第60回札幌5巻を読む会 2020.10.15
森田正馬全集 第5巻306頁 第30回形外会 昭和8年2月18日から
迷いの心を捨てて、信頼の心をもって接する時は、その医者が治療の
自信があるか、あるいは患者を籠絡したり、だましたりする人物かど 籠絡:巧みに手なずけて、
うかという事は、よくわかるべきはずである。迷う人は、折角正しい 自分の思いどおりに操ること。
医者に会いながら、再びこれを捨てて、他の迷信に遍歴する事が多
い。神経質には、最もこの実例が多いのであります。
すべて世の中の事業でも・商売でも・学問的研究でも、これに成功
するか失敗を重ねるかは、一にこの純なる心から、直観力が、よく働
くか否かにあろうかと思います。
なお世の中の種々の迷信には、群衆暗示によるものが非常に多い。
世の中の誰も彼もが、よいという事は、理非の判断なしに、これは本 理非:道理にかなっていることと
当の事と思うようになる。これが群衆暗示である。最も卑近の例で 外れていること。
は、種々の歯磨粉の新聞の大広告が出ているが、ほとんどの世の人は、卑近:身近でありふれていること。
すべてこれを必要品かと思っている。実はこれは贅沢品で、我々の日
常生活に仁丹やチューインガムが少しも必要でないのと、同様の程度
のものである。この事を僕が初めて知ったのは、ほんの最近の事で、
浜口内閣の緊縮宣伝の時であります。一度知ってみれば、初めてこん
なものを使うのは余計な手数である。という事がわかるのである。神
経質はとくに、例の完全欲から、歯磨粉とか石鹸とかいうものを余計
に使う傾きがある。みな充分に研究心の足りない結果であります。種
種の流行神様とか非医者の種々の流行療法とかいうものも、みな理
知の批判でなくて、盲目千人の群衆暗示から起こる事であります。
医者の方では、注射療法が、近来ますます非常の勢力をもって、流
行のようになっていますが、人格の劣等な医者が、これを濫用する時
に、随分いろいろの大きな弊害があるのである。医者自身でさえも、
ある注射療法の不合理で無意味という事に気のつかないものも沢山に
あるから、ますます厄介であります。
この注射療法は、患者が、その薬理などを聞きただす事なしに、そ
のまま生命を医者にまかせる。これに反して神経質の精神療法などに
なると、その原理を自分に納得するようにならなければ、承知できな
いというのも不思議である。
消化器病とか、腎臓病とかのとき、食事療法が最も必要で、とくに
その慢性の場合には、ほとんど薬などは必要がない。しかし一般の患
者は、薬を飲まないと、なかなか承知ができない。僕の神経質の療法
で、初めただ寝かせて置くばかりと、次にただ仕事をさせるばかりで
治すという事は、「病といえば薬」という事に支配されている患者に
は、誠に心細いという事も、無理のない事である。しかし正しい療法 1
は、これに間違った療法が加わるほど、必ずその効果が遅延し、かつ
不完全になる事を免れないのである。
先生はただの老いぼれである
話は変わるが、前に台湾人の医者で神経質の治療を受けるため、わ
ざわざはるばる上京して、入院したのはよいが、臥褥療法3日目に、
置き手紙をして、退院してしまった事がある。それには、著書を見
て、その人格に感心し、偉い人かと思って、診療を受けて見れば、案
に相違して、ただの老いぼれであったとか、その他いろいろの不平を
こぼしてあった。井上君が、無愛想な医者といったよりも、また別の
観察の仕方であるから面白い。世の中の事は、いろいろであります。
せっかく遠く台湾から来たのであるから、せめて2週間でも、試験的
にやってみれば、よさそうなものであるのに、つまり一局部に拘泥し
て、要点のとらえる事のできない無知の結果であります。
ただし試すといっても、「人参のんで、首くくる」とかいう風に、
欠勤のために、職を失ったり、借金をして入院する必要もない。かつ
てある患者には、入院料をこしらえるようにといって働かせたが、入
院料のできた頃には、病気が大方よくなっていて、入院しないですん
だ事があった。また僕の著書や雑誌によって治った人の礼状は、いく
らでもあります。金がないとか、自分の思うようにならぬとかいっ
て、人を恨み、世をかこつとかいう事は、少しもいらないのである。
疑うとか、信ずるとか正しい療法は、そんな事には、全く無関係に
効果がある。モルヒネは、これを疑っても信じても、同様にその効験
が現れるのである。
熱田氏 以前私は、過度の勉強をしたためか、神経衰弱になり、指
を怪我した傷は治っても、この指を切り取らなければならぬようにな
りはせぬかという強迫観念にかかって、非常に苦しんだ。信仰によれ
ば治るだろうと思い、十何里もあるキリスト教の牧師のところに行
き、その苦しみが、すっかり治った。ところが今度の所得税恐怖の強
迫観念は、前と同様の信仰で治らないのであります。坪井さんも、日
蓮宗の僧になって、強迫観念が治らぬとすれば、やっぱり信仰では、
治らぬという事になりますね。
坪井氏 ちょっと待って下さい。僕はまだ信仰に入っていないと思
いますから、どうかわかりません。
森田先生 信仰にはいれば神経質は治る。熱田君が、前に治ったと
いうのは、信仰でなくて迷信です。
先生の家を焼こうかと思った
坪井氏 私も信仰をとり違えて、一心にお経を読んだりして、夢中に
なって、やった事がありますが、なんにもならなかったのであります。 2
去年の4月頃には、対人恐怖なども、極度に悪くなり、自分のよう
な金も時間も、自由にできぬという事を恨めしく思った。神経質は自
殺しないと、先生の本に書いてあるけれども、自殺できない事はない
と思った。試験も迫るし、いよいよ苦しい。気合術でも受けようと思
って、江間式に行ったところが、偉い人の紹介がいるとかいって、玄
関払いを食った。私の友人が、江間式へ行って、十日ばかりで、五十
円取られたそうです。ソレ神様が乗り移ったとかいわれたけれども、
乗り移りもなんともしなかったそうです。
森田先生の新築の家を見て、苦しんでる患者から、あんな金を取
って、家を建てて、癪にさわるから、火をつけてやろうかと思った事
もあります。
水谷氏 この前の形外会の余興について、会員の1人が、「余興も
面白いけれども、先生のお話をうかがう事が少ないのは残念だ」とい
う御注意がありました。先生にこの事をお話したところが、先生は、
「患者が話を聞いて、治そうとするのは、あまり面白くない。常に実
行を重んじなくちゃいけない。この余興でも、先生も一緒に、天真爛
漫に遊び歌う事によって、多くの赤面恐怖や、強迫観念が治る」と
か、いうような事をいわれました。
またいつか、先生が大西さんに、「本は読めなくとも、ただ机の前
に、5分でも10分でも座っていさえすればよい、ただ読むふりだけ
でもよい」といわれましたが、初めのうちは、随分無理のようにも考
えられますが、心の中に感じたり、考えたりする事は、どうでもよ
い、また実際にやむを得ない事であるから、ただ雑念の起こるまま
に、先生のおっしゃる通りに実行する事が大事だと思います。
行方氏 今度も、会員の内から、今年はさしつかえがあって、脱会
すると断ってくる人があります。それには会費の点も、少しはある
かと思うが、これは少し正直すぎはしないでしょうか。多くの人は、
脱会しないで、金だけ納めないでおく事もある。金は納めなくとも、
会のほうからそう除名する事もありません。この際急いで、国際連盟を
脱退するにはおよばない事かと思います(笑声)。また他日苦しくな
ったとき、あまり正直すぎると出たいと思う時に、困る事がありはし
ないかと思います。
森田先生 ここへ入院して、よく治った人でも、まれには、雑誌の
購読を断ってきたりして、ここと縁を絶つ人がある。こんな人は、
また困った時に、連絡がとれないで、便利の悪い事がありはしないか
と思う。神経質には、こんな用意と取越苦労とがあるべきはずかと思
う。この会でもあまり欲張って、治る話を聞けば来る。治らなければ
脱会するという風にあまり直接に、近ごすく考えてはいけない。間接 3
に接近している間に、自然に病気も治るのである。 鰻を食ったら、1
日に2百匁あて体重が増すと、直接に考えて、強いて食ったら、下痢
する。うまく食っているうちに、間接に栄養がよくなるのである。
午腸氏 現在入院中です。神罰恐怖ですが、神様のあるかないかを
疑いながら、神罰を恐怖しています。私も江間式へ行きましたが、こ
れで治ったという人もあるから、治るかも知れぬと疑っています。森
田先生の療法に対しても、やっぱり疑っています。神経衰弱は、信仰
によって治らぬというお話でしたが、これもあるいは治るかも知れぬ
と疑っています(食事後、水谷氏と長谷川氏との「兵隊万歳」の喜劇
の余興があった)。
雑念の多いほどよい
早川氏 日記をつけるとき、簡単に書くと面白くなく、詳しく書く
と、ついおっくうになって、やめる事になります。
森田先生 僕は日記を42年間続けているが、一番簡単なのはい
つに起き、いつ寝たと書いてある。難しい事を書こうとするから続
かないのである。
井上氏 私も日記は、17からつけている。書かないと、寂しい気
がする。面白くないといってしまえばそれまでですが、自分でやれば
本当の事がわかると思う。
私が初めて診察を受けたとき、「雑念があって、勉強ができない」と
いったところが、先生から「君は煮豆を箸ではさむ時に、左の手の茶
碗をひっくり返すか」といわれた事があります。その後、心は同時に、
一方のみでなく多方面に働いているという事がわかり、一方には、雑
念が沢山にわきながら、かえって読書でも、仕事でも、はかどるもの
であるという事を知ったのであります。
坪井氏 講談社の野間清治氏が、「一つ事に、心を打ちこんでやれ、
という格言がある、ところが自分が、お客と話をしているとき、外で
バタバタ掃除をやっている。一つ事に心を打ち込む、という事を実行
しているのだからと思って、なんともいわなかったが、格言にも、い
ちいちあてはめてもいけない事がある」といっているが、この人に先
生の本を読ませたら、こんなかた苦しい事は、いわなくともすむかと
思います。
山野井氏 井上君が、赤面恐怖の人も、ともかく立つようにと、い
われたが、非常によい事と思います。私は会社員で、重役が一番怖か
った。赤面恐怖の治らぬうちは、なんとか理屈をつけて、怖がらない
ようにと骨を折った。「首になったって、しかたがないじゃないか」
とか考えてみる。「別に赤くなる必要はないじゃないか」「向うも人
だ、こっちも人だ」とかいろいろ考えたが、うまく行かなかった。丹 4
田に力を入れる事もやった。上の方に力を入れ過ぎて、心臓を少し悪
くした。二食主義もやった。さまざまに方法を講じたけれども、結局
だめであった。
事務をとっていると、重役が3間ばかり向うから、暇にまかせて、
椅子にそり返って、腕組みをしてこちらを見ている。窮屈で、友達と
話もできず困った。今は重役はすぐそばにいます。前は胴ぶるいがし
て、顔が赤くなった。しかし立って思いきって、話し出してみると、
なかなか話もうまくできる。赤面恐怖の方は、やっぱり立ってお話し
になった方が、効果があると思います。
大西氏 私も赤面恐怖で苦しみました。昨夜は友人と一緒に寝て、
いろいろ私の煩悶を話したんですが、あまり煩悶が単純すぎると笑わ
れた。他の友人にも、子供みたいだとなめられた。僕はとても、有頂
天になるのと、悲観するのとの高低が激しいんです。
井上氏 いま、私は熱海の旅館の方をやっていますが、眠る時間
は、随分少ないものです。忙しい時は夜3,4時頃になって、一通り
見回りして、それから眠る。それでも朝は、7時頃に眼が覚める。
昔、不眠の時と、事実において、変わりはないようです。前には眠ら
ないと、身体にさわると聞いて驚いたが、先生から眠れなくともよい
といわれて、そのままにしているうちに治った。さっきの様に、信仰
によって、治るとか治らないとかいう問題よりも、山野井さんのよう
に実際の話をするとよくわかる。
馬場夫人 私も不眠で、1年くらい、○野病院へかかりましたが
「あなたのような人は、眠らなければいけない」といわれ、1時間で
も、多く眠ろうとすると、ますます眠れません。薬、電気、いろいろ
の事をやった。森田先生のところでは、薬など飲むからいけないとい
う。初めはいろいろと迷いましたが。何がなんだかわからなくなっ
て、しまいに眠るようになりました。自分の心の底から「眠れなくと
もよい」と、自分の身体を投げ出す心持にならなければ、眠られない
のであります。私は主人に亡くなられて、困った事もありますが、母
が、寂しかろうといって、婆やを雇ってくれましたとき、私は婆やを
養う環境でないからといって、断りました。人から「あなたは気が
強い」といわれましたが、気が強いのではありません。必要に迫られ
て、やむをえずやるのであります。神経質の病気の時は、自分の身体
の事ばかりが大事で、家族の事など、顧みる余裕がなかったが、今は
家の事が大事で、身体の事を、とやかくといっている暇がありませ
ん。裁判所や税務署などへも行かなければなりませんが、しかたなし
に、なんの事やら、わからずながら行ってみると、とにかく用が足り
て行きます。やっているうちに、なんでもやればできるという事がわ 5
かってくるのであります。
神に帰依するのが信仰
森田先生 今まで不眠で、最も長いのが、22年、また終夜全く
一睡もしないという満2年間がレコードであります。それは田舎の理
髪師で、食わずにはいられないから、昼間はしかたなしに職業をやっ
ている。それでべつにやせもしなければ、命をつないでいるのであ
る。一般の医者の「眠らなければいけない」というのと、少々違うで
はありませんか、不眠の事はなるたけ、私の著書の方で読んでもらう
事にして、ここであまり説明すると、時間が惜しいのであります。
チフス・肺炎とか、脳病・精神病の時には、不眠になる。それを通
俗雑誌や普通の医者が、逆にいって、不眠から精神病や身体病になる
ようにいうのが、そもそも間違いのもとである。重い病気になれば
食欲がなくなる。それを逆に、食が進まなければ、病気になるから、
うんとつめ込まなければならぬといえば、医学的知識をはずれた無知
というよりほかありません。
今日は面白い話も出なかったから、これから信仰の話でもしては、
どうかと思います。しかしこの様な話は理屈になって、実行から遠ざ
かるから、私はあまり皆さんにお話したくありません。なお実行とい
う事について、私は腹式呼吸とか、南無阿弥陀仏を一万遍唱えるとか
いう事は、実行の内に加えません。それは人生というものに、直接の
関係がないからであります。
さて、信仰という事は、一口にいえば、神様に帰依・信頼する事で
ある。
しからば神とはどんなものか、大は天体、雲霧世界(3千世界)か
ら、小は電子の活動まで、これを天文学的・理学的に研究・測定すれ
ば、しだいに宇宙の真理が発見されるようになる。いま太陽の大きさ
は、地球の3百30万倍あるという事を聞かされて、驚きかつ想像もお
よばないながら、天文学者の計算を信じて、これを疑わない。しかし
これは信仰とはいわない。ただ冷静な知識的の判断である。ある患者
は、中学の講義で、地球の回転の事を聴き、それ以来、もし自分が、
地球から振り飛ばされれば、粉微塵になるであろうという恐怖に襲わ
れて、強迫観念にかかった事がある。かくの如く、冷静な客観的の知
識ではなくて、吾人が主観的に人間というものの微弱という事に気が
つき、宇宙の極大にも、極微にも、その無限な事を思う時に、自ら驚
異の感情を起こさざるを得ない。この驚異の情から想像をたくましく
する時に、宇宙の神秘・不可思議から、神というものを考え出すよう
になる。
神は、つまり人間の思想の産物であるから、一口にいえば、自然力であり、 6