第4回 形外会  2


 

 また自覚について、今日は赤面恐怖の人が多いようであるから、そ

の方にあえて例を探ってみよう。赤面恐怖の人はまず自ら顧みて、自

分は成功したいとか立派な人間になりたいとかいう気があるか、ない

かという事を自覚するべきである。この事ももとより神経質者の愚知で

観察する時には、自分にはそんな欲望がなくなったように思い違える

事もある。実際、神経質が深く自己内省する時には、自分の腹がはっ

ているか、へっているか、食欲があるかないかという事さえわから

くなる事があるのである。

   まず自分は赤面恐怖を治したい。なぜ治したいか。、もし偉くなり

たくなければ、何も骨折って治す必要はない。なんの目的に対して、

どのように治したいのかの予定判断をなるべく正確に設計すればよ

い。ここの家でも昨日、畳換えをしたが、これに対しても、それには

客間にするか、仕事部屋にするか、おのおのその目的に対して換え方

が違う。人の住む必要もないところに畳換えはいらないのである。

    今日の外来の診察で、今ここにおられる方であるが、十三年前から

発病し、人の顔が自分に対して忿怒(ふんど)しているように感じられ、不快に

なる事を気にするようになり、また五年前からその上に、人の咳払い

が、自分に当てつけるように感じ、最近三年間はこれを気にするため

に、耳にゴムの栓をなし、家に閉じこもりて外出する事もできないよ

うになった。

 これは読書恐怖や赤面恐怖と同じように、一つの強迫観念でである

が、要するに自分は何を目当てに生き長らえているか、ということの

自覚が足りないから起こる事である。

( 中 略 )

この如く自覚の上の行いならばよいけれども、強迫観念は全くこれ

と反して、ああもしたいが苦しくて恐ろしい、という欲望と恐怖との

間に行きつもどりつ、ウロウロと戸惑いの有様であって、幾年たって 

もなんのうるところもない。ただ苦悩にさいなまれるだけのものであ

る。されどもこれが強迫観念であり、神経質であった時には、その本

来性として一度自覚する事ができさえすれば十年二十年の迷いでも、

必ず一朝にして悟る事ができるのであります。

 重ねていう、自覚する事を知らないでいたずらに目前の思想の矛盾

に迷っているものは、いたずらに物を大切にしなければならぬ、とい

う事ばかりに屈託して、土塊と宝物との見境さえもつかなくなる。こ

の得難く立派な素質として、世に生れ出たる神経質の一生を酔生夢死(すいせいむし)

に終わらせるや否やという事が、一にこの自覚するや否やという事に 

帰着するのである。

 なお重ねていいたい事は、佐藤君の読書恐怖のような苦しみに対し

て、あまり気早くけなす事を遠慮しつつ、なるほどやっぱり苦しいか

なあ、とお互いにしばらく考え合うだけの時間と余裕と思いやりとが

あって欲しいものである。もしこの事ができれば、それが強迫観念の

治る第一歩に入るのである。

( 後 略 )


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