと思ったのは、それが先生
でありました。私もお陰で、今年、浦和を出て、東大の医科に入学す
る事ができました。
日高副会長 大正14年に、対人恐怖で入院しました。すっかりよ
くなって、社会問題などについても、先生のお教えから考えると、よ
くうなずけるところがあります。私の生活は、すべて、神経質という
事から出発しています。
以前は、人に会わないように、回り道などした事があった。今から 5
考えると、あのような事に悩んでいなかったら、もっと偉くなってい
るだろうと思う。
今でも、人と言いあってやりこめられると口惜しい。あきらめられ
ない。家に帰って眠られない事もあります。人と交渉する事が、いた
って不得手で、役所なども、休んでしまいたいような気のする事もあ
ります。それでも、出かけて行くと、そんな日は、かえって能率があ
がります。先生の真の有難さが、真剣にわかります。人との交渉など
で、誠意というものの有難さが、つくづくと感じられます。
親たちも狂喜した
香川先生 ここで先生のところで、助手を勤めています。先日、原
さんが来て、「あなたも、随分長く入院してますね」といわれるから
「ハァ、どうも治らなくて困ります」といいました(笑)。
水谷氏 読書恐怖・若朽恐怖・肺病恐怖などで、入院したもので
す。高校1年の頃から、ひどくなり、本の一ヵ所を開けて、同じとこ
ろばかり反復して、進む事ができず、泣いたり、転げ回ったりした事
があります。それから不眠になり、身体や皮膚が、非常に衰え、生気
がなくなったように思われ、風呂へ行けば、人の皮膚の色つやなど
を、しみじみと見ては、劣等感がはなはだしく、自分の精神も肉体
も、しだいに衰え果てて、4,5年の後には、自滅してしまうような
恐怖にとらわれました。3年級の初め頃には、もはや1歩も進めな
くなり、廃人のようになって、休学して帰りました。その後、一生
懸命に、治療に腐心し、西式強健術に熱中して、あまり身体を左右に
振るので、家人が恥ずかしがった事があります。近頃流行のラジウム
温灸もやった。熱いほど効能があるかと思って、臍に火傷して、困
った事もある。その他いろいろやったが、ついに上京して、長浜博士
のホルモン注射というものを、2ヵ月もやった。だめで絶望している
時に、先生の著書を見つけ、これだと思い、翌年は復校して、かろう
じて3年を終了する事ができた。しかし読書・若朽恐怖もはなはだし
くて、大学受験なども、思いもよらず、今度入院して修養し、来年受
験しようと思って、先生を頼って上京しました。先生の診察を受ける
と、それはいけない。ぜひ今年、試験を受けなければならないとの事
で、ようやく意を決して、2週間ばかりの間に、間に合わせの勉強し
て受験した。ところが意外にも試験はよくできました。親たちも、私
が受験するとは知らなかったから、合格を通知した時は、狂喜したと
の事でありました。
また以前は、肺病恐怖で、少し歩いても、熱感を起こし、常に体温
計をはさみ、歩く時も、速度を加減して、ソロソロと歩きました。し
かるに、今度退院して後には、日本アルプスや、富士山などにも登っ 6
てまいりました。
野村先生 昭和2年、倉田さんが、診察を受けにこられていたこ
ろ、ここへ見学に来たものです。今は松沢病院と、根岸病院とに勤務
し、また「神経質」の編集もやっております。皆様もどうぞ、この雑
誌を自分のものとして、奮って原稿を出して下さい。
強迫観念をやらなかったら、もっと偉くなったろう
森田先生 さきほど日高君が、「赤面恐怖をやらなかったら、もっ
と偉くなっているだろう」といわれたが、我々も以前には、そのよう
な考え方をした事が、しばしばあった。
また前にも井上君が、こんな事をいった事がある。「自分などは、神
経質であった事を感謝する。神経質の苦しみを体験するという事は、
非常に必要な事で、これによって初めて、悟りに達する事ができる。
そうでなくては、悟る事はできない。しかし、それもあまり長年やっ
ては、勉強が遅れるからいけない。1年くらいででは、少し足りない。
2、3年くらいのところが、丁度よいかも知れない」とかいうような
事をいった。本当にその通りである。それで今は、神経質は、私の療
法により、これを予定通りに、治す事ができるから、よいけれども、
従来の医学では、これを治す事ができない。ただ大震災とかなんと
か、偶然の機会よりほかに、治らないから、これを望み通りにやる事
はできない。我々も今まで、強迫観念で、20年も30年も治らない
で、死んで行く人を、ボツボツ知っています。
今日、患者が、鋸で木を切っているところを見たが、ここの患者
は、鋸の種類を選ばないうえに、いくら鋸がきれなくとも、平気でひ
いている。鋸の切れ味などは全く無頓着である。職人は、道具を大事
にして、常にこれを研いでいる。素人は、その研ぐ時間で、少しで
も、木をひいた方が、その時間に、余計に能率があがると思っている。
それは大きな思い違いである。先日も材木屋で、木挽きを見たが、鋸の
目立てを、1日に3回ばかりもやり、1回に40分くらいもかかると
いう事である。素人が考えて、むだな時間が、実は最も大切な時間で
あるのである。日高君のいう強迫観念の苦悩の年月も、実は心身の試
練・目立て・研ぎ方の最も大切な事柄であるのである。
現在の私の、神経質療法の始まりは、大正8年の春、病院の看護長
が、神経衰弱とか、肺尖カタルとかいって、何も仕事ができないで、
常に病気を気にしてばかりいた。私はその看護長に、私の2階が空い
ているから、保養のつもりで、来ていたらよかろうといって、1ヵ月
ばかり来て、少しばかり、手伝いなどもしていた。思いがけなく、非
常に健康を回復した。これから思いついて、私の家庭的療法が始まっ
たのである。それまでは、神経質の患者を、近辺の下宿屋へ泊まらせ 7
て、治療したような事もあった。
迷信の研究により、初めて破邪顕正ができる
私がこの、神経質の療法を発見するまでには、ほとんどさまざまの
迷信をやり尽くした。三省堂の百科大辞典の内には、人相・骨相・淘
宮術・姓名判断・まじない等、迷信に関したもので、私の書いたもの
が載っている。今になって考えてみれば、私がこのような迷信に遍歴
しなかったならば、今日の私はなく、神経質の発見はないのである。
私の一生を大まかにいえば、私が10歳くらいのとき、寺で地獄の軸
物を見て、非常に恐怖に襲われ、生死の問題について、頭を悩ました
という事が、私の今日のある出発点になっている。中学時代にも、易
をやって、友人から、森田の卜筮は、よく当たると評判された事もあ
る。骨相学は、高校1、2年級頃やって、私もなかなかよく当たる
ものかと、迷信していた時代がある。大学時代にも、卒業後も、通俗
療法・迷信的療法を研究した。私の迷信研究は、20年余りにもわた
っている。井上君のいうように、2、3年に縮めたら、よかろうけれ
ども、そう甘い具合にも行くまい。破邪顕正といって、正道・真理を
発見するには、必ず迷信・邪道を明らめ、見破ってでなくてはできな
い。白い色を認識するには、必ずその他のすべての色を否定しての、
後でなくてはならない。否定の研究の必要な事は、これがなければ、
正しい肯定を確保する事ができないためである。
倉田百三氏も、自ら強迫観念の試練がなかったならば、悟道を得る
事はできなかったであろうといわれている。日高君が神経質を知っ
て、これを社会問題に適用するとかいうのも、みなかつて強迫観念に
苦しんだ事の賜でなくてはならない。なお私の神経質の病理と治療法
は、社会問題・教育・宗教等にも、多くの着眼点を与えるものと、私
は信じているのである。
神経質が治っていなかったら
大場氏 私は赤面恐怖で、大正13年の入院です。治った後と治ら
ぬ前とは、自然に行いの上に、大なる変化がある、という事をお話し
てみたいと思います。
これは3年ばかり前の経験です。私は丸の内の電気局に奉職し、中
野で下宿していました。その家は、自動車の運転手の夫婦と、小学生
の子供が2人と、奥さんの妹さんがいました。私がここへ引越して
まもなく、ある日私が、役所へ出かけようと、2階から降りて来る
と、奥さんがお産をしている。家は子供2人だけで、どうする事もで
きない。私はしかたなしに、慣れない台所に入り、湯を沸かしなどし
ているうちに、産婆も来た。私は勤先の主人に、電話をかけたりなど
して、自分の役所へは、遅刻して出勤した。 8
その後、奥さんは、肺病の気味があって、産後の肥立ちがよくな
い。生児は他人に預け、奥さんは病院に行くか、なんとかしなければ
ならぬ。しかし主人は、なんとも要領を得ない。私は見かねて、いろ
いろ詮議の末、救世軍の病院へ入れる事になり、主人は勤先へ出るの
で、また私がその病人をつれて、入院させてやらなければならなかっ
たのである。また妹はその姉と仲が悪くて、いっこう世話をしないか
ら、気の毒で捨てて置かれず、私があまり行くと、よそからの誤解の
恐れもあるけれども、しかたなしに、時どき行って、いろいろ世話し
てやった。そのうちに主人は、また後備で入営してしまった。僕は他
の下宿へ引越せば、なんでもないが、それでは、後がどうなるかと気
の毒で、ツイツイ世話を続けなければ、ならない羽目に陥ってしまっ
た。2人の子供も、すっかり私になついて、可愛くなった。病人はつ
いに、8月に、ある日の朝6時に危篤の電報が来て、まもなく、死
んだという電報が来た。主人やその他への通知や、屍体の処置やも、
みな私がしなければならなかったのである。口でいえば、簡単である
が、4月から8月まで、ずっと世話した事は、容易な事ではなかっ
た。近所の人は、女に対して、私が何か野心でもあるかの様に思われ
たらしいけれども、事実そうではないから、そんな事を気にしていら
れないので、最後までやり通した。このため、死んだ時の手続きなど
も、覚えて、その後は、役所の人が死んだ時など、いろいろ役に立ち
ました。
もし私が、神経質の治っていない時であったら、自分の都合ばかり
を考えて、決してこんな事に、手出しをしなかった事と思います。人
の世話をやくか、やかないか、その最初の時の気持に、分かれ道があ
るのではないかと思うのであります。
私が撃剣の先生と見られた
森田先生 面白い話でありました。初めの第一の感じ、私のいわゆる
「純なる心」すなわち人情から出発するか、または理屈から、出発す
るかの相違であります。純なる心から出発する時に、そこに本当の人
間味が現れてくる。宗教とか、道徳とかいう理屈は、少しもいらな
い。宗教とか道徳とかいえば、神に対し、あるいは人道のためとか、
何かに対するためにする所があるけれども、この純なる心から出発す
るものは、何者にも為にするところがない。これが本当の宗教なり、
道徳なりではあるまいか。
話は変わるが、さきほど、私の事を村長といわれたが、昔、私が30
余歳のころ、宴会で、我々同士の職業を、芸者にいい当てさせた事
がある。その時に私は、あるいは撃剣の先生といわれ、あるいは保険
の勧誘員とも思われた事がある。和服で、皮の袋を持った時には、神 9
官と見られた事もある。
もう15年余りも昔の事である。私の教えた医者が、埼玉の田舎か
ら、私に往診を頼んできた事が数回あった。3回目かの時であった。
料理屋で、その医者から、御馳走になった時の打明け話に、「折角呼
んだ先生が、あまりみすぼらしいと、患家に対して肩身が狭いから、
少し服装を、相当にしてもらいたいものだ」という事であった。なる
ほどもっともだと思って、私もそれから、モーニングを来て行く事に
した。それまでは、いつも背広服を着て行ったのである。最近4,5
年来は、私はまた詰襟服にしたが、これは思ったよりも、非常に便利
で、具合のよいものである。どうも私は、いつも服装というものは、
さほど、立派にする必要はないように思う。ここで私が診察するに
も、御承知の通り、小さな机に、サラサの机かけをかけ、服装は、平
常着の和服のままである。この際、皆さんの腹蔵のないお考えを聞き
たいが、私の服装は、どんな風にした方が、治療の成績があがるでし
ょうか。私は絽の羽織りなども、着た方がよいでしょうか。
鈴木氏 そのままが、よいかと思います。
結局は安価につく
森田先生 もう一つ私の態度で、皆さんに、気がついているかどう
か。私が診察するとき、いつもめったに患者の顔を見ないで、うつむ
きがちに、患者の話を聞いている。時どきただちょっと、患者の顔を
盗み見するだけである。これは患者をあまり見つめると、患者はいい
たい事も、いえないであろう、という思いやりからの事です。もっと
も患者が、あまり話がくどく、しつこくて困る時には、これをやめさ
せるために、威圧する工夫もするのであります。人と話をする応対ぶ
りというものは、細かくいうと、なかなか難しいもので、あまり返事
を、早く重ねてすると、相手の話をせかせ、追いたてるようになり、
それかといって、返事が遅ければ、無愛想になり、その拍子を取る事
も、なかなか簡単にはゆきません。やはり深い思いやりの心持という
ものが、なくてはなりません。
鈴木氏 私が診察を受けた時は、先生があまり冷淡のように思われ
ました。
森田先生 私も相当、我慢をし、時間を費やして、患者のくどい訴
えを聞いてやっているつもりで、決して呑気ではない。診察の時間は、
完全に予診をとった後の時間が、30分以内の事はめったになく、長
い時は、2時間近くも、かかる事があります。こんな事は、他の科の
医者とは、よほど違う所であります。
稲田夫人 私は御診察して頂いた時は、非常に有難く思いました
が、一緒に来てくれた家の者が、あんな簡単な診察で、随分診察料の 10
高いものだと申しましたので、私は腹が立って反抗してやりたい気持
になりました。
森田先生 ある患者は、私の診察を受けて、後に手紙をよこして、
不平をいって来た事がある。それはわずか5分ばかりの診察で、充分
にいう事がわからなかったとの事である。思うに患者は、自分でくど
い訴えをした事と、私の説明で自分の気に入らぬところとは、診察の
時間に加えてない事かと思います。それでなくては、私の時間に決し
て5分や20分という時間の診察というものは、ない事であります。
私の診察料の事も、ちょっと人にはわからない。それはどこにも、
他と比較する標準というものがない。ただ金に評価するとき、私がそ
れでなくては、診察はいやだというだけのことです。それで年とるに
従って、しだいに高くなる訳であります。また一つ私の特徴か思う
事は、往診でも宅診でも、私は不必要にたびたび、診察をくり返す事
が嫌いで、必ず1回の診察で先ざきの見通しをつけて、病の経過と、治
療上の注意とを、一度に説明する事であります。患者でも医者でも、
無益にたびたび診察する事は、決して得にはならぬ事と思います。それ
で私の診察は、全体から考えて、無用な治療なども決してしないで、
結局は格安につく事かと信じてる訳であります。
あまりにも僭越であり、またあまりに合理的である
最近に、根岸君から手紙が来ました。この人は、私が大正8年に、
初めて赤面恐怖を治し得た第一例で、私の深いなつかしみのある人で
ある。その以前には、私は主として催眠術ばかりをやっていたが、赤
面恐怖のしつこくて、治らないのには、愛想をつかして、患者が来れ
ば、逃げ回っていたのである。それが私の神経質療法の応用で、初め
てこれを治し得たのである。この実例は、私の著書の『神経質及神経
衰弱症の療法』中に、その治療日記の前半が出ており『神経衰弱及強
迫観念の根治法』の内に、その後半が出ている。この人は、父が商業
で、自分を商業学校へ入れるという。自分はそれが、ひどく嫌いで、
文学をやりたくてたまらない。ついに私がそれを指導して、商科大学
へ入学する事になった事は、その治療日記の中で、その事がわかる。
その後、学校の成績は、全甲の事が多く、英語で選抜されて、卒業後
直ちに、上海で西洋人相手に奉職するようになり、非常な栄職をかち得
たのである。赤面恐怖が、このような境遇になるという事は、全く意
外の事のようであるが、実際はかくなりうべきものであります。今は
青島にいますが、来年は、6ヵ年に1ヵ年の休暇があって帰国すると
の事であります。手紙を読んで見ます。
「先生には、ますます御熱心に、神経質者の救済に尽くさるる事が、
毎月の『神経質』誌上により、理解を深め力づけられています。 11
小生も同誌により、当青島海関に転任し来り、相変らず支那人・西洋
人の間に交って、どうやら大過なく、勤務を続けております。(略)
この年は去りし年よりも、よろしく、今日は昨日よりもさらに新し
く、暮らしています。常に先生の御恩を忘れた事はありません。昔
房州へへ逃避せんとしたとき、偶然先生に、根岸病院でお会いしたと
いう事は、小生生涯の幸運でありました。(略)それ以来、先生の
教訓により、あるいは野を、あるいは山谷を歩いて来ました。そして
到達したところは、いたって平凡な村里でした。そこでどうやら人
並みに、安住することになりました。小生にとって、今は正に人生
の日中にて、暖かい太陽は、頭上に力ある光を放っています。また従
来の精神の内向性は、しだいに外向性に変じ、自己の測定という事
よりも、仕事の能率とか、日常生活の整頓とか、人に親切にすると
か、すべて心は外に向かって熱心になってきました。今に至って現
在を思い、過去を顧みて、よくもここまで来られしものかなと、驚
異の目を見張る事があります。そこに、目には見えざる、思いに過
ぎる愛の手が、当然亡ぶべき自分を、愛護指導して、今日の状態に
置いてくれた事を実験しました。それが単に医術の結果とか、自分
の努力とかに帰してしまうのは、あまりに僭越であり、またあまり
に合理的であります。その愛の手が、神であり、また父の如く慈愛
の神である事を認めざるを得なくなりました。(略)
この実験から、キリスト教の真実性を体得して、神は父であり、
自分は子であり、またそれを人類に顕示したのがキリストである事
を知りました。(略)心の奥の奥に、再び動かざる平安を与えられ
ました。(略)神は原因であり先生は救いの動機でありました。神
が信頼の対照となり、自然の理が、歩む道となり、先生は救い主で
なく、良き師と仰ぐ様になったのは、小生の大進歩ではないでしょ
うか。
仕事・義務・人に対する善行とか・愛とかが、日常の関心事にな
ったと申し上げれば、先生におかれても、一昔前の患者の報告とし
ては、まず及第点として通過なさるる事と存じます。(略)
9月号では、大分先生の風采の攻撃がありましたが、小生も同感
です。いつもかろうじて、兵子帯が、腰部に止まっていた先生に、
絶大の敬愛の意を表して、筆を洗います。(9月8日)」
先生は救い主ではない
言葉の使い方というものは、なかなか難しい、この手紙の内に「あ
まりに合理的」という事があるが、合理的過ぎれば、それは合理的で
はない。ピッタリと合理的でなくてはならない。この合理的は「参同
契」という禅の本に、「事に執するも元と是れ迷。理に契うもまた悟 12
りに非ず」という事があるが、その事かも知れない。私にいわせると
それは本当に理に契っていないではないかと思います。「先生は救
い主ではなくて、良き師と思うようになった」といってある。それは
もとより、私が救い主とか、なんとかいう性質のものでなく、ただの医
者であるという事は、明らかな事で、ことさらに断わりの言の限りでは
ない。しかしこの言葉によって、私が思い出すのは、私がかつて、同
君に「苦しい時に、森田を思い出すようでは、まだ本当のさとりではな
く、全治ではない。苦痛も喜びも、当然あるべきにあり、ただそ
れだけであるから、森田の係わり合いの必要はない。親鸞は死んで極
楽に行くか、地獄に行くか、そんな事はわからず、またどうでもよい
事になっている。南無阿弥陀仏というのは、極楽に生まれるために唱
名するのではない」とかいう事を話した事があるが、これはあるいは、
その事に関係しての意味ではあるまいか。
キリスト教で、3位1体という事をいう。私の考えるに、天父と
聖霊とキリストと、どれを1つ取りのけても、神の救いというものは
成り立たない。仏教では、仏法僧の3宝という。法は真理であり、仏
とは、釈迦が、その真理を体現した事実であり、僧は、この真理と事
実とを、凡夫に教え導くものである。これを科学的にいえば、例え
ば、引力は真理(法―精霊)であり、林檎の落下は、現象(仏―天
父)であり、ニュートンは、その発見者・宣教者・真理の子(神―
キリスト)であるという風に、私は考えるのである。
されば「聖霊・天父・キリスト」「法・仏・僧」「真理・現象・発
見者」これら3者が1体であり、ピッタリと合一した時に、初めて人
類の福音になる。引力は現存しても、ニュートンの発見がなければ、
誰もその存在を知らないし、これを人生に利用・厚生する事はできな
い。稲は地に生え、ナマコやウニが海に育っても、飯をたく事、塩か
らにする事を教えられなければ、我々は腹をはらす事はできない。
「思想の矛盾」とか「事実唯真」とかいう吾人心理の事実は、常に現
存していても、森田というその発見者・体現者が世に出なければ、
強迫観念は、決して救われる事はない。キリストの教えがなければ、
我々は決して天国に生まれる事はできない。我々が天国に生まれた時
には、キリストは、我々のために神であり、我々が強迫観念から救わ
れ、安心立命の悟りを得た時に、森田は誠に、その患者のために救い
の天使でなくてはならない。かくいう時に、誠に、あまりに合理的で
ある、理に契い過ぎるでもあろう。それは根岸君が、神の世界と、医
者の療法とを、あまりに因縁づけこんがらかして、考えようとした結
果である。こんな所に、少しも神を引き合いにだすいわれはないので
あります。 13
私共が、仏教の教えにより、救われる事を感謝する時に、お釈迦様
は誠に私共の帰命頂来の仏様であり、また一方には、釈迦の伝記を研
究し、経文を論議する時に、私共に、釈迦は神経質者としての大偉人
として考えられるのである。
いたずらの屁理屈
尾崎氏 先日、炊事当番で、一日中働いて、疲れている時に、夜、
台所へ行ったところが、まだ洗い物が沢山に置いてある。いやでたま
らなかったけれども、当番だからしかたがないと思い、またどこま
で、このいやさが続くかと思ってやった。いつの間にか、いやさがな
くなって「努力即幸福」というような気持になりました。先生の御批
評を願いたしと思います。
森田先生 少し話が込み入っているから、後回しにします。
浜氏 我々は苦痛に当面すると、避けようとする。その避けようと
する事が、「あるがまま」の欲望ではないでしょうか。
森田先生 言葉の詮索にとらわれたり、物の一面のみを見て、結論
を下そうとしてはいけない。苦痛の避けたい事は勿論で、誰も好んで
苦痛をするものはない。大きな目標を達しようとする時に、大きな苦
痛が予想される。あなたは、その苦痛をあえてして、その目的を達し
たいと思う事はありませんか。もしそれが心の中にあるならば、それ
も「あるがまま」の心である。いたずらに言葉尻を争うのは、屁理屈
である。昔の自然主義者は、性欲は吾人の本来性であるから、その欲
望を充たす事が自然である、という風に、思い違えた事がある。それ
は実は、動物の自然であって、人間にはこれを抑制して、社会人とし
ての自己を保持するの力があって、これが人間の人間たる自然であ
る、という事に、気がつかなかったのである。それは自然という事の
言葉にとらわれたがためであります。
枯れたも知らず植木に水をやる
水谷氏 私はここの劣等生でありまして、いつも先生のお言葉にと
らわれて、いつまでも事実が見えてこない。ある時、先生から、ある
草花を植え換えて、世話するようにいいつけられた。「物を見つめよ」
という言葉にとらわれて、暇さえあれば、花壇のその草花の前にしゃ
がんで、これを見つめていました。ほかの事が頭へ浮んでくると、あ
わてて「見つめよ見つめよ」と、頭にくり返して、目を見張ってい
た。学校から帰ると、すぐ見に行って、水をやる、後に先生から、
御注意を受けて、やっと気付いたのですが、それは既に花は咲き尽
し自然に枯るべき、運命にあったもので、世話するだけ、全くむだな
事であった。そして十銭くらいしかない、つまらぬ草花であった。
それでそのとらわれのために、周囲にある沢山の花と比較して、これ 14
を評価し、その生育の有様などをも、全く考える事ができなかったの
である。こんな風に、なんといわれても、直ちに言葉にとらわれる。
いつまでも心機一転しない。自分でも愛想がつきて、情なくなりまし
た。夏休みに帰省するとき、日本アルプスに登山を思い立ち、自分の
ような訳のわからなぬものは、たとえ遭難して死んでもよいと思い、天
気の模様もお構いなしに、一人で登ったのですが、天気も非常によく
なり、四日で予定のコースを終わり、無事下山しました。つたない作
意があったため、本当の喜びを得なかったが、肺病を忘れていた私
も、これくらいの事はできる、という確信を得ました。
こんな風で、今でも先生の言葉にとらわれ、本を読んでも、本当の
感じがなく、ただいたずらに、活用もできぬ知識の集積では何になろ
うかと考え、すべてが、心機一転しようとか、自発的の喜びを得よう
とか、悟ろうとするとかのための仕事となり、事実が見えず、本当の
仕事にならず、ますます矛盾に陥って、行きづまったような感じがし
ます。これはやはり私が、逃避的で、努力を惜しんでいるためであり
ましょうか。
循環理論に行きづまりはない
森田先生 この人が、神経質の「とらわれ」の標本です。「行きづま
ったような感じがする」というけれども、それは本当に行きづまらな
いからいけない。すなわち不可能と可能との区別を研究せずに、こう
ありたいと、できないとの二つの間の循環理論になるから、繋驢桔の
ように、いつまでも果てしなく行きづまる事ができないのである。
こんな時に、一番軽便な事はとらわれになりきればよい。それは、
悲しみは悲しみ、苦痛は苦しみ、とらわれはとらわれるよりほかに、
致し方ないという意味である。これは我々の心の事実であるから、
悲しみを喜ぶ事のできないように、とらわれを否定する事も、逃避す
る事も不可能であるからである。
「とらわれに、とらわれる」とは、どういう事かという風に、私が今
ここにある茶碗や、時計やいろいろのものを置いた枕台の前に立っ
て、皆さんにお話をしている。私はいま枕台の危険という事にとらわ
れながら、話の工夫にもとらわれている。もし私が、後ろに眼
のないところの枕台を忘れたならば、必ずフトした拍子に、この枕台
を踏みつぶさなければならない。すなわち私はいま同時に、枕台と話
と、両方にとらわれている。詳しくいえば、注意のリズムに従って、
両方に交代にとらわれている。これは我々の自然の心であって、とら
われようと作為して、とらわれる事もできず、とらわれまじとはか
らっても、またできない事である。つまり我々の努力の意識からいえ
ば、私は一生懸命に、火花のように、話と枕台とに、注意が張りきっ 15
ている。これは精神緊張の状態である。決してズボラや、目先の功
利主義の状態ではない。この緊張の心は、まだそのうえに、皆さんの
内に、笑う人があれば、またそれにとらわれ、うしろの方へ、人が入
ってくれば、またそれにとらわれる。ここにいわゆる無所住心という
ものであって、何事にもとらわれる心は「心は万境に随って転ず」の
心であって、同時に何事にもとらわれない心であるのである。ここで
「とらわれる」とは、すなわち広くいえば、注意の集中、狭くいえば、
故意に注意の固着という事にもなるのである。
とらわれにとらわれればよい
また例えば「見つめよ」といわれた時には、すなわちその言葉にと
らわれて、熱心に、草花ならその草花を見つめておればよい。はから
う心なく、素直に見つめていれば、その見るものに従って、そのとこ
ろに必ず我というものが現れて来る。すなわちつまらぬ花とか、あ
るいはその周囲にある勢のよい奇麗な花とかに、心がひかれるように
なる。すなわち何かの感じ・連想が発動してくる。これが我である。
この我ととらわれの心とが充分に対立して、相拮抗する時に、そこに
観察と批判とが、続々と進行して、適切な働きが現れて来る。私が
前向いての話と、後ろの枕台とに、心が拮抗しているようになれば、
それで初めて、進退が自由になるのである。ここに我というもの、す
なわち感じが、充分に出てこなければ、何事にも決して進歩も発見
も、適応性もないのである。
水谷君がなに故に心機一転しないかというと、例えば僕から叱ら
れても、スレッカラシになって、少しもビックリしたり、うろたえた
りなどしないからいけない。これに反して、あるいは腹をすえ、丹田
に力を入れ、想を練って、「叱られるのは有難い。ここが修養である。
感謝こそすれ、腹を立つべきでない」とか、さまざまの屁理屈をつけ
て、頑張るからである。あっさりと、おとなしく、素直にはからう心
なく、ハッとビックリさえすれば、たちまち心機一転するのである。
しかし今度は、水谷君ははからう心を捨て、ビックリする工夫をする
のである。ビックリは、予期と工夫とがあっては、決して起こるもの
ではない。
早川氏 私は仕事が、時どきうまい具合に行く事があるが、「この
調子だ」と考えた瞬間、心は内向してしまってオジャンになる。今度
は、その仕事に対する方法が、意識的になるから、ますます前のよう
にできなくなる。
「さてはこの調子だ」の初一念
森田先生 我々の心は、少し注意して、深く観察すると、自然の本
能は、驚くべき微妙さをもって、周囲に適応して反応している。しか 16
しそれは、一般に気がつかない、求道の人は、この微妙の心をとら
え、見つけようと努力しているので、時どき「さてはこの調子だ」と
か「この気合・心境だ」と気がつく事がある。これを禅の方で「初一
念」と名付けてある。この「初一念」そのままが、悟りであるが、既
に「よし、今度はこうしよう」とか、ニ念・三念と、続続と現われて
は、それは悪智となり、私のいわゆる「斯くあるべしという、猶お虚
偽たり」という様な、作為・はからいになり、思想の矛盾になるので
あります。
しからば早川君や水谷君やは、その時どうすればよいかといえば、
それは自由に・遠慮なく・思うがままに、作為し・はからい・とらわ
れて行けばよいのである。とらわれれば、とらわれ尽して尽きる。
それでこの努力の経験を積み重ねて行くうちに、いつか同様の機会に
遭遇すれば、それが自然に反応して発現されるので、例えば強いて暗
誦して、平常何の用にも立たないものが、それと同じ事件に会うとき、
それがサラサラと思い出されて、有効に働きだすようなものである。
さきほど、尾崎君の話に「炊事当番だから、やらなくては、自分の
義務がたたぬ」という事は、まだ浅薄な知恵で、本当の自然の働きで
はない。
昔あるとき、私の庭の真ん中に、時どき犬が糞をしてある事があっ
た。その当時の私の家族は、妻と婆やと、16ぐらいの女中と幼児と
であった。犬糞は、汚くて、そのままに置く訳には行かない。誰かが
取らなければならない。小さい女中はかわいそうである。婆やに取っ
てくれないかと相談すれば「オラア、いやぁだ」という。妻は、鍬や
土堀りを取り扱う事は下手で、かえってどんな、汚い事になるかも知
れない。結局自分が最も上手であり、一挙手・一投足の労で、最も世
話のない事である。つまり自分が取るよりほかに、しかたがない。こ
れは我々の自然の心の働きであり、知恵・判断である。決して修養義
務や、愛のためや、そんな抽象的の作為ではない。我々の心のあるが
ままの事実である。
尾崎君は、入院患者であり、入院料を払っており、決して炊事の洗
いあげをしなければならぬ、という義務のあるはずはない。もしある
とすれば、道徳という事にとらわれた屁理屈である。ただ結局は、こ
れも誰かが洗わなければ、そのままに放任する事はできない。自分が
気のついたついでに、一挙手の労を惜しまなければ、それでよい。そ
の時に初めは、ちょっと小面倒で、いや気がさすが、まもなく、屈託
のない朗らかな心になる。それはなぜかと説明すればくどい事になる
が、体験してくれば、容易になるほどとうなずかるる事である。ただ
義務とかなんとか、無理押しの努力がある時には、あたかも強迫観念 17
のように、いつまでも、その苦しい思いがさらないのである。その出
発点が、自然の感じ、即ち純なる心であって、これから出発すれば、
初めて最も安易・愉快なものであるのである。
浜氏 そのときアア汚い、いやだというのが、純なる心ではありま
せんか。
森田先生 それはもとより純なる心である。自然の感じである。そ
れは庭の犬糞なり、台所の洗い残りの皿など、静かに見つめていれば、
そのままに捨てて置く事ができなくなるのである。君はいやなものは
避けるというが、そんな言葉は、ただの屁理屈である。通るたびごと
に、庭先の犬糞が目については、決してその様な理屈は、成り立たな
いのである。
手をつねって、これが不幸だ!
坪井氏 東洋大学で、中島先生が倫理学の講義をしていますが「幸
福とは何ぞ」という事について、生徒を指名して、答えさせる。私の
番が来たので、物そのものではない・幸福というものは、決まったも
のではないと思う、といったら、私を教壇のところへ呼んで、手を痛
いように、つねられて、これが不幸だ。幸福とは、客観的に見てわか
るという。私は、それなら、測るメーターでもありますかと、やりか
えすと、君は屁理屈をいうという。私は、それなら先生の昨日と今日
との幸福を、数で表して下さいといった。この事について、ご批評
を願いたいと思います。
森田先生 「幸福とは何ぞ」「善悪とは何ぞ」とかいう事は、哲学
者のいう事で、我々実際家には、そんな詮索は、いたずらに思想の矛
盾になるのみである。いずれも相対的の語で、「上とは何ぞ」と同様
で、下がなければ、上はないのである。
孟子のいうように、人は、位が高く・徳があり・寿であれば幸福で (寿=長寿)
ある。金持であり・教育があれば幸福である。なおこの時に「幸福と
は何ぞ」といえば、なかなかその説明が困難であるが、これが幸福で
あると、その事実を示せば、簡単にわかる。これが梨であるといえ
ば、一目してわかるが「梨とは何ぞ」という事になると、なかなか難
しい。色や形やも、なかなかいろいろである。近頃は20世紀とか、
13世紀とかいう梨も、あるようなものである。
善悪とか幸福とか抽象語をやめよ
私は平常、幸福とか善悪とかいう抽象語を用ゆる事を好まない。と
くに神経質患者の治療中は、すべてこのような言葉を用いさせないの
である。ただ事実を具体的というのみである。一般にいえば、金が一
万円あれば、金持ちと称し、大学を卒業した人は、偉い人という。それ
で世上の実際については「彼は一万円の財産があるけれども、常に貧 (世上=世間)18
乏だと、こぼしている」「彼は大学を卒業しているけれども、自分で
は常に、何も知らないといって、勉強ばかりしている」という風にい
って、それ故に幸福だとか、否、不幸だとか、面倒な議論する事を好
まないのである。「彼は全く貧乏であるけれども、人の世話になって
も、少しも金が欲しくない」とかいう者であって、「心の貧しきもの
(欲望の少ないもの)は幸いなり」とかいう幸福の定義も、私は直ちに
これを承認しないのである。ただ事実をいうだけで、結論をいわな
い。これは最も誤りの少ない、都合のよい事ではなかろうかと思うの
である。
いかに金持で、身分はよくとも、人は抑鬱病にかかれば、悲観のど
ん底に陥る。これに反して、躁病にかかれば、どんな不幸な人でも、
自ら幸福感に溢れている。人生に、もし主観を標準にし、気分本位に
批判するならば、躁病と鬱病とは、正に人生の幸不幸の、標本でなく
てはならない。
私のところでは、この気分本位を排斥する。神経質の患者が、気分
はいかに苦しく、安心は得られなくとも、日常生活が、ますます能率
があがり、現実の心身の活動が盛んになれば、それでよい。そこに神
経質が全治するのである。この事実だけを認めて、幸せとか不幸とか
いう事をやめるのである。
運命は切り開いて行くもの
話は変わるが、倉田君の著「神経質の天国」の巻末に、こんな事
が書いてある。
「運命は自分に、尊き暗示に満ちた課題を与え、しかも立派に、これ
を解決させてくれた。自分が受けたる異常なる精神の苦しみも、今は
かえって甘きものとなり、自分の精神の根を培う養いとして、貯えら
れたように思わる。『我々は、運命を堪え忍ぼう』自分が最後にこの
記述を閉じる語はこれである。そしてこの語には、いずくともなき浄
き光が、永久に照らしているように思うのである。」
私はこれに対して、こんな批評をしてある。「運命を堪え忍ぶにお
よばぬ。例えば偶然に、山から石が落ちて来た時に、死ぬ時は死ぬ。
助かる時は助かる。堪え忍んでも、忍ばなくとも、結局は同様であ
る。我々はただ運命を切り開いて行くべきである。正岡子規は肺結
核と脊髄カリエスで、永い年数、仰臥のままであった。そして運命に
堪え忍ばずに、貧乏と苦痛とに泣いた。苦痛の激しい時は、泣き叫び
ながら、それでも、歌や俳句や、随筆を書かずにはいられなかった。
その病中に書かれたものは、随分の大部であり、それが生活の資にも
なった。子規は不幸のどん底にありながら、運命に堪え忍ばずに、実
に運命を切り開いていったという事は、できないであろうか。これが 19
安心立命であるまいか。」
最近にここへ入院し、中途退院した患者があった。それは、肛門
の激しい神経性の疼痛で、二年以来も、これに悩まされ、その間、専
念に病をいたわり、医療に没頭し、苦痛を堪え忍んで、全く何事もでき
ない。講談本でさえも読む事ができず、日記さえもつける事ができぬ。
もしこの人が、いたずらに苦痛を堪え忍ぶ事を工夫せずに、放任し
て、少しでも、自分の欲望を発揮して、なんなりと手を出すようにな
れば、その間、自ら運命が、切り開かれて、自ら苦痛が軽快し、治癒
するようになるべきであるが、この患者には、全くこれができなかっ
たのである。つまり欲望の乏しい意志薄弱性の素質であるのである。
私は昨年3月、重い喘息発作で、ほとんど死に瀕したが、全く何も
できなかったのは、一日か二日かで、後には看護婦に、本を読ませ、
まもなく、自分で読むようになった。この頃も、ときどき夜中、咳嗽
や喘息発作で苦しむ事があるが、その間、眠る事はできず、静かにこ
れを堪え忍んでいる事は、退屈で苦しいから、常に読書を始める。そ
うすると、いつの間にか、さほどの忍耐なしに、発作が終わり、眠り
を催すようになってくるのである。この本が読みたいというのは、知
識欲の発動である。これは我々には、食欲と同様に、死ぬまでもある
ように思われるのである。
私も負けずにアグラをかいた
坪井氏 今年、7月中旬、あたかも私が、対人恐怖が重くなった時
に、私は過分に上等の寺の住職に任命されました。私はしかたなしに、
その寺に住み込む事になった。こちらは若いのに、納所の方は、50
幾歳で、どうも使いにくい。その納所は、寺の事にも熟知して、詳し
いが、私はまだ何も知らないで困っている。ある日私が、お盆の前
で、庭掃除をしていると、納所がプンプン腹を立てて、帰ってきた。
それは皆の者に、納所納所といって、馬鹿にされるという事である。
この納所は、朝起きて、顔を合わす時にも、私に挨拶もしない。座布
団の上で、大アグラをかいている。私も癪にさわって、こちらも、そ
の前で、アグラをかいた。向こうもツンツンしているから、私も負
けずに、十日ばかり、ツンツンしていた。どうも気まずく、苦しいけ
れどもしかたなしに我慢している。ある時は、一つこちらから、お辞
儀をして、挨拶して見ようかと思ったが、もしそのとき、先方が「ウ
ン」てな具合に,上手に出られると、ますます私の権威が損われるの
で、とうとうしまいまで頑張っていました。2,3日中に、またその
寺へ帰らなければならないが、どうしたらいいでしょうか。
森田先生 なかなか面白い。よくも気強く、頑張る事のできるもの
ですね。私共には、なかなかそんな事はできない。それがやはり、赤 20
面恐怖の権勢欲の特徴でありましょう。ついでに思いきって、どこま
でも頑張ってみたら、その結果どうなるか、経験される事も面白い事
と思います。相手の納所の方は、まさか赤面恐怖ではあるまいし、恐
らくは平気で、君の気持には、少しも気がつかないでいるかも知れな
い。私共は、つい頑張る事の苦しいために、いろいろと都合のよい道
理を考え出して、頑張るにおよばぬような人生観を作るのでありま
す。
山野井氏 黒川さん、一つお話を願います。
黒川氏 思い出した事をお話します。陸軍大学の入学試験のとき、
口頭試問の方は、どうも不得意で不安でありました。試験官が3,4
人いて、その内の一人が主になり、他から横やりを入れます。以前な
らば、とてもできないところであるが、これが通過したのは、森田先
生のところの修養のお陰と思っています。試験官が、なかなか意地の
悪い問い方をする。これに答えると、他方から出て、これはどうかと
いう具合に、さまざまに聞く。目的を見つめて、判断をして行くが、時
どきわからなくなって、戸惑ってくる。そんな時は、そのまま狼狽し
て、真赤になりました。すると試験官は、どうだ、俺の試問はうまい
だろう、という風に、ワッハハハと笑い出す。試験場は和気藹藹
で、そのため、かえって成績は、よかったように思われます。
話は変わりますが、私の顔が、こんな風だから、そう見えるのか、
人から「おしが強い」といわれます。しかし自分の内心は、ビクビク
しています。ただやらなければならぬ、と思う事は、しかたなしに、
しまいまでやるからだろうと思います。
(『神経質』第3巻、第12号・第4巻第1号・昭和7年12月~昭和8年1月)
21
第25回 形外会