第80回 女性の為の札幌・巻を読む会   2022. .16

森田正馬全集 第5355 形・第33回例会   昭和8528日から

日本には、20不孝といって、不孝者は、たった20人し

かなかったとの事であります。

 ここの入院中に、(だれ)か、(ぼく)から、何か教えられた事があるか、思い

出して御覧(ごらん)なさい。黒川(くろかわ)大尉(たいい)そのほかの人で、「ここで何物(なにもの)をも()

かった」という事を、よく告白(こくはく)する事がありますが、それは少しも教

えられた事がないからである。

 早川君は、批評(ひひょう)がうまいが、何か思い当たる事があれば、いって()

(らん)なさい。早川君ならば、あるいは「見つめよ」とか、「まず着手(ちゃくしゅ)

よ」とかいう事を教えられたとか、いうかも知れないけれども、それ

(たん)に、その時どきの(みちび)きあって、決してその言葉の通りに記憶(きおく)

てはいけないのである。早川君は、無理(むり)にその言葉通りに物を見つめ

ているだけであるから、(けっ)してそれから、心が開発されてこないので

ある。文句(もんく)(おぼ)え、理屈(りくつ)をいうほど、人はますます実行から(とお)ざかる

のであって、支那人(しいかんぞにん)は、昔からその理屈ばかりが、うまいのである。

  親をいじめた事は人後(じんご)に落ちぬ

井上氏 私も親をいじめた事については、話す資格(しかく)があると思いま

す。継母(けいぼ)ですから、積極的(せっきょくてき)ではないが、消極的(しょうきょくてき)にいじめたのである。

(たと)えば(あらし)がきたから、雨戸(あまど)()めろといわれても、いう事をきかない

で本を読んでいる。そして母が1人で洗濯物を入れたり、戸をしめた

りするのを平気で傍観(ぼうかん)している。留守居(るすい)(たの)まれると、自分にも用が

あるといって外出する。そんな風でいながら小遣(こづかい)(せん)や何か、いろいろ

の事をねだるのだから虫がよいのである。

 それが退院後は、この母が、非常によい人であるという事がわか

り、以前の()(さと)ったわけであります。

 前には私は、大変な薬好きで、年中(ねんじゅう)何かと、薬の()える事はない。

仁丹(じんたん)なんかでも、一日に一袋くらいも飲みました。それで母は、私の

病気を心配して、勉強などしてはいけないといっていましたが、現在

はこの通りで、よく勉強もし活動もするので、母も(おどろ)き、かつ(よろこ)んで

いる次第(しだい)であります。

 それから熱海(あたみ)の方の事ですが、不思議(ふしぎ)に思うのは、お客の内で、料

理の多いのを喜ぶ人は、後で見ると半分くらいしか食べてない。それ

でいて少ないといって、文句(もんく)をいうのです。また一方には、少し出し

てもらって、かえっておいしいといって喜ぶ人もある。これは、どん         1

な関係ですかね。

 森田先生 その、少ないといって文句(もんく)をいう人は、赤面恐怖の未治(みち)

患者(かんじゃ)ではないでしょうか。(哄笑(こうしょう))つまり旅館なり世間の人なり       哄笑:高笑い

に、充分(じゅうぶん)待遇(たいぐう)されないと、気がすまない。人から軽蔑(けいべつ)されるように

思うと、肩身(かたみ)(せま)いように感ずるかも知れない。それで虚栄(きょえい)で、余計

な金を使って喜んでいる。

 食べたいだけもらい、満足して、そのうえ、安ければよいと思うの

が、普通の人の事でありましょう。余計(よけい)贅沢(ぜいたく)をするような人は、(ちょう)

(めん)につけて()いて、ここへ入院するようにするとよい。(哄笑(こうしょう)

  私の親不孝(おやふこう)のやりかた          

 鈴木氏 私の、親不孝(おやふこう)のやり方は、(じつ)暴虐(ぼうぎゃく)(きわ)めた。実にひどい

事をしたものだと思う。思い出すままに、(なら)べてみます。私は不眠の

ために、一番、台所から(はな)れたことろへ、屏風(びょうぶ)をたてて、1人で()

いても、いろんな音が聞こえて、いらいらするから、少しも(ねむ)られな

い。(あと)には土蔵(どぞう)の中に、部屋をこしらえて、そこで2年間()た。(ねむ)

れない夜は、母が枕元(まくらもと)に来ていてくれた。母は、忙しい家の事ですか

ら、随分(ずいぶん)(つか)れているのに、2時になっても3時になっても、私がいて

くれといって帰さなかった。弟や妹は(やす)らかに寝ていると思うと、(しゃく)

にさわって(はしら)をナタで切りつけた事もある。

 (ねむ)られぬ夜は散歩(さんぽ)に出たというよりも、外に逃げ出した。母が心

配して、私を(さが)しにでて来る。その後から、犬と父とが来る。

 ()ずかしい事ですが、母を(なぐ)った事もある。私が乱暴(らんぼう)な事をするも

のだから、母は私が帰ると逃げ、私が外を出歩(である)くと後からついてくる

という風であった。

 こんな風になったのは、父が厳格(げんかく)でなく、1人息子であるために(あま)

やかした関係も、ある事と思います。

 高等学校の2年の時に、母を亡くしました。その時代の事を考える

(じつ)()えられないです。(暫時(ざんじ)沈黙(ちんもく)()く)母が亡くなる前に、私   暫時:しばらく。少しの間

が先生のところで治り、母も喜んで、安心したという事は、後から考

えて、感謝(かんしゃ)()えないと考えています。(感極(かんきわ)まってすすり泣く)

 古閑(こが)先生 鈴木君が、お母さんをいじめたという話は、とても(こころ)()

しい、(なさ)けない気持であろうと同情(どうじょう)()えませんが、もしこれがため

に、ほかの人が、力強(ちからづよ)平等(びょうどう)(かん)()て、世の中の事実という事を知る

のに、なんらかの助けになれば、()くなられた方に対しても、大きな

追善(ついぜん)(くよう)となる事かと思います。私も皆さんに、お母さんのいじめ

を教えるようでありますが、私も我儘者(わがままもの)で、(おや)有難(ありがた)さを知らず、(ずい)          2

(ぶん)母をいじめました。

 母のいうことなす事に何か口をはさまなければ、いけないような気

がして、何につけても、皮肉(ひにく)をいった。母は、私がこんな風では、(しょう)

(らい)とても一緒(いっしょ)()らしてゆけない、と考えるようになって、私が(つま)

もらったら、早く田舎(いなか)帰るといっていました。

 (たと)えば、盆栽(ぼんさい)()け方について、母が何か意見をいうと、「自分で

やりもしないのに」といって、(いか)()らし、ライスカレーを作っても

らっておいて、カレーが()き過ぎたといっては()ててしまったり、そ

んな事は、毎日のようでした。母は仏教にはいり、私が(おこ)りだすと、

母は私の方を向かないで、唱名(しょうめい)する。そうすると、また(ほとけ)(さま)を相手に 唱名:南無阿弥陀仏と唱えること。

して、私に(かま)わぬといって、くってかかる、母が()くと、またそ               

れが(しゃく)にさわって(おこ)り出す。自分も苦しいから、いろいろ工夫した

が、なかなかやまないで、(なが)(つづ)きました。大学4年級(ねんきゅう)から、森

田先生のところへ見学に来るようになって、いつの()にか、治ってし

まいました。

  私は(こう)行者(こうもの)です

 荒木(あらき) 私は反対に、いじめる事のできない方です。中学時代は、

月に一度づつ、帰省(きせい)していましたが、ある(ばん)、帰って来ると、(むら)芝居(しばい)

があって、父は1人、留守番(るすばん)をして本を読んでいました。芝居へ行け

といわれたけれども、父が1人で、(さみ)しかろうと思って中止しまし

た。普通の人ならば、芝居(しばい)に行くかと思うが、それができないのは、

少し変わっているかといま考えます。

 その後、父が亡くなり、上京(じょうきょう)独立後(どくりつご)は、年に一度帰省(きせい)して、母を

見る事を楽しみにして働きました。その後、母も上京して、同居(どうきょ)して

いますが、用件があって、外泊(がいはく)しなければならぬような事ができた時

でも、時間と経済とを無視(むし)して、わざわざ家に帰り、母に(ことわ)らなく

ては、気がすまないのであります。これはしかし、あまり小心過(しょうしんす)ぎは

しないかと思います。

 一方、母は私が孝行(こうこう)であるという事を、他人におおげさに話す。人

からも、孝行(こうこう)孝行(こうこう)といわれるので、私もあるいはそうかと思うように

なったのであります。

 (せんねん)心悸(しんき)亢進(こうしん)で苦しんだ時も、私は苦痛の、三分(さんぷ)くらいしか()

()けない。これらの点が、先刻(せんこく)(みな)さんのお話と(ちが)うようですから、

お話した次第(しだい)です。

 高浦(たかうら)先生 私は現在45歳。昨年(さくねん)母を亡くしました。父は67

歳で健在(けんざい)です。子供の時から、私は神経質で、不活発(ふかっぱつ)喧嘩(けんか)するような事はなかった。    3