第80回 女性の為の札幌・五巻を読む会 2022. 6.16
森田正馬全集 第5巻355 形外会・第33回例会 昭和8年5月28日から
日本には、20不孝といって、不孝者は、たった20人し
かなかったとの事であります。
ここの入院中に、誰か、僕から、何か教えられた事があるか、思い
出して御覧なさい。黒川大尉そのほかの人で、「ここで何物をも得な
かった」という事を、よく告白する事がありますが、それは少しも教
えられた事がないからである。
早川君は、批評がうまいが、何か思い当たる事があれば、いって御
覧なさい。早川君ならば、あるいは「見つめよ」とか、「まず着手せ
よ」とかいう事を教えられたとか、いうかも知れないけれども、それ
は単に、その時どきの導きあって、決してその言葉の通りに記憶し
てはいけないのである。早川君は、無理にその言葉通りに物を見つめ
ているだけであるから、決してそれから、心が開発されてこないので
ある。文句を覚え、理屈をいうほど、人はますます実行から遠ざかる
のであって、支那人は、昔からその理屈ばかりが、うまいのである。
親をいじめた事は人後に落ちぬ
井上氏 私も親をいじめた事については、話す資格があると思いま
す。継母ですから、積極的ではないが、消極的にいじめたのである。
例えば嵐がきたから、雨戸を閉めろといわれても、いう事をきかない
で本を読んでいる。そして母が1人で洗濯物を入れたり、戸をしめた
りするのを平気で傍観している。留守居を頼まれると、自分にも用が
あるといって外出する。そんな風でいながら小遣銭や何か、いろいろ
の事をねだるのだから虫がよいのである。
それが退院後は、この母が、非常によい人であるという事がわか
り、以前の非を悟ったわけであります。
前には私は、大変な薬好きで、年中何かと、薬の絶える事はない。
仁丹なんかでも、一日に一袋くらいも飲みました。それで母は、私の
病気を心配して、勉強などしてはいけないといっていましたが、現在
はこの通りで、よく勉強もし活動もするので、母も驚き、かつ喜んで
いる次第であります。
それから熱海の方の事ですが、不思議に思うのは、お客の内で、料
理の多いのを喜ぶ人は、後で見ると半分くらいしか食べてない。それ
でいて少ないといって、文句をいうのです。また一方には、少し出し
てもらって、かえっておいしいといって喜ぶ人もある。これは、どん 1
な関係ですかね。
森田先生 その、少ないといって文句をいう人は、赤面恐怖の未治
の患者ではないでしょうか。(哄笑)つまり旅館なり世間の人なり 哄笑:高笑い
に、充分に待遇されないと、気がすまない。人から軽蔑されるように
思うと、肩身が狭いように感ずるかも知れない。それで虚栄で、余計
な金を使って喜んでいる。
食べたいだけもらい、満足して、そのうえ、安ければよいと思うの
が、普通の人の事でありましょう。余計な贅沢をするような人は、帳
面につけて置いて、ここへ入院するようにするとよい。(哄笑)
私の親不孝のやりかた
鈴木氏 私の、親不孝のやり方は、実に暴虐を極めた。実にひどい
事をしたものだと思う。思い出すままに、並べてみます。私は不眠の
ために、一番、台所から離れたことろへ、屏風をたてて、1人で寝て
いても、いろんな音が聞こえて、いらいらするから、少しも眠られな
い。後には土蔵の中に、部屋をこしらえて、そこで2年間寝た。眠ら
れない夜は、母が枕元に来ていてくれた。母は、忙しい家の事ですか
ら、随分疲れているのに、2時になっても3時になっても、私がいて
くれといって帰さなかった。弟や妹は安らかに寝ていると思うと、癪
にさわって柱をナタで切りつけた事もある。
眠られぬ夜は、散歩に出たというよりも、外に逃げ出した。母が心
配して、私を探しにでて来る。その後から、犬と父とが来る。
恥ずかしい事ですが、母を殴った事もある。私が乱暴な事をするも
のだから、母は私が帰ると逃げ、私が外を出歩くと後からついてくる
という風であった。
こんな風になったのは、父が厳格でなく、1人息子であるために甘
やかした関係も、ある事と思います。
高等学校の2年の時に、母を亡くしました。その時代の事を考える
と実に堪えられないです。(暫時沈黙・泣く)母が亡くなる前に、私 暫時:しばらく。少しの間
が先生のところで治り、母も喜んで、安心したという事は、後から考
えて、感謝に堪えないと考えています。(感極まってすすり泣く)
古閑先生 鈴木君が、お母さんをいじめたという話は、とても心苦
しい、情けない気持であろうと同情に堪えませんが、もしこれがため
に、ほかの人が、力強い平等観を得て、世の中の事実という事を知る
のに、なんらかの助けになれば、亡くなられた方に対しても、大きな
追善供養となる事かと思います。私も皆さんに、お母さんのいじめ方
を教えるようでありますが、私も我儘者で、親の有難さを知らず、随 2
分母をいじめました。
母のいうことなす事に何か口をはさまなければ、いけないような気
がして、何につけても、皮肉をいった。母は、私がこんな風では、将
来とても一緒に暮らしてゆけない、と考えるようになって、私が妻を
もらったら、早く田舎へ帰るといっていました。
例えば、盆栽の向け方について、母が何か意見をいうと、「自分で
やりもしないのに」といって、怒り散らし、ライスカレーを作っても
らっておいて、カレーが効き過ぎたといっては捨ててしまったり、そ
んな事は、毎日のようでした。母は仏教にはいり、私が怒りだすと、
母は私の方を向かないで、唱名する。そうすると、また仏様を相手に 唱名:南無阿弥陀仏と唱えること。
して、私には構わぬといって、くってかかる、母が泣くと、またそ
れが癪にさわって怒り出す。自分も苦しいから、いろいろ工夫した
が、なかなかやまないで、永い間続きました。大学4年級から、森
田先生のところへ見学に来るようになって、いつの間にか、治ってし
まいました。
私は孝行者です
荒木氏 私は反対に、いじめる事のできない方です。中学時代は、
月に一度づつ、帰省していましたが、ある晩、帰って来ると、村芝居
があって、父は1人、留守番をして本を読んでいました。芝居へ行け
といわれたけれども、父が1人で、寂しかろうと思って中止しまし
た。普通の人ならば、芝居に行くかと思うが、それができないのは、
少し変わっているかといま考えます。
その後、父が亡くなり、上京、独立後は、年に一度帰省して、母を
見る事を楽しみにして働きました。その後、母も上京して、同居して
いますが、用件があって、外泊しなければならぬような事ができた時
でも、時間と経済とを無視して、わざわざ家に帰り、母に断らなく
ては、気がすまないのであります。これはしかし、あまり小心過ぎは
しないかと思います。
一方、母は私が孝行であるという事を、他人におおげさに話す。人
からも、孝行孝行といわれるので、私もあるいはそうかと思うように
なったのであります。
先年、心悸亢進で苦しんだ時も、私は苦痛の、三分くらいしか打ち
明けない。これらの点が、先刻皆さんのお話と違うようですから、
お話した次第です。
高浦先生 私は現在45歳。昨年母を亡くしました。父は67
歳で健在です。子供の時から、私は神経質で、不活発で喧嘩するような事はなかった。 3