57回札幌5巻を読む会 2019. 10.17
森田正馬全集 第5巻290頁 第28回形外会 昭和7年12月11日から
模倣してはいけない、ただあこがれていればよい
浦山氏 ナッシュの話を聞きましたが、彼は倒れかかった洋服屋を
見て、自分の事は考えず、その洋服屋を引き受けて、店員に賃金をう
んとやって、事業を始めた。それが非常に成功して、模範工場といわ
れるようになった。私もつくづく感心しますが、私にはそんな事はで
きません。また私の知人で、ナッシュにならって、苦境に立っている
靴屋を断然引き受けて、割合にもうかった事実がある。その人は、絶
対に請求書を出さなかったけれども、割合に持って来るそうです。精
神修養によって、そんな境地に行けるものでしょうか。
森田先生 そういう風に、賃金をうんとやるとか、請求書を出さな
いとか、そんな事柄や文句を押し立てては、全くだめです。そんな事
は、成功した人の事を、後から考えて、ある特珠の事実を言い立てた
というまでの事で、それを模倣したり、そのモットーによってやると
いう事は全く、思想の矛盾になる事です。
エジソンは3日3晩も、不眠不休でやったという。それなら僕が、
3日3夜徹夜したら、発明できるかというに、そうはいかん。それ
は成功した人に限った事で、普通の人は、神経衰弱になるばかりで
す。
ナッシュの場合は、主人と雇われた人の気合いが、ピッタリ合っ
た時の事です。僕が水谷君に、入学試験を受けよといって、ピッタリ
成功した。それは水谷君であるからであって、誰でも、僕のいう通り
になるものなら、それこそ僕は神様になるでしょう。
我々はナッシュなりエジソンなりの話を聴けば、ただ感心して、偉
いなあと、あこがれあやかっていれば、いつしか自分も、向上心が発
動する。ただそのある事実を模倣しようとしては、思想の矛盾になっ
て、決していけないのである。
失業者に仕事のないのは
佐藤先生 病院に面白い患者がいます。意志薄弱の患者で、ちょっ
と見たところでは、変わりはないが、何もしようとしない。何もしな
いでは、退屈ではないかと聞けば、退屈ですという。退屈なら、袋張
りをしたらよいじゃないかといえば、「何も報酬をくれないから」と
いう。報酬はなくとも、退屈で苦しいなら、袋張りをした方がよかろ
うといっても、なかなかやらない。他の患者は、1日3千枚も張る
のに、この男は3百枚も張ると、すぐ菓子や煙草を請求する。それで
誰もこの患者に、仕事を頼むものがなくなる。失業者が仕事がないと
いうのも、こういう関係ではないかと思う。 1
森田先生 本当にその通りです。一番いい模型です。以前ここの入
院患者に「入院料を払って、仕事をするのは、合点がいかん」といっ
た人があった。僕が、それなら、入院料に相当する有害な仕事をした
らよかろうといったら、有益と有害との見分けが、なかなか難しいも
のとみえて、その後は熱心に仕事をするようになった。
退屈するなら、足踏みしたり体操したりするよりは、袋張りなり雑
巾がけなりをした方がよい。同じ事なら、有効で、人からも喜ばれる
事をする方が、一挙両得である。
芸術は実用に譲歩する
鈴木氏 坪井さん、以前の納所さんの話は、どうなりましたか。
坪井氏 あれは観察して見ると、少し薄のろで、いばってみたい気
持があるらしい。以前は師匠に叱られて、ヘイヘイしていたが、僕が
若い住職なもんだから、おうようにしていると、つけ上がるのです。
この間、一つテーブルを買いました。安いのと、高いのとで、非常
に迷った。結局は、どれを買っても、悔いを残す事は、同じであるか
ら、安いのを買って、後悔した方が得だと思って、安い方を買った。
案の如く、よいのを買えばよかったと後悔しました。
反物など沢山だして、あれやこれやと探すとき、結局ファースト・
インプレッションのよいものを、たいていの人が買っているらしい。
そこで私は、あれこれと迷っているのもおかしいから、その時のファ
―スト・インプレッションによって買う事にしている。やっぱり、研
究して買った方がよいでしょうか。研究しても迷う事は同じだから、
第一印象を取った方がよいでしょうか。
森田先生 第一印象が、一番よく当たる事は、確かのようです。そ
してそのうえを、いろいろと選択研究して、再び元へもどった方が、
正しい判断の仕方です。つまり第一印象は、これが学問上の仮説に当
たる。そしていろいろ実験・研究してこれを証明する。しまいにその
仮説が、真理あると断定されるようになると同様であります。
しかしデパートの見切り物売場で、立派な衣装の婦人が、やたらに
引っ張り回しているのは、あまり上品ではないようです。自分の都合
ばかりで、店の人に迷惑をかけてはいけない。我々は今いう通りの複
雑な判断を、できるだけ迅速に、周囲の人に迷惑にならぬようにしよ
うとするから、なかなかズボラではできない事です。
ゲーテが、芸術は「実用に譲歩する」という事をいってある。まず
物を買うにも、実用が第一である。その次が芸術であり、我々の好み
である。好みを無視するのは殺風景であるから、これを捨てる事はで
きない。
林檎の落ちる馬鹿げた事を気にしたから、ニュートン 2
の発見ができた
今ここでちょっと、赤面恐怖で、最近、全治退院した人の日記を批
評してみます。この人はいま東大の法科生ですが、将来の志望が気に
なるという。「近頃、官吏の俸給とか、実業家の収入などという事を
研究するようになったが、こんな事に気をつかっているのは、自分ば
かりかと思う。いたずらに将来の事にとらわれて、現在の努力を忘れ
てしまう。しかしそれを抑える事ができないで、気が変になりそうで
ある」とかいう意味の事を書いてある。要するに、これは自分の疑
い、迷いになりきる事ができないで、「人は平気であるのに自分だけが
苦しい」という第一前提の誤診から、この考えを否定しよう、この苦
痛を逃れようとするのが強迫観念の出発点です。
しかるにまだ一方には、自分の思惑を人と比較する必要は少しもな
い。林檎の落ちるのを気にする人はないだろう。こんな事を気にして
はならないといえば、ニュートンの発見はないはずです。学者でも、
哲人でも、みな自分独自の疑問・迷い・煩悶があって、初めて立派な
成功がある。そこに唯我独尊という事もある。平々凡々で、なんの疑
問も煩悶もない人に、古来成功した試しはありません。卒業後の事を
非常に心配する人は、必ず出世のできる人に相違ありません。
(夜9時前・散会)
(『神経質』第4巻、第4号・第5号、昭和8年4~5月)
第29回形外会 昭和8年1月28日
新 年 会
午後3時開会。出席者60名。高良博士、佐藤・野村両先生出
席。山野井副会長の開会の辞についで余興に移る。
余興のいろいろ
1 桂米丸氏の落語「ネギマの殿様」
咄の筋は殿様が、向島へ月見に出かけ、居酒屋に入る。ネギ
マと安酒をおいしがって帰ったはよいが、ネギマをニヤアと聞
き違え、安酒をダリと覚えて、お屋敷に帰りそれを料理番に命
じて、料理番を困らせるところである。
次に会員の余興
2 森田大尉の首くくりの芸
3 山野井氏の童謡
4 長谷川・末政両氏のお国自慢安来節
5 清正と母と虎のはち合わせ遊び
まず舞台の中央に、隔ての衝立を置き、両方に紙折り兜と杖
とを備えて置く。両方に1人ずつ、衝立の陰に隠れ、審判者の 3
1、2、3の合図で、両方から顔をつき出す。このとき兜をか
ぶれば清正、杖を持てば母、四っん這いになれば虎で、清正は
虎に勝ち、虎は母に勝ち、母は清正に勝つのである。なかなか
面白い座興で、我も我もと競って、舞台に出る。
6 職業当て遊戯
これは2人ずつ出て、おのおのの背に、職業を書いた紙を張
り、互いにこれを見て、相手の無言の身振りから判断して、自
分の背に書かれた職業をいい当てるのである。説教強盗・チン
ドン屋・森田先生・落語家等が面白いものであった。
7 森田先生の綱渡り曲芸
チョン髷のカツラをかぶり、黑紋付きに赤だすき、尻はしょ
おりで、日傘をさした身軽な出で立ち、口上と曲芸とをみなお
1人でやられる。広瀬夫人が、三味線方である。
(口上)「鳴り物を鎮め置きまして、太夫お目通りまで正座まーで
控えさせます。ハッ」と右手をかざした様おかし。「まずは最
初、綱調べ御座い」畳の上を、両足を順次に、ずらせ進む
様、その姿勢・態度全く綱渡りのようである。
「次は鶯の綱渡リーイ、チンチン ~ ~ 」、両足を同時に、
小刻みに、早調子で進行するのである。
「次は千番に1番の兼ね合い、義経八双飛びーイと御座います
れど、太夫チト喘息の気味に御座りますれば、次なる芸を差し
換えて御覧に入れます。ハッ」といった調子で、思いがけない
先生の芸のうまいのに、一同どっと喝采した。
8 大詰・赤面恐怖一座・滑稽劇「三方一両損」
配役 大岡越前守 江越君(入院中)
同心 古賀君(入院中)
家主 石井君(全治退院者)
吉五郎 水谷君(全治退院者)
金太 長谷川君
第一幕
幕あく。舞台の右手に、屏風を立てて、吉五郎の家の仕切りにし
てある。
左手の花道より、吉五郎・酔歩蹣跚としていで来る。
歌「ア―、おけさ、踊りに、ツイうかうかとよ。月も踊るよ。佐
渡の夏」
吉「ウーイ。いい気持だぁ。ブルブルッ、やけっぱらに、寒い風
が吹きやがる。面は、ほてりやがって、足はブルブル震えやがっ
て、まるで赤面恐怖みたいじゃねえか。見損なうない。畜生め。お 4
神酒が上がってるんだぞ。やれやれ、やっと家へ、けえりつきやが
ったな。ブルブルッ、早く一杯やらなきゃぁ、やりきれねえや」
家の中にはいる。
「親方め、耄碌しやがったと見えて、俺に金3両くれやがった。こ
れで2,3日うんと飲めるってえもんだ。ありがてえ、どれどれ」
腹掛けを探る。
「はぁて、ねえぞ、落っことしやがったかな。それとも掏られたか
な」
袢てんを脱いで、バタバタと振り回す。
「ねえや、こりゃぁ、奇妙奇天烈、テレツクテンだ。正月早早、め
でてえ事をしやがった。何を畜生め、まだ酒の1升や2升はあらぁ」
1升徳利を出して、大椀になみなみとついで飲む。
「アーうめえ。酒は燗でも冷でも、うめえや。酒飲めばぁて。知っ
てるかってんだ。人の心も春めきて、借金取りも鶯の声ってんだ
よ。アアいい気持になりやがった。この勢いで、極楽の夢でも見る
か」
グウグウグウ
このとき花道より、左官の金太酔っぱらって千鳥足で出て来る。
歌「都々逸ぁ、野暮でぇも、やりくりゃ上手、アアコリャ・コ
リャ。今朝もななつやでぇ、ほめられたぁー」
金「おい、兄弟ぇ、どうでぇ。おい、為公。あれ野郎帰えりやがっ
たな。俺を抜かして帰える奴があるかってんだ。ふざけてやがる」
千鳥足に歩いたが、何かにつまづいて、ころがる。
「アッ痛え。気をつけろ。こん畜生。アレッ、財布が落ちてやが
る。いい加減に、金を使ってしまったと思ったら、財布をひろった
ぜ。鎬の財布に50両という事があらあ。中を改めて見るか。金が
3両に、書きつけがへえっていやがるな。なんだ。神田小柳町・大
工の吉五郎、この野郎が、落としやがったんだな。しかたがねえ。
帰り道だ、届けてやるとしようか。チェッせっかく酔うた酒も覚め
ちまう。江戸っ子は、つれえな」
歌「アー2度と、ほれまい他国の人によーか。末は、烏の泣き別
れ」
金「アアここだな。おーい。御免なせえ。吉公、いるかあ」
吉「だ、だ、誰でえ。人がいい気持ちで寝ているのに、戸口で吠え立
てるのは、だ誰でえ。用があるなら、とっととへえんねえ」
金「ウー臭せえな。用でもなくちゃ、こんな汚え家にはこねえや」
吉「乱暴な奴が来やがった。なんだ手前は」
金「俺ぁ神田白壁町・左官の金太ってえもんだ」 5
吉「金太か。道理で強そうな格好してやがる。だが、金太にしちゃ
ぁ、赤くねえじゃねえか」
金「手前みてえな、赤面恐怖じゃあるめえし。まだうでねえんだ」
吉「生で持って来やがった。何か用があるのけえ」
金「何か用があるかじゃねえ。手前柳原で財布を落っことしたろ」
吉「何をいやがるんだ。柳原で落っことしたと知れていりゃぁ、拾
ってくらぁ、どこで落っことしたか、わかるけえ」
金「たしかに、手前のに違えねえ。実は、俺が拾った。中を調べて
見ると、金が3両に、実印に書きつけがへえっているんだ。サア
手前の金だ。取っておけ」
吉「冗談いうない。べらぼうめい。いったん俺の懐から出たもんだ。
二度と再び、敷居をまたがせる事はできねえ。手前にくれてやる
から持って行け。まごまごしていると、どっ腹蹴破るぞ」
金「冗談いうない。手前の金と知れているものを、俺が持ってゆけ
るか。考えてみろ」
吉「オヤオヤ持って行かねえな。こん畜生。やるといったら、持っ
て行け。持ってゆかねえと、ぶん殴るぞ」
金「べらぼうめ。金届けてやって、殴られてたまるけえ。殴れるも
のなら、殴ってみろ!」
吉「吐かしたな。誂えなら、殴り倒してやる」
ポカリッ、横面をしたたかぶん殴る。
金「あっ痛え。やりやがったな。こん畜生。ふざけた事をしやが
る。俺だって、殴られっ放しじゃねえ。この野郎ッ」
殴り返す。
吉「何をしやがる」
大立ち回りを始める。ふすまを蹴破る。家主、あわてふためいて出
てくる。
家主「ちょっちょっとまちねえ。地震かと思って、とび出して見り
ゃぁ、この始末だ。原っぱと間違えちゃいけねえ。喧嘩するんな
ら、仲良く喧嘩しろ。ふすまなど破りやぁがって、どうしてくれ
るんだ」
吉「手前が新規に、こさえるんだよ。しみったれめ。手前なんぞ、
でしゃばらずに、ひっこんで、嬶の尻にしかれてろ!まごまご
しゃがると、長屋ストライキをおこして、肥しをよそへ運んで、
向う10年間、店賃収めねえから、そう思えッ」
家主「店賃一つ入れねえで、損害ばかりかけやがる。一体なんで喧
嘩するんだ」
金「べらぼうめ。好きこのんで、喧嘩するんじゃねえんだ。実はこういうわけなんだ」 6
58回札幌5巻を読む会 2020. 2.20
森田正馬全集 第5巻295頁 第29回形外会 昭和8年1月28日から
金「べらぼうめ。好きこのんで、喧嘩するんじゃねえんだ。実はこ
ういうわけなんだ」
家主「アアそういうわけか」
金「アレッまだ何もいわねえじゃねえか。俺が今夜、柳原を通ると
つまづいたものがある。拾ってみると、財布なんだ。中に金3両
と、書きつけがあって、神田小柳町・大工の吉五郎とある。それ
から俺がその金を持って来たんだ」
家主「感心だ。着物はボロを着ていても、腹は錦でなけりゃぁいけ
ねえ」
吉「ぼろ錦かい」
金「手前の物だから、取っておけと言ったら、冗談いうな、いっ
たん俺の懐から出たもんだから、縁がねえと吐かしやがる。癪に
さわるじゃねえか」
家主「もっともだ。怒ってやったか」
金「怒ったとも。俺だって、悪い了簡で持ってきた訳じゃねえ。ホ
ンの出来心で持って来たんだから、どうかとっておいてくれと」
家主「変な怒り方するじゃねえか」
吉「受取れるかってんだ。よく考えて見ろ。いったん落としたもの
を、懐へ入れる様な事があっちゃぁ、先祖の助六にすまねえ。持
って帰れ。手前も職人じゃねえか」
金「当たり前だ。それとも殿様に見えるか」
吉「ウン殿様蛙そっくりだよ」
金「この野郎ッ」殴ろうとする。
家主「マアマア待ちねえ。いい考えがあらぁ。あの有名な大岡様に
裁いてもらう事にしようじゃねえか。のう金太さん。おめえも腹
も立つだろうが、今日のところは、俺の顔を立ててくんねえ」
金「しかたがねえ。卵みたいな手前の顔は、立てにくいが、今日ン
ところは、立ててやらぁ。吉五郎どうだい。行こうじゃねえか。
俺が訴えてやらぁ」
吉「訴えて見ろ、白州が怖くて・引っ込んだといわれちゃ、先祖の
助六様に、申し訳がねえ。行こうじゃねえか」
第2幕
裁きの場。奉行所の中。白州には、家主・吉五郎・金太が平伏し
ている。大岡越前守は、まだ出ていない。同心が、巻羽織りをして
控えている。
「シーッ、シーッ」 1
吉「オイオイ家主さん家主さん。誰か白州で、赤ん坊に小便をやっ
てるぜ」
家主「馬鹿な事をいうない。いま御奉行の大岡様が、これへお出ま
しになるんだ。頭を下げて、頭を」
吉「へえ」
大岡「アア、コリャコリャ。神田小柳町・大工吉五郎とは、その方
か。苦しうない。面を上げい。面を上げい」
吉「表はいま閉めたばかりで」
同心「コレコレ、馬鹿な事を申すな。面を上げろ。面をあげろとい
うんだ」
吉「脅かすない、べらぼうめ。盗賊や泥棒をして、ここへ引っ張ら
れて来たんじゃねえんだ。3両の金を落として、受取らねえとい
うんで、願われたんじゃねえか。脅かすところがあるか。何を言
ってやがるんだ。しみったれめ」
家主「コレコレ、役人と喧嘩する奴があるか。何がしみったれだ」
吉「しみったれじゃねえか、武士の癖に、裾をはしょっていやがる」
家主「余計な事をいうな。笑われらぁ。黙って頭を下げていりゃぁ
いいんだ」
吉「いま上げろというから、上げたんじゃねえか。またさげるのか
い。頭だからよいけれども、米だと相場がくるうぜ。へえ上げま
したよ」
大岡「その方、いんぬる日、柳原において、金子3両取り落とし、
これなる金太なる者が、拾いとり、その方宅へとどけつかわした
るところ、金子受けとらず、乱暴にも、金太を打擲に及んだと
いう願い書の趣であるが、それに相違ないか」
吉「へえ、どうもすまねえ。故意と落としたわけでも、なんでもね
え。つい粗忽で、落としてしまったんだから勘弁しておくんなせ
え。先日家へ帰ってみると、親方からもらった金3両をいれた財
布がねえ。正月早早めでてえ事をしやがったと思って、1杯のん
でいると、この野郎が、おせっかいに、持ってきやがって、これ
は手前の金だってえから、俺は冗談いうなといったんでげす。そ
りゃ俺の懐にへえっていりゃぁ俺の金だが、手前のふところに入
って見りゃぁ、手前の金じゃねえかといったところが、この野郎
が、いやそうでねえ。この中には神田小柳町・大工吉五郎という
書きつけがあると、ゆすりがましい事を吐しやがる。手前にくれ
てやるから、持ってゆけとこういったところが、持ってゆかねえ
ってんで、持って行け、もって行かねえの押し問答だ。じれって
えから、ひっぱたくぜといったら、ひっ叩けるなら、ひっぱたい 2
て見ろとこういうんでげすから、そいつをまたひっ叩かねえで
も、物に角が立つだろうと思って、ついポカリと」
大岡「左様か。面白い奴じゃな。こりゃぇ金太、何故その方は、こ
のおり、3両の金子、吉五郎より申し受けぬのじゃ」
金「オイオイ冗談いっちゃいけねえぜ。オイ大将」
大岡「コリャコリャ。天下の裁断に、冗談という事があるか」
金「真剣かい。真剣なら、俺の方でも、いってきかせてやらぁ、の
う」
同心「のうとはなんだ」
金「そうじゃねえか。この財布の中に、書きつけがあるから、当人
のところに届けてやったのだ。もし書きつけがなくても、届塲に困
っていたとしても、往来におっこちていたものを、拾い取ったっ
てんで縛るのが、お前さんの稼業だろう。ねぇそうしておいて、
自身番に届けろとか、役所へ届けろとか教えて下さるのが、公儀
の御役人だ。金は、たった3両だよ。こんなものを猫婆にする様
なしみったれた了簡なら、いまどきわしゃ棟梁になっていらあ。
どうかして棟梁になりたくねえ。俺ぁ出世する様な災難に出会い
たくねえと思えばこそ」
泣く。
家主「泣いていやがる。なんだって泣くんだ」
金「泣きたくもならあ。どうかして、店賃を1年も2年もためて見
てえと」
家主「冗談いうない」
大岡「これこれ捨ておけすておけ。両人とも正直な奴じゃ。しから
ばこの3両の金子、双方いらんとあらば、越前あずかりおくがよ
いか」
金「どうも、すまねえね。あずかっといておくんなせえ。頼むぜ、
大将」
家主「また大将という。殿様の前だ。神妙にしろ」
大岡「ついてはその方どもの正直にめで、2両づつ褒美をつかわ
すが受けてくれるか」
家主「恐れながら家主どもより、当人になり代わって、御礼申し
上げます。私ども町内に、かようの者出ました事は、ほまれに
御座います。有難く御礼申し上げます」
大岡「双方とも受けくれたか。この度の調べは、三方一両損と申す
のじゃ。解らんければ、越前申しきかせる。吉五郎その方受けお
かば、3両そのままになる。金太ももらい受くれば、3両。越前
もあずかりおけば3両。しかるに越前1両を加え、双方へ2両金 3
ずつつかわす。これを三方一両損と申すのじゃ。相わかったか」
家主「恐れ入りましたる御取り計らい、有難い仕合せに、存じ奉り
まする」
大岡「わかったら、一同立て、アアまてまて、大分調べにひまどっ
た様じゃ。両人とも、さだめし空腹に相成ったであろう。コレコ
レ両人に酒肴をとらせよ」
同心酒肴を運んで来る。
吉「オイ金太。有難えじゃねえか」
金「大将話せるのう」
大岡「吉五郎、今日の酒は、兄弟分の盃じゃ。予が仲裁人じゃ」
吉「へへっ」
同心、吉五郎の盃に、なみなみとつぐ。吉五郎飲む。盃を金太に
渡す。
吉「金太、手前と俺とは、今日から、兄弟だそうな。俺が喧嘩する
時にぁ、とんで加勢に来るんだぞ」
金「頼りねえ兄弟だな、どうも。よし俺も江戸っ子だ。手前をぶん
なぐる奴ぁ、片っ端から、俺がどてっ腹蹴破って、2つに折っ
て、鼻かんでやらあ」
吉「ありがてえ。それでこそ兄弟だ。その代りナ、俺も手前が、
夫婦喧嘩する時ぁ、とんで行って、一緒に手前の嬶をぶんなぐっ
てやるからな」
金「痛えところをいやがる。俺は嬶には、頭が上がらねえんだ。呑
もうじゃねえか。大将、遠慮なくいただきやすぜ」
大岡「遠慮なくのむがよい。歌うがよい。予はいままでかような愉
快な裁きをした事がないぞ」
金「うめえや。殿様の酒はたけえだろうな」
吉「手前ばかりでのんでおらずに、家主さんにもさしなよ。涎なが
してやがる」
金「家主さん。心配かけたな。どうも」
家主「俺もこんな面目をほどこした事はねえ」
吉「あーいい気持になりやがった」
金「歌おうじゃねえか」
大岡「アア歌うがよい。今はやりの草津節はどうじゃ。越前扇をも
って、拍子をとってつかわす。ワンツースリー」
歌。金太・吉五郎・家主・同心・一緒に歌う。越前守もしまいに
歌い出す。
歌「草津よいとこ、一度はおいでドッコイショ。お湯の中にも、コ
リャ花が咲くよ、チョイナチョイナ。花が咲くとは、そりゃ嘘です 4
よ。ドッコイショ、4百4病のコリャ薬だよ。チョイナチョイナ」
まず金太たって踊り、終わり方に、吉五郎も家主も、同心も越前
守も、みんなおどり出す。 幕
喜劇を終わって、座談会に移り、まず例の如く、会員の自己紹介か
ら始めた。
伊勢屋開業の因縁話
森田先生 この機会に、私が今度、伊勢屋を経営し始めたという事
の因縁話をしようと思います。まず私の今年の年賀状を読んで見ま
す。
賀正 昭和8年正月
人の成り行きというものは、面白いものです。今度私は、ツイした
行きがかりから、熱海海岸通り・温泉旅館・伊勢屋の主人になりまし
た。暮れには、大勢の職人が夜を日についで働きました。大晦日に、
無理やりに開業。たちまちお客の申し込み多く、正月松の内は、超満
員で、女中部屋までも占領され、従業員は忙しくて、殆ど寝る時があ
りません。
私がかくなった因縁は、なかなか話の種にもなる事で、あるいは雑
誌「神経質」で、御吹聴する機会があるかも知れません。これから
は、私は「どこがお悪いですか」と、「ヘイ、いらっしゃいませ」と
の使い分けをすることになりました。
私は暮れから、正月にかけて、熱海で、この方の世話を焼いていま
したので、ついお年賀も忘れておりました。こんな事では、お客あし
らいの事も、如何かと存じますが、どうか大目に、おゆるしをお願い
申し上げます。
なお今度、私の気に入りましたのは、12坪という大きな浴場の心
持よい事と、「砂むし」と称するポカポカと暖かい部屋で、原稿を書
いたり、碁・将棋をしたりする事であります。多くの方が、別荘とい
うものを持たれます。私は東京が寒ければ、早速ここににげます。ち
ょっと電話をかけて、出向きさえすれば、従業員が万事の世話をして
くれます。なんの不自由もありません。旅館の副作用として、どんな
別荘よりも、安楽百パーセントかと存じます。
今この伊勢屋で働いているのは、ここにいる井上君と浦山君とで、
2人ともここの入院患者の中で、ごく成長のよかった人です。たった
これだけの神経質という関係で、神経質の真面目・正直という事を標
準にして、この大金の資本を要する旅館経営をまかせるという事は、
よほど面白い因縁でなくてはなりません。しかもこの二人は、ともに
旅館事業などには、まったく経験のない素人であるにもかかわらず、
私共が心を許して信頼するという事も、面白い事ではありませんか。 5
私が初めて伊勢屋を知ったのは、昭和2年7月の事です。このとき
私は家内や子供等とともに湯ケ原温泉に行くつもりで、汽車に乗った
ところ、偶然に浦山君に会った。浦山君の親戚が熱海にあるという事
で、湯ケ原を中止して、伊勢屋に泊ったのである。
1昨年の暮(昭和6年)、避寒のため、久し振りに思いたって、妻と
ともに伊勢屋に泊った。ところが家は汚らしい、畳はすっかり真黒
である。私は早速、畳の表替えをさせた、私のつもりでは、それは茶
代の代わりにやるのである。そのような事から、宿のお婆さんから、
親しく思われたに相違ない。次に昨年の2月、例のごとく避寒で、伊
勢屋に泊っていたある日、突然にお婆さんが、泣きついて来た。い
ま5日以内に千五百円のお金がなければ、十人の家族が路頭に迷わな
ければならぬという。
この時に、私がツイ口を滑らせたのが、よくなかった。それは、
「もし浦山君からでも、頼まるればともかく、こんな大金を、出し
抜けに、他人の自分にいってきたって、しかたがない」といったこと
である。すると、お婆さんは、話の途中に、なんの挨拶もなく、トン
トントンと2階を降りて行って、それきりであった。その翌日、夜遅
く、浦山君が、大阪から到着した。それはお婆さんの至急電報によっ
てであった。私もしかたなしに、その金を出す事になり、行きがかり
上、ツイツイ深入りして、昨年の5月、2百坪の地所を私が銀行から
引き取る事になり、引き続いて、今度この新築ができるようになった
のである。この金は、私の国もとの母や、兄弟中の金を寄せ集めた
り。銀行から借金したりして、ようやくととのえたのであります。
新築には、暮れの31日に、開業早々超満員で、宿代が安くて、料
理のよいのが評判だそうです。いま従業員は、料理人・番頭・女中等
は、経験のある者を雇ったのですが、主任になるものは、みな素人
で、収支計算はこの後どうなるか。とにかく大きな事になった。私の
方針は、実質的に真面目にやるつもりで、決してもうけるとかいうよ
うな考えを持ってはならぬと戒めております。サービスといっても、
やたらにお辞儀や愛敬をふりまいたり、するにも及ばぬ世話を焼いた
りするのではない。掃除がよく行きとどき、布団や浴衣やは、常に清
潔に、食事なども間に合うようにと、必ず実際的でなくてはならない。
お客も十人十色でいろいろありましょうが、いたずらに無理な要求が
あったり、風俗の悪かったりするものまでも、誰も彼もと歓迎する必
要はない。たとえ宿屋という商売でも、少なくとも真面目な人生観の
指導者になろうという見識をもっていて、さしつかえない事であり、
またそれによって、決して破産する事はなかろうという、自信をもっ
てやるのであります。 6