83回 女性の為の札幌・巻を読む会   2022. .15

森田正馬全集 第5 361 ・第33回例会   昭和8528日から

(こい)しき人を夢に見るには                   

(たと)えば、正月に、宝船(たからぶね)の夢を見ようと、一生懸命に、その事ばか  

りを考えて寝ると、(けっ)してその夢は見ないで、(まった)く思いがけない夢を

見る事が普通の場合である。それは我々の連想(れんそう)は、(けっ)して一つ事にの

停滞(ていたい)していないで、自由に流転(るてん)して行くからである。それで、眠

が少し(あさ)くなった時に、その流転中(るてんちゅう)のある観念(かんねん)が、感情を刺激(しげき)して、 

意識を呼び起こす程度(ていど)になった時に、それが夢になる。もしその刺激(しげき)  

弱過(よわす)ぎれば、意識なく、または(ただ)ちに忘れるところの観念(かんねん)連合(れんごう)であ

り、強過(つよす)ぎれば、(せい)(かく)して、夢が(やぶ)られるのである。

 この連想の流転(るてん)有様(ありさま)我々夜、寝付(ねつ)く時に、静かに自分の心

を観察すれば、容易(ようい)にわかる事である。例えば宝船(たからぶね)の事を考えている

と、七福神(しちふくじん)布袋(ほてい)(ちょう)(まん)開腹術(かいふくじゅつ)という風に変化して、医者ならば

宝船(たからぶね)は見ないで、外科(げか)手術(しゅじゅつ)をして、汗を流す夢を見るのである。

 これと同様に、夜寝る時に読んだ本が、面白くても、その本を閉じ

れば、連想は(すで)流転(るてん)てしまって、朝、雨の音を聞くとか、納豆売

りの声を聞くとかすれば、かえって眠りを催す(もよおす)連想ばかりになると

う風である。すなわち朝起きには、またそれに相当(そうとう)する衝動(しょうどう)を起こす

刺激(しげき)が必要であるのである。

 なおついでに、自分で思う通りの夢を見る場合の事を、ちょっとお

話してみます。それは、布留(ぬのどめ)君の好きな「条件(じょうけん)反射(はんしゃ)」という事の心理

で、説明する事ができるかも知れません。

 小野小町(おののこまち)の歌に「いとせめて恋しき時は、ねば玉の夜の(ころも)をかへし

てぞ寝る」というように「寝巻を裏返しに着て寝ると、恋人(こいびと)の夢を見

る」という(ことわざ)がある。これは私も実験はないが、昔、中学時代に「帯

枕元(まくらもと)置いて寝ると、(へび)の夢を見るという事がある。(おそ)らくはこ

れは「ダラシナクしてはいけない」という戒め(いましめ)かと思うが、私はこれ

(ため)して見たところが、12回、(へび)またはそれに似た(おそ)ろしい夢を

見たことがある。しかしその後、遠足(えんそく)などのとき、なんの気なしに帯を

枕元(まくらもと)に置いて寝ても、別にそんな夢を見ない。ただ(ため)す時にのみ、と

くに見るのである。

 これは(おび)(へび)との連想(れんそう)によって、寝苦(ねぐる)しいという事から、その恐怖(きょうふ)

(しん)開発(かいはつ)され、または裏返(うらがえ)すという事と、恋人(こいびと)との連想(れんそう)によって、あ

るいは寝巻(ねまき)窮屈(きゅうくつ)ということから、恋人(こいびと)に対するあこがれが、開発(かいはつ)さ         1

れるかも知れないのである。すなわちこの場合には、観念(かんねん)の自由連合(れんごう)

ではなくて、(へび)(おそ)ろしさとか、恋人(こいびと)にあこがれるとかいう心の執着(しゅうちゃく)

が、窮屈(きゅうくつ)とか、苦しいとかいう、身体の感覚から、(みちび)き出されて、そ

の気分に相当(そうとう)した夢になって(あら)われる事と思うのである。これと同様(どうよう)

に、読書のために、早起きするという条件は、単に読書の興味(きょうみ)という

自由連想(れんそう)でなくて、試験(しけん)恐怖(きょうふ)と、勉強という事の強い執着(しゅうちゃく)のある場

合には、何かの刺激(しげき)につけて、すぐこの事が思い浮かんで、朝起きの

衝動(しょうどう)となるのである。

  苦悩(くのう)夕立(ゆうだち)のように過ぎさるのは捨身(すてみ)態度(たいど)   

 なおここでついでに、話は別の事になるけれども、自由連想(れんそう)という

事について、皆さんの参考(さんこう)になろうと思う事をお話してみます。 

 私の自分の事を例にとりますが、私の亡児(ぼうじ)について、私の妻は最近 

まで、毎朝この子の事を思い出して、うなるので困りました。私でも

もとより、今にも何かにつけて、時どき胸のふさがる(‘‘‘‘)ような思い出の

起こる事があります。こんなとき、自由に、大胆(だいたん)に、捨て身の態度(たいど)で、

思うがままに、思い進めて行けば、その流れ過ぎ去って行く有様(ありさま)は、  

不思議(ふしぎ)なほど早いものであります。(たと)えば、子供が「胸がつまって()

(きゅう)ができない」といった時の事を思い出す。それからいつとはなしに

連想(れんそう)して、酸素(さんそ)―オゾーンー海-熱海(あたみ)―井上君などが待っているだろ

う、行ってみようかという風に、心が開けてくるのである。 

 これに反して、思い開きのできない人は、まず自分の胸の苦しさ

に、(きも)をつぶして、もしこんな事を思い続ければ、身も世もあらぬ事

になるだろうと、これを思わないように、気を(まぎ)らせるようにと、(われ)

()(しん)から、心の葛藤(かっとう)を起こすようになる。これがすなわち煩悩(ぼんのう)であ

って、強迫(きょうはく)観念(かんねん)と同様の形をなすものである。これが一般の人の、子

供の死んだ悲しみから、長い年数(ねんすう)、離れる事のできない理由である。 

 私共(わたくしども)は、こんなとき、(ただ)ちに捨身(すてみ)態度(たいど)になる事ができる。(たと)

ば、私のためには、私の亡児(ぼうじ)可愛(かわい)さは、自分の命くらいは、いつで

も投げ出すという心持(こころもち)である。すなわち自分の苦しさを、とやかくし 

ようという考えは出てこないで、そのまま悲歎(ひたん)の内に突入(とつにゅう)するから、

その悲しみは、(ただ)ちに過ぎ去ることあたかも夕立(ゆうだち)のようなものであり

ます。

 なおこの捨て身という事は、武道(ぶどう)体験(たいけん)があるとよくわかる。柔術(じゅうじゅつ)

も、初めのうちは、どうしても、逃げ腰(にげごし)反抗的(はんこうてき)態度(たいど)の出る事を、

なんともする事ができない。そんな間は、容易(ようい)に投げられもするし、

怪我(けが)もしやすい。それがしだいに上達(じょうたつ)して、初段(しょだん)くらいになると、自                   2

然に捨身(すてみ)態度(たいど)ができて、敵手(てきしゅ)身辺(しんぺん)寄り添(よりそい)い、くっついて行くか

ら、敵手(てきしゅ)も手の出しようがなくなるのであります。 

想像(そうぞう)もできない力がわいて出る               

 鈴木氏 私は、ここから退院(たいいん)して、510日から学校に出ました。  

長い間欠席したうえに、はやその月の25日から臨時(りんじ)試験(しけん)です。(いっ)     

(しょう)懸命(けんめい)勉強(べんきょう)したが、思いがけなくよくできて、93点であった。7   

月の初めから、本試験(ほんしけん)があった。下痢(げり)していて、お(かゆ)をすすりなが

ら、勉強した。父母は、車に乗って行けといってくれたけれども、学

校まで歩いて行きました。(あつ)くてフラフラしたほどであった。この時

は、成績(せいせき)が悪いかと思ったけれども、1番になって、2番の者より、  

平均点が45点上であった。                   

 退院後(たいいんご)の勉強の仕方(しかた)は、()いて勉強しなくてはいけないとかいう(こころ)

(かま)えは、少しもなく、ただ机の前に座って本を開くというだけであ

り、ある時は、父母の所へ、机を持っていって、勉強したりした事も

ある。それで(わけ)なく、面白(おもしろ)く勉強ができて、今まで想像(そうぞう)もできなかっ

たような力がわいてくるのを(おぼ)えて、これなら、人にも(おと)らぬという

自信ができたのであります。                   

 以前には、勉強するにも、随分(ずいぶん)難しかったから、父が私に、園芸(えんげい)の 

方に、趣味(しゅみ)を持たせようとして、花などいじるようにいわれたが、そ  

の当時は、勉強しなくてはいけない・いけないと思いながら、花をい

じっていたけれども、少しも気乗りはしなかった。

 退院後(たいいんご)は、父に(すす)められるままに、いやいやながら、盆栽(ぼんさい)(うえ)()

などしたが、やっているうちに、自然にそれが面白(おもしろ)くなる。次にまた

書物(しょもつ)を読み始めると、すぐ書物(しょもつ)の方に心をひきつけられる。そんな風

で、心はその時どきに変化して、以前のように、いたずらにイライラ

してじれるという事はなくなりました。

 今は、そんな事も()れてしまって、気がつかなくなったけれども、

その当時は、自分が非常(ひじょう)に変化したという事を、自覚(じかく)させるに、充分(じゅうぶん)

なものがありました。

その後、高等(こうとう)学校(がっこう)から、大学に入る時に、一年浪人(ろうにん)した。多くの(ろう)

(にん)たちは、つまらぬつまらぬと、非常(ひじょう)に苦しがっていたが、私は割合(わりあい)

に、(ほが)らかに勉強する事ができました。 

  金を使うのが()しくなる                 

 森田先生 鈴木君は、いま事実(じじつ)を話している。こうしなくてはなら  

ぬという事はない。それは鈴木君に(かぎ)らず、誰でも事実(じじつ)このような(しん)

(きょう)に出来上がるから面白(おもしろ)い。                                                   3