第59回札幌5巻を読む会         2020. 6.18    

森田正馬全集 第5300 第29形外会          昭和8128日から   

 なお、私がこの計画中、思いついた事であるが、人が別荘(べっそう)を持つ事

は、なかなか資本金も、経常費(けいじょうひ)も大きいものであろうと思う。私はこ

んな一挙(いっきょ)両得(りょうとく)の事はなかろうと思う。これはただ一般に、人の思いつ

かぬ事ではないでしょうか。

 この上に、私はもし寒中(かんちゅう)に、ここで患者を診察し、また入院もさせ

るという事になれば、ますます面白くはなかろうかと考えております。

  宿屋(やどや)番頭(ばんとう)修行(しゅぎょう)

 井上氏 伊勢屋(いせや)の事について、先生からお話があったのは、昨年3

月頃からでした。熱海の土地を買うかも知れないと、いっておられた

から、冗談かと思った。ついに事実になって、私はほかの商店員にな

っていたのを辞めて、5月から熱海(あたみ)に行き、小さい旧館で、前の伊勢

屋の主人とともに、経営の稽古(けいこ)をし、また8月から、11月初めまで、

紀州(きしゅう)白浜(しらはま)温泉で、番頭(ばんとう)の修行をしてまいりました(「神経質」第4

巻・第1号「白浜温泉から」の記事は、この事である)。

 今のところ、伊勢屋も、やって行けそうな見込みもつきましたか

ら、大いに皆様の後援(こうえん)をお願いします。形外会も、年に1、2回熱

海でやったら面白いかと思います。

 森田先生 伊勢屋の新築には、私の居間(いま)として、次の間つきの景色(けしき)

の最もよい部屋をとっておいた。しかし今度もよいお客様が来ると、

その居間を提供(ていきょう)して、私は(もと)旧館(きゅうかん)の悪い部屋に移った。やはり私共

も、経営の安心のできるまでは、もうけたいという気持ちになります。

 熱海の湯の湯ざめがこない事は、最も著明(ちょめい)で、これは私共に最も都

合のよい事です。

 早川氏 この前の形外会の宿題ですが、「早川は、先生が掃除(そうじ)をせ

よといっても、なかなかしない」という事でありました。家へ帰って

から、少しはやりました。しかし、あまり予言(よげん)(どお)りになるのも、いま

いましいと思いました。1週間ばかりは、自分も(さか)んに働き、学校の

方も、(したが)って具合がよくなり、原さんも、喜んでくれました。郷里(きょうり)

帰ってからも、大晦日(おおみそか)までは、汗の流れるほど働き、母など随分(ずいぶん)喜び

ました。お正月は、家族とともに、7日まで盛んに遊んで、そのうち

にまた、だらしなくなって今日に(およ)びました。

  息苦しくなるのは、(みずか)(あざむ)くため

 水谷氏 今夜の滑稽劇(こっけいげき)の事について、一言申します。私はこのごろ

学校の書物は読まず、カルタやトランプをやっても面白くなく、困っ

た心理状態になっています。歩いていても、息苦しくなる事もある。

こんな気持ちで、余興(よきょう)をやったら、かえって人に気まずい感じを与え                   1

はしないかと、様ざまに迷ったが、先生が(つね)に私に、「ともかくも手

を出せ」といわれますので、手をつけた事であり、苦しい苦しいと

思いながら、稽古(けいこ)したのであった。やってみると、案外うまくできま

した。これは、「ともかくも、手を出した」ことになるでしょうか。

森田先生 それは「手を出す」ことにならない。意味の違う事であ

る。もし君が学校の書物を読めば、それが手をだす事に相当(そうとう)する。君

が読まないのは、苦しくて(きょう)に乗らないからである。その苦しいなが

らに読む事を、「ともかくも」というのである。読書と、滑稽劇(こっけいげき)やト

ランプなどと比較すると、ツイツイその楽な方へ手を出す事になる。

そして「手を出せ」という標語(ひょうご)にかこつけて、わずかに自分を(あざむ)いて、

強いて我と我心を(なぐさ)めている。実は実際において、「ともかくも手を

出す」べき事には、少しも手を出していないから、稽古(けいこ)もなかなか苦

しいのである。歩いていて息苦しくなる原因はここにある。決して(うつ)

(ゆう)症などの特発性(とっぱつせい)のものではない。それは自欺(じぎ)(つみ)(ばつ)()せられた

と同じ価値のものである。もしこれを逆に、ともかくも、読書の方に

手を出しているならば、自ら心も快活(かいかつ)になって、勉強のできる上に、

その余暇(よか)に、滑稽劇(こっけいげき)でもカルタでも、みな面白く元気よくできる。そ

れは心に拮抗(きっこう)作用(さよう)の強い抵抗(ていこう)がなくて、自然に能率(のうりつ)のあがる事が面白

くなるからであります。

 網屋(あみや) 私は窃盗(せっとう)恐怖(きょうふ)で、人から疑われはしないかという事が苦し

みです。とくに月給日が恐ろしいです。

 森田先生 人が自分を疑ったり、悪く思ったりする事は、おのおの

その人の勝手であるから、なんともしかたがない。自分はただ疑われ

ない用心(ようじん)と、もし疑われた場合には、その証明をする工夫をしておく

とよい。

 また自分としては、よくよく自分の心の奥を観察して、自分にも(どろ)

(ぼう)根性(こんじょう)のある事を認め、一方には、いかなる心の拮抗(きっこう)作用によって、

割合(わりあい)に正直らしく大過(たいか)なく、世を渡っているか、という事を知る工夫

をすればよい。それで自分は、正直であるという信用の地盤(じばん)を、平常(へいじょう)

作り上げておくという事が必要である。チョイチョイと失敬するよう

な事をしてはいけない(笑)。

 また神経質の気質は、決して不正の事のできないという特徴(とくちょう)がある

から、平常(へいじょう)自分などは、神経質であるという事を表明しておく事も、

疑われない一策であります。        (午後9時半・散会)

            (神経質第4巻、第6号・昭和86月)

30回形外会   昭和8218

  午後3時開会。出席者43名、古閑・香川両先生の出席あ

  り。四方(よも)幹事の開会の辞についで、例の(ごと)く自己紹介あり。             2

 亀谷(かめや) 昭和2年の入院です。普通の(めし)をのみ(くだ)すのがおそろしく

て、一杯の御飯(ごはん)を食べるのに、1時間もかかり、いつでも、おつゆを

3杯も4杯も代えて、飲み下さなければなりません。お茶や水では、

いけないから厄介(やっかい)です。入院のため、北海道から、はるばる上京する

時も、汽車弁当を食べる事ができず、牛乳ばかりを飲んできました。

完全に治り、なんでもドンドン食べるようになった時は、本当に嬉し

うございました。

 大西氏 赤面恐怖で、3年前に入院しました。1度よくなったけれ

ども、再発して先生の別宅へ下宿させて頂いたが、自分のよくなら

ないのが、先生にきまりが悪く、逃げ出して、下宿へ引越しました。

大学の卒業論文を書くには、書いたけれども、あまりまずくて、これ

ではしかたがないと思い、出さない事に覚悟(かくご)したが、友人などの(すす)

もあり、ついに日限(にちげん)(せま)ったので、筆耕(ひっこう)(やと)い、友人も手伝ってく

れ、3人がかりで、徹夜(てつや)して書きました。ようやく出しましたが、そ

れでも通過(つうか)しそうであります。

 森田先生 大西君は、前に、僕がなんでもよいから、論文を書かな

ければいけないといったけれども、書く気にならないとかいって、な

かなか書かなかった。ついにお父さんから怒られて、ようやく書く事

になった。今度もこれを出すか出さないかについて、非常に迷った。

こんな時に、どうすれば最もよいかという事が、大西君には、どうし

てもわからない。こんなとき、水谷君ならばどうしますか。

 水谷氏 悪くとも、ともかくも、書いて出します。

 森田先生 イヤ、どうしても出す気になれず、困った時の事です。

水谷君は、前に大學の受験を断念(だんねん)していたのを、僕にいわれて、受験

して、合格した事がある。こんなとき、井上君ならばどうしますか。

 井上氏 まず先生に相談しますネ。

  なんでも相談に来る

 森田先生 その通り。大西君は、それを、いつでも、自分で解決し

なくちゃいけないと思っている。強情(ごうじょう)で、柔順(じゅうじゅん)という事の意味が、い

つまでもわからない。自分はいま迷いの内にある。「迷いの内の是非(ぜひ)

は、是非(ぜひ)(とも)()なり」である。自分の信頼する人に相談すればよい、

(きわ)めて平易(へいい)な事がわからない。

 ここの療法は、家庭的で、ここで全治した人は、みな僕を信頼し

て、縁談(えんだん)の事でも、なんでも相談に来るのが普通である。ある人は、

家庭の問題でわざわざ島根県から、相談のために上京して来た事さえ

もある。

 大西氏 上の人見せるのが、恥ずかしい気がしたんです。苦しん

だ最後に、友人のところに持って行った。自分はしまいには、友人の          3

いうままに、ひきずられた形に」なっていたんです。

 森田先生 こんな場合の()ずかしいのは、そのために自分が軽蔑(けいべつ)

れ、あるいは出世(しゅっせ)邪魔(じゃま)になるとかいうような事を想像する場合であ

って、それは同輩(どうはい)か、少しくらい、目上(めうえ)の人で、自分と利害(りがい)関係の(しょう)

(とつ)のあるような場合である。こんな問題は、一般には親か師匠(ししょう)には、

打ち明ける事のできるものである。ここで全治して、成績のよい人

は、しばしば親よりも、僕の方を信頼(しんらい)する事がある。これは体験すれ

ば、容易(ようい)にわかる事であるが、これを心理学的に説明するのには、ち

ょっと簡単にはできない。つまり大西君は、僕と利害関係の衝突(しょうとつ)があ

るし、井上君や水谷君やは、それがないのである。治らない人には、

こんな心持はわからないし、治れば、こんな事は(ただ)ちにわかる。

  頭隠(あたまかく)しの(しり)(かく)さず

 神経質が治るのは、欲望と恐怖との調和によってであるが、大西君

は論文を出すのが恥ずかしい、という恐怖一方に執着(しゅうちゃく)して、欲望の方

(かえり)みるにいとまがないので、まだ赤面恐怖が治っていない状態であ

る。

 普通の人ならば、大学を1年落第するという事は、親に対しても気

の毒であるし、先生や友人に対しても恥ずかしくなくてはならない事

である。大西君は、論文を出すのは恥ずかしいが、出さなければ恥ず

かしくないかと思っている。ほんの子供のような目先(めさき)ばかりの恥ずか

しさである。「頭隠(あたまかく)しの(しり)(かく)さず」である。

 子供の羞恥(しゅうち)(しん)は、人前が恥ずかしければ、逃げ込んで出てこな

い。極めて単純である。少しく大きくなれば、逃げるのが恥ずかしく

て、もじもじと(たたみ)などをいじっている。もっと年長(ねんちょう)すれば、恥ずかし

くないふりをしておうよう(かま)えている。つまり欲望と恐怖との拮抗(きっこう)

作用の調和が、しだいに発達するのである。大西君も、15にもなれ

ば、逃げるのは、きまりが悪い、論文を出さなければ恥ずかしいとい

う事に、気がつかなければならぬはずです(笑声)。この拮抗(きっこう)作用と

いうのは、つまり「したい」と「できない」との間の(まよ)いであって、

この迷いの複雑で大きいほど、精神の発達した修養の()んだ人であ

る。(まよ)いそのままの(うち)に、(さと)りがある。精神の幼稚(ようち)なほど、迷いは(かん)

(たん)で、(ただ)ちに一方に解決してしまう。神経質の患者は、迷ってはなら

ぬ、なんでも解決しなければならぬと考えるのが、第一の誤解(ごかい)の元で

ある。僕の教え方は、迷うのは(まぬが)れない、迷うのが我々の本当の心

で、我々は(まよ)いながらにする。迷いながらに、信ずる人にまかせると

いうのである。行方(なめかた)さん、(ぜん)(おし)えには、こんなような事はありませ

んか。

 行方(なめかた)氏 結局は同じなんでしょうけれども、ただ(まわ)りくどくやって          4

いるかと思います。どうすればよいかという実行の事になると、具体

的でないから、わからなくなります。具体的(ぐたいてき)の一つひとつの事実につ

いて、手引(てび)きしてくれません。先生のいわれるお話と同じ事もあっ

て、そんな時には、ピッタリと当たる事もあります。

  買えば80銭くらい

 水谷氏 今の大西さんのお話について感じたんですが、私も親や先

生に対して考える事が少ないと思います。今度も試験が10課目くらい

あるのを今まであまり勉強しなかったから、3、4課目受けようと思

ったのですが、先生におうかがいしたら、それはいけない10科目受け

るがよい。もし成績が悪かったら、その時には、また勉強するように

なるといわれ、もし悪くとも、この次から奮発(ふんぱつ)するだろうと思って、

やはり勉強しないでおります。そしていまごろ(とり)(かご)こしらえて、時

間をつぶしています。これは先生から、(つね)に「とにかく手をつけよ」

といわれる事と、また何もしないでいると、いらだたしくて、しかた

がないので、こしらえ(はじ)めたんですが、先生から、「骨折って作るも

のは、安く買う事のできぬものに限る。さもなければ、机上論的修養

で、本当の稽古(けいこ)にも、工夫(くふう)にもならぬ。不器用なのは、不必要な遊び

半分の仕事からの結果である。気がいらだたしいから、何かをしよう

という内向的な心では、実際の適切な仕事はできない。これに反し

て、これは買いたくも売ってはいないし、あるいは高くて買えないが

ぜひ欲しいという時のように、心が外向的になる時には、その仕事が

真剣(しんけん)になり、心の働きが適切になって、初めて何事にも、器用にな

る」というような事をいわれたのである。しかし手をつけたものをや

めるのも残念(ざんねん)で、10日ほどもかかり、ようやく作り上げました。試験

前に、すっかり時間をつぶしてしまいました。買えば80(せん)くらいの

ものです。

  この私を標本(ひょうほん)にして下さい

 亀谷(かめたに) 「(きゅう)すれば通ず」とでももうしますか、今度私は、東京の保

険会社の本社で使ってやるとの事で、北海道から、出てきたんです

が、体格(たいかく)検査(けんさ)で、不合格になりました。遊んでいるうちに、路銀(ろぎん)()

きてしまった。しかたがないから、保険の外交員になりました。その

前に、これは世間でも嫌う職業ですから、ここの先生にご相談したと

ころが、「職業に高下(こうげ)があるのではない。これに(たずさ)わる人の品性(ひんせい)によ

って、高下(こうげ)ができる」といわれたので、やる事になったが、1日に百

軒も回っております。想像したら、こんな事は、とてもできそうもな

い事ですが、やってみれば、案外できるものであります。

 熱田(あつた) 神経質の者は、入院するのを(きら)って、親たちが無理に入院

させるという事を聞きますが、私も入院したいのですけれども、おっ           5

くうでしかたがありません。死ぬるか、先生のところに行くか、二つ

に一つしかないと思いますけれども、先生のところに行って()たして

治るだろうかと思うと、なかなか決心がつきません。

 井上氏 私がここへ入院したのは、昭和4年ですが、初めて診察を

受けたのが、8月でした。普通の先生と(ちが)って、不愛想(ふあいそう)なので、どう

しょうかと迷いました。その後あちこちと、治療を(さが)していたが、結

局どこへ行っても治らないから、11月になって、ようやく入院する

事に決心しました。そのとき奥様のお話で、先生は大変に酒を飲まれ

るとの事でこんな先生で、治す事ができるだろうかと心配しました。

 入院後、起床第11日に外出し、20日頃に、先生から君はも

う、(ほとん)どよくなったが、ここへ来た時は、随分(ずいぶん)(うたが)ったろうといわれ、

具合(ぐあい)が悪かったけれども、そうですと答えました。

 入院中、先生から、「(だま)って見ておればよい」といわれたのが、10

日目くらいであって、その時はわからなかった。学校教育を受けた人

は、かえってこんな平易(へいい)な事がわからない。ただ(うたが)わしいままに、い

う事を聞いていればよいのです。体験した後には、なんでもない事で

す。私は読書恐怖そのほかさまざまの強迫観念でありましたから、も

し私に()た病状の方があれば、この私を標本(ひょうほん)にして下さい。

  療法の正邪(せいじゃ)を何によって(さだ)めるか

 森田先生 神経質に対する僕の治療法の理論は、今日(こんにち)のところ、ま

だ医者の間に、普遍的(ふへんてき)になっていない。神経科の専門家にさえも、ま

だわからぬ人が沢山(たくさん)にある。いわんや一般の患者が、この療法の(せい)

()治るか・治らぬかを知る事のできるはずがない。理論を聞いて、な

るほどと理解する事は(むずか)しい事である。もしなるほどと、感心するほ

どの事なれば、それは自分の知識程度と、いくらも(へだ)たりのない程度

のもので、(きわ)めて低級のものに相違(そうい)ないのである。

 しからば何によって、その正邪(せいじゃ)(さだ)めるか。まず(ぼく)の場合でいえ

ば、僕の著書(ちょしょ)や雑誌やで、大体(だいたい)見当(けんとう)がつくはずである。しかるに(こん)

(にち)種々(しゅじゅ)の精神療法の著書(ちょしょ)は、非常に(たくさん)にある。我々でもよくもかく

まで研究したものかと、感心するものがある。しかしこれなども、実

はあまり理論が立派過ぎて、実際とは、(まった)見当違(けんとうちが)いになっている。

これを見破(みやぶ)る事は、一般患者として、不可能といってもよいくらいで

ある。

 それなら学位を信用するか。これは当今(とうこん)博士はますます治療の実

際を離れて、はなはだ(あぶ)なっかしいものである。

 かくの(ごと)く、種々(しゅじゅ)個条(かじょう)()げて、理論的に人を批判(ひはん)しようとする

事は、なかなか困難(こんなん)であるが、ただ我々(われわれ)(じゅん)なる心・自然の心で、直

感的に判断する時は、かえってよく適中(てきちゅう)するものである。いたずらな 迷いの心を捨てて、    6